城下から洛南へ

糸賀 太(いとが ふとし)

城下から洛南へ

 京都はどこがおすすめですか、と若山が後ろからたずねた。


「赤いきつね」と答えると、奴は伏見稲荷ですね、と一人合点してランチへいった。残された私の手元には、第三次小渕内閣についての原稿がある。デスクに却下されたものだ。


 おかしな返答をしてしまったのは、おそらく京都での夢のような一日から、東京に戻ったショックがまだ抜けきっていないせいだろう。気持ちを落ち着けるためにも、回想して、注釈をつけて、当時は考えもしなかった推論をするとしよう。




 始まりは久々の休みに散歩をした帰り、自宅隣のコンビニに寄ったところからだ。いつもどおり、赤いきつねを買って店内のポットでお湯を注ぐ。割り箸は遠慮した。なけなしの貯金をはたいて買った塗箸で食べるのがマイブームなのだ。


 自動ドアをくぐり抜けた瞬間、一帯の空気が変わった。排気ガスとは無縁の清々しい森の風が鼻孔に飛び込んできた。地面もアスファルトの黒色ではなく、別の有り様をみせていた。下草あるいは人や牛馬の踏み固めた土が、不均一な反発を履物ごしに返してくる。


 当時は、こうした位相の変化を自然なものとして受け入れていた。アパートを出るときに着ていたポロシャツとジーンズが、古文の教科書で見たような和装に変わったことにも、驚きはしなかった。


 もはや私は東京の記者ではなく、左京職の一人であり、石清水八幡宮への御幸に供奉する立場であった。


 驚いたことは一つだけだった。


 赤いきつねと書かれた器を手にささげもっていることだ。真っ平らな紙の蓋のされた丼というのは見慣れないものだったし、手触りも慣れないものであった。中に湯が入っているらしく、頼りがいの有る温かみが手に伝わってくる。それでいて吸い物をいれた陶器ほど熱くはなく、問題なく持ち歩けた。


 器からは、嗅いだことのないにおいが立ちのぼっていた。香というよりは食べ物のようなにおいだったが、八位の小官吏にすぎない私には全く覚えのないものだった。周囲からなにかお咎めを受けるのではないかと恐れたが、器の温かみがお守りのように思えて、手放す気にはなれなかった。


 心配は杞憂に過ぎなかった。歳を取ると「それは何?」と、いう子供じみた質問をすることが恥ずかしくなるものだが、ともに供奉している者たちも同じような気質を持っていたらしい。


 かくして、赤いきつねという謎をのぞけば、私は自身の仕事に確信をもって、何ら迷うことなく歩いていた。かえってそれが良くなかったのかもしれない。九条までお供すれば十分だったのに、気がつけば長岳の寺戸であった。


「迷わし神が出るそうですよ」近くにいた者が言った。


 さもありなん。歩き続けて日も暮れかけてきた。もう山崎の渡しについても当然のころだったが、実際にはたどり着いていなかった。


 このあと私がたどった道筋は錯綜しているが、説明のために地名を羅列して困惑を招くのは本意ではない。平安京から長岡京に至るまでの道を、何度も繰り返し歩いていたようだったと、いうのが今日の東京に帰って地図で確かめたところである。


 後知恵と笑ってもらってかまわない。当時は、頭の中に同じ地名と景色が繰り返し入り込んできて、考える余裕はなかった。


 とうとう日が沈んだ。赤いきつねは手の中ですっかり冷えていた。夕闇のなか人目を忍ぶようにして紙の蓋をめくりあげ、器のなかを覗きこんだ。当時は平安人になりきっていた私にも、中身は食べ物であると思えた。腹は減っていたのだが、あいにくと箸がなかった。


 だれか持っていないかと尋ねようと顔をあげたが、周りにはだれもいない。


 遠くに板葺きの御堂が見えたので、棒のような足を引きずりながら訪れてみたが、無人であった。狐や狢の出そうな雰囲気のなか、星明かりが降り注いでいた。

 

 傍らに器をおいて、つらつらと考えて見るに、おそらくは九条をすぎたところで迷わし神に出会ったのだろう。京職にあるものが九条大路を越えたり、同じところを何度も通ったりしたのは、迷わし神のせいに違いない。


 理屈を付けたことに満足した私は、いつのまにか寝入っていた。




 自分のくしゃみで目がさめた。蛍光灯の青白い光がプラスチックの机に反射する。アパートの台所で寝入っていたらしい。


 再びのくしゃみ。猫アレルギーだが、身に覚えはない。ぼんやりした頭を持ち上げると、空になった赤いきつねが目に入った。昨日コンビニで買って、そのあと、どうしたのだったか。


 カップの底を覗きこむと、なめたようにきれいになっている器の中に、きつね色の毛がついていた。

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