湯気の先、冬の向こう

㋑CH4

湯気の先、冬の向こう

 一人残った事務所で白い息を吐いていることに気付いた。

 パソコンから顔を上げると、間もなく日付が変わることを時計が教えてくれた。

 暖房がタイマーで切れていたようで肌寒い。

 一息吐くために椅子を引いて、デスクから離れた。煌々と光るディスプレイの明かりから、意識は現実へと帰ってきた。

 夜半の事務所には、誰も残ってはいない。

 数時間も前からの光景だ。

 作業着の上着から煙草のケースを取り出したが手応えがない。最後の一本も数時間前の休憩時に吸い終わっていたようだ。

 空振りした気を紛らわせるために、夜食を取ることにした。

 家から持ってきた緑のたぬきの封を破る。

 電気ケトルが湯を沸かすのを待ちながら、カチコチになった躰を伸ばす。

 時計の秒針がこちこちと時を刻む音を除いては何も聞こえない。

 窓の外には白い雪が舞っていた。


 12月31日――今日は大晦日だ。夕方までは残務で何人かが出勤していたが、もう帰宅していた。私もそうしたかったが、この時間から大事な仕事があったため残らざるを得なかった。

 不況の冷たい風に煽られながらも我が社の経営は好調なようで、閑古鳥が鳴くことはしばらくなさそうだった。

 工場は年末にも関わらず稼働しなくてはならなかった。経営者には嬉しい悲鳴だろう。私も家族二人を養うのには事欠かなくて済んだ。

 年末に家に居ないことについて、妻も娘も何も言わなかった。


 大量の湯気を吐きながら、麺の上に熱湯が注がれる。天麩羅は食感を大事にしたいので後から乗せたい。個包装されているため、選択の自由がある。

「卵もほしいな」とひとりごちる。

 願望が頭を過ぎってはどこかへ消えていった。白い蒸気のようである。

 カフェイン中毒気味の頭はふわふわとした奇妙な感覚に囚われていた。


 三十代の時に結婚した妻との間にもうけた一人娘は今年で高校三年生になる。病気がちで高校一年生のときの入院生活で一年進学が遅れていた。クラスメイトが進学していった後に残された娘は孤立していたようだ。私も妻も心配していたが、娘は気丈に振る舞っており特に心配なかったようだ。精神メンタルだけでも強く育ってくれたのは嬉しい限りだ。

 そんな娘が今年は受験生である。それが私には気掛かりだった。家からも通える首都圏の大学を希望してくれればいいものを。

 ―――水産大学校に行きたい。

 5月の連休中、進路調査票を前に向かい合った娘がそう切り出すと、

「それはどこだ?」と訊き返していた。

 大学校は農林水産省管轄の研究・教育機関であり、山口県下関市にある。東京から福岡県を経由して5時間強、JR山陰本線「吉見駅」から車で5分ほどの位置にあり、海上自衛隊の下関基地隊と隣接している。これは後から調べた分かったことだ。

 寡黙ながらも成績については担任からのお墨付きを貰っていた娘だったから、てっきり東京の難関大学を目指すものだとばかり思っていた私は面食らってしまった。

「公務員になるんだったら、他にもっと良い仕事があるんじゃないか?」

 そう言った私に対して、娘は一言、

「海に出て、実践的な研究活動がしたい、です」

 それきり俯き黙ってしまった。

 隣に座る妻は何も言わなかったが、横目で私を覗いて口を開くのを待っているようだった。察するに既に二人の間では言葉が交わされていたのだろう。

 一人娘を遠い地方に送り出すのみならず、海の上にやることに私は抵抗を覚えてしまった。海軍に息子を取られた曾婆様もきっとそう思ったに違いない。

「―――君は私たちを陸に残したまま行ってしまうのか」

 口を突いて出てきた言葉が意味してしまうところを後になってから理解した。顔を上げていた彼女の表情は忘れられない。目を見開いて返答に窮している彼女を見るのは、我が事のように苦しかった。じわじわと背中を這っていく罪悪感が気持ち悪い。

「……好きにしなさい」

 沈黙に耐えかねてなんとか言葉を絞り出した。

 娘は無言のまま席を立って自室に行ってしまう。

 横に座る妻が肘で脇腹を突いてきた。

「どうしてそういう言い方しかできないの」

 以来、私は彼女と進路の話をしていない。


 ポケットのスマートフォンが鳴動。妻からのメッセージだった。

けましておめでとう〉

 皮肉混じりの誤字に息を吐くように笑う。

 もう0時を回っている。社内で年を越してしまったようだ。

 返信のメッセージを作成する。

〈明けましておめでとう。まだ起きていたのか〉

 するとすぐに、今年の紅白も面白かったよ、と返信があった。私の好きな福山雅治は今年も出場していたが、ライブで見られなければ仕方ないと録画は断っていた。

真由まゆもまだ起きているのか?〉

〈そうよ〉返事はすぐに来た。

〈夜更かしもほどほどにしておくように言っておきなさい〉

 言伝を送ってスマートフォンの画面で時間を確認すると、ちょうどカップ麺の待ち時間が経ったところだった。

「こっちも、けましてだな」

 つまらん洒落が口を突いて出てくる。

 蓋を剥がすと、火山が噴火したように湯気が視界いっぱいに広がる。

 おや、と思うと不意に古い記憶が呼び起こされていた。

 

