其之六 曹家の血

 蔡邕さいよう邸で屋敷の主と曹操そうそうが話している。応接室ではなく、書庫を兼ねた蔡邕自身の私室で、使用人を遠ざけての完全な密談である。

「な、朱伯厚しゅはくこうを助け出したとな? ……ほぉ。それは、大胆なことをしたものよな」

 曹操のすることはいつも周りの者を驚かす。蔡邕もしかり。曹操が重大な出来事をさらりと言ってのけるものだから、蔡邕も唖然としてしまう。

「百鬼を追っていたのですが、偶然朱震しゅしん殿に繋がりましてね」

 曹操の台詞は自分の頭脳が朱震の救出劇を演出したなど微塵みじんも臭わせない。

「それでどこに……いや、聞かぬ方がよいな。無事ならそれでよい」

 同郷の清流人が拘留されてしまったことに胸を痛めていた蔡邕は、その吉報に安堵し、さらなる情報を求めようとしたが、すぐに思い止まった。どこから情報が漏れるか分からない。知らぬ方がよいこともあるのだ。

孟徳もうとくには本当に鬱壘うつりつの力があるのやもしれぬな」

 鬱壘とは鬼門を見張り、悪鬼を捕える神のことである。囚われの陳逸ちんいつを救ったことといい、獄中の朱震を逃がしたことといい、不可能かと思える大事をあっさりとやってのける曹操に蔡邕も神がかり的なものを感じたらしい。

「ご期待に沿うべく百鬼は壊滅させてみせます。それには王甫おうほを潰すのが一番の早道です」

「王甫?」

「百鬼事件の黒幕は王甫です。他にもいるかもしれませんが……」

 曹操はすでに夏侯惇かこうとんから牢獄での一部始終の報告を受けている。捕えた百鬼の一味を尋問して、背後に宦官の王甫の存在があるのをつかんでいるのだ。

「……そうか、王甫か」

 蔡邕が深く頷いた。

「何か思い当たりますか?」

「思い当たることはある。あるが……」

 そこに盧植ろしょくが現れて、問題の弟子たちへの贈り物を所望した。

智侯ちこう、書具を一式貸してもらえんか。弟子たちに石経せきけいを写経させたいんじゃ」

「構わんよ。芙蓉ふように持って行かせよう」

 蔡邕が娘を呼んだ。現れたのは容姿端麗な少女である。今年で十四歳になる才媛。

 蔡蓮さいれんあざな白姫はくき。呼称は〝芙蓉〟。蔡蓮はたおやかに一礼をした。

「芙蓉姫、済まぬが書具一式をわしの弟子に届けてくれんか」

「はい、子幹しかん先生」

「ついでにお前も石経を写経してきなさい」

「はい、お父様」

 劉備りゅうび公孫瓉こうそんさんは部屋で最後の罰を神妙に待っている。それに付き合わなければならなくなった蔡蓮はいい迷惑である。が、大学者の娘だけあって、蔡蓮は学問を好んだ。蔡蓮はこころよく盧植の依頼を引き受け、父の勧めに従って、その場を後にした。

「さて、わしも話に加わろう」

 そう言って、盧植は弟子が待つ部屋に戻ることなく、蔡邕と曹操の前に腰を下ろした。が、盧植が始めたのはよくある大人同士の世間話である。

婿むこ殿は決まったか?」

「いいや、まだ芙蓉にその気がない。学問の方がいいそうだ。嫁にやるにしても、婿を取るにしても、相手は学問ができる者がいいと思うのだが、誰かよき者はおらぬかな?」

「ここにおるではないか」

 この部屋にいるのは盧植と蔡邕と曹操である。つまり、曹操のことを言っている。

「ははは、ご冗談を。私はすでに妻帯しています。百鬼のことがあるので、今は実家に帰らせていますが」

 曹操は去年、孝廉こうれんに挙げられたのを機に同郷の劉氏の娘と婚礼したばかりである。妻は懐妊したのを機に実家に帰っている。

 沛国はいこくしょうの劉氏も三公(官僚の最高職)を輩出してきた名族だ。中でも、劉矩りゅうくは宗室に連なる清流人として、大将軍・竇武とうぶや太傅・陳蕃ちんばんとも関わりがあった。

