分断の時代に人々を繋ぐものはなんだろうか。

 マクロな視点から、簡単にまとめてしまうところから始めさせて頂きます。
 差別撤廃を担う活動家ニェウシの、その半生、その晩年、その闘いの日々を綴った「気高き獣の闘い」という小説には、ニェウシの思いを尊重して、彼の「穏やかさや弱さ」は削除されている。時が経ち、政策としての人種差別は無くなるが、社会に染み付いた差別が根絶された訳ではなかった。これは、著者スタインが予期していたものに近かった――「差別が撤廃された後はどうする?」――。そこでスタインは再び筆を執り、「気高き獣の闘い」に寄せてこの追想を書いた。
 ニェウシの「泣きもすれば笑いもする普通の青年」の側面も描くことで、撤廃運動の過激なイメージを和らげる思惑もあったのだと私は考えました。ただ、それ以上にスタインが込めた思いは、次のものだと思います。

   「相手を獣人だから、魔族だからと一括りにして個人の性質を見ようともしないからろくも知りもしないのに憎み合う。それが世界中で指摘されるようになった今、私がするべきことは、偶像としての君ではなく、個人としての君を語ることなのだ。」

 憎しみに限らず、怒りや恐れなどもおそらく、こうした種類の無知とラベリングによって生まれるものが多いかと思います。
 早速で申し訳ないのですが、少し話を逸らしてしまいます。差別というテーマから私が想起した事案はいくつかありました。アパルトヘイト、ナチス、アメリカにおける黒人差別、日本ではかつての朝鮮人の徴発、そして昨今小さく話題になった韓国人学校の補助金。こうして挙げたものは、ほんの一部でしょう。
 差別を抽象的に表わせば、「正当な理由なく、搾取され、暴力を受ける」と出来ると思います。ここに「恒常的に」の文言をつけ足しても良いかと思います。暴力は、殴る蹴るといったものに限定せず、精神的、性的、金銭的なものまで含みます。このように抽象化すると、いじめや虐待など、さらにはもっと身近なものまで含めて、多くの差別的な問題は見受けられると思います。たとえ、直接関わっていなくともニュースなどを通じて、私たちはそれらを知り、理解しています。
 しかし、体験し実感している方々と、知って理解しているだけの人では、大きな差があります。

   「だが、実際に理不尽を受ける側である彼と、安全圏から活動をつづける私とでは、この問題に対する切迫の度合いが違うのは当たり前だ。」

 私たちは種々の問題を扱い、話し合いのテーブルに載せるとき、この差まで知って理解しなければならないでしょう。
 そして、これは私の信条なのですが、小説はこの実感と理解の距離を狭めてくれるツールでもある、と考えています。説明します。例えば、私はこれまでの人生でいじめを受けたことはありません。でも、そんな私でもいじめを受けている小説内人物に同調し共鳴し、心を揺さぶられます。それまで、いじめを理解しているに過ぎなかった私は、小説を通して疑似的ではありますが、いじめを実感し、あたかも己の問題であるかのようにいじめを捉え、いじめについて考えるようになりました。
 さて、漸くですが話をこちらの作品に戻させて頂きます。
 私が同調し、共鳴した人物はスタインでした。活動家ニェウシを見て、自分とは絶対的な差があると実感し、ニェウシに変わって彼の本懐を遂げようと心に蓋をして嘘まで吐いた小説を書き、最後には本当のニェウシを書こうとしたスタインさんに同調しました。
 そうして、私は先ほど述べた、体験し実感している方々と、知って理解しているだけの人の間にある、この”大きな差”について、差が存在するのだと知って理解しているだけより進歩した、実感的な思いに至ることが出来ました。
 実は、最も私の心に刺さった文章は、暴動であったり、活動家や差別とは関係のないところです。ここまで、散々差別について書いておいて、それはないぜ、とお思いかもしれませんね。すみません。

   「私には彼のような怜悧さも熱狂もなかったが、誰よりも柔らかな神経を持ち、誰よりも読み手に家族のごとく語り掛けることができるという自負があった。
    それはいつか、彼が私の作品を褒め称えてくれた日以来の矜持であった。」

 こちらです。とくに抜粋した二行目です。これだけで、二人がどれだけ信頼し合い、親しみ合ってきたのかが、よく感じられます。ニェウシが褒めてくれた言葉を自信と誇りに変えて胸に抱き続けるなんて、二人の結び付きがよっぽど深い証であろうな、と思います。さらに、その矜持の顕現の先が私的な執筆活動でなく、ニェウシの本懐を遂げる為であるのが、なおさら嬉しいです。