漆 もののふに仕る面の稀人
――黒い面と、目が合っている。
それまでの無駄のない動きの一切を止めて、こちらを見ている。こうなってみては、それが突然の闖入者を見据える人間であることは間違いようがなかった。気配を察してふり向く様は、あまりにも人間くさい。
それまでその男をぼうっと見ていた
(……何、あの面……?)
見たことのない面であった。
異形の生き物と対峙しているような。得体の知れない人間と対面しているような。どちらであったとしても良くない状況だ。
「ごっ、ごめんなさ――」
――首の後ろに容赦ない一撃が振り下ろされる。
打撃を受けた瀬藍は、最後まで口にできず、意識を閉ざされた。
女の体が、色濃い影から月明かりの中へと晒される。毛先の軽い亜麻色の髪が後ろへ流れて、面をつけた男へと倒れ込んだ。男はそれを、得物を持っていない方の片腕だけで受け止めた。
娘を昏倒させるのに使った得物を地面に突き刺し、片腕に収まる女を地面に転がす。そうして男は、ぴくりとも動かない女を見下ろした。
全身泥まみれだが、若い娘であることが分かる。年の頃は17,8といったところか。その年の娘にしては髪が短く、身に纏っている着物も童子が着るもののように袖がなく裾も随分と短い。
真夜中に、人けのない森で遭遇した娘。奇抜な格好。短い髪。娘の腰の帯に視線を下ろした男は、面の奥の目を鋭くした。
「――面妖師か」
娘に不釣り合いな鋭い目つきの白狐面と目が合い、男がぽつりと落とす。その声には動揺も恐怖もなく、夜のしじまにたちまち溶けていく。
面がなければ放置もできたが、そうもいかなくなった。
男は自らの懐に手を入れた。そうして取り出されたのは――六角形という変わった形をした紙。
人差し指と中指とで挟み素早く振るだけで、紙は紫色の焔を纏う。気を失っている娘のそばにしゃがむと、面の主は、燃える紙をそのまま娘の額に押し当てた。
炎が触れているというのに、娘はまるで起きる気配を見せない。まるで熱さを感じていないようだ。燃える紙越しに指先で娘の額に触れ、面の下で言の葉が紡がれる。
「追憶にけぶる月影より、冴えたる刃を祓いたまえ――……清めたまえ――……」
言の葉は響く。紙を介して、焔を介して、娘の頭の中に。染み入るように。沈みゆくように。
月明かりが、闇を縫ってあたりに降り注ぐ。そうして、漂う。面の主の言の葉に惹かれるように、淡い光が面の主に、娘に纏う。
「……ん……」
娘がほんのわずか、瞳を開いた。髪よりも濃い色の瞳。男は動じず、娘自身に言の葉を降らせる。
「これは夢だ。すべて忘れて、眠っていればいい――……」
「――……」
ぼんやりとした様子で見知らぬ男の声に耳を傾けていた娘は、やがて、すぅっと眠りに落ちていった。そうして、月の光も、焔も、娘の意識と溶け合うように消えゆく。
それを最後まで見届けた男は、娘から紙を持った手を下ろした。周囲の気が静かに戻っていく。
男は面を外した。月明かりに、そのかんばせと髪があらわになる。前髪を1度かき上げ、男は短く息を吐いた。
「……連れ帰るか」
そうして男は、すぅすぅと寝息を立てている娘を見下ろした……。
――突然ぱっと目が覚めたのは、何も大きな物音がしたからではなかった。
ただ、夢も見ずこんこんと眠り続けていた。それはそうだろう。一晩中歩き続け、体力は削り取られ、身体は冷え切っていたのだから。その後気絶するように丸一日眠っていたらしいが、外で幹にもたれかかって寝たって大して回復しまい。だが、人が1度に眠る量には限界がある。
「……っ?」
小綺麗な天井が、まず目に映る。夜ではない。日の光が入り込み、やわらかな木の色となって瀬藍の視界に広がっていた。明らかに瀬藍の寝起きしている納屋の天井ではない。
見慣れない天井よりも、嗅ぎ慣れない部屋の匂いに意識が覚醒した。清潔な匂いを嗅ぎ取ったと同時、瀬藍はがばりと起き上がっていた。素早くあたりを見渡す。
(……、え?)