 劉矩はあざな叔方しゅくほう、竇武たちが宦官誅滅クーデターを起こした時は太尉の職にあった。

「そうであったか。お主ほど釣り合うのは他にいないと思ったがのぅ……」

 それを知らなかった盧植は本気で残念がった。ただし、この時代は有力豪族がめかけを持つのはごく普通であった。盧植のお節介はそれを促しているような雰囲気もある。

「やはり智侯先生の御息女は本妻でなければなりませんよ。名誉ある蔡家を継がせるために、婿を迎えるべきでしょう」

 曹操はそんな提案をしたものの、今話すべきことはそんなことではない。

「それより今は大事な話をしていたところです」

 曹操が本題に戻したところで、盧植も真顔になって言った。

「うむ。わしを襲ってきた連中とこの屋敷を襲った連中は関係があるようじゃの」

「ただの強盗とは違うようでな。孟徳の話によると、王甫が裏で糸を引いているそうな」

「やはり、濁流がからんじょるのか」

 盧植と蔡邕の会話からは二人が百鬼の背後にある濁流派大物の存在に合点がてんがいった様子が窺えた。曹操が二人の清流派に向き直って言った。

「職務として真相を知っておきたいのですが。よろしければ、事情を教えていただけませんか?」

「孟徳は陳君を救い、朱伯厚を助け出した。橋公きょうこうのお墨付きもある。話をしても、問題なかろうな」

「わしは賛成じゃ。より良い未来は志ある若い世代に託す必要があるじゃろう」

 盧植は蔡邕の問いかけに積極的に同意した。できれば、弟子たちにもそうなってほしい。今の政治は乱れ切っており、それに起因する清濁の抗争はすぐには終わりそうにない。

 蔡邕は頷いて立ち上がり、百はあるだろう竹簡の中からある一巻を取り出した。

「これは私が伝国の至宝・五仙珠ごせんじゅについて調べ上げ、書き記したものでな。あらゆる文献・記録・伝承をもとに、一つにまとめたものだ」

 大学者である蔡邕は学識者との交友が広い。また、かつて〝東観とうかん〟で文書の校訂に従事したこともあった。東観は宮中の図書館のことだ。その際に発見した秘蔵書の中に国宝についての記述があって、それを抜粋ばっすい、整理し、有識者たちから得た情報も加えて、一つの文書としてあらわした。

 曹操はその竹簡数巻を受け取った。気のせいかもしれないが、手渡されたその竹簡がずしりと重く感じた。

「ただの宝物ではないぞ。国家を治める力を秘めた天来の至宝じゃ。梁冀りょうきの死後、五仙珠の行方ゆくえが定かではない。我等はこの五仙珠の行方について調べているんじゃよ」

 盧植の言葉には力がこもっていた。何しろ、それこそ清濁の抗争の鍵なのである。

「なるほど……」

 百鬼の事件がまた仙珠に結び付いた。自分の意思とは関係なく、それは否応なしに自分と仙珠とを結び付ける。一年前を思い出す。

 曹操がまだ在野にあって、吉利きつりを名乗っていた頃、清流派の陳逸が捕縛された。曹操はひょんなことからその救出作戦を主導することになり、その過程で袁閎えんこうという隠遁いんとん者から五仙珠の話を聞いた。ほとんどの清流人も知らない話だと言っていたが、党錮とうこから数年が過ぎ、今日の清流派の中にも、あの事件の裏に仙珠という秘宝の存在があったことに気付く者が出始めたようだ。

「それを嗅ぎ回っているお二人が目障りだということですね」

「そのようじゃ」

 盧植が渋い顔で頷いた。

「実は、ここに一つあります」

 曹操はふところから赤い玉を取り出して見せた。張譲ちょうじょうから奪ったものだ。

「それは……!」

 蔡邕がそれを手にとって見た。そして、予期せぬことをつぶやいた。

「……ふむ、恐らくこれは分気ぶんきで作られたものだろうな」

「分気?」

「仙珠とは天地の気が集まり、凝縮して結晶化したものだという。もともとが気であるから、それを分けて、小さな玉を作ることもできるそうだ。いうなれば、〝小仙珠〟だな」

「そなた、これをどこで手に入れたのじゃ?」

 驚いた様子の盧植が尋ね、曹操は一年前のことを話した。

「これはすでに力を失っておる。もう妖術のもとになることはなかろう」

 蔡邕がそう言って、その赤き玉を曹操に返した。

 どうして朱震が殺されずにいたのか。それは陳逸が殺されなかったように、仙珠の行方を知りたいがためだ。王甫も百鬼を使って、その仙珠を探しているのだ。

 一年前と同じように、本人の意思とは関係なく、曹操は図らずも騒乱の中心に身を投じることになった。いや、これも自らの行動が引き寄せた天命と言えるのかもしれない。


 五仙珠はその通り、五つ存在する。それぞれ五行説ごぎょうせつの火・水・木・金・土の力が封じ込められており、それを手にした者に大いなる天運をもたらすという。

 以前袁閎から聞いた話では、党錮事件が起こるきっかけとなった竇武と陳蕃による宦官一掃クーデター未遂事件の際に、二人は仙珠を手にして天の加護をたのんだとされる。しかしながら、クーデターは失敗に終わり、その仙珠も宦官に奪われたと見られていた。

