其之四 陰謀の牢獄
洛陽の住民が息を潜める夜がまたやってきた。
そんな中でひそひそと話す声があった。
「寒ぃな」
「……」
「寒すぎるぜ」
「……」
「酒がなきゃ、死んじまうぞ」
「……あるわけないでしょ。牢獄なんだから」
狭く暗い地下牢。冷たい
「まだ怒ってんのか?」
「当たり前ですよ。先生の塾を破門になったなんて、母に合わす顔がない」
氷のように冷えた石壁からできるだけ離れて、湿った
「悪かったよ、
公孫瓚は弟が泣いているのかと勘違いして謝った。公孫瓉は劉備の向かいの監房に入れられていたが、暗闇のせいで兄弟子が本当に謝罪の態度をとっているのか劉備には分からなかった。二人は相変わらず、闇の中にいる。
「名前を呼ばないでください」
「なぁ、いい加減に機嫌直せよ。俺は将来、全国に名を
「そうですか」
「ああ、任せとけ」
どこまで能天気なのだろう。劉備は
「まずは
静寂の地下牢に公孫瓚の声だけが
他にも囚人はいる。だが、口を開く者は皆無で、ここの囚人はどこか雰囲気が違う。まるで存在しないかのように息を殺している。いや、心が
「ところでよぉ……あの部尉、本当に手を打ってくれてんのか?」
しばらく続いた公孫瓚の独白が終わり、洛陽北部尉・
「そういう約束です」
「おーい、聞いてるか? お前の隊長はちゃんとこっから出してくれんだろうな?」
公孫瓚は必要以上に声を張り上げて、劉備ではなく奥の監房にいるはずの男に尋ねた。しかし、応答はない。
「聞こえてねぇのか? それとも、死んじまったのか? 生きてたら、返事しやがれ!」
「やめてください。どのみち待つしかできないんですから」
公孫瓚の作り出す騒音に、
「でもよ、これ以上待ってたら、本当に凍死しちまうぞ」
「信じるしかないでしょう。それとも他に何か手があるんですか?」
「いや……」
「だったら、分かっていますね? その時を静かに待ちましょう」
「分かったよ」
それっきり二人は黙り込んだ。ただ待つしかないのだ。そして、やるしかない。
劉備と公孫瓉は〝
つまり、黄門とは宮中にある黄色に塗られた門のことであり、その門をくぐることができる宦官の別称でもある。
黄門を冠した役職は数多くあり、宦官たちはそれぞれ黄門の役職に就いた。
例えば、あの〝
また、漢代で〝
洛陽には宮城が南北二つあり、北宮にあるのが北寺、つまり、黄門北寺獄とは宦官が管轄する宮中の特殊監獄である。通常、北寺獄は宮中内で起こった案件の容疑者を収監する。主な対象は宦官や宮女だ。しかし、それはもはや名目に過ぎず、近年は党人関係者の専用監獄のような状態になっていた。
当時の廷尉が清流派の人物だったこともあり、重罪党人は濁流派の陰謀によって
以来、党人の審理は北寺獄で行われるのが慣例のようになっている。とは言っても、北寺獄に送り込まれた囚人たちにまともな聴取など行われない。宦官たちの邪悪な裁量により、証言と証拠が
そんな陰謀と絶望の牢獄の中に劉備と公孫瓉はいるのである。夜間外出禁止令を破っただけの微罪の二人にはあまりにも
……
「誰か来たぞ」
公孫瓚が声をひそめて言った。劉備が膝の間に埋めていた顔を上げた。
不気味な静寂の中、ヒタヒタと石段を下りてくる誰かの足音でさえはっきりと聞こえた。その何者かが壁に
その人物は二人が収監されている房の前で立ち止まり、何も発せず、
「お前たちのへまのせいで、十年ぶりにここへ足を運ぶことになったわ。手間をかけさせおって……」
ずっと暗闇にいたせいで松明の明かりがやけに
「宮中の西門は空けてある。誰の目にもとまらず、逃げられるであろう。すぐに去れ」
その背の低い宦官は行け、と
「待ってくれ。もう一人仲間がいる」
公孫瓉がわざわざ
「聞いている。が、これでよい」
「どういう意味だ?」
「お前たちのような下っ
