其之六 曹家の血
「な、
曹操のすることはいつも周りの者を驚かす。蔡邕もしかり。曹操が重大な出来事をさらりと言ってのけるものだから、蔡邕も唖然としてしまう。
「百鬼を追っていたのですが、偶然
曹操の台詞は自分の頭脳が朱震の救出劇を演出したなど
「それでどこに……いや、聞かぬ方がよいな。無事ならそれでよい」
同郷の清流人が拘留されてしまったことに胸を痛めていた蔡邕は、その吉報に安堵し、さらなる情報を求めようとしたが、すぐに思い止まった。どこから情報が漏れるか分からない。知らぬ方がよいこともあるのだ。
「
鬱壘とは鬼門を見張り、悪鬼を捕える神のことである。囚われの
「ご期待に沿うべく百鬼は壊滅させてみせます。それには
「王甫?」
「百鬼事件の黒幕は王甫です。他にもいるかもしれませんが……」
曹操はすでに
「……そうか、王甫か」
蔡邕が深く頷いた。
「何か思い当たりますか?」
「思い当たることはある。あるが……」
そこに
「
「構わんよ。
蔡邕が娘を呼んだ。現れたのは容姿端麗な少女である。今年で十四歳になる才媛。
「芙蓉姫、済まぬが書具一式をわしの弟子に届けてくれんか」
「はい、
「ついでにお前も石経を写経してきなさい」
「はい、お父様」
「さて、わしも話に加わろう」
そう言って、盧植は弟子が待つ部屋に戻ることなく、蔡邕と曹操の前に腰を下ろした。が、盧植が始めたのはよくある大人同士の世間話である。
「
「いいや、まだ芙蓉にその気がない。学問の方がいいそうだ。嫁にやるにしても、婿を取るにしても、相手は学問ができる者がいいと思うのだが、誰かよき者はおらぬかな?」
「ここにおるではないか」
この部屋にいるのは盧植と蔡邕と曹操である。つまり、曹操のことを言っている。
「ははは、ご冗談を。私はすでに妻帯しています。百鬼のことがあるので、今は実家に帰らせていますが」
曹操は去年、
劉矩は
「そうであったか。お主ほど釣り合うのは他にいないと思ったがのぅ……」
それを知らなかった盧植は本気で残念がった。ただし、この時代は有力豪族が
「やはり智侯先生の御息女は本妻でなければなりませんよ。名誉ある蔡家を継がせるために、婿を迎えるべきでしょう」
曹操はそんな提案をしたものの、今話すべきことはそんなことではない。
「それより今は大事な話をしていたところです」
曹操が本題に戻したところで、盧植も真顔になって言った。
「うむ。わしを襲ってきた連中とこの屋敷を襲った連中は関係があるようじゃの」
「ただの強盗とは違うようでな。孟徳の話によると、王甫が裏で糸を引いているそうな」
「やはり、濁流が
盧植と蔡邕の会話からは二人が百鬼の背後にある濁流派大物の存在に
「職務として真相を知っておきたいのですが。よろしければ、事情を教えていただけませんか?」
「孟徳は陳君を救い、朱伯厚を助け出した。
「わしは賛成じゃ。より良い未来は志ある若い世代に託す必要があるじゃろう」
盧植は蔡邕の問いかけに積極的に同意した。できれば、弟子たちにもそうなってほしい。今の政治は乱れ切っており、それに起因する清濁の抗争はすぐには終わりそうにない。
蔡邕は頷いて立ち上がり、百はあるだろう竹簡の中からある一巻を取り出した。
「これは私が伝国の至宝・
大学者である蔡邕は学識者との交友が広い。また、かつて〝
曹操はその竹簡数巻を受け取った。気のせいかもしれないが、手渡されたその竹簡がずしりと重く感じた。
「ただの宝物ではないぞ。国家を治める力を秘めた天来の至宝じゃ。
盧植の言葉には力がこもっていた。何しろ、それこそ清濁の抗争の鍵なのである。
