03 日常:浅層意識

 ──"人間植物"。

 それは最近になって朝のテレビや街頭で、見聞きするようになった単語。

 正確には、入るようになった単語。

 以前までは緋色が無意識化でゾーニングしていて、有坂の講義でやっと意識し始めたにすぎないのだが、最近は目が覚めたようにそれを聞く。

 カクテルパーティ-効果というのだっけ、シュバッと脳に入ってくるのだ。

「いただきます」

 緋色が白米とみそ汁、それに昨日の残りの青椒肉絲をテーブルに並べると、朝っぱらから明るい声で若いタレントが言う。

『"人間植物"が輝ける社会を! 動植平等を目指そう!』

 薄い、何かわからないけれど薄い。そう感じた。

 緋色はテレビの音量を下げ、合わせ味噌のみそ汁を一口含む。

 しかしこれは濃いな。無害そうな液体に、口の中の水分が吸い取られそうになる。

 もしゃもしゃ。

 機械がそうするように、一定のリズムで箸を青椒肉絲と白米の間に行ったり来たりさせて、口へと運ぶ。そんな動作を繰り返しながら緋色は考える。

 自分がなぜテレビのアツい猛プッシュに不快感を抱いているのだろうか。

 "人間植物"が輝ける世界も、動植平等も素晴らしいスローガンだ。少なくとも、『質実剛健』などという理解不能な我が校訓より”わかりやすく、飲み込みやすい”。

 それをなんというんだっけ。つぼみ先輩が言ってた……ポップなリズム的な。

 えっと。

 ──うん、ご飯がおいしいな。

 程なく思考の糸が切れる。

 熟考が苦手な緋色にとって、思考を奥へ手繰っていく作業は苦痛だ。

 画面の色が寒色、かつ深さが増したかと思えば、若者が発言する場から一転、大人たちの白々しい討論が始まっていた。

 声高々に反"人間植物"論を唱えるメガネをかけた壮年は、芸能界に詳しいジャーナリストらしい。どうして専門外の"人間植物"について知った風な口を利くのだろう。

『確かに、みなさんがおっしゃる通り、えー。所謂"人間植物"はですね、社会に溶け込んでいると。しかしながらですよ、とある有志の調査では人間と比べて"水平思考"の分野でも、"垂直思考"の分野でも劣っていると……そう統計的に有意差がでているんですよね』

 そんなん嘘だい。緋色は冷めた目でテレビを睨んだ。

 大体なんだい、その有志の調査とやらは。

 緋色に言わせれば人間の自分なんかよりも、図書室の陽だまりが誰よりも似合うあの"人間植物"である先輩──つぼみ先輩の方がよっぽど思慮深く、視座も広い。

 立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花とはよく言ったものだ。もしかしたら彼女のDNAはそれらの美しい花々が組み合わさってできているのかもしれない。

 もぐもぐ、もぐもぐ。

 入念に奥歯で白米をすりつぶし、緋色は頷く。日常に現れたつぼみ先輩の残像が、共働きの両親のいなくなったリビングを色鮮やかなものにする。奇妙だ。


「……なーにニヤついてるわけ?」

 現実がやってきた。唐突に、蜜柑の登場である。

「お前、どこから入ってきやがった?」

 いくら同じマンションに住んでいるとはいえ、施錠されたドアが開くような道理はない。……いや、実際玄関は開いていない。別の侵入ルートがあるからだ。

「いくら5階とはいえ、ベランダの窓あけっぱで生活するのはよくないなぁ」

 に住んでいる蜜柑がしたり顔で言った。

「……それで一回死にかけたの、もしかして覚えてない?」

 緋色は食卓から立ち窓を施錠しに向かうと、ベランダの奥に階上からロープが釣り下がっていた。

 ベランダの手すりにぶら下がり、情けなく緋色の助けを呼んでいるところを、必死になって引っ張り上げたトラウマが蘇る。しかもトラウマになっているのが緋色だけなあたり、やはり蜜柑は頭のねじが数本外れているらしい。