他の囚人らの耳を気にすることなく、その宦官はすらりと言った。何しろ、今ここに収監されている囚人は皆、すでに近日中の死刑が決まっているのだ。今さら謀議を聞かれたところで、何の心配がある? その口は永遠に塞がれるのだ。
「とにかく会わせてくれ。
夏侯惇が機転を
「ちっ、へまをして捕まったくせに
宦官は夏侯惇の言葉を別段疑うことなく、通路を戻ると石段を下へと向かった。
湿った石壁。天井からは水滴がぽつぽつと
「ほれ、その奥よ」
宦官が
それを知らされた劉備が宦官の手から松明をかっぱらって、小走りで先頭を行った。通路の左右には監房がずらりと並んでいたが、他の囚人はすでに処分されてしまったのか、どの房も空っぽで、
「今実行しようというのか? 聞いていた計画と若干違うが……まぁ、よかろう。余が立ち会おう」
つかつかと近づいてきた宦官はまだ三人の正体を見破れずに、それを見届けようとする。その監房も鉄製の
「
劉備は力なく壁にもたれるその人物に宦官にも聞こえないほどの小声で問うた。
首と手足に
「お助けに参りました」
劉備がまた小声で
「おい、何をしている?」
「分かってんだろ。仲間を助けるんだよ」
「そいつは党人だ。お前たちの仲間はそっちではないぞ」
そんなことは分かり切ったことだ。本当に助け出すべきはこちらの
「これでいいんだよ。黙ってろ」
公孫瓉は手の松明を宦官の顔前に掲げて
どういう算段か。厳しい拷問にも口を割らない例の党人から情報を聞き出すために百鬼を用いる。そのために特殊能力を持つ百鬼の男を一人、この北寺獄に収監するということまでは聞いた。その直後、洛陽北部尉によって三人が捕縛されてしまったため、急遽その三人も北寺獄に引き受けた。それなのに、これはまるで裏切り行為ではないか。
「貴様ら、血迷ったか? 詳しく説明せよ」
「俺たちも好きでやってんじゃねぇ。でもよ、こいつを連れてこいって言いつけなんだから、仕方ねぇだろ?」
「そんなことは聞いていない!」
「うるせぇな、もう黙ってろ!」
公孫瓉は宦官との押し問答に飽き飽きして鉄拳をお見舞いした。宦官はその
「き、貴様ら……余は
趙忠。
王甫とは濁流派の
「そういうことか」
夏侯惇は真相を得て、一人納得した。
深夜。松明さえ必要ないほどの月明かりが注がれて、路地に集結して隊列を組んだ曹操の部隊の姿を浮かび上がらせる。曹操はちらりと満月を見上げた。
思えば、
洛陽北部尉となった曹操は黄金の光の下、時が満ちるのを静かに待っていた。
北部尉の管区には
皇太后が住まう永安宮には十分な衛兵が配置されているし、濯龍園という帝立庭園は時々皇帝や王族が観覧を楽しむものの、お宝はない。蔡邕邸の襲撃に失敗したばかりの百鬼がすぐに他の豪邸を襲撃するとも考えにくい。今は兵を北宮の周囲に集め、通りを
北宮内の監獄。監獄に繋がれる清流人。そこへ送り込んだ救助隊。今頃、月明かりも届かない暗い獄中で、曹操の仕組んだ作戦が展開中のはずだ。
『頼むぞ、
曹操は信頼できる部下にその秘策を託した。夏侯惇は曹操のその密命を帯びて北寺獄に入っているのだ。
百鬼の蔡邕邸襲撃を阻止したその日、曹操は洛陽東部尉の
「――――まさか。あの俊敏な賊を王吉ごときが捕らえただと?」
王吉は宦官・王甫の養子である。父の権勢の恩恵を受けて役職に就いているだけの小人だ。それが今まで一度も捕えられたことのない強盗団の一味を捕らえられるはずがない。そもそも曹操は王吉が百鬼を
「――――とんだ猿
「――――何かありましたか?」
「――――奴め、少々おだててやったら、調子に乗って武勇譚を語り出しおった。語れば語るほど
曹操はそれを思い出しながら、笑いを堪えきれないようだった。
曹操は自分の部隊が三人の百鬼を捕らえたことなど余計な話は一切せず、ただ少々
