其之五 月下の狼

 宦官の陰謀渦巻く暗黒の牢獄。曹操そうそう不在の救出作戦。その知恵と武勇はこの男に託してある。趙忠ちょうちゅうが言い放った言葉を聞いて、

『あの頭脳は我が一族の宝かもしれない』

 曹操の代理を務める夏侯惇かこうとんは今になって思った。

 百鬼を装って北寺獄に入り、朱震しゅしんに接近する。そして、百鬼と宦官との関係をつかむ……。夏侯惇らは替え玉だ。

 曹操は本物の百鬼三人を洛陽獄に勾留こうりゅうしたままにしていた。三人が北寺獄から脱出できない場合は、手違いで百鬼でない罪人を移送してしまったと申し出るつもりであったが、その必要もないようだ。監房は開け放たれ、三人は解放された。目的の人物も救出した。後は、この牢を抜け出すだけである。今のところ、曹操が書いた筋書き通りに事は運んでいる。

 公孫瓚こうそんさんの鉄拳を喰らって吹き飛んだ宦官・趙忠は濁流派の首魁・王甫おうほの差し金だ。百鬼を追求するどころか逃亡の手助けをしている。これではっきりした。

 曹操がにらんだとおりだ。濁流派と百鬼は繋がっている。そして、その狙いは清流派士人の朱震。この百鬼夜盗事件の背後には清流派と濁流派の政争、清濁抗争が隠れている。

「ちょろいもんだぜ。これで破門はなしだ」

 公孫瓚が牢獄の地下通路を松明たいまつで照らした。趙忠以外に敵は見当たらない。

「急いで出ましょう。一刻も早く朱公を医者に見せなければ」

「おう。付いてこい、玄徳げんとく

 松明をかざして進む公孫瓚に続いて、朱震を背負った劉備りゅうびが地下牢からの脱出を図る。が、王吉おうきつが用意した障害がそれを黙って見過ごすはずもなかった。

「ちょっと待ちな。エモノを横取りする気かよ?」

 不意に暗闇の中から低い声と猛獣のようなうなり声がした。向かいの監房の中からである。

「おっと、すっかり忘れていた」

 夏侯惇が暗闇を睨んだ。そこには多分、本物の百鬼がいる。

「――――何のために下手な芝居をうって、わざわざ百鬼の一人を北寺獄へ送り込んだのか。それがどうにも分からん。しかし、陳逸ちんいつの時とよく似ている。朱震の口から何かを聞き出したいのだろうが……」 