「あの時より強いカギ縄作ったし」

「忍者の末裔か?」

「今日なんかツッコみ多いね」

「おかげさまでな」

「そりゃどうも」

 そんなわけで、確かで、何の変哲もない一日が始まる。

「……そういえば、あの頃からだいぶ髪短くなったな」

 目に優しくないショートヘアを視界に入れて緋色は言う。

「急になに、怖いよ」

 蜜柑が炊飯器を開け、自分の茶碗を持ち、ご飯と卵を盛り付ける。

 そうして、当たり前のように食卓につく。これも日常だ。

 さすがにいつもはドアをノックしてくるけれど。

「いや、世間話だけど。短くなったなって」

「悪い?」

「いや、もう慣れ過ぎて今の髪型以外、蜜柑って感じしねーわ」

「……じゃあ、いいでしょ」

 毛先をつまんで蜜柑は流す。少し怒気をはらんでいるようで、反面、まんざらでもないようだった。やっぱり緋色には彼女の抜けたネジを見つけられない。

 そんなことより。と蜜柑は言った。

「今日、何の日か知ってる?」

 ふむ、緋色は人差し指を顎に当てる。

 すぐにピンときた。

「図書委員の当番の日」

 そう言うと、蜜柑は肩を落としため息をついた。

「どうせ、そーいうと思ってた」

「間違っちゃないだろ」

 月曜日と水曜日といえば図書委員の当番だ。

 それは高校入ってから唯一と言っていい、変わらないスケジュールだった。

「でも正解じゃないもん、例えるなら……好きな食べ物何? って質問に白米って答えるような感じ。そりゃそーだけどそーいうことじゃないじゃんって感じ」

「わかるわかる、確かにそうだわ」

 分からんが。

 "伝わらない"という言外の意図が伝わったらしい、蜜柑はムッとして言う。

「少なくとも今わたしが話したいことじゃないって察しなよ。だからフラれるんだよ、つぼみちゃんにも」

「つぼみちゃんって呼ぶな。しかもフラれてないわ」

 ──まだ。

 相変わらず馴れ馴れしいし、一言余計だなお前は。

 緋色が茶碗の底に残った十数のご飯粒をかきこむと、蜜柑は鞄の中から包みを取り出し、緋色に差し出す。

「はい、これ。一応言っとくけど、全然義理だから」

 チョコレートを渡す日。そうか、今日はバレンタイン。

 気づいた緋色が何も言えずにいると、蜜柑は吹き出す。

「……本当に忘れてたんだ。図書委員は覚えてるのに」

「いや、忘れることってあるんだなって。それに驚いてる。……ありがとう」

 素直に感謝を伝えると、

「別に大したことないし」

 そう言って蜜柑は毛先を弄る。彼女はきっと自分で気づいていないが、それは照れている合図だった。"どういたしまして"と胸を張って言えばいいのに。

「中開けていい?」

「なんで私に聞くの」

 それは肯定。

 包装紙なんて使い捨てで、一日に世界中で何平米も焼却されるゴミだというのに、緋色は破らないようにセロハンテープで止められた端をゆっくりとはがして開けた。

 中身は、星形のチョコレートだった。カラーチョコが散りばめられた星だった。

「……ちゃんと、うまそう」

「ちゃんとってなに、バカにしてる?」

 それは本心から意外だった。思った数倍高いこのクオリティ──それに。

「いや、これ手づくりだよね?」

「……まあね、ちょっと頑張った」

 緋色は知っていた。絶望的な蜜柑の料理センスを。

 飯盒炊飯で炭化した白米を分け合った過去を。

「本当にこれ、食べていいのか? 保存した方がいいんじゃないか?」

「アホ。義理チョコをそんな大切にする?」

 義理チョコを。蜜柑はもう一度繰り返した。

 確かに。それはそうか。

「じゃあお言葉に甘えて……」

 食後のクチのまま食べるのはよくないからと、牛乳を一杯コップにつぐ。

「……だからって私の前で食べるな。あとで感想教えて」

「なんでよ」

「たとえどんなゲテモノだとしても、美味そうに食べるっていうならいいけど」

「それはちょっと」

 せっかく作ったものだからと、炭にカレーをかけて食べたあの日の、喉につっかえるような鼻を刺すような焦げた苦みを、緋色はまだ忘れていない。

 これに関しては絶対おいしいと思うけどさ。深層心理に誓って保証されていない。

 蜜柑は器用に一粒一粒の米粒を箸でつまみ、口へと放り込んだ。

「ご飯ごちそうさま。チョコレート、冷蔵庫に入れとくよ」

 再びチョコが蜜柑の手に渡り、朝食がつつがなく終わる。

 緋色に背を向けて、冷蔵庫をまさぐりながら、蜜柑は「あ。そうだ」と言った。それはまるでセットされたコマンドのようで、彼女が用意していた台詞であることに疑いようはなかった。


「緋色は全然忘れてたけど、今日はまぎれもなくバレンタインなんだから。……ちゃんと、つぼみちゃんからも貰ってきなよ」


「……おう」

 その蜜柑の笑みはあまりにも綺麗にはにかんで、どうしても刹那的なガラス細工を思い浮かべるしかないほど、なぜだか脆く美しく見えた。

「──じゃあいこっか、学校」

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恋する植物 花井たま @hanaitama

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