第13話

逸水玲馬は、娘に負けて以降も、道場の看板を下ろそうとはしなかった。

素性の知れない浪人崩れや博徒を集めて先生と呼ばせ、酒に溺れながら道場主の肩書きに縋る父親を、沙羅は心底軽蔑していた。

「あの日の夜、ここで門人たち三人に手籠めにされそうになったんです。私との手合わせに勝てなかった腹いせだと思います」

沙羅はそう話すと、床の間の大刀にそっと触れた。

「私はとても恐ろしくなって、必死でこの刀を手に取り――三人とも殺してしまいました」

床のシミはその時のものなのだろう。生々しさが胸に染み込んで、総司は息を呑む。

騒ぎを聞きつけた玲馬は、その惨状を目の当たりにして激高したらしい。

「おまえはどこまで儂に恥をかかせるのかと、私に刃を向けたのです。あの人にとって、娘より己の体面を守ることの方が遥かに大事だった。もう、この場でどちらかが死ななくては終わらないと思いました」

「――で、三人斬った上に親殺しか。とんでもねぇじゃじゃ馬だな」

土方が呆れとも冗談ともつかぬ声で言った。

総司は高まる鼓動を鎮めるように、深く息を吸って言葉を吐き出す。

「……自首しようとは考えなかったんですか? 正当防衛なら、情状酌量だってあったかも……」

「自首?」

沙羅は初めて気付いたかのように顔を上げ、

「自分を脅かすものがなくなったという開放感しかなくて、そこまで思い至りませんでした。ただ死体の処理には困るので、番屋に通報したんです。これを小娘一人でやったなんて、そうそう疑われはしないでしょうし」

総司たちに向き直り、凄惨に笑う。

後ろで土方が「腹黒め」と毒づいた。

「そうして試衛館に引き取られて……沖田さん」

そこで沙羅は、直と総司を見る。総司は反射的に柄に手をかけた。


「あなたに出会って――初めて後悔したの」


総司と沙羅が出会った、強い風の吹く春の日。

すでに彼女は人殺しだった。

「もっと早くあなたや若先生に出会えていれば……おとなしく汚されて、全て黙って飲み込んでいたら、と――詮無いことを思うんです。私はそれから逃れたくて、また何度も人を斬りました。帯刀している相手なら、罪悪感はありませんから」

境界の先は、刀を手にしたらすぐそこにある暗闇だ。一歩踏み出せば明かりは消えて、来た道さえわからなくなる。

「死にたくなければ、私に勝ってくれればいい。……あの時逃げなければ、沖田さんに斬ってもらえたかも知れませんね」

「……沙羅さん……」

彼女が、今何を望んでいるのか。

なぜ自分がここにいるのか。

わかりたくないのにわかってしまった。


「沖田さん、ここで私を殺してください」


沙羅は手貫緒を絡めた刀の切っ先を、総司に向けてふわりと笑った。

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