 曹操が夏侯惇を百鬼の一人として北寺獄へ送り込む前に言っていたことだ。宦官たちが党人をただ憎むのなら、すぐに殺せばよいだけの話である。

 ところが、陳逸にも朱震にも執拗に尋問と拷問を繰り返しているものの、殺さずにいる。そこに何か秘密がある。

『それは仙珠と関係があるのは間違いない』

 部隊を率いて北宮城外で通りを封鎖し、門前で待機する曹操は頭の中で断定した。

 過去に袁閎えんこうから聞いた、清濁の抗争の裏にある伝説の宝珠。

『そして、仙珠の力は妖術のような形で発揮することもできる』

 張譲ちょうじょうが放つ火の球を曹操はその目で目撃している。

「――――百鬼には超人技を持った奴らがいる。それと関係あるかもしれんな」

 蔡邕さいよう邸で曹操は人間技とは思えない俊敏さと跳躍力を持った男を追跡した。

 屋敷の防衛に残った夏侯惇の一隊は数人の賊徒と対峙したが、その内の一人は頭に猛牛の角を生やし、やはり、人間技とは思えぬパワーで襲いかかってきた。

『あいつか?』

 夏侯惇がそいつを思い出したが、どうも違うらしい。

 公孫瓉が慌てて唸り声のした監房に松明の明かりを向けた。炎が闇を照らした。

 劉備はギョッとした。闇の中からヌッと手が現れ、格子こうしを掴んだ。異様に毛深い手と太い指。その指先から突き出た鋭利な爪。

「外はすっかり夜のようだなァ。鼻がくようになってきたぜ……」

 今度は格子の間から犬のような長く突き出た口がのぞいた。その上の鼻がクンクンとまだ獲物の臭いを確かめている。

「もう十分エモノのニオイを覚えたからいいけどなァ、エモノを仕留める興奮を奪うんじゃねェよ」

 そして、それは鋭い牙を見せつけながら、人の言葉をしゃべる。

「ふん、今度は犬か。犬ならおとなしくおりの中でお座りしていろ」

 すでに百鬼のあやしげな術を体験していた夏侯惇はそれを見ても動じない。

 肝を座らせたまま、悠然と言い放った。檻の鍵はこちらにある。

「お、お前たち、王甫様を裏切るのか?」

「そいつらはナカマじゃねェ。ニオイが違うぜ」

 檻の中の男はまた突き出した鼻をクンクンと利かせて、趙忠に言った。

「何だと? ならば、さっさと始末しろ!」

「言われなくとも、そのつもりだぜェ!」

 両腕と言葉に力を込めながら、百鬼の男は信じられないことに木製の格子を怪力で突き破り、檻の外へ身を乗り出す。

「まじかよっ!」

 その事態に驚嘆の声を発し、後ずさりする公孫瓉。その手から松明を奪い取った夏侯惇は、

「お前たちは先に行け」

 曹操の代役らしく、やはり、冷静に言った。

「行くぞ!」

 素面しらふの公孫瓉は素直にそれに従い、朱震を抱えるのを手伝って、劉備をかした。

「待て!」

 倒れ込んだままの趙忠が公孫瓉の足にすがりつこうとしたが、

「黙ってろと言っただろ!」

 今度は公孫瓉の蹴りをまともに顎に受けて、白目をいて気を失った。

 一方、夏侯惇は劉備と公孫瓉の気配が遠ざかるのを背中に感じながら、

「百鬼の正体は宦官の犬か」

 松明の向こう、暗闇に隠れる百鬼の男に言った。

「逃げる時間を稼ごうたってムダだぜェ。お前らのニオイは全部覚えたからなァ」

 男は余裕の台詞せりふを吐いて、無造作むぞうさに夏侯惇に近寄ってきた。夏侯惇に武器はない。

 何しろ、つい先程まで囚人だったのだ。それとは逆に奴は凶器をその身に有している。夏侯惇は左手の松明で牽制しようとした。が、

「ムダだと言ったはずだぜェ!」

 猛獣の唸り声をあげたその男は松明をぎ払って、夏侯惇に体当たりした。

 強烈な衝撃に夏侯惇の体が吹っ飛んだ。しかし、それを踏ん張って、さらに突進してきた男の顔面にカウンター・パンチを叩き込んだ。確かな手ごたえがあった分だけ油断した。強靭きょうじんな肉体はわずかにぐらついただけで、男は凶暴な牙を剥き出してグルルルッと唸った。

 けものの爪を有す男の右腕が持ち上げられ、次の瞬間、鮮血がほとばしった。

「うおおっ……!」

 夏侯惇は激痛に顔を押えて膝をついた。指の隙間から血がどくどくとしたたり落ちる。

「ウォーゥ! 俺の力はたけおおかみの力だぜェ!」

 獲物に深手を負わせて、百鬼の男は興奮の雄叫おたけびをあげた。

「……なるほど、犬ではなくて狼か」

 左手を左目に当てたまま立ち上がった夏侯惇は血をしたたらせながらも、あくまでも泰然だった。死を恐れてはいない。命を惜しんでもいない。恐れるのは曹操の期待に応えられず、犬死することだ。恩義にそむくことだ。

 夏侯惇はこの一日を確かに囚人として過ごした。

 五年前、師を党人と侮辱した男を勢い余って殺した。相手はからかっただけだ。

 しかし、許せなかった。自分自身をコントロールできなかった。指名手配され、

逃亡の身となった。そんな境遇の自分を曹操は引き立ててくれた。罪人であろうとその才能を買う、と言った。罪をつぐなうだけの功績を立てればいい、と言った。過去に罪を犯しても、それに余りある英名をせた人物はたくさんいる、と言った。