そして、呆気に取られた。
そこは予感していた通り、瀬藍の知らない部屋であった。箪笥や布の被せられた姿見、文机に飾り棚などの調度品がある。瀬藍の納屋にあるのとは違い、どれもつやのかかった高い物だと分かる。穴もしみもない障子戸越しに、くっきりと日の光が入って部屋の中を照らしている。床にはきれいな畳が敷かれていて、瀬藍が違和感として嗅ぎ取った匂いのひとつのようだ。
……しかしその畳がほとんど見えない。床にものすごい数の着物や反物が散らばっているのだ。下手をすると調度品からも布がぶら下がっている。それどころか、人1人すっぽり入れるほどに幅広の麻布が宙に浮いていた。よく見ると、天井の金具に大きな釣り針のような金具がいくつも突き出ており、両端をそれじれ別の金具に繋げて吊り下げているようだ。
取り巻く布は紅色に縹色、黄支子に翠色と様々だ。地味な色なのは天井から吊り下げられた麻布だけで、あとは見事に華やかな色である。花や蝶、波などの模様も縫われていて余計に目をちかちかさせる。
瀬藍はぽかんと口を開けて、色彩だらけの空間に言葉を失うしかない。
「――気が付いた?」
「……!」
降って湧いたような声に、瀬藍は我に返った。反射的に身構えるも、体のところどころが痛くて顔をしかめる。
「体中痛めてるんだから、動かないの」
聞き慣れぬ声が、また言う。瀬藍はそちらへと視線を巡らし、初めてその姿を確認した。
――ふわりと白い髪が、まず目に入った。そうして次に、長いまつ毛にけぶる赤茶色の大きな瞳が。
着物や反物で溢れ返る部屋の隅に、座敷童のように膝を抱えて座る少女がいた。
(……綿帽子?)
小柄な少女の姿に、そんなことを思う。少女の白い髪は、雪のような真白よりもやわらかな白だったのだ。腰までありそうなほどの長い髪が丸っこく膨らんでいるからというのもある。
年は13,4といったところだろうか。幼さの残る顔立ちと相まって余計に綿帽子という印象を強めていた。
(全然気配がなかった……)
瀬藍が起きる前から、ずっとこの体勢だったのかもしれない。
「あの……ここは……? っ、」
尋ねる声は想像以上にかすれて、一気にむせた。げほ、ごほっと前のめりに咳き込む瀬藍に、見知らぬ少女が呆れ返った声を投げる。
「急にしゃべろうとするから、そうなるのよ」
幼い容姿に反して、大人びた物言いをする子だ。何か言いたかったが、咳が止まらない。そういえば、まる二日近く食べ物はおろか、水も口にしていなかった気がする。
無様にむせ続ける瀬藍のそばに、少女が近付いて来た。何事かと身構える余裕もない。涙の滲む視界の隅で、少女が自分のかたわらに膝をついたのが分かった。
「ほら、これ飲んで。一体どれだけ水を飲んでいなかったの、あなた」
きゅぽっと音がして、目の前に蓋の空いた瓢箪の水筒が差し出された。「ありが、」と言いかけてまた咳が止まらなくなる瀬藍の背を、「あぁもう」と少女がさすり始める。
「しゃべるなら水飲んでからにしなさいよ」
瀬藍はありがたく瓢箪を受け取り、中身を一気に呷った。中身を気にするべきところだが、喉の渇きを自覚した今我慢も限界だったし、何よりこの少女が悪い人には思えなかった。
どこか近くに清流でも流れているのだろうか、目が覚めるような冷たい水はおいしく、瀬藍は死に物狂いで飲み干していく。
「ふぅ……」
瓢箪の中身は、またたく間に空になった。普段、少食である瀬藍は水もこんな風に一気飲みなどしない。肩の力が抜けつつも、こうも貪るように飲み干してしまった自分に今更ながら驚く。
「落ち着いたかしら」
「うん……、ありがとう」
やっとのことでお礼を口にすると、瀬藍の背から手を離した少女がややむっとした顔になった気がした。しかし、「……まぁいいわ」とつぶやいて立ち上がる。そうして箪笥を開き、中から着物を引っ張り出した。適当に突っ込んだのを、再び引っ張り出したように見える。
「とりあえず、これに着替えて」
ぽいとこちらに投げ込まれた着物と帯を、慌てて両手で受け取る。その時になって、瀬藍は自分が清潔な寝間着姿であることに気が付いた。最後の記憶では、泥だらけの着物姿だったはずなのに。
「あの、これあなたが着替えさせてくれたの……?」
「そうよ。夜中に叩き起こされて大変だったわ」
(叩き起こされて……?)