 真夜中の駅。大きな綿雪が降り頻るホームには学生服が一人。コートを纏っていたが、冷たくなる一方の手に頻りに息を吐いていた。

 それは私だ。

 電車は来ない。二時間も前から分かっていたことだ。大雪で止まった知らせを駅員から受けていた。

「迎えが来るのかい?」白髪の駅員が気安い口調で訊ねてきた。

「いえ……」

 短く、突き放すように答えたのは寒かったからではない。

 駅員は不思議そうな顔でしばらく立っていたが、諦めて駅舎に戻っていった。

 八つ当たりするような形になってしまった。背中を見送りながら、罪悪感を空腹の胃に収めた。

 迎えは来ない。

 来るわけがない。

 今は帰りたくもない。

 当時、私は親父と喧嘩していた。学生だった時分には映画監督になりたかったが、親父には反対されていたのだ。

 ――映画だぁ? それが一体なんの役に立つ。お前の兄貴は働きながら短大に通ったってのに、お前と来たら……。

 歳の離れた兄貴はアルバイトで学費を稼ぎながら短期大学を出て早々に定職に就いていた。

 親父の言いたいことは分かる。役に立つかどうかは分からないが、口にするのは憚られた。頭ごなしに否定する親父に対して、私は意固地になっていた。

 だが、そんな頭の固い私には藝術大学の入試は頗る難しかった。無我夢中だったのは間違いないが、試験中のことはよく覚えていない。

 逃げ出したくなる衝動から、駅のホームでぽつねんと時間が経つのをただ待ってしまう。

 窓を叩く音がした。

 振り返ると、さっきの駅員が駅員室の窓際に立っていた。手にはカップを持っている。読心術の心得はないが、口パクが読めてしまった。

 「喰うかい?」と。

 誘われるがまま、駅の宿直室に招かれる。

 白いダルマストーブの上で薬缶が音を鳴らしてる。

「まあ、大抵の問題は時間が解決してくれるけんど、あのまんまじゃ凍えちまうけ」

 運転中止の話をしているのだろう。私がホームに留まっていたのは極めて個人的な理由だったのだが、凍えてしまうことは確実だった。

 白髪が豊かな駅員はそう云って、色の異なるカップ麺を2つ持ってきた。

「赤いのと緑、どっちがええ?」

 腹が空いて仕方がなかった。好みに違いはないが、摂取カロリーのより多い緑のたぬきを所望した。

「寒いときのこれが止められねぇんだ」

 薬缶からお湯を注ぎながら心底嬉しそうな声色で言う。

 ストーブの前の丸椅子に私は座った。

「あのまんま突っ立っててどうする気だった?」

 駅員が窓から外を窺いながら訊ねてくる。待つ間の暇潰しらしい。

 逡巡の後、私は口を開いていた。このまま口を噤んでいるより、無関係な他人に胸中を吐露して楽になりたいと、そう思ったからだ。

「このまま帰っても、親父に嗤われるだけで。それが悔しくて……」

「……そういうもんかね」

 それきり駅員は黙ってしまった。窓を向いているため表情は分からないが、面倒な話をされたと思われたに違いない。

 空腹のときの3分間はとても長く感じられた。

 永遠とも言える静寂が痛かった。

「あの……、すみません」

 不意に駅の待合室の方から声が聞こえた。

「こちらに、まだ人が残っていませんか? 学生を探しているんです」

 前のめりになって窓口から覗き込んでいるのは親父だった。

 虚を衝かれた私と親父の目が合う。

「そんなところで何してるんだ?」

「迎え、来たじゃないか」

 駅員は帽子を被り直しながら面白そうに笑っている。

「そいつは持ってきな」

 車内は外気と変わらず恐ろしく寒かった。

 助手席に座り、膝の上にカップ麺を乗せる。

 車はスタートしなかった。

「もう伸びてないか、それ」

 蓋を剥がすと、香りが湯気とともに上がってくる。

「その……、大学の件だがな」

 親父は片手で頭を搔きながら云った。

「勝手にしやがれ」

 息が漏れた。最早手遅れである。試験はもう終わってしまった。だが照れたように言うのが面白く、認めてくれたのは少しだけ嬉しかった。

「それはゴダールか」と私は生意気な口を利いた。

「馬鹿、沢田研二だ」


 汁に浸した天麩羅を歯で砕く。

 囓った天麩羅の隙間から麺を手繰って一口。続けて汁を一口啜った。腑に落ちる液体が寒さを忘れさせてくれた。このサイクルを繰り返す。天麩羅のサクサクとした小気味の良い食感がアクセントとなり、瞬く間に容器は空になった。飲み干した汁の風味が、口腔内に余韻として残っている。

 腹を満たした多幸感が頭に押し寄せてきていた。だが、仕事があることを忘れてはいけない。

 仕事を再開する前にスマートフォンを確認すると、また妻からメッセージが来ていた。さっきの返信が来ていたことに気が付かなかったようだ。

〈真由なら、机に向かって勉強しているわ。あなたと同じね〉

 ディスプレイの文字をなぞるように見て、ふっと息が漏れた。

 娘はまだ頑張っている最中のようだ。

 今度ちゃんと話をしよう。

 年はまだ明けたばかりだ。

 春の訪れが待ち遠しい。


  〈了〉

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湯気の先、冬の向こう ㋑CH4 @marui_metan

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