 夏侯惇は静かな牢獄の中で、功績を挙げて贖罪しょくざいすることを、曹操にむくいることを改めて己に誓ったのだった。

「意外としぶといじゃねェか」

「まだ何もやっていない。こんなところで死ねるか!」

 夏侯惇は身をひるがえすと、地下牢の石段を駆け上がって、暗黒の底から脱出した。

 容易に脱獄できたのは、宦官の趙忠が百鬼の逃亡幇助ほうじょのために衛兵を下げていたからだ。

 外はすでに夜のとばりが空を覆っていて、薄い雲が満月を隠していた。夏侯惇は夜陰を利用して、建物の影、さらなる暗闇にまぎれて身を伏せた。傷口からあふれ落ちる血は止まらない。激痛に堪えて、息を殺し、身を潜めた。

「逃げても隠れてもムダだぜェ。血のニオイがプンプンするからなァ」

 台詞が物語るとおり、百鬼の男はじわじわと、確実に夏侯惇を追い詰めるように迫った。

「チッ、鼻の利く野郎だ」

 右目の視界に宮門が映った。門兵はいないようだ。夏侯惇が駆け出る。

 宮門を出ると、劉備と公孫瓉、それと十人ほどの兵士が見えた。曹操が配置した兵だ。夏侯惇が武器をよこせと駆け寄る。

「数を頼んでもムダだぜェ」

 追いすがる百鬼の男。兵の数など問題ではない。武器を向ける兵士たちを無視するように近づきながら言った。猛獣の能力を持つ自分にとっては、奴らは無力な家畜の群れでしかない。あっという間に兵士の四、五人を薙ぎ倒すと、

「ウォオオオーン!」

 百鬼の男は天を見上げて、狼が月夜に吠えるかの如く雄叫びをあげた。

 残りの兵たちは皆、男の異形いぎょうとその咆哮ほうこうに恐れをなして、任務を放り出して遁走とんそうしてしまった。曹操の兵と合流して安堵したのも束の間、劉備は猛獣に追い立てられるように再び朱震を背負い上げて駆け出した。

 顔を血だらけにした夏侯惇は兵の一人が投げ捨てて行った槍を拾い上げながら、

「お前も早く行け」

 その顔を上げて公孫瓉に指示した。公孫瓚はぎょっとして、

「おい、どうしたんだ。その顔?」

「関係ない。さっさと行け」

 そう言われた公孫瓉であったが、意を決したように息を吐くと、夏侯惇と同じように投げ捨てられた剣を拾った。自分に続こうとしない兄弟子を振り返って、劉備が叫ぶ。

公孫兄こうそんけい、早く行きましょう!」

「俺は残る。玄徳は先に行け」

「え?」

 予期しない発言に劉備がうろたえる。また馬鹿なことを考えているんじゃ……。

 しかし、それは違った。素面の公孫瓚はしっかり反省した上で、弟を気遣う言葉をかけた。

「兄の言葉に素直に従うのがていだろ? お前をこんなことに巻き込んじまって悪かったな。玄徳はちゃんと先生のところへ戻れよ」

 自分は破門でも構わない。だが、このかわいい弟は何としても盧植ろしょく先生のもとへ戻さねば。公孫瓉は最後にようやく兄弟子らしく振る舞った。年少者を守るのもまた、人の道だ。

「公孫兄」

「名前を呼ぶなと言ったのはお前だぞ。さぁ、早く行け」

 劉備も置かれた状況をよく分かっている。今は朱震を助けるのが優先事項だ。

 公孫瓚の言葉にうなずくと、再び走り出した。

『公孫兄は大丈夫だ』

 こういう時の劉備の勘は当たるのだ。


 洛陽城下に続く静寂の夜。百鬼の一部を捕らえたとはいえ、百鬼夜盗の事件が万事解決したというわけではない。

 夜禁令は未だ発令中、曹操の部隊以外に人影は見えない。濯龍園たくりゅうえんの木々が強風にざわめき、あたかも異変を告げているようだった。微かに獣の声のような異様な音が風に乗って聞こえてきた。曹操の直感も鋭い。

