最終話

総司だけが何も知らされずにいた。

その事実に、少なからず悲憤の情が湧く。

近藤は、小田川の来訪がなくても総司を逸水道場に行かせるつもりだったのだろう。恐らくは、土方の提案によって。

「……土方さんは、いつから知ってたんですか? まさか俺が見たのは……」

「まぁそうだな。初対面できな臭い女だとは思ってたが、仕事帰りのこいつと井戸で会っちまった。……親殺しの話は初耳だったが」

「……」

総司は柄にかけた手を緩めて、沙羅を見据えた。

「沙羅さん、帰りましょう」

月夜の道場に総司の声だけが響く。

沙羅はその嫋やかな笑顔を曇らせた。

「若先生は、土方さんの話と同心からの容疑の両方を聞いた上で、試衛館をあなたの帰る場所にしたいと言っていました。俺もあなたを――殺したくない」

背後で床板が軋む音がして、脇差を手にした土方が、沙羅の前に進み出た。

「おまえがやらないなら、俺がやるぞ」

「……!」

「こいつは血に狂った彼岸の化け物だ。試衛館に置いておけば、いずれ勇さんの仇となる。俺はそれを見過ごすわけにはいかない」

「近づくな!」

沙羅が凄まじい剣幕で、歩み寄る土方に刀を向ける。

「……私が化け物なら、私をねじ伏せようとしてきた奴らはなんなんですか? 土方様、あなたもです。女は全員好きにできる気でいるその態度、いつ見ても虫唾が走ります」

「言うねぇ」

土方は悪党みたいな顔でニヤリと笑った。

同時に沙羅が袈裟懸けに斬りかかる。その斬撃は大きな金属音を立てて弾かれ、返す刀で土方の足元を払った。土方はひらりと飛び下がって沙羅の右腕を狙う。手貫緒を巻きつけた刀は叩き落とせないから、足を斬って動きを封じるか、腕ごと斬り落とすしかない。

どちらかが血を流すまで、二人は止まらないだろう。

総司の目に映る沙羅の動きは、手合わせの時以上に鮮烈だった。

月明かりの道場で白刃をきらめかせ、束ねた沙羅の長い髪が、彼女の動きを追って舞う。

美しかった。

永遠に眺めていたい。

だけど、駄目だ。

総司は抜き放って、競り合う二人の刀身を真上から叩いて押さえた。

「沙羅さん、俺が相手になります」

これ以上はなにもない。

大義も、理由も、何一つ。

沙羅の瞳が輝いて、その切っ先を総司に向けた。

誰にも守られなかった彼女が、その手を汚す前に会いたかった。

あなたを守ると言いたかった。

それはもう――叶わない。

「死にたいなら、本気で来てください」

迫る沙羅の刃を捌きながら、総司は言った。

土方が引き下がったのが、視界の端に見える。

斬撃は速さを増して、総司の頬を浅く斬った。

総司は平晴眼に構える。

沙羅もそれを迎え撃つ。

「沖田さん、あなたという人は――」

刀越しの彼女が一瞬、泣いているような気がした。

「その純粋さが、憎くて」

切っ先が沙羅の喉に刺さる寸前、その言葉は確かに総司の耳に届いた。


「――愛しい」


そうして目の前は赤黒く染まり、生ぬるい雨が降って、静寂が訪れる。


沙羅だったものから生き物の気配が消えて、床を這う血が総司の足を濡らした。

土方はその叫ぶような慟哭を、背中でずっと聞いていた。




季節は変わり、年が明けて、一月も終わろうかという頃。

総司は剣術道具一式を担ぎ、多摩での出稽古から試衛館に帰る道を歩いていた。

からっ風が土埃を巻き上げて、その冷たさにぶるりと震える。

通り過ぎようとした茶屋の軒先から、

「沖田さん、沖田の旦那!」

と呼び止められた。

町同心の小田川だ。会ったのはあの日の翌日以来である。

「お久しぶりです、小田川さん」

総司はにこりと笑って駆け寄った。

「寒いですね、俺も少し休んで行こうかな」

「おう、ここ座りなせぇ。団子もうまいですよ」

小田川は、腰をずらして床几の端を空けてくれる。

茶と団子を注文した後、少しの間、沈黙した。

「……京へ行きなさるんですってね」

小田川が言った。

「ええ」

今年、将軍家茂公が上洛するのに先立ち、幕府が警備のための浪士を募った。近藤勇を始めとする試衛館の面々はそれに参加することを決めたのだ。

来月、江戸を発つ。

「京の治安は江戸以上に荒れてるらしいですからねぇ。そんなところで公方様の御為に働けるなんて大変なことだ」

「ありがとうございます」

「あたしら末端の役人は、江戸を守るので精一杯……どころか情けないことに手が回らねぇくらいですが。結局、逸水道場の襲撃犯は見つからず、天狗も捕まえる前に消えちまった――」

小田川は苦笑いして、澄んだ冬空を見上げた。

沙羅を斬った翌日、約束通り再来訪した小田川には「沙羅は外出先でコロリを発症し、手を尽くす間もなく死亡した」と伝えた。

少々強引な筋だが彼は何かを察したようで、それ以降追求されることはなかった。

事の顛末を知るのは、総司と土方と近藤だけだ。

この先、三人ともその真実を墓の下まで持っていくだろう。

沙羅の最期の言葉は、劇薬の中に沈んだひと粒の飴玉のように、取り出そうとするたび痛みを伴って、こことは違うどこかへと総司を誘う。

運ばれてきた温かい茶を飲み、餡の乗った串団子を頬張った。

「甘いですね」

「でしょう?ここの団子は絶品なんだ」



風の末に辿り着くのは、剣の境界の彼岸か此岸か。

総司は京で、その答えを知る。


                           (完)

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風の末には―新選組前夜咄― 麦原穣 @Mugihara-Minoru

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