不思議に思うが、「いいからさっさと着替えて」と促され慌てて帯を外す。
瀬藍がいつも着ている着物は基本的に袖がなく、裾も膝上と短い。その下に、脚の線にぴったりと沿った下穿きを履いている。それから脚絆。二の腕から手首にかけては、厚めの布でできた手甲で覆い。薄刃(うすば)を扱っているので、手が切れないよう特殊な皮の手袋をつけていた。基本的に、動きやすさ重視の格好だ。
こうした装いは繻の里でも狐面衆でも珍しいものではなかったが、ここだとそうでもないらしい。与えられたのは、手首まできちんと袖があり、足首までと裾が長いごく普通の小袖だ。
目の覚めるような鮮やかな水色の生地に、これまた明るい菜の花色の帯が舞う模様が縫われている。帯は京紫だ。貴人が着るほどに高級なものではないだろうが、それなりに値の張るものに見えた。しかし、いいものであれば誰だって似合うというわけではない。
(……もう少し、年下の子が着るものなんじゃ……)
それに、自分の亜麻色の髪とも似合ってなさそうだ。落ち着かない思いで自分の格好を見下ろしていると。
「――おい」
「!」
くぐもった声が投げかけられ、瀬藍はびくりとたじろいだ。この広い部屋にいるのが自分と白い髪の少女だけであったから、突然の男の声の乱入は不意打ちだった。
「……何かしら」
少女が素っ気なく襖の向こうへと声を返した。どうやら、声の主の男はそちらにいるらしい。
「入るぞ」
「どうぞ」
少女がこちらを見もせずに了承するものだから、瀬藍は慌てて身なりを整えた。もう既に着替えてはいたのだが、異性に見られるとなると何だか身構えてしまうものだ。
「昼間まで寝っこけていやがるとは、いい度胸だな――、」
襖が開けられ、声の主が姿を現した。と同時、瀬藍の姿を認め目を見開く。
部屋に入ってきたのは、四季華と年の近そうな青年であった。焔のような赤毛が印象的な、背の高い吊り目がちな若者である。
「こいつ、起きたのか」
瀬藍を顎でしゃくり、青年がすまし顔の少女を見下ろした。
「ついさっき」
「ならとっととお館様のところに連れて行けよ」
「嫌よ」
少女がすんとそっぽを向いた。青年はむっときたようだ。
「何だと」
「昨夜は真夜中に起こされて、いきなりあの子の面倒を任されたのよ。意識を失っている人間の着物を全部脱がして、洗って、拭いて、寝間着に着替えさせて。どれだけ大変だったと思っているの」
瀬藍は顔を真っ赤にしてうつむいた。自分がのん気に気を失っている間、本当に見知らぬ人間に裸を見られて世話をされていたのだと思い知らされて恥ずかしい。男の人にそのことを懇切丁寧に説明されている状況も堪える。
しかし、当の“男の人”はまるでこちらに目もくれず不機嫌そうだ。
「その後ここまで運んだのは俺だ」
「当たり前でしょう。私にあんな大きい子が運べると思ってるの」
間接的に「重い」と言われ、瀬藍はますます肩身が狭い。少食ではあるのだが、何せ背が高い。里の若者達にも、「こんなに背の高い女、嫁の貰い手などいない」とよく笑われたものだ。
「そもそも、拾ってきたのはあなたなんだから。ちゃんと責任取ってよね」
「おい!」
少女は自然な動作で立ち上がると、そのまま青年の脇をすり抜けていってしまう。綿毛のような白い髪が廊下に消えていく際、ふわっと軽やかに舞った。
ぽかんとしている瀬藍の前で、青年が舌打ちをした。あの野郎、と毒づいてからこちらをふり返る。あからさまにぎろりと睨まれ、瀬藍はびくりと硬直した。
「おい、あんた」
「は、はいっ」
上擦った声での返事に、青年がさらに眉をしかめる。そうしてまた舌打ちをし、自分の髪をぐしゃぐしゃと大雑把に混ぜっ返した。それからまた、こちらを見る。
「歩けるか」
「……え」
「歩けるかって訊いてるんだよ」
「は、はい……」
思いがけない問いかけに呆気に取られてしまう。青年はさらに尋ねてくる。
「喋れるか」
「え? ……あ、はいっ」
「身分ぐらいは弁えてるだろうな」
(身分……)
それは、先程までここにいた少女と青年の会話から考えると、自分が彼らに助けられた立場にあることを指しているのだろうか。そこまで考えて、瀬藍ははっとした。
(面がない……!)