「なるほど……」
百鬼の事件がまた仙珠に結び付いた。自分の意思とは関係なく、それは否応なしに自分と仙珠とを結び付ける。一年前を思い出す。
曹操がまだ在野にあって、
「それを嗅ぎ回っているお二人が目障りだということですね」
「そのようじゃ」
盧植が渋い顔で頷いた。
「実は、ここに一つあります」
曹操は
「それは……!」
蔡邕がそれを手にとって見た。そして、予期せぬことを
「……ふむ、恐らくこれは
「分気?」
「仙珠とは天地の気が集まり、凝縮して結晶化したものだという。もともとが気であるから、それを分けて、小さな玉を作ることもできるそうだ。いうなれば、〝小仙珠〟だな」
「そなた、これをどこで手に入れたのじゃ?」
驚いた様子の盧植が尋ね、曹操は一年前のことを話した。
「これはすでに力を失っておる。もう妖術のもとになることはなかろう」
蔡邕がそう言って、その赤き玉を曹操に返した。
どうして朱震が殺されずにいたのか。それは陳逸が殺されなかったように、仙珠の行方を知りたいがためだ。王甫も百鬼を使って、その仙珠を探しているのだ。
一年前と同じように、本人の意思とは関係なく、曹操は図らずも騒乱の中心に身を投じることになった。いや、これも自らの行動が引き寄せた天命と言えるのかもしれない。
五仙珠はその通り、五つ存在する。それぞれ
以前袁閎から聞いた話では、党錮事件が起こるきっかけとなった竇武と陳蕃による宦官一掃クーデター未遂事件の際に、二人は仙珠を手にして天の加護を
『一つは王甫が確実に持っているとして……』
曹操は手にしたすでに力を失ったただの
蔡邕邸襲撃を阻止した時に捕縛した百鬼の男の一人がしゃべった事実。
その男によれば、三年前に王甫は宝珠と百鬼を所有するに至ったという。
そして、これは確かなことだが、袁家が持っていた一つを王甫は百鬼を使って奪った。七年前の竇武・陳蕃事件の際に王甫の手に仙珠が渡ったとするなら、王甫がすでに複数の仙珠を所有している可能性が高い。さらに権勢を
ベッドに腰かけていた曹操は手にしていた竹簡を丸めて放り投げた。その竹簡はガシャッと音を立てて床に落ち、書簡の山の一部と化す。
曹操の自室も蔡邕のそれと似たようなもので、書物のコレクションで
ただし、今、床一面に散乱している竹簡は全て祖父が遺したものだ。曹操はまた新たな竹簡を手に取った。
曹操は祖父の遺した書簡を片っ端から調べていた。曹家の屋敷は蔡邕の屋敷の数軒先にあった。曹操の祖父・
曹騰は
曹騰に認められて名を挙げた一人として、
种暠は
その後、种暠は
「――――今、私があるのは全て曹騰様のお陰である」
そう言って、曹騰への感謝を忘れなかったという。
曹騰は五仙珠を手中にしたという濁流派大将軍・梁冀の時代まで、宮中の要職にあった。そして、最後の仕事として梁冀誅殺計画を陰から支援し、その死を見届けると、安堵したかのように世を去った。
清濁入り混じる混沌の政権の中を時には清流に泳ぎ、時には濁流に潜り、
曹騰が遺した遺産は莫大な資産だけでない。名声、人脈、そして、遺言……。
祖父の立場であれば、多少でも五仙珠のことを知り得たに違いない。
曹騰は曹操が幼少の頃に他界しており、それを直接尋ねることはできないが、書物に手掛かりを遺しているかもしれないと思ったのだ。曹操は素早く目を動かし、また書簡を放り投げた。
『ここにはないか……』
賢明な人間なら、大切なものを濁流派の
もしかすると、故郷の屋敷のどこかに残しているかもしれない。
『そう言えば、成人したら渡すものがあると言っていたな……』