 上西門付近に兵を配置しているところだった曹操は指揮していた兵の半分にその場の警戒を命じると、自らは半数の兵士を連れ、宮門の方へ向かった。

 その宮門前――――。

「さてと……」

 弟を逃した公孫瓉が剣を一振りして、夏侯惇に近付きながら言った。

「狩りをするんだろ。手伝ってやるよ」

「余計なことを」

大怪我おおけがしてるくせに大口叩くな。お前んとこの隊長は俺の腕を買ってるらしいからな。その期待に応えておくのも悪くねぇ。お前こそ先に行ったらどうだ?」

「舐められたままで行けるか。性分はそう簡単には変えられん」

 夏侯惇はその間にも、服の袖を破いて左目の傷を覆い、左側の死角を確かめた。

 百鬼の男は逃げた劉備と朱震を追うより、目の前の獲物を狩る方を採った。

 余裕の台詞で獲物の意思を確かめる。

「もう逃げねェのかよ。逃げるエモノを仕留めるのが楽しみなんだぜェ?」

 それに対する夏侯惇の返答は、槍の柄の金具をで、トントンと二、三度地面を叩いてからから、ビュン! 槍が鋭く風を切って、穂先が百鬼の男に向けられた。

 武具の柄に付けられた金具のことを〝とん〟という。自分の名と通じるので、夏侯惇は戦闘前になると儀式のようにこれをやる。

「野獣を相手にするんだ。武器くらい使わせろよ」

 沈着を保とうとしていても、煮えたぎる血は簡単には抑えられない。闘争本能。

 左目のうずきが、流れ出る熱い血が、己の中にも獣の本性があることを教えてくれていた。

『頭を冷やしたばかりだというのにな』

 夏侯惇は心の中で自嘲じちょうしてみた。ただし、自嘲できるというのは、まだ冷静な部分があるということだ。ここで闘争本能を全開にしなければ、死ぬ。

「狩られるのはお前の方だ」

 そう豪語して、男に剣を向けた公孫瓉はそれをどれだけ分かっている? 

「ただのカチクじゃねェようだなァ。それならそれで、りがいがあるってもんだぜェ!」

 百鬼の男が狼の雄叫びをあげた。その時、雲に隠れていた月が姿を出して、

 その月光のもと、男の体にさらなる異変が起こった。体中の筋肉がふくれ上がり、全身の体毛が伸びてそれを覆う。顔はまさに狼のごとく変異し、闇夜にあやしく光る眼、き出しとなった凶悪な牙、獰猛どうもううなり声。もはや人間とは言い難い凶悪な姿になった。人狼じんろう

 ゴク。公孫瓉は唾を飲み込んだ。普通の人間なら、このような化け物を目の前にしただけで足がすくみ、心が震え、途端に戦意を喪失することだろう。

「……こ、こいつは本格的な狩りになりそうだな。話の種になりそうだぜ」

 驚いてはいるものの、強がる余裕があるということは、気を凍りつかせていないということだ。その公孫瓉の様子を見て、夏侯惇はそこらの兵士よりは頼れそうだと思った。そして、夏侯惇は左の死角に公孫瓉を置いたまま、

「でかくなったのはいいが、隙だらけだぞ!」

 気合いの一閃で人狼の心臓を突いた。しかし、人狼は素早い身のこなしで身を屈してそれをかわし、四つんいの姿勢で夏侯惇に突進してきた。夏侯惇も寸でのところでかわし、狼の凶悪な口が空をんだ。