当たり前だ。さっきあの少女に言われて、着替えたのだから。いや、でもそれより前に着てたのも寝間着で、瀬藍の着物ではなかった。
「お前の荷ならこちらで預かっている」
瀬藍が、無意識に腰に手を当てて顔色が変わったのを見て取ったのだろう。両腕を組んで、青年が冷静に告げた。
「お前、面妖師だろう」
「……!」
それが意味するところを、瀬藍はようやく、正確に理解した。
面妖師は、常夜祓いの時こそ頼られるけれども、それ以外では厄介者として忌避されている。罪人が被るという面を被り、自ら常夜という化け物の巣窟に飛び込んでいく異端の民。身体能力は極めて高く、同じ人間とは思えないほど。身分制度で言えば、
ここの部屋は見るからに身分の低い者が暮らす一室ではない。華美な装飾こそないものの、必要なものが一通り揃っているのが見て取れる。それに、生活に困っていないと分かる清潔な匂いで満ちていた。
そこに、身分の低い女がいるのが良くないことは、世間知らずな瀬藍にも理解できた。
「ようやく分かったか」
青年が鼻で笑う。
「これからあんたが会うのは身分がずっと上の人間だ。斬られたくなかったら身の程を弁えておくんだな」
ついて来い、と青年がこちらに視線を流した。部屋を出て行くので、慌てて後を追う。
部屋から想定してはいたが、やはり広い屋敷のようであった。どうやら瀬藍の寝かされた部屋は離れにあったらしく、清潔な廊下を出て母屋――という言い方でいいのか分からないが――に続く渡り廊下へと移った。そうなると広々とした庭が見え、思わず視線を奪われた。
広々とした池には欄干橋がかかり、池の中ではくっきりと色鮮やかな鯉達が優美に泳いでいる。庭師が手入れしたらしい木々が庭の調和を整え、金木犀、竜胆、紫苑などの花々が今の季節を告げている。
自然の中とはまた異なる美しさに足を止めたかったが、青年は庭など目に入らない足取りでずかずかと進んでしまう。瀬藍は名残惜しく思いながら、小走りで青年の背中を追いかけた。
渡り廊下を抜けて母屋……いや、お屋敷に差しかかると、にわかに人の気配が増した。見かけるのは主に、ここで働いているんであろう女中や小姓、男衆ばかりだ。そうして青年を見るや、ぴたりと動きを止め、小さく会釈する。そして、そそくさとその場を後にする。
――これからあんたが会うのはずっと身分が上の人間だ。斬られたくなかったら身の程を弁えておくんだな。
そんな風に言っていた彼も、身分が高いのではないだろうか。1度もこちらをふり向かない背中を、こっそりと窺う。青年は家人も瀬藍もまるで気にしていないようだった。
賤民である自分がこんなに立派な屋敷にいて咎められないかと不安だったが、何事もなく目的の部屋に辿り着けた。その部屋は最奥にあり、そこまで来ると家人の行き来も少なくしんとしたものだった。
瀬藍は、常夜祓い以外で里の外に出たことがほとんどない。里の大人達からいろいろと教わったものの、身分や礼節にくわしいわけでもない。世間知らずな自覚はある。
しかし、これだけの広さの屋敷。何人もいる家人。そして青年の口にした「お館様」という言葉。これだけ揃えば、これから会う人物が何者であるかは想像がつく。