『一つは王甫が確実に持っているとして……』

 曹操は手にしたすでに力を失ったただのかたまりと化した赤い玉をもてあそびながら、本物の仙珠の所在を頭の中で模索していた。

 蔡邕邸襲撃を阻止した時に捕縛した百鬼の男の一人がしゃべった事実。

 その男によれば、三年前に王甫は宝珠と百鬼を所有するに至ったという。

 そして、これは確かなことだが、袁家が持っていた一つを王甫は百鬼を使って奪った。七年前の竇武・陳蕃事件の際に王甫の手に仙珠が渡ったとするなら、王甫がすでに複数の仙珠を所有している可能性が高い。さらに権勢を風靡ふうびしているところをかんがみたら、王甫と並ぶ大物宦官・曹節そうせつが所有している可能性も高いと思われる。

 ベッドに腰かけていた曹操は手にしていた竹簡を丸めて放り投げた。その竹簡はガシャッと音を立てて床に落ち、書簡の山の一部と化す。

 曹操の自室も蔡邕のそれと似たようなもので、書物のコレクションであふれている。

 ただし、今、床一面に散乱している竹簡は全て祖父が遺したものだ。曹操はまた新たな竹簡を手に取った。

 曹操は祖父の遺した書簡を片っ端から調べていた。曹家の屋敷は蔡邕の屋敷の数軒先にあった。曹操の祖父・曹騰そうとうが大宦官であったため、曹家は都に立派な屋敷を所有していた。

 曹騰はあざな季興きこうという。安帝の時に小姓こしょうとして側仕えを始め、温厚実直な性格を気に入られ、皇太子の学友となった。その皇太子が順帝じゅんていとして即位すると、引き続き信頼されて宦官の出世コースを歩むことになる。ところが、官位が上がるのと同時に政争にも巻き込まれるようになっていき、宦官ながら時の政権に大きな影響を与えるようになっていく。桓帝かんてい擁立ようりつ時には外戚と組んで中心的役割を果たし、その恩恵にあずかって栄達を極めた。しかし、自らの権勢を保持する一方で、清流派官僚を多く推薦して乱れた政治の軌道修正と維持に努めてもいる。

 曹騰に認められて名を挙げた一人として、种暠ちゅうこうがある逸話を残している。

 种暠はあざな景伯けいはく、洛陽出身の名臣である。益州刺史の時、永昌えいしょうしょく郡の太守が大将軍と曹騰に賄賂わいろを贈った証拠をつかみ、大物二人を公然と告発した。結局、この贈収賄事件は立件されずに曹騰は難を逃れるのだが、曹騰は种暠の清廉実直な行為を良しとして、逆に种暠を高く評価した。

 その後、种暠は橋玄きょうげんなどの清流人を推薦し、自身は司徒の位まで昇ったのだが、

「――――今、私があるのは全て曹騰様のお陰である」

 そう言って、曹騰への感謝を忘れなかったという。

 曹騰は五仙珠を手中にしたという濁流派大将軍・梁冀の時代まで、宮中の要職にあった。そして、最後の仕事として梁冀誅殺計画を陰から支援し、その死を見届けると、安堵したかのように世を去った。

 清濁入り混じる混沌の政権の中を時には清流に泳ぎ、時には濁流に潜り、権謀けんぼう術数じゅつすうで生き抜いた。歴史に美点も汚点も残しつつ、中道を駆け抜けた大宦官だった。

 曹騰が遺した遺産は莫大な資産だけでない。名声、人脈、そして、遺言……。

 祖父の立場であれば、多少でも五仙珠のことを知り得たに違いない。

 曹騰は曹操が幼少の頃に他界しており、それを直接尋ねることはできないが、書物に手掛かりを遺しているかもしれないと思ったのだ。曹操は素早く目を動かし、また書簡を放り投げた。

『ここにはないか……』

 賢明な人間なら、大切なものを濁流派の蔓延はびこる洛陽には残さないだろう。

 もしかすると、故郷の屋敷のどこかに残しているかもしれない。

『そう言えば、成人したら渡すものがあると言っていたな……』

 いつだったか、父がそう言っていたことを思い出した。祖父は自分の誕生を我が家の宝だとこの上なく喜んでいたと聞く。そんな祖父が遺したものも宝であるかもしれない。官職に就いている今は帰郷できない。父は官職を辞して帰郷中だった。