「このバケモンめっ!」

 回り込む夏侯惇を不気味に光る眼で追う人狼の背後から、公孫瓉が斬りかかった。

 剣が胴体を斬り払ったが、長い体毛と強靭きょうじんな筋肉に阻まれて、肉を斬り裂くまでには至らなかった。だが、それは人狼の注意を引くには十分だった。人狼は今度は公孫瓉に狙いを定め、向き直った。そして、一吠えした後、公孫瓉を噛み砕こうと突進した。公孫瓉も人狼の直線的な攻撃を横に飛んでかわしたが、今度は二本足で立ち上がった人狼が腕を振って、その鋭利な爪が公孫瓉を追いかけた。

「こいつ、器用な野郎だぜっ!」

 剣でその爪を防ごうとしたが、剣もろとも吹き飛ばされてしまった。激しく地面を転がる。立ち上がる間もなく、再び人狼が突進して迫った。今度は逃げている余裕はない。

 公孫瓉は折れた剣先を人狼の脳天目がけて投げつけた。しかし、不十分な態勢からの、そんな付け焼刃やきば的な攻撃では化け物には通じない。剣先は人狼のひたいに命中したが、頭骨を貫くどころか、肉に突き刺さる前に勢いを失って落ちてしまった。

「なまくらなのを使わせやがって!」

 公孫瓉があわや人狼の餌食えじきになろうとしたその瞬間、正面に回り込んだ夏侯惇の憤怒ふんぬが込められた槍の一撃が人狼の左目に深々と突き刺さった。

「お返しだ、受け取れ」

 夏侯惇が双方の勢いで真ん中からポッキリ折れた槍の柄を人狼に投げつけ、平然と言う。

「グアアッ……!」

 人狼は闇夜に吠えながら、後ずさりし、両手で槍を引き抜いた。血が滴り落ちて、夏侯惇と同じ傷を負った人狼が残った片目で死に損ないの相手を睨みつける。

 闇夜にその眼光が妖しく光った。ところが、その男、夏侯惇はまるで気力も体力も取り戻したかのようだった。

「余り俺を舐めるなよ。まだやるんなら相手になってやるぞ」

 夏侯惇は散らばっている槍をもう一本拾い上げて、地面にトントン、ビュン!

 逆に人狼を威嚇いかくした。すでに左目を覆う布は真っ赤に染まっていた。心臓が鼓動するたびに傷が激しく疼く。呼吸のたびに激痛が走る。それでも、意識を集中して残った右目で獣を睨む。その時、門外の路地から兵たちの喚声が聞こえてきた。

 曹操の部隊だ。逃亡した兵士が知らせたか、劉備が合流して知らせたに違いない。

 この状況の変化に、ついに人狼も自らの狩りの中断を決意した。

「グルル……! オマエたちのニオイは忘れねェ。あとで必ず始末してやるぜェ」

 そんな台詞を吐き捨てて、路地へ逃走した。

 門外では出遭いがしらに現れた化け物に曹操たちの兵は肝を冷やし、

「オオオゥーンンン!」

 兵士たちを不気味に光る眼で睨みつけた後、闇夜に向かって咆哮したのが、完全に兵たちの気勢を削いだ。そこに威嚇の唸り声を付け加えたものだから、腰を抜かしてへたり込む兵が相次いだ。先の二人に比べたら、狩る価値もない。

「あれは百鬼の幻術よ。恐れずに射よ!」

 その人狼を百鬼と見抜き、凍りつく空気を打ち破ったのは、部隊の長・曹操だ。

 曹操の号令が兵たちの呪縛を解いた。人狼が走り出す。兵たちは巨大な狼の突進を阻もうと弓を射かけたが、怯えた矢では全く歯が立たず、容易に突破を許してしまった。だが、それは曹操の誘導だ。曹操は慌てず騒がず人狼を追った。