いつだったか、父がそう言っていたことを思い出した。祖父は自分の誕生を我が家の宝だとこの上なく喜んでいたと聞く。そんな祖父が遺したものも宝であるかもしれない。官職に就いている今は帰郷できない。父は官職を辞して帰郷中だった。
『自由に動けないのは、不便なものよ……』
曹操は蔡邕の書は放り投げずに、腹の上に置いて寝ころんだ。
『五仙珠が濁流派に渡れば、汚れた世に。清流派に渡れば、清らかな世に……か』
曹操は決して多くはない情報であっても、頭の中を整理して、的を得た結論を導き出す。
『少なくとも、一つは濁流派の手にないということになるな。清流派の大物を片っ端から拘束して尋問しているところを見ると、袁閎のような清流か混流の誰かが秘匿していると考えていいだろう。だが、そうだとして、ほとんどの清流派がそれを知らない。特に王甫は独自に百鬼を使い、躍起になって探しているということは曹節とは競食関係にある……そんなところか』
欲深い連中が利権をめぐって
『鬱壘の力か。仙珠を得れば、そんな力も手に入るのか?』
曹操は蔡邕の言葉を思い出して、それに続けて百鬼の連中が駆使する異能の力を思い起こす。陳逸救出の際にも、張譲が不思議な能力を使った。蔡邕の文書にはそんな不可思議な力の具体的情報はない。曹操の想像力はそれを補うように加筆していく。
『仙珠を得た者は天運だけでなく、人智を超えた何かしらの特別な能力も得られる……』
史書を
この時代、様々な天象と人間の行為は相応(天人相応)すると解釈された。
厳密には、皇帝や
単颺は
橋玄はこの事象について、どういう
自分がその実力を認めた傑物。曹操孟徳。沛国譙県は曹操の出身地なのである。
その曹操の故郷に向かって進む荷馬車があった。
盧植と弟子の公孫瓉・
劉備だけは曹操の指示で曹家の屋敷に留まった。別に拘留延長措置というわけではない。曹操は自分の代わりに動いてくれる人物を欲していた。
ちょうど劉備が盧植の塾を卒業することを知り、曹操が特に盧植に頼んで、その身柄を借り受けたのである。本人の了承も得た。曹操は朱震を助け出す際の劉備の義侠の態度が気に入ったのだ。まだ若年だが、そこがまた濁流派の目をそらすのに都合がよい。
「――――玄徳をいたく気に入ったようじゃの」
曹操の申し出に盧植は顔を緩めた。
「――――はい。義に
「――――同じ舟に乗ってしまったことじゃし、本人が望んでおるから仕方ないが、大事に育てたい。くれぐれも無茶な
「――――心得ております」
全ては朱震を逃すための段取りだった。まずは重傷を負った朱震を治療しなければならない。幸い曹操の故郷の譙県には名医がいた。
その名医は
まずは朱震を譙県に運んで華佗先生に診せる必要がある。その任務に劉備を充てたのである。同時に左目に重傷を負った夏侯惇も帰郷させた。夏侯惇は大したことはないと
「――――その必要はない。オレに百鬼の尻尾を掴まれたと知ったら、王甫だって不用意には動けない。疑惑の目を向けられた中で強硬に動いても、自分の首を絞めることになるだけだ。それは王甫だって十分分かっているだろうからな。しばらくは王甫も百鬼もおとなしくするだろう。その代わりに動きそうなのが王吉だ」
王吉は
実際、王吉が洛陽の屋敷を引き払って以来、百鬼の被害は出ていない。息子の栄転先を沛国にしたのは、黄龍が現れたという報告に仙珠の存在を感じ取ったからにほかならない。今度は地元で百鬼が暴れるかもしれないのだ。
「――――オレは必要なところに必要な人材を置く。今は朱震殿の安全確保が最優先だ。沛には王吉がいる。