『自由に動けないのは、不便なものよ……』

 曹操は蔡邕の書は放り投げずに、腹の上に置いて寝ころんだ。

『五仙珠が濁流派に渡れば、汚れた世に。清流派に渡れば、清らかな世に……か』

 曹操は決して多くはない情報であっても、頭の中を整理して、的を得た結論を導き出す。

『少なくとも、一つは濁流派の手にないということになるな。清流派の大物を片っ端から拘束して尋問しているところを見ると、袁閎のような清流か混流の誰かが秘匿していると考えていいだろう。だが、そうだとして、ほとんどの清流派がそれを知らない。特に王甫は独自に百鬼を使い、躍起になって探しているということは曹節とは競食関係にある……そんなところか』

 欲深い連中が利権をめぐって相食あいはむことはよくある。

『鬱壘の力か。仙珠を得れば、そんな力も手に入るのか?』

 曹操は蔡邕の言葉を思い出して、それに続けて百鬼の連中が駆使する異能の力を思い起こす。陳逸救出の際にも、張譲が不思議な能力を使った。蔡邕の文書にはそんな不可思議な力の具体的情報はない。曹操の想像力はそれを補うように加筆していく。

『仙珠を得た者は天運だけでなく、人智を超えた何かしらの特別な能力も得られる……』

 史書をひも解けば、神秘的な記録が多く残っているし、各地から不可思議な報告も相次いだ。例えば、今年、熹平きへい四(一七五)年には予州の沛国譙県に黄龍が現れたという報告があった。

 この時代、様々な天象と人間の行為は相応(天人相応)すると解釈された。

 厳密には、皇帝や枢機すうきに携わる人物の行いが特殊な天文・自然現象となって反映、または暗示されると考えられたのだ。それによって、予言めいた文言も重視された。

 讖緯しんい思想という。この時の太史令たいしれいには単颺ぜんちょうという人物が就いていた。

 単颺はあざな武宣ぶせん。山陽郡湖陸こりく県の人で、蔡邕とともに石経建立の上奏を行った人物である。太史令は天文官のことで、日夜天体を観測し、何らかの兆候を確認した場合はそれを報告、対策を進言する。当然、天文事象に明るく、讖緯の知識がある者が任命される。

 橋玄はこの事象について、どういうきざしなのか単颺に尋ねたところ、単颺はその地に王者が現れる予兆だと答えた。黄色は中央の方角を表し、龍は皇帝を表す神獣である。それを聞いて、橋玄の脳裏にすぐにある若者が思い浮かんだ。

 自分がその実力を認めた傑物。曹操孟徳。沛国譙県は曹操の出身地なのである。


 その曹操の故郷に向かって進む荷馬車があった。ほろを付けた荷台には傷の応急処置を施しただけの朱震が力なく横たわっている。時々その様子をうかがいながらも、御者は馬車を休ませることはない。他には片目を覆った覆面男が馬車に付き従っていた。

 盧植と弟子の公孫瓉・劉徳然りゅうとくぜんは洛陽を離れ、緱氏こうし県への帰路に就いた。

 劉備だけは曹操の指示で曹家の屋敷に留まった。別に拘留延長措置というわけではない。曹操は自分の代わりに動いてくれる人物を欲していた。

 ちょうど劉備が盧植の塾を卒業することを知り、曹操が特に盧植に頼んで、その身柄を借り受けたのである。本人の了承も得た。曹操は朱震を助け出す際の劉備の義侠の態度が気に入ったのだ。まだ若年だが、そこがまた濁流派の目をそらすのに都合がよい。

「――――玄徳をいたく気に入ったようじゃの」

 曹操の申し出に盧植は顔を緩めた。

「――――はい。義にさとり、仁にたがわず。大任を任せられると感じました」

「――――同じ舟に乗ってしまったことじゃし、本人が望んでおるから仕方ないが、大事に育てたい。くれぐれも無茶な真似まねはさせんでくれ」

「――――心得ております」

 全ては朱震を逃すための段取りだった。まずは重傷を負った朱震を治療しなければならない。幸い曹操の故郷の譙県には名医がいた。

 その名医は華佗かだあざな元化げんかという。華佗はあらゆる医術に通じ、特に外科的治療に優れていると評判の医者である。

 まずは朱震を譙県に運んで華佗先生に診せる必要がある。その任務に劉備を充てたのである。同時に左目に重傷を負った夏侯惇も帰郷させた。夏侯惇は大したことはないと強情ごうじょうを張って、引き続き曹操の下に留まりたいと願い出たが、