 北宮から一番近い城門が北の玄関・夏門かもんである。夏門は固く閉ざされていた。

 人狼はすぐに夏門に到達したが、門衛たちが剣を突き出して門前を封鎖した。

 暗くてよく見えないのが幸いしたようだ。人狼が止まった。止まった理由。

 鼻を左右にひくつかせ、何かをいだ。エモノの臭いだ。劉備がまたギョッとした。光る単眼が闇に隠れていた劉備たちの方に向けられたのだ。

 劉備は朱震を壁に寄りかからせ、自らはその前に立った。武器はないが、義侠の心はある。人狼がにじり寄った。劉備は逃げない。その数秒の勇気が命を救った。

 曹操の部隊が追いついたのだ。

「もう逃げ疲れたのか? 逃げる獲物を追って仕留めるのが狩りの醍醐味だいごみだぞ」

 人狼が夏侯惇に吐いた台詞を発して挑発し、曹操は後続の兵士たちに人狼を包囲させた。挟撃の態勢。プレッシャーを与えられれば、それでいい。

「勝負はついてねぇぞ、この野郎!」

 背後からはさらなるプレッシャーが迫ってきた。公孫瓉だ。夏侯惇も消耗した体力を振り絞るようにして追いかけてきた。人狼が肩で息をしながら、それらを見渡す。

 こいつらは何なのだ? 恐怖に動じずに立ち向かってくる。エモノを仕留めるどころか、仕留められそうになるとは。人狼が振り返って、グルルルッと唸った。

 城壁に上がる階段を駆け上り、その上に立つと、人狼はまた曹操を振り返った。

 そして、今度は満月を背にして、

「ウォオオオーーーーンッ!!」

 遠吠えして今後の目的を告げた。曹操はそれを全身の感覚を研ぎ澄ませて聞いた。

 獣の言葉だ。もちろん何を言っているか分からない。だが、それが自分に対する挑発であることは分かった。怪しく光る単眼で曹操を見る。何と言ったか分からなければ、それまでだ。

 曹操もそれに応えて鋭い眼光を送りつける。百鬼は必ず壊滅させる。お前も含めてだ。無言。意識の交錯。

「負け犬の遠吠えってやつかよ!」

 隙を見逃さず、公孫瓉が矢を放った。それと同時に人狼は城壁の外へ飛び下りた。

 普通の人間なら、死ぬか重傷を免れない高さにもかかわらず。前夜とは違い、矢は獲物に命中せずに、天に輝く満月目掛けて虚空こくうを飛んで行った。

 曹操は開門を命じた。部隊を率いて追撃に移る。劉備も曹操に言われた通り、朱震を抱えて夏門を出た。公孫瓉も続く。百鬼追撃のどさくさに紛れて陰謀の都から朱震を脱出させるのだ。

 悪を憎むこと風の如き朱伯厚はくこう、義を貫くこと水の如き劉玄徳――――。

 劉備は少年の体で必死に清風をはらむ男を背負った。衰弱した朱震の体は風のように軽い。しかし、この御仁が負っている重いものをその背に感じ、走った。

 今や門籍の回復よりも、この御仁を助けることが劉備の中で大きな比重を占めていた。まだ若年の劉備の心に、早くも強い義侠の心が芽生え始めていた。

 公孫瓉の方はと言えば、獲物を狩るのに執着してか、官兵と一緒になって人狼を追撃した。

 曹操は冷静だった。朱震救出作戦は成功したのだ。再び清流を取り戻した。

 狼一匹を山野に逃がしたところで、どうということはない。あれは他に任せればよい。

 百鬼事件に隠された真実を見抜く。敵の本陣は百鬼の背後にある。そこを攻め落としてこそ曹操孟徳の本領発揮だ。


 一夜明け、蔡邕邸の小さな客間で師と弟子たちが話していた。短い外回廊の先にある盧植ろしょくが間借りしている部屋だ。部屋にはまだ冬の朝の冷気が満ちているのだが、呼び入れられた二人はそれを感じる余裕もなく、寒さではなく緊張で身を固めて、じっと師の言葉を待つ。

「全く無茶をしおって」

 酒の入っていない盧植の声のトーンは低く、厳しいものではなかった。安心した劉備は、

「申し訳ありません。賊が脱獄しようとして、それに巻き込まれてしまったのです」

 打ち合わせ通りに釈明した。

「……ま、曹部尉に身を預けたのはわしじゃからな。わしにも責任がある。偶然が重なったとはいえ、朱公が助け出されたのは不幸中の幸いじゃった。とにかく皆無事でよかったわい」

