海東新古伝

東夷の倭人

泣き虫姫とバカ溫達

 かつて朝鮮北部を支配した高句麗。溫達は、その第25代国王の平原王の時の人です。まだ歳若いのに腰が曲がり、容貌は滑稽なほど打ちしおれていましたが、その心は曇りなく、とても清らかでした。

 家がたいへん貧しかったため、いつも乞食をして母親の世話を見ていましたが、着物は破れ、草履がほつれたまま、小汚い格好で市井をいったり来たりしていたので、それを見た当時の人々は、彼をバカ溫達と呼んでいました。


 一方、煌びやかな王宮の中のこと、平原王には幼い娘がいました。彼女は平崗公主と呼ばれています。公主はとても泣き虫で、いつも事あるごとに泣いてばかりいたので、王様はそれに合わせていつも冗談を言っていました。


「お前ときたら、いつもいつも泣いてばかりおって、うるさいことこの上ない。これでは大人になっても立派な士族や貴族の嫁にはしてやれんぞ。ようし、お前を必ずバカ溫達の嫁に出してやろう。」


 こうして平崗公主が泣くと、いつもいつも王様は「お前をバカ溫達の嫁にしてやる」と繰り返し繰り返し言いました。



 さて、そんな泣き虫姫も16歳になったので、王様は彼女を上部高氏の嫁に下そうとしていました。


 高句麗の国の領土では、5つの部族が別れて自治をしており、上部高氏とは、その部族の族長の一族のひとつです。高句麗の王には直属の臣下がいたものの、大部分の兵士を統括していたのは族長たちだったので、そこからそっぽを向かれてしまったら、たちまち立場を失ってしまいます。こうした部族との結束を固め、王様が自分の立場を盤石とするためにも、族長の一族に王様の娘が嫁に下されることは通例となっていたのです。


 しかし、お姫様は言いました。


「お父さまはいつも私に『お前を必ず溫達の嫁にする』とおっしゃっていたではないですか。なぜ今になって前言を撤回なさるのでしょう。」


 予期せぬことに王様は驚きましたが、公主は続けます。


「一介の平民の男であっても、自分の言ったことを守らないことは恥だと思うものです。人の手本になる立場にあり、人に命令を下す地位にある王様であれば、言うまでもないことでしょう。だから『王たる者に戯言なし』という格言があるのです。」


 王様はまったく言い返せません。


「今回の大王のご命令は間違って下されたものでしょう。私はそれに従う気はありません。」


 そこまで聞いて王様は、ついに怒り出しました。


「父親のわしの命令に従わないのであれば、お前は娘でもなんでもない。娘でないなら、なぜ同居することがあるだろうか。どこにでも好きなところに行け!」


 こうして王家から勘当された公主は、王宮から宝石で飾られた金の腕輪を数十枚ほど腕に身に着けると、ひとりで宮殿を出て行きました。





 公主は路上ですれ違う人たちに溫達の家はどこかと質問しながら、やっとのことで彼の家まで辿り着くと、家には盲目の老婆がいました。彼女が溫達の母親です。公主が彼女の前に近づいで拜礼し、その手を取って息子の溫達がどこにいるのか質問すると、老母は答えました。


「我が子は貧しく、身分の低い男です。貴人が近づくべきではありません。今、あなたさまから漂う香りは常人とは異なり、あなたの手は綿のように柔らかくなめらかです。天下の貴人に違いありません。誰に言われてそれを隠してこんなことに来られたのですか。」


 公主は質問に答えず、溫達に会いたいと懇願しました。


「我が息子は餓えに耐えられず、山林に ニレの皮を取りに行ったまま、ながらく帰ってきていません。」


 ニレというのは、ケヤキなどの木のことで、大昔は飢えを凌ぐために貧しい人がその皮を口にすることもありました。


 さて、家を出たお姫様が山の下まで辿り着くと、山の上からニレの皮を背負った溫達が来るのが見えました。待ちに待ったご対面に喜んだ公主は、溫達に駆け寄って声をかけ、自分の胸のうちの想いを伝えました。しかし、当の溫達は突然のことに驚くばかり。


「ここは女子供が来るところではない……ということは、さてはお前、人間ではないな!」


 すっかり公主に怯え切ってしまった溫達は、


「狐か鬼が化けているに違いない! 俺に近寄るなあ!!」


と叫ぶと、一目散にその場から逃げ去り、そのまま公主の方を振り返りもしませんでした。



 こうして、独り残された公主は、空き家で一晩ほど宿をとると、明朝に改めて溫達の家を訪れ、母子に事の次第を明らかにしました。


 優柔不断な溫達がおろおろとしていると、老母が言いました。


「我が息子は卑俗を極め、貴人のご伴侶となるなど滅相もないことです。それに我が家は貧乏を極め、貴人が住むことなどとてもとても……。」


 公主は答えました。


「こんな古歌があります。『一尺ノ布、尚ホ縫フ可シ。一斗ノ粟、尚ホク可シ』と。」


 これはかつて漢帝国の時の皇帝が弟を流罪にして病死に追い込んだとき、街の人々が歌ったといわれる歌で、「一尺の布でも、一斗の粟でも、分け合えば生きてゆけるのに」という意味です。地位も富もなくとも庶民が肩を寄せ合って生きているのに、地位も富もある皇帝の兄弟は、仲違いして片方が死んでしまいました。