「――――その必要はない。オレに百鬼の尻尾を掴まれたと知ったら、王甫だって不用意には動けない。疑惑の目を向けられた中で強硬に動いても、自分の首を絞めることになるだけだ。それは王甫だって十分分かっているだろうからな。しばらくは王甫も百鬼もおとなしくするだろう。その代わりに動きそうなのが王吉だ」

 王吉は沛相はいしょうに栄転した。百鬼捕縛の功績を受けての大出世であるが、それが嘘っぱちであるのは曹操自身がよく知っている。本当のところは王吉が曹操に百鬼との関係を疑われたのを知り、王甫が慌てて転出させたのだ。

 実際、王吉が洛陽の屋敷を引き払って以来、百鬼の被害は出ていない。息子の栄転先を沛国にしたのは、黄龍が現れたという報告に仙珠の存在を感じ取ったからにほかならない。今度は地元で百鬼が暴れるかもしれないのだ。

「――――オレは必要なところに必要な人材を置く。今は朱震殿の安全確保が最優先だ。沛には王吉がいる。元譲げんじょうには奴から朱震殿を守ってもらわねばならん。それに下手にその傷が悪化して、将来役に立ってもらえんのでは困る。その傷の治療もしてもらうんだな」

 夏侯惇もそうさとされて納得した。考えたら大胆な決断だ。治療のためとはいえ、そこに朱震と故郷では罪人の夏侯惇を向かわせようというのだから。しばしの間なら、朱震をかくまうことはできるだろう。だが、その後の身の振り先を今から考えておかなければならない。それには清流派ネットワークを駆使する必要があるだろう。

 逃避行の馬車の御者を務めることになった劉備は、また背後の朱震の様子を窺った。

「もうすぐ平輿へいよ県だ。そこで休憩しよう」

 馬上の片覆面の男、夏侯惇が劉備に言った。夏侯惇は曹操の書簡を携えていた。

 清流派の救済に奔走する周済しゅうせいこと何顒かぎょうと、厳恪げんかくこと張邈ちょうばくに宛てたものである。

 その書簡を清流派ネットワークのアクセス・ポイントの一つとなっている許劭きょしょう邸に届ける。それを読めば、二人が朱震の世話に奔走ほんそうしてくれるだろう。

 劉備も御者の他に役目を与えられていて、それは曹操の父から曹操が求めるものを受け取って、洛陽に持ち帰ることであった。

 仙珠については何も知らない劉備であったが、彼もまた、知らず知らずのうちに乱世の道に踏み出していた。


 年が明けて、熹平五(一七六)年。

 朱震を陰謀の都から解放して一カ月余りが過ぎたところで、劉備が洛陽に戻ってきた。劉備が持ち帰って来たものは祖父が書き遺した遺書だった。その書簡には封がなされていて、曹操はそれを受け取り、劉備を奥座敷へ伴った。

 曹操には祖父の遺書や朱震の現状より気になっていたことがあって、早速それを尋ねた。

「ご苦労だった。ところで、許子将きょししょうには会ってきたか?」

「はい」

「どんなことを言われたか聞かせてくれ」

「子将先生は私の目をのぞき込んで一言、『沙上さじょう湧泉ゆうせん沼下しょうか大鯉だいり』と言われました」

 劉備は盧植に学んだせいで、高尚な人物のことをもれなく「先生」と呼んでしまう。

「ほほぅ、それで?」

 曹操はその言葉に大いに興味をそそられ、楽しそうな笑みを浮かべて身を乗り出した。

「私は有変無形の水のだともおっしゃいました。私の心の色が青なのだそうです」

「ハハハ、それは面白いな」

 曹操は純粋に会話を楽しんでいた。大きな屋敷ではあるが、数人の使用人以外は誰もいない。皆年寄りで気軽に話ができる相手が不足していた。そこに劉備が共通の話題を携え帰ってきた。