目的の部屋に入る前に、青年がくるりとふり向いた。びくりと震える瀬藍を、無遠慮に頭のてっぺんから爪先までじろじろと見下ろす。男が女に向けるものというよりは、品定めするような目だった。
息を詰める瀬藍を前に、やがて青年が息を吐く。
「……まぁいいか」
面倒くさくなって、何かをあきらめたような口ぶりである。
傷付く間もなく呆気に取られる瀬藍に、「いいか」と青年が小声で忠告する。
「くれぐれも態度には気を付けろ。あんたも面妖師ならそのくらい分かるだろ」
許可をもらうまで顔を上げるな。質問されるまで口を利くな。こちらからは話しかけるな。青年が釘を刺す。瀬藍がこくこく、とうなずくと、青年は部屋の前で膝をついた。瀬藍も後ろで、それに倣う。
「お館様、客人を連れて参りました」
「――入れ」
襖の向こうから、男の声が応じた。思ったよりも若い声だった。
は、と青年が応じ、襖を静かに開いた。礼儀作法に慣れた動作に見える。
「失礼致します」
青年がわずかにこちらに顔を向けてきた。瀬藍は黙って彼に続いた。緊張しながら顔を伏せ部屋に入ると、清潔ないぐさの匂いが鼻をくすぐった。ふうわりと控えめに香るこれは、お香の香りだろうか。
「しばし待て」
青年に促された位置に座した瀬藍は、頭を下げたままだ。その為部屋の様子は分からなかったが、部屋の主が何やら書き物をしているらしいことが分かった。ほんの少しの沈黙ののち、コトリと筆が置かれた音が耳に届く。
静かな部屋に、衣擦れの音がさやと響いた。相手がこちらに向き直ったのを感じる。
「そなた、名は何と申す」
「……せ、瀬藍と申します」
威圧的な声ではなかった。年は四十に満たないように思える。穏やかな声は秋風のように涼やかであったが、しかし自分などにはない重みを感じた。身分差というよりも、積み重ねてきたものの深さに大いなる差を感じて萎縮してしまう。
瀬藍か、と声の主がつぶやいた。そうして、「
瀬藍は、そろそろと顔を上げた。藍色に銀糸で波紋の模様が縫い取られた着物が視界に入る。そうして、その着物が狩衣であると分かり、色白の顔と相対した。
(……やっぱり……)
部屋はそれほど広くはなかった。その片隅に掛け軸が掛けられた床の間があり、そこに大小二振りの刀が飾られている。
刀を使うことが許されている身分は、限られている。そしてその代表的な身分が武人に他ならない。
瀬藍が足を踏み入れたことがないほど広いこのお屋敷は、清潔ではあったものの華美というほどではなかった。何となく、もっと実用的に造られた屋敷のように思えたのだ。であれば、ここは武人の屋敷なのではと瀬藍は予感していた。幸か不幸か、それが当たっていたらしい。
(この方が、武人……)
武人というと体格のがっしりとしたいかつい風貌を想像していたが、目の前にいるその人はまるで違った。細身の男は、声から想像していた通りの年に見える。そして、ほんのわずかに笑みを浮かべた顔は静けさをそのまま纏ったような御仁だった。とても刀を振り回して敵を斬り伏せるようには見えない。
「面の
(面の稀人……?)
