五月の天使

クニシマ

◆◇◆

 その日のことはよく覚えている。十一月のある寒い朝だった。そのとき僕の世界のすべては鼠色でひどく重かった。語らなくたってわかるだろう。この世間に、なにもかもうまくいかない人生に疲れ果てたような奴のなんと多いことか。誰だってよく知っているはずだ。薄暗い空に押し潰されそうになりながらゆらゆらと歩いていた僕の前に、突然君は現れた。

 君はなんだかよくわからなかった。男だといわれたら男で、女だといわれたら女だった。子供だといわれたら子供で、大人だといわれたら大人だった。君はすべてでありえながら、また、なにでもありえなかった。足を止めた僕の目の前で、君はにっこり微笑んで、ひとつ指をかかげ、そっとくうに円を描いた。

 瞬間、ぱたぱたと音を立てて周りの景色が目まぐるしく変化していった。低く垂れ込めていた雲はみるみるうちに晴れていって、気づくと辺りはすっかり初夏の爽やかさで満たされていた。ゆるやかな風が僕の顔を撫でた。なんだか久しく嗅いでいない香りに触れたような気がした。

「君は……?」

 君は静かに笑みを浮かべたまま、なにも答えなかった。しかし僕にはすべてわかった。君は僕を救うためにやってきた天使なのだ。僕は願いごとをすることにした。

「僕を連れていってくれよ。」

 君はやっぱりなにも言わない。

「不幸せなんだ、どうにも。」

 僕は君の目をじっと見る。陽の光が降りかかって煌めいている。

「連れていってくれよ。頼む……。」

 君も僕の目をじっと見る。君の目に揺らぐ光の粒が、僕の目にも映る。

「なあ。幸せになりたいんだ。」

 そのとき、ようやく君は喋った。

「素敵だよ。」

 声を聞いても、男か女か、子供か大人か、ちっともわかりはしなかった。しかしそれで正しいのだと思った。

「いいよ。きっと、迎えにくるね。」

 そうやって君はふわりと宙に浮かび、そのままはらりと消え去った。

 君が半年分巻き戻した季節は、街路樹に鮮やかな緑を輝かせ、空をすっきりと晴れわたらせている。着込んでいた秋物の外套が僕の背に汗をにじませた。

 つまり、その瞬間から君は僕の心をすべて奪い、なにか素晴らしいものへと続く導火線に火をつけてみせたのだ。翳りはきれいさっぱり失われ、僕の上にあるものは雲ひとつない空に君臨する太陽のみになった。すべて、ああ、素晴らしすぎる! 両手を広げて駆け出したい気分だ。道端に外套を脱ぎ捨て、踊るような足取りで歩き出した僕を、通行人たちが怪訝そうにちらりと見ては足早に通り過ぎていく。

 そう、それからの日々は輝かしいばかりだった! なにせ僕には必ずや迎えにきてくれる天使がいるのだ。それを思うだけで心はあまりにも軽く、掃き溜めのような自室で眠るときさえ、夢には光の差す天外を見た。愛しい僕の天使。思いは日ごとに強まり、僕の世界をつやめかせる。そして時は過ぎ、再び十一月が訪れた。

 冷え込んだ朝。鉛色の空。あの日と違うのは弾む僕の心だけだ。枯れた街路樹が居並ぶ大通りを歩む僕の前に、やっぱり突然君は現れた。

 君は白い指先で僕の額をちょっと小突き、それからぴょんと飛び上がって中空に留まる。そうやって僕にその手を差し伸べた。僕の耳にはファンファーレすら鳴り響いた! 腕を思いきり伸ばしたせいで脇腹はわずかに攣って、けれどその至極現実的な痛みこそ掴んだ手のひらから伝わる熱が確かに存在しているものであることの証明なのだと思うと、それはどうしたって嬉しかった。

 強くその手を握ると僕の身体はふっと持ち上がって、地面を離れた爪先は頼りなく宙に揺れる。うつむくと地面には僕らの影が落ちていて、ああ、素敵な景色だ。ゆっくり、ゆっくりと徐々に浮上していくに従って、静けさは増し、僕らはより熱烈に見つめ合う。それを誰が咎めるだろう? 僕は君を愛し、君は僕を受け入れる。

「好きだ。好きだ。」

 気づけばずっと高くの空にまで、二人は辿りついていた。

「愛している。」

 君はそっと笑った。その表情はこの世のなによりも美しかった。だから僕はよけい君に夢中になったのだった。

「愛しているよ。」

 厚い雲を抜けた先にはきっと夢で見た光が満ちているのだろう。くだらないこの僕が凍てつき爆ぜてしまうほど。

 僕はそれだけをただ祈って君と飛んでゆく。

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五月の天使 クニシマ @yt66

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