 実は劉備らを許劭邸に立ち寄らせるついでに劉備に紹介状を持たせたのは曹操本人である。もちろん劉備を許劭に紹介して、彼の人物評価をさせるためだ。

「昔、オレは赤だと言われた。許子将は人を色に例えるんだな」

 曹操は劉備にただならぬ興味を持っていた。自分でも確かな理由は分からなかったが、それを聞いて納得した。

 赤と青。火と水。対極なのだ。相反する気質だからこそ無意識に引かれていたのだ。いや、表裏一体の運命共同体と言った方がよいかもしれない。

「私も曹部尉の話を聞きました。子将先生がおっしゃるには、青なる者は仁を生じて心有り、赤なる者は太陽にして天の正色――――だそうです」

「そうか。さすが許子将の眼は天下一品、見事なものよ」

 砂漠のオアシス。巨大な鯉。どちらも得ようとしても得難く、得れば人々に恩恵をもたらす。劉備はそれだけ価値のある珍貴な人物ということだ。

「そうですか。子将先生の言葉は少々難し過ぎます」

「玄徳は仁義を重んじ、信用が置ける人間だということだ。さぁ、座ってくれ」

 聞かれれば応えるが、劉備は自ら多くを話す方ではない。

 孔子曰く、剛毅木訥ごうきぼくとつは仁に近し――――意志が強く、朴訥な人間は仁者に近い。

 劉備は普段は口数が少なくおとなしい。が、話をしてみると、真っ直ぐで意志の強さを感じられる。許子将もそれを感じたことだろう。

 曹操はしばらく劉備との会話を楽しんだところで、朱震の状況を聞いた。

 朱震は華佗の家に匿われ、容体も快方に向かっていると聞いた曹操は、

「よし。では、風侯ふうこうの身柄を移すことにする。かくまうのに適任の人物を見つけた。徐州の広陵こうりょう令に趙包ちょうほうという人物がいる。その者が近く武威ぶい太守に遷ることになる。その際、譙に寄ってもらって、風侯を預けることにする。委細はすでに伝えてある。すまんが、玄徳はもう一度譙に行って、身柄の引き渡しに立ち会ってくれ」

 曹操は朱震のことを「風侯」と呼ぶようになった。本名は伏せた方がよい。

 劉備は言われた通り、翌日また洛陽を発った。盧植から仁義についてよく教え込まれていただけに、正義の行為と感じたことには無意識に情熱を燃やせるらしかった。

 仁義を行動で体現できるという点では、劉備は盧植門下でも最優等生である。


 曹操が睨んだ通り百鬼は息を潜め、この一年、都で百鬼関連の事件は起きなかった。曹操は時折蔡邕邸に出入りして密かに五仙珠の新たな情報を求めたが、蔡邕の書に書き記された以上のものを知り得ることはできずにいた。それも無理はない。

 国の秘宝である五仙珠の情報を探ることは国家機密を探るのに等しいのだ。祖父が遺した書簡も主に人生の訓戒を記したもので、曹操が期待するものではなかった。

 ただ最後の〝天命来たらば、我に問え〟という一行が脳裏に残った。

 曹操はすっかり暇になった務めのかたわら、全国の情報を集め始めた。

 宝珠に関する情報は何も都の宮殿の奥に眠っているとは限らない。五仙珠が五岳にまつられてきたというならば、情報も各地に散らばって埋もれているかもしれないのだ。ここは嗅覚を効かさなければならない。一見関係ないような情報も精査してみる必要があるだろう。

 そんな時、気がかりな情報がもたらされた。永昌えいしょう太守・曹鸞そうらんが逮捕されたというのだ。

 曹鸞、あざな伯興はくこう。曹操の祖父・曹騰の兄である。よわい九十になる曹一族の最長老で、老健長寿の現役官僚でもある。

 曹一族は曹騰の大出世により、栄華富貴を手にしたと言ってよい。故に官職に就く際には曹騰の屋敷を訪問して赴任の挨拶をするのが通例となり、曹騰死後は曹騰の墓を参った後で屋敷を訪問するのが慣例となった。その屋敷の主とは曹騰の養子となった曹嵩そうすうである。

 大おじいさん――――もしかしたら、曹操も一度くらい会ったことがあるかもしれない。曹操の頭におぼろげに思い浮かんだのは背筋をしゅんと伸ばした謹厳な老人の姿だったが、それが曹鸞だったのか確信はない。が、引っ掛かったのはそんなことよりも、その罪状だ。聞けば、曹鸞は党人を擁護ようごし、党錮処分の解除を訴えて、逆に逮捕されて都に護送されたのだという。曹操の鋭い嗅覚が反応した。

『奸計を感じるな。これはよくよく調べてみる必要がある』

 蔡邕ら清流派の官僚たちも曹鸞を弁護する準備を始めた。ところが、それが整わないうちに曹鸞は死刑に処されてしまった。都の洛陽に到着するのを待たず、刑が執行されたという。早すぎる結末と言ってよい。十分な取り調べなど行われずに処分が断行されたのは、濁流派の恣意しい的圧力があったということを示唆しさしている。