またしても、聞き慣れない言葉だ。うっかり尋ねそうになるのを堪えたものの、顔に出ていたらしい。御仁が目を細めた。
「そなたには面妖師と言った方が分かりやすいか」
瀬藍は目を見開いた。
「そなたの後ろにいる男も同じ生業だ。なぁ、
「は」
ここまで案内してきた青年が、わずかに会釈したのが分かった。どうやら彼の名が、紅焔であるらしい。
確かに彼の着物は、今目の前にいる武人や先程目にしてきた家人達に比べると、造りが変わっているし色合いも派手な方ではある。動きやすさ、そして現との結びつきを重視する面妖師は、常人から見るとかなり浮いている格好なのだ。
とはいえ、この紅焔という青年は瀬藍の目にしてきた面妖師に比べると、まだ控えめな出で立ちと言えた。だから瀬藍も、同業者だと気付かなかったのだ。
「我らは面妖師殿のことを敬意をこめて稀人と呼んでいる」
(稀人……)
“まれ”……希少な人材。そして
しかしどうにも引っかかる。常夜を祓う面妖師は、常人に畏怖されているというよりは敬遠されている。身分だって1番下の賤民だ。それを、位の極めて高い武人――しかもこれほどの広い屋敷の主人と思われる人物だ――が、呼び方に気を遣うほど丁寧に扱うだろうか。
そもそも、常夜に自ら入る面妖師は穢らわしいと言われることも珍しくない。そんな異端の者を、わざわざ屋敷に入れてそのように気遣っているのは何故なのか。
戸惑いを深める瀬藍に、武人が淡く微笑んだ。
「私はこの
(……支麻の地⁉)
思ってもみない言葉に、瀬藍は叫び声こそ上げなかったものの目を丸くした。
(何で私、そんなに遠いところまで……⁉)
瀬藍の故郷である
独楽呂の地は北に行くほど広く広がり、南に行くほど痩せ細っていくような地形をしている。その為、燈記の地の南西端から独楽呂の地、支麻の地と直線距離で見るとそう遠くはない。
しかし、独楽呂の南には南北を縦に裂くように
(ここが、支麻の地のどのあたりかは分からないけど……)
広大な自然が広がる燈記の地や独楽呂と違って、支麻はそれほど大きくない。しかし交通の要衝となる重要な地で、たくさんの行商人が行き来する。燈記の地は市の品揃えがそれほど豊富ではない。その為、繻の里や狐面衆でも定期的に支麻の地へ若者達が駆り出されていく。瀬藍も繻の里にいた頃、1度だけついて行ったことがあった。
だからこそ分かるが、瀬藍が一晩ふらふらと歩いただけで行ける距離ではない。尾広峠を迂回しなければならないからというのもあるが、それ以前に燈記の地が広大なのだ。
「そなたは
(徒嘴の森……)
耳慣れない森の名に、瀬藍は目まぐるしく記憶を探った。……繻の里から支麻の大きな市までの道のりに、そんな名の森はなかった筈だ。その森は瀬藍の行ったことのある市より奥にあるのだろうか。
じっと考え込む瀬藍に、ななめ後ろから大きめの咳払いが聞こえた。明らかにこちらに向けられたものだ。そうだ、自分は今武人に問われていたのだった。
「その……、仲間とはぐれて、迷ってしまって」
どこまでも深く揺蕩う闇。降り出した雨。そして……。
ぼたぼたと激しく落ちる、彼の血が。
消えてよと叫ぶ、彼女の声が。
瀬藍の胸を、締め上げる。
「私はその、……まだまだ未熟で」
仲間よりずっとどんくさい。うんと臆病だ。人にも妖にも勇気が持てない。そう口にする代わりに、へらっとした笑みを浮かべて。毛先の跳ねた髪をつまみそうになって、慌てて武人の御前だと手を引っ込める。
「それで、闇雲に歩き回った末に……力尽きて、眠ってしまい……」
言いながら、だんだんと顔が下がっていった。短く切った髪は、瀬藍の表情を隠してはくれない。その為にも切ったというのに、こんな時に頼りたくなる自分が情けなかった。
「……気が付いたら、ここにいました」
最後に見た光景は、何だったのだろう。鮮烈な朝日だったような。おぼろげな月明かりだったような。疲労困憊で眠りについたのだ。自分の気持ちにもいっぱいいっぱいで、ちっとも覚えていなかった。
(……そのどっちでも、ないのかな)
自分の身に起きたことを美化して、自分を少しでも惨めさから遠ざけたいだけなのかもしれない。
「……そうであったか」
――あぁこれは、どうあってもどこから来たのかを尋ねられる。瀬藍は
(そんな道理は通らない)
子どもではないのだから。よそ者を警戒するのは面妖師であれ、常人であれ当たり前のことだ。
しかし身元を曖昧にしたのは、瀬藍の弱さ故だけではなかった。燈記の地から支麻の地まで、一晩で歩いて来ました。そんな話を誰が信じるというのか。最悪、間者なのではないかと疑われて捕えられる可能性だってある。
(どう答えよう……)
汗の滲む手で、着物の裾を握りしめようとする。しかしいつも着ていた着物と違って、この小袖は裾が足首までと長い。手が1度すべり、着慣れないきれいな着物に手の平を押し当てる。
しかし
「四条家では、稀人殿を家臣として迎え入れている」
(……え?)
