陸 隠り世に時雨る幼子の夢

 ――どれほど歩き続けたのだろう。


 闇から闇へ。陰から陰へ。影から影へ。


 ただひたすらに、何も考えずに足を動かした。何も考えることができずに、ただ足を動かすしかなかった。


 亜麻色の髪は、中途半端な短さの為に雨で濡れて頬に貼りつく。若苗色の着物は袖がない造りで、裾も童子の着るもののように膝上までと短く動きやすいはずなのに、水気