夏侯惇もそう
逃避行の馬車の御者を務めることになった劉備は、また背後の朱震の様子を窺った。
「もうすぐ
馬上の片覆面の男、夏侯惇が劉備に言った。夏侯惇は曹操の書簡を携えていた。
清流派の救済に奔走する
その書簡を清流派ネットワークのアクセス・ポイントの一つとなっている
劉備も御者の他に役目を与えられていて、それは曹操の父から曹操が求めるものを受け取って、洛陽に持ち帰ることであった。
仙珠については何も知らない劉備であったが、彼もまた、知らず知らずのうちに乱世の道に踏み出していた。
年が明けて、熹平五(一七六)年。
朱震を陰謀の都から解放して一カ月余りが過ぎたところで、劉備が洛陽に戻ってきた。劉備が持ち帰って来たものは祖父が書き遺した遺書だった。その書簡には封がなされていて、曹操はそれを受け取り、劉備を奥座敷へ伴った。
曹操には祖父の遺書や朱震の現状より気になっていたことがあって、早速それを尋ねた。
「ご苦労だった。ところで、
「はい」
「どんなことを言われたか聞かせてくれ」
「子将先生は私の目を
劉備は盧植に学んだせいで、高尚な人物のことをもれなく「先生」と呼んでしまう。
「ほほぅ、それで?」
曹操はその言葉に大いに興味をそそられ、楽しそうな笑みを浮かべて身を乗り出した。
「私は有変無形の水の
「ハハハ、それは面白いな」
曹操は純粋に会話を楽しんでいた。大きな屋敷ではあるが、数人の使用人以外は誰もいない。皆年寄りで気軽に話ができる相手が不足していた。そこに劉備が共通の話題を携え帰ってきた。
実は劉備らを許劭邸に立ち寄らせるついでに劉備に紹介状を持たせたのは曹操本人である。もちろん劉備を許劭に紹介して、彼の人物評価をさせるためだ。
「昔、オレは赤だと言われた。許子将は人を色に例えるんだな」
曹操は劉備に
赤と青。火と水。対極なのだ。相反する気質だからこそ無意識に引かれていたのだ。いや、表裏一体の運命共同体と言った方がよいかもしれない。
「私も曹部尉の話を聞きました。子将先生がおっしゃるには、青なる者は仁を生じて心有り、赤なる者は太陽にして天の正色――――だそうです」
「そうか。さすが許子将の眼は天下一品、見事なものよ」
砂漠のオアシス。巨大な鯉。どちらも得ようとしても得難く、得れば人々に恩恵をもたらす。劉備はそれだけ価値のある珍貴な人物ということだ。
「そうですか。子将先生の言葉は少々難し過ぎます」
「玄徳は仁義を重んじ、信用が置ける人間だということだ。さぁ、座ってくれ」
聞かれれば応えるが、劉備は自ら多くを話す方ではない。
孔子曰く、
劉備は普段は口数が少なくおとなしい。が、話をしてみると、真っ直ぐで意志の強さを感じられる。許子将もそれを感じたことだろう。
曹操はしばらく劉備との会話を楽しんだところで、朱震の状況を聞いた。
朱震は華佗の家に匿われ、容体も快方に向かっていると聞いた曹操は、
「よし。では、
曹操は朱震のことを「風侯」と呼ぶようになった。本名は伏せた方がよい。
劉備は言われた通り、翌日また洛陽を発った。盧植から仁義についてよく教え込まれていただけに、正義の行為と感じたことには無意識に情熱を燃やせるらしかった。
仁義を行動で体現できるという点では、劉備は盧植門下でも最優等生である。
曹操が睨んだ通り百鬼は息を潜め、この一年、都で百鬼関連の事件は起きなかった。曹操は時折蔡邕邸に出入りして密かに五仙珠の新たな情報を求めたが、蔡邕の書に書き記された以上のものを知り得ることはできずにいた。それも無理はない。