 実はこの時の司隷校尉しれいこうい王萌おうぼうであった。王萌もまた王甫の養子である。王甫の子であるからには、父の権勢が就官に大きく影響していたのは言うまでもない。

 司隷校尉は首都圏の警備長官である。管内の犯罪に対する逮捕処罰権を持っている。槐里かいりの獄に収監されたところで王萌が殺したのだ。

 槐里県は長安の西で、司隷校尉の管轄に入る。曹鸞が朝廷を誹謗ひぼうしたという処罰理由だったが、そんな虚偽に満ちた報告など清流派は誰も信じていない。蔡邕は沈鬱な表情で言った。

「正義の士を助けてやれなかったのは、残念なことよ」

 間もなく曹鸞が願ったのとは正反対の触れが出た。党人の一族郎党、門生、故吏に至るまで党錮処分を拡大したのである。官職にある者すべてを対象に再調査が行われ、官職に就いていた者は放逐ほうちくされた。それは陳逸ちんいつ・朱震に逃げられ、五仙珠の争奪戦を繰り広げる清流派勢力を再度恫喝する措置であった。濁流派が裏で糸を引いているのは疑いようがない。大宦官であった曹騰の威光がまだ色せていなかったために、この一件で曹一族が根絶やしにされるまでには至らなかったが、曹鸞の子の曹鼎そうていらが連座して処刑された。

 この件に際する王甫や曹節らの真の狙いは、かつての大宦官・曹騰の一族であろうと容赦なく罰すると曹操に見せつけることであった。清流派と接触し、怪しい動きを見せる曹操に圧力をかけるためだ。

 ある日、曹操の屋敷に〝曹郎当車そうろうとうしゃ〟と書かれた札が投げ入れられた。それを見た曹操はすぐに意図を察して笑った。

『フン、なかなかうまい脅迫状だな……』

荘子そうし』に〝蟷螂とうろうそのひじを怒らせてって車轍しゃてつに当たる〟という一文がある。

 直訳すれば、カマキリは自分に近付くものに対しては相手が車の車輪のような巨大なものであろうと鎌を振り上げて向かっていく――――となるのだが、これは彼我ひがの力の差を考えず、玉砕するような無謀をいましめたものでもある。

 それをもじった〝曹郎当車〟は、間抜けな曹という名のカマキリが朝廷という車に戦いを挑んで、あえなくかれて死んだ――――という意味にほかならない。

 先の曹鸞の無謀を言ったものでもあり、これ以上あれこれ嗅ぎ回るな、という曹操に向けた警告でもあった。だが、曹操はそんなものは意にも介さない。

 自尊心を傷付けられ、大祖父を殺された恨みも相まって、逆に復讐ふくしゅう心が燃え上がった。それはすぐに実行され、曹操は年が明けてすぐに彼らを震撼しんかんさせた。

 夜間外出禁止令を破った有力宦官・蹇碩けんせきの叔父を打ち殺したのだ。

 その男は権力と身分を盾に曹操を威圧した。曹操はそんな脅しに屈せず、男の犯罪を一つ一つ数え上げていった。城内で禁止されている馬車での駆馳くち(スピード違反)、夜禁令違反、恐喝に加え、公務妨害……。

「――――法の執行は貴賎きせん官民を問わない。棒打ち二十打に処す」

 そして、毅然と言い放って、刑を課した。その男は背中を五色棒で打たれている途中、それに耐えきれずに死んでしまった。当然、蹇碩は怒り心頭に発した。

 蹇碩は恨みを募らせて、これを王甫に訴えた。

「図に乗りおって。大長秋だいちょうしゅう様の孫とはいえ、これ以上放置できぬな……。流れが変わったようじゃ」

 大長秋とは宦官の最高位である。曹操の祖父・曹騰はかつてその位を極めた大宦官だった。王甫もその下で働いたのである。自分と百鬼の関係に感付いたかもしれない曹操をこのまま放ってはおけない。蹇碩は王甫の部下である。その叔父を殺したのは曹鸞殺しの仕返しにほかならない。それだけではない。これは相手がどんな権力者であろうと恐れないという曹操の大胆不敵な意志表明であり、自分たちに真っ向から対抗することを峻烈しゅんれつに示したわけだ。さらに、警告を無視して百鬼事件の真相を追求していると聞く。