「もし心をひとつにすることができれば、地位や富を得た後でないと一緒に暮らすことできないなんてことがあるのでしょうか。」



 こうして母子を説得した公主は、まずは城から持ち出した金の腕輪を売り払い、それを元手に田畑や家宅、家畜や道具を買いそろえました。



 さて、2人が馬を買おうとしたときのことです。公主は溫達に言いました。


「市場から馬を買うのはやめましょう。」


 質の良い馬は国が先に買い取っているので、市場で売られている馬は値段が高いばかりで、質はよくありません。


「政府が買ってから病気や瘦せていることを理由に放逐された馬から、質の良いものを選ぶのです。」


 溫達はその言葉の通りにし、お姫様が熱心に馬を養飼すると、馬は日に日に肥え、壮健となりました。




 高句麗では春三月三日になると、樂浪丘の狩猟祭が毎年開催されていました。その日になると王様が先頭になって狩猟に出かけ、それに直属の大臣たちや5つの部族の兵士たちが皆で従うことになっていたのです。そこで狩った猪や鹿は山川の神に奉げられます。今年も王様が狩りに出発すると、その後ろから馬に乗った大臣たちや部族の兵士が付き随いました。


 しかし、今年はいつもと少し様子が違います。見慣れない男が乗った大きな馬が、他の臣下や兵士のどの馬よりも早く走り、一番前に躍り出ました。溫達の馬です。公主が飼育した馬は、どの馬よりも一番前を走り、それに乗った溫達は誰よりも多く獲物を捕えることができました。


 王様はその男を呼び出し、姓名を問いました。


「姓は溫、名は達。溫達と申します。」


 王様は驚き、耳を疑いました。


「溫達とは、あのバカ溫達か!」




 当時、中国は3つの国に別れて戦争に明け暮れ、高句麗もそれに否応なしに巻き込まれ、たびたび侵略を受けていました。


 ある日のこと、3つの国のうちでも最大の国力を誇る北周が、天王自ら軍隊を率い、高句麗が支配する遼東の征伐に向かってきたのです。高句麗の王様も自ら軍隊を率い、高句麗東部の肄山の野で抗戦しました。

 そこでは、その軍に参加した溫達が高句麗軍の先鋒となって疾走し、奮戦して数十級余りを斬り伏せると、後ろに従っていた兵士たちは溫達の勝ちに乗じてなだれ込み、大勝利を収めました。


 戦後の褒賞では、高句麗軍の誰もが溫達を功績第一に推薦し、それに歓喜した王様は溫達の肩を抱き、皆の前で言いました。


「彼こそが我が娘壻だ!」


 王様は王宮の皆とともに礼儀を正して溫達を迎え入れ、王様直属の大臣として大兄という爵位を賜りました。これは高句麗における十三階位のうち、七番目に位置するちょうど真ん中の地位にありましたが、溫達は君主の寵愛も非常に厚く、権威は日に日に増していきました。




 時は流れて平原王が亡くなり、その長男の嬰陽王が即位した後のこと、溫達は新たな王様に自らの意見を上奏しました。


「新羅は我が国の漢北の地を侵略し、自国の領地としました。しかし、高句麗を懐かしむ百姓は痛恨し、いまだに父母の国として忘れることなく嘆いています。願わくば大王よ、愚かな私ではありますが、どうか無能と見なさないでいただきたい。軍隊を授けて下されば、一度の行軍で必ず我が国の領土を奪還して見せましょう。」


 王がそれを許可すると、溫達は行軍に臨んで兵士たちの前で誓いました。


「私は王に必ず領地を取り戻すと約束したのだ。鷄立峴、竹嶺以西を我が国に奪還することができなければ、国へは帰らんぞ。」


 こうして行軍した溫達たちは、阿旦城の下で新羅軍と交戦しました。しかし、そのさ中のこと、運悪く流れ矢が当たった溫達は、あっさりと死んでしまいました。


 将軍の仇を討とうと奮戦した兵士たちは、なんとか新羅軍を追い返し、溫達を棺に入れました。しかし、葬儀をしようと遺体を運ぼうとしても、その棺は戦場から動こうとしません。溫達は死んでも戦前の誓いを撤回しなかったのです。


 皆が困り果てていたところ、平崗公主がやってくると棺を撫でながら言いました。


「あなたはもう死んだのです。さあ、帰りましょう。」


 すると柩が持ち上がり、溫達は国に帰ることができました。



 泣き虫姫とバカ溫達のお話は、彼の葬儀が行われた後も、高句麗が滅びた後も、人から人へと語り継がれ、現在に至るまで伝わっているのです。

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