国の秘宝である五仙珠の情報を探ることは国家機密を探るのに等しいのだ。祖父が遺した書簡も主に人生の訓戒を記したもので、曹操が期待するものではなかった。
ただ最後の〝天命来たらば、我に問え〟という一行が脳裏に残った。
曹操はすっかり暇になった務めの
宝珠に関する情報は何も都の宮殿の奥に眠っているとは限らない。五仙珠が五岳に
そんな時、気がかりな情報がもたらされた。
曹鸞、
曹一族は曹騰の大出世により、栄華富貴を手にしたと言ってよい。故に官職に就く際には曹騰の屋敷を訪問して赴任の挨拶をするのが通例となり、曹騰死後は曹騰の墓を参った後で屋敷を訪問するのが慣例となった。その屋敷の主とは曹騰の養子となった
大おじいさん――――もしかしたら、曹操も一度くらい会ったことがあるかもしれない。曹操の頭におぼろげに思い浮かんだのは背筋をしゅんと伸ばした謹厳な老人の姿だったが、それが曹鸞だったのか確信はない。が、引っ掛かったのはそんなことよりも、その罪状だ。聞けば、曹鸞は党人を
『奸計を感じるな。これはよくよく調べてみる必要がある』
蔡邕ら清流派の官僚たちも曹鸞を弁護する準備を始めた。ところが、それが整わないうちに曹鸞は死刑に処されてしまった。都の洛陽に到着するのを待たず、刑が執行されたという。早すぎる結末と言ってよい。十分な取り調べなど行われずに処分が断行されたのは、濁流派の
実はこの時の
司隷校尉は首都圏の警備長官である。管内の犯罪に対する逮捕処罰権を持っている。
槐里県は長安の西で、司隷校尉の管轄に入る。曹鸞が朝廷を
「正義の士を助けてやれなかったのは、残念なことよ」
間もなく曹鸞が願ったのとは正反対の触れが出た。党人の一族郎党、門生、故吏に至るまで党錮処分を拡大したのである。官職にある者すべてを対象に再調査が行われ、官職に就いていた者は
この件に際する王甫や曹節らの真の狙いは、かつての大宦官・曹騰の一族であろうと容赦なく罰すると曹操に見せつけることであった。清流派と接触し、怪しい動きを見せる曹操に圧力をかけるためだ。
ある日、曹操の屋敷に〝
『フン、なかなか
『
直訳すれば、カマキリは自分に近付くものに対しては相手が車の車輪のような巨大なものであろうと鎌を振り上げて向かっていく――――となるのだが、これは
それを
先の曹鸞の無謀を言ったものでもあり、これ以上あれこれ嗅ぎ回るな、という曹操に向けた警告でもあった。だが、曹操はそんなものは意にも介さない。
自尊心を傷付けられ、大祖父を殺された恨みも相まって、逆に
夜間外出禁止令を破った有力宦官・
その男は権力と身分を盾に曹操を威圧した。曹操はそんな脅しに屈せず、男の犯罪を一つ一つ数え上げていった。城内で禁止されている馬車での
「――――法の執行は
そして、毅然と言い放って、刑を課した。その男は背中を五色棒で打たれている途中、それに耐えきれずに死んでしまった。当然、蹇碩は怒り心頭に発した。
蹇碩は恨みを募らせて、これを王甫に訴えた。
「図に乗りおって。
大長秋とは宦官の最高位である。曹操の祖父・曹騰はかつてその位を極めた大宦官だった。王甫もその下で働いたのである。自分と百鬼の関係に感付いたかもしれない曹操をこのまま放ってはおけない。蹇碩は王甫の部下である。その叔父を殺したのは曹鸞殺しの仕返しにほかならない。それだけではない。これは相手がどんな権力者であろうと恐れないという曹操の大胆不敵な意志表明であり、自分たちに真っ向から対抗することを
「今日の権力者が誰であるか、思い知らさねばならんな……」
王甫の蛇のような目が妖しく光った。