元の所在を尋ねられなかっただけでも驚きだというのに、間(はざま)は瀬藍の――そして恐らくほとんどの面妖師と常人の常識を覆すことを口にした。瀬藍は驚きに、
「そこにいる紅焔もその1人だ。現在四条家では、4人の稀人殿を召し抱えている」
(4人も……⁉)
思っていた以上に多い。もしかしたら、瀬藍が目覚めた時にいた少女もこの屋敷に仕えている面妖師なのかもしれない。今思い返すと、娘の身で水干めいた格好をしていた。面妖師ではままあることだが、常人の娘は水干を着ないものらしい。
それと同時に、ちらとよぎる記憶があった。まだ繻の里にいた頃、そこの大人達が「最近は里から独立する若者もいるらしい」「嘆かわしい、受け継いできたものから離れるなど」と話しているのを、たまたま耳にした。
狐面衆の頭領にまだ年若い四季華を据えたのも、それが影響なのではと霧津や朱火が言っていた。実力ある貴重な若者が勝手に里から離れぬように、先手を打ったのではないかと。確かに四季華は腕のある面妖師だが、これほどの若さで頭領に指名された例は今までなかったという。だから四季華も、頭領に置かれたことを喜んでいるわけでもなさそうだった。
しかしそもそもの話、独立という話は現実的ではない。
面妖師にはそれぞれ里があり、里ごとに常夜祓いをする管轄がきっちり決まっている。そこを1歩でも出たら不可侵。それが昔からのしきたりだ。
だからといって、別に面妖師が管轄地から出てはいけないということはない。現に狐面衆の皆だって、管轄である燈記の地を出て買い出しに行ったり花街に行ったりしてる。支麻に行くのも当たり前。その代わり、自分の面を隠すという不文律がある。
面妖師にとって、面は命にも等しい。どこに行くにせよ、面は常に持ち歩いているものだ。管轄地内であったなら帯に括りつけておくのが普通だが、そこから1歩でも外に出たら外套を羽織ったり、面を革袋の中に入れたりと配慮をする。その地の面妖師への、「あなた方の地を踏み荒らさない」という意思表示になるのだ。
独立なんてしたところで、各地に根付いた面妖師がいるのだから面妖師として生きようがない。
(流浪の面妖師なら、できるかもしれないけど……)
どこの里にも属さず、各地を転々と移動する流浪の面妖師。古来の面妖師はそうであったらしいが、これほど組織の出来上がった今ではほとんどいない。しかも彼らは、基本的に単独行動だ。しかし昨今の里から離れる面妖師は、何人かでまとまって抜けていくという。
(独立した面妖師は、武人に仕えていたんだ)
それならいろいろとうなずける。面妖師を迎え入れている武家はここだけではないと、瀬藍は確信した。
「徒嘴の森で倒れているそなたを見つけここまで運んできたのはそこの紅焔だ。後で礼を言うといい」
「は、はい」
目覚めた時にいた少女が、紅焔に「拾った責任」と言っていたのはこのことだったらしい。後で彼に瀬藍を拾った時の状況も聞いておこうと密かに思う。
「私の屋敷では稀人殿を召し抱えて3年ほどが経つ。そなたも気にせずここにいてよい。体も休めた方がよかろう」
思ってもみない親切な言葉に、瀬藍は目を瞬かせた。しかし、背後からまた咳払いが聞こえ、慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます」
「そなたにも事情があるのだろう。帰る場所が――目的地があるならば体を休めたのちここを出て行ってもよい。だが、もしそうでないのならば」
「そなたの面倒を四条家で見てもよい。よく考えてみてくれ」
(……え……)
またしてもぽかんとしそうになったところを、背後の気配がわずかに身じろぐのを感じてさっと拝礼する。
「……考えさせて、いただきます」
この場ではそう答えるのが、せいいっぱいであった。
面妖師、いざ舞いらん Yura。 @aoiro-hotaru
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