「今日の権力者が誰であるか、思い知らさねばならんな……」

 王甫の蛇のような目が妖しく光った。

 時に王旻おうびんという者がいた。王甫の息がかかった者である。王旻は白昼堂々北部尉の屯所に乗り込んで、圧力をかけた。かける必要があったのだ。

「部尉の法は厳罰に過ぎる。それを不満に思っている者も多い」

「百鬼事件は未解決です。警備を厳重にし、刑法も厳格に行わなければ、百鬼がまた暴れ出すでしょう。永安宮えいあんきゅうが襲われでもしたら、お互い困るではありませんか」

 百鬼が皇后の宮殿を襲うなどあり得ないのだが、そう口実を付けられては返す言葉もない。現皇后の宋氏そうしは皇帝の寵愛が薄く、永安宮に移っていた。

 永安宮は北部尉が管轄する北部エリアにあった。王旻はその永安宮の車駕を管理する永安太僕たいぼくという職にあったのだ。

「……そ、その皇后様が蹇公のことを憂いておられるのだ」

「ああ、蹇碩殿の叔父のことですか。そう言えば、嘘か真か皇后様に夜間通行の許可をいただいたと言っていましたね。ですが、許可証はお持ちでなかった」

「これが皇后様が与えられた許可証だ。馬車の中に落ちておった」

 王旻が許可証をひけらかした。蹇碩の叔父は永安宮から出て来て夜間通行したのである。

「許可証を所持した者を殺すとは、皇后様に逆らったも同じだぞ!」

「それをお見せいただけますか?」

 曹操はその許可証を受け取って確認した。確かに蹇碩の叔父に授けた内容になっている。夜禁令違反で曹操が蹇碩の叔父を捕えた時、所持品その他を検査した。馬車もくまなく調べたが、こんなものは出て来なかった。

「……これは困りました。どうすればよろしいでしょうか?」

 脅しに屈した若造を見て、王旻はほくそ笑んだ。

「自ら辞職を申し出よ。そうすれば、あとは私が穏便に済むように手を打ってやる」

 蹇碩の叔父に夜間通行の許可が出ていると、わざと夜禁令を破らせる。そして、拘束された後で偽の許可証を出すのだ。後出しだろうが構わない。皇后の許可証を所持しているのに、それを無視して拘束した。そう訴えて内輪で処理すればよかった。

 しかし、証言するべき当人が殺されてしまうとは想定外だった。そのため、王旻自身が出向く羽目になった。

「いえ、罪を犯したというのであれば、つつしんで裁きを受けなければなりません。この許可証も証拠品として、しかるべきところに提出させていただきます」

「な、なに……?」

 焦る王旻、神妙な面持ちの曹操。心の中で勝利の笑みを浮かべる。

 王旻は言葉を失った。自分の命運も失ったのだ。曹操は彼らの奸計を見抜いていた。ただの若造なら足を救われていたことだろう。しかし、曹操の祖父は大宦官であり、政界の様々な情報を書物に残してくれていた。陰謀渦巻く政界を生き抜くには、あらゆる事態に対処できるだけの知恵と権謀術数が必要であることを祖父は孫に伝えたかったのだ。

 通常、皇后が独断で証書を発行することはないのを曹操は知っていた。

 現皇后の宋氏の兄は宋奇そうきといい、妻は曹氏であった。曹操の従姉妹いとこである。

 祖父・曹騰が遺した莫大な財産は金銭や土地だけではない。長年かけて築いた人脈も無形の財産なのである。この婚姻関係によって、曹操も皇后の関係者に連なることになるので、許可証が万一本物であったとしても、死刑は免れることができよう。

 後日、許可証は偽物だと判明した。皇后を巻き込みかねない偽書の作成は当然ながら大罪とされた。曹操をはめる奸計のつもりが、逆に王旻自身を殺すことになった。

 王旻は公文書偽造とその他の罪により、獄死した。王甫は何とか王旻の単独犯行ということで追及をかわし、連座を免れた。胆を冷やした王甫はすぐに手を打った。

 奸計で曹操を排除することが難しいと悟ると、一転、昇進させることにした。

 王甫の謀略だ。地方官に栄転させることで都から追い出したのである。

「しばらくは外の空気を味わうとするか」

 新たな任地は東郡頓丘とんきゅう県。友人の袁紹えんしょうが赴任した濮陽ぼくよう県とは黄河を挟んで対岸にあたる。

 当の曹操は洛陽を去ることに何の未練もなく、都での一進一退の攻防は暫しの休戦となる。

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三国夢幻演義 清濁抗争篇 第三章 百鬼夜行 光月ユリシ @ulysse

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