それに気分を良くしたのか、
「――――最後には捕縛した奴まで見せてくれたよ」
「――――どうでしたか?」
「――――あれは別人だな。顔は分からずとも、
曹操たちが追った賊はあの夜、足に矢を受けた。曹操はそれを王吉に明かしていない。
「――――ということは、替え玉ですか?」
「――――そうらしい」
「――――何のために替え玉を?」
「――――さぁな。ただの褒賞狙いか。それとも、他に狙いがあるのか……」
曹操が捕縛した百鬼の男に尋問していいかと王吉に聞くと、「それは北寺獄で行うことになっている」と、そんな答えが返ってきた。偽物の百鬼だから、王吉が曹操の要請を
北寺獄は宦官が管轄する陰謀の監獄。そこに百鬼が収監される。
「――――唐氏の事件が関係しているのか?」
過去を振り返る。曹操が洛陽北部尉に着任する直前、百鬼による司空・
唐珍は
私財を蓄え、権力を握ることに余念のなかった宦官たちにとって、これは対岸の火事ではなく、彼らが百鬼に対して強い警戒心を持ったのは言うまでもない。
だからと言って、ただの強盗団である百鬼が宮中の事件を扱うはずの北寺獄に送られるのはおかしい。この場合は上司の洛陽令が管轄する洛陽獄に送られるのが普通である。いくら北寺獄が特殊な監獄だと言っても、どうにも妙なのだ。
宦官が百鬼を直接尋問しようというのか?
「――――いよいよ臭うな」
曹操の中に募る疑念。曹操は自らの詰め所に戻ると、捕らえてあった百鬼三人を脅して、いくつか詰問した後、翌朝を待ってから洛陽獄に連行した。
時の洛陽令は
「――――我が子が生まれ、百鬼も捕らえた。実に良い気分だ」
周異は
ちなみに周異はこの年に生まれた男児に〝
「――――東部尉が捕らえた百鬼が北寺獄に移送されるというのは、本当でしょうか?」
曹操が気になっていたことを尋ねると、周異は頷きながら言った。
「――――黄門署から移送の通達が来ている。百鬼は北寺獄の方で取り調べるらしい」
周異の口からも「北寺獄」という言葉が出、曹操の疑念は確信へと変わった。
百鬼と宦官。これは繋がっている。そして、仙珠も……。
まだ記憶に新しい。北部尉に就任した曹操は襲撃された唐珍邸を訪問し、自ら実況検分を行っている。唐珍本人は無事であったが、家人が何人も殺され、そのショックのせいか言葉を話せなくなるほどに意気消沈していた。
曹操は唐珍に一つだけ尋ねた。唐珍邸に仙珠が存在したかどうか――――。
唐珍は答えを記した
『――――かつて仙珠のもたらす天運によって唐氏が栄華を極めたのは間違いない。私が司空を仰せつかったのもその残照であろう。しかし、天運そのものはすでになく、唐家がこうして悲惨な命運に見舞われたのも、その証である。後裔は先人の
積不善の家には必ず余殃あり――――悪徳を積み重ねた家の子孫には必ず災難が降りかかるという意味で、『易経』の言葉である。
曹操の祖父・
仙珠を巡って清濁の争いが続いている。そして、百鬼の狙いも仙珠にあることはもはや疑いようもない。清濁抗争の間に百鬼が存在し、仙珠争奪に介在しているのだ。
ふと、鋭敏な頭脳が働いて、瞬時にしてある策略が
『これを利用すれば、かえって好都合ではないか』
「――――百鬼の北寺獄移送の件、私がお引き受け致します」
「――――うむ。任せる」
北寺獄に囚われているという
朱震、
濁流の威勢に全く
一年前、曹操が陳蕃の遺児・陳逸を救出した後、陳逸の身柄は曹操の友人の
その後、朱震と陳逸はさらなる安逸の地を求めて北へ向かい、
そのことを北部尉になった曹操に知らせてきたのは友人の
『――――やれやれ、厳恪め。またオレに面倒の種を食わせる気か……』
また自分を頼ろうとしてきたところに、友人の弱さを感じて不愉快になった。