時に
「部尉の法は厳罰に過ぎる。それを不満に思っている者も多い」
「百鬼事件は未解決です。警備を厳重にし、刑法も厳格に行わなければ、百鬼がまた暴れ出すでしょう。
百鬼が皇后の宮殿を襲うなどあり得ないのだが、そう口実を付けられては返す言葉もない。現皇后の
永安宮は北部尉が管轄する北部エリアにあった。王旻はその永安宮の車駕を管理する永安
「……そ、その皇后様が蹇公のことを憂いておられるのだ」
「ああ、蹇碩殿の叔父のことですか。そう言えば、嘘か真か皇后様に夜間通行の許可をいただいたと言っていましたね。ですが、許可証はお持ちでなかった」
「これが皇后様が与えられた許可証だ。馬車の中に落ちておった」
王旻が許可証をひけらかした。蹇碩の叔父は永安宮から出て来て夜間通行したのである。
「許可証を所持した者を殺すとは、皇后様に逆らったも同じだぞ!」
「それをお見せいただけますか?」
曹操はその許可証を受け取って確認した。確かに蹇碩の叔父に授けた内容になっている。夜禁令違反で曹操が蹇碩の叔父を捕えた時、所持品その他を検査した。馬車もくまなく調べたが、こんなものは出て来なかった。
「……これは困りました。どうすればよろしいでしょうか?」
脅しに屈した若造を見て、王旻はほくそ笑んだ。
「自ら辞職を申し出よ。そうすれば、あとは私が穏便に済むように手を打ってやる」
蹇碩の叔父に夜間通行の許可が出ていると、わざと夜禁令を破らせる。そして、拘束された後で偽の許可証を出すのだ。後出しだろうが構わない。皇后の許可証を所持しているのに、それを無視して拘束した。そう訴えて内輪で処理すればよかった。
しかし、証言するべき当人が殺されてしまうとは想定外だった。そのため、王旻自身が出向く羽目になった。
「いえ、罪を犯したというのであれば、
「な、なに……?」
焦る王旻、神妙な面持ちの曹操。心の中で勝利の笑みを浮かべる。
王旻は言葉を失った。自分の命運も失ったのだ。曹操は彼らの奸計を見抜いていた。ただの若造なら足を救われていたことだろう。しかし、曹操の祖父は大宦官であり、政界の様々な情報を書物に残してくれていた。陰謀渦巻く政界を生き抜くには、あらゆる事態に対処できるだけの知恵と権謀術数が必要であることを祖父は孫に伝えたかったのだ。
通常、皇后が独断で証書を発行することはないのを曹操は知っていた。
現皇后の宋氏の兄は
祖父・曹騰が遺した莫大な財産は金銭や土地だけではない。長年かけて築いた人脈も無形の財産なのである。この婚姻関係によって、曹操も皇后の関係者に連なることになるので、許可証が万一本物であったとしても、死刑は免れることができよう。
後日、許可証は偽物だと判明した。皇后を巻き込みかねない偽書の作成は当然ながら大罪とされた。曹操をはめる奸計のつもりが、逆に王旻自身を殺すことになった。
王旻は公文書偽造とその他の罪により、獄死した。王甫は何とか王旻の単独犯行ということで追及をかわし、連座を免れた。胆を冷やした王甫はすぐに手を打った。
奸計で曹操を排除することが難しいと悟ると、一転、昇進させることにした。
王甫の謀略だ。地方官に栄転させることで都から追い出したのである。
「しばらくは外の空気を味わうとするか」
新たな任地は東郡
当の曹操は洛陽を去ることに何の未練もなく、都での一進一退の攻防は暫しの休戦となる。
三国夢幻演義 清濁抗争篇 第三章 百鬼夜行 光月ユリシ @ulysse
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