上天の御使い



「何をしておる」


刺すように鋭く凛とした声がして、ざわりと空気が動く気配がした。


琳麗の腕を掴んでいた宦官が慌てた様子で顔を伏せる。視界の端に緋色の襦裙を捉え、琳麗は青ざめた。


年端のいかない幼子でさえ知っている。

緋色は最高色。後宮でそれを纏うことが許されるのは、たった一人、その人だけである。


脇に佇む淡い翠緑の一重の上衣に、薄桃の裙の主は、病がちだという淑妃だろう。口元を隠す扇は繊細な花模様の刺繍がほのかに浮かぶ。


淑妃と対称的に、徳妃は目の覚めるような鮮やかな青藍の上衣に紫の帔帛を纏い、才人のように紫で縁どったつり上がった目元に金銀粉をのせている。


華やかな顔立ちの徳妃は、面白そうに俯いた竜胆を見つめ瞳を光らせている。


「皇后様、淑妃様、徳妃様。臣妾がご挨拶を申し上げます」


慌てたように長椅子から身を起こした楊才人を気配で察し、琳麗はかたかたと震えをとめられないまま跪いた。


しゃらりと精緻な美しい細工の金の歩揺が音を立て、目の前の貴人が小さく頤を傾ける気配を感じる。


「其方な娘は先程の宮妓ではないか?」


「左様でございます。件の奇跡についてこの娘に話を聞いていました」


鷹揚な仕草で頷いた皇后は、すぅっときつく目を細める。楊才人はぴくりと片瞼を痙攣させ、ついと目をそらした。


「そこな宦官は何をしておった」


太監は両手を揉みながら皇后を見上げ、気持ち悪い声を上げた。


「妓女の分際で恐れ多くも主上殿下のお心を惑わしたこの娘をきつく罰するところでございました。皇后様のお心を悩ませることはございません」


「殿下のお心を? 」


顔を逸らしたままの才人に視線をやった皇后は、ほんの一瞬、ため息のようにかすかに笑みを肩頬に浮かべた。


「……ふん、楊紫も狭量なことよ。もうよい。下がれ」


「ですが皇后様。」


腰をかがめた宦官は手揉みしながら言い募ると、脇に控えた臙脂の襦の女官がきつく睨みつけながら遮った。


「黙りなさい。宦官が皇帝陛下のお心を計ろうとするなど、罰を受けたいのか!」


「それは、いえ、とんでもない。浅ましいことを致しました。それでは、私めは、こちらで失礼いたします」


宦官は慌てたように頭を深深と下げ、才人の顔色を窺うようにしながらそそくさと辞去の挨拶をして立ち去った。


才人は鼻白んだ様子で皇后付きの女官を一瞥する。徳妃は面白いものを見つけたように、楽しげな表情で皇后に問いかけた。


「皇后様は、この娘のことをどうお考えですか?」


「優れた芸を持つ有能な宮妓であろう」


皇后がさして興味もなさそうに呟く。


矛先がまたも自分に戻ってきたことを察し、琳麗はさらに身を固くする。髪に挿した竜胆がふるふると小刻みに震える。


「ですが、それだけではありませんわ。この娘が天の御心をなだめてみせたのです。その証に、あの黒雲が晴れたのですよ」


「そなたは何が言いたいのだ」


「あるいは、天の御使いかしらと」


「徳妃、およしなさいな。まだ童妓も同然ではありませんか」


淑妃が気遣わしげな様子で琳麗を見つめ、徳妃

窘めた。


「あら、淑妃は何も感じなかったのですか? 私など、この娘の身の内から天の意志のようなものを感じて、身体が震えましたわよ? 」


他愛もない話を舌に乗せたような軽やかな口調で、徳妃はふるっと身体を揺すってみせた。


淑妃と徳妃の言い交わす様子に側づきの女官らが注目する中、ほんの刹那、皇后の双眸が竜胆の少女を冷たく刺した。


緋色の裙を視界の端に感じながら、琳麗だけがその気配を察しぴくりと頭を揺らす。


「もうよい。妾は疲れたわ。琥珀、御膳房にいってもち米菓子を作らせなさい」


「承知しました。沈珠、傘を。」


臙脂の女官が近づき、視界の緋が遮られると、琳麗はようやく呼吸を思い出したように細く息を吐き出した。


「其方も、戻りなさい」


優しげな淑妃の言葉に、徳妃の含み笑いが小さく聞こえる。

琳麗は頭を上げぬまま、辞去の挨拶をしてその場を下がった。

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砂上の幻 ぴのっ @pinosuke

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