確かに北部尉という官職上、囚人や牢獄とも縁はあるものの、特殊監獄である北寺獄は決して近くないのである。曹操は友の頼みを留保しながら、時を待った。
状況は一年前とほぼ同じだ。拷問を加えているのは、つまり、何か重要な情報を聞き出そうという意図があるわけで、直ちに殺す意思がないことの証左でもあるのだが、朱震の体力気力がいつまで持つか分からない。決して時間の猶予があるわけではなく、かと言って、有効な手立てがあるわけでもなく、曹操も何もできないでいた。
そんな時、今回の百鬼の事件が起こった。
朱震救出のための糸口を欲していた曹操にとって、これは絶好のチャンス到来であった。天祐。いや、自らが引き寄せた天運というべきかもしれない。
手口も一年前と同じだ。敵の味方を装って相手の
〝
ただ、一年前とひとつ違うのは、洛陽北部尉の官職にある自分は今回は表立って動くことができないということである。それ故、信頼する部下の夏侯惇にその方策を授けた。
捕らえた百鬼から聞き出した情報では、彼らは下っ
向こうが替え玉なら、こちらも替え玉だ。だが、捕縛した百鬼は三人。替え玉はあと二人いる。できるだけ腕が立つ者。ちょうどいいことに二人いる。
「――――盧先生の要求どおり、お前たちは罪に伏すことになる」
「――――勝手にしやがれ」
酔いの
「――――実は協力してもらいたいことがある。その働き次第では、罪は免除してやる。それに、お前たちが盧先生の門下に復籍できるよう話を通してやってもいい」
「――――何をすればよいのですか?」
曹操が持ち掛けた司法取引。盧植の私塾を破門されたことに沈んでいた劉備はこの言葉に飛び付いた。特に劉備にとって破門は切実な問題のようで、うなだれていた顔を上げ、積極的に曹操に対した。
「――――朱震というお方を助ければいいんですね?」
「――――そうだ。脱獄後は説明した通りに行動すればいい。全て手を打っておく」
そこまで話が進んだところで、天を仰いでいた公孫瓚が勢いよく体を跳ね起こした。
「――――何だか面白そうじゃねぇか。でも、勝手に囚人を脱獄させるなんて、いいのかよ? また先生の怒りに火を注ぎそうだ」
そうは言いつつも、公孫瓚も曹操の提案に乗り気なようだ。曹操の口元に笑みが浮かぶ。しかし、清流人・盧植の弟子とはいえ、朱震のことをあれこれ話すわけにはいかない。
世間では、幽州人の男は武芸に
「――――
武勇を重んじる若き幽州人の心に火を付けるのは、それで十分だった。
劉備はすぐにそれが『論語』の一句だと分かった。仁義忠節を重んじる盧植が口を酸っぱくして言う文句。
「――――仁を施し、義を守ることは何より大切なことだと盧先生は言っていました。私はやります」
「――――それでこそ幽州の遊侠児だな」
「――――しょうがねぇ、俺もやってやる。それで破門はなかったことにできるんだな?」
「――――ああ、お前たちの義行は必ず盧先生に報告する。そこで私と
曹操は協力の見返りとして、二人の身の安全と門籍の回復を堂々と保障するのだった。と言っても、身の保証は口約束に過ぎず、事の運び次第ではどうなるか分からない。曹操に言わせれば、天運は自分で切り開くもの――――となるのだが……。
とにかく、北寺獄の性格について全く無知な二人は曹操の提案を受けることにした。
もともと盧植には破門の意思はなかった。言いつけを破った
目的遂行のためには利用できるものは何でも利用する。そのためには、時には味方を
こうして、劉備と公孫瓚、それに夏侯惇の三人は曹操が捕らえた百鬼の替え玉として、宦官が待つ陰謀の北寺獄へ送られた。用意周到、準備万端にして今に至る。
これは第二次清流人救出計画であり、曹操の対濁流戦第二ラウンドだ。
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