 盧植は胸を撫で下ろした。曹操から報告を受けた内容は事実とは少し違う。

 その報告では、劉備たちが朱震を救ったのは偶然の出来事となっている。

 劉備と公孫瓉は部尉が管轄する洛陽獄に送られたが、蔡邕邸を襲撃して捕えられた百鬼の一味と間違えられて北寺獄に移送された。そこで他の百鬼が脱獄しようとした際の混乱に乗じる形で、朱震を助けて脱出した。その後、曹操の手引きもあり、皆無事に逃げおおせた――――と、こんなところである。

 劉備と公孫瓉は事前に曹操と口裏合わせをしてある。わざと危険なまねをしたと知れたら、反省心ゼロと受け取られかねない。

「私たちは牢獄の中で、先生の言いつけを守っていれば、こんなことにはならなかったと至極反省致しました。……それで、先生。あの、破門の件についてですが……」

 公孫瓉がまた起死回生を図ろうと、盧植の顔色をうかがった。

「破門? 何のことじゃ?」

 公孫瓉は盧植がとぼけていると思ったが、破門など言い渡していない当の盧植は何のことやら分からない。劉備が身を乗り出して聞いた。

「先生、私たちはまた塾で学びたいのですが、よろしいですか?」

「おお、そのことじゃがな……」

 この二日で弟子たちが賊の襲撃に巻き込まれたのは三度目だ。これは蔡邕とともに自分が濁流派の暗殺の標的になっていることを示唆しさしている。それに弟子たちが党人の朱震と関わったとなれば、もう一刻の猶予もない。これ以上、弟子たちを濁流のうずに巻き込むわけにはいかない。決断の時だ。

「もう戻らずともよい」

「ええっ!」

 二人の驚き様は盧植の方がびっくりするほどだった。それはそうである。二人からすれば、話が違うのだから。何のためにあんな危険を冒したのか。

「実はの、塾を閉めることにした。じゃから、お前たちは晴れて卒業ということじゃ」

「え、どうしてですか?」

 劉徳然りゅうとくぜんがさも残念そうに訳を聞いた。一人で過ごしていた宿からこちらに呼ばれていたのだ。真面目な学生への盧植の配慮である。

「就官の話が来ておってな。それを受けようと思うておる」

「それはめでたいお話ですね。おめでとうございます、先生」

「……そ、そうですか」

 素直に師を祝福する門弟と溜め息とともに体を落とす問題の門弟二人。

 当然ながら、塾の閉鎖を落胆しているのではない。予期していなかったものの、とりあえず胸を撫で下ろせる理由を聞いて、力が抜けたのだ。卒業ということなら、何ら問題はない。

「間もなく年の暮れじゃ。きりがいいからの」

 盧植は弟子たちを危険に巻き込まないようにするためには、私塾を閉鎖して洛陽を離れた方がよいと判断したのである。ちょうど地方官である九江きゅうこう太守の就任要請が来ていたので、それを引き受けることにしたのだ。己の身を守るためにも、今は都を離れていた方がよい。ただ、廬江ろこうで起きた反乱が隣郡の九江郡にも波及しており、不穏な状況にある。

 鎮圧にも施政にも過失があれば、濁流派に付け入る口実を与えることになるので、決して安泰というわけではない。

「ところで、最後の課題はちゃんとやったか?」

「はい、先生」

「どれ、聞かせてみよ」

 劉徳然は明朗な返答で、最後の宿題チェックに応じた。石経せきけいの経文をそらんじてみせる。慌てたのは後に控える劉備と公孫瓉だ。購入した写本はもうない。内容を一顧いっこたりともしていない。石経の一字一句さえ覚えていないのだから、もうどうしようもない。

 ズルを行えば天罰が下る。劉備も公孫瓉も盧植の雷が落ちるのを待つしかないのは、自業自得以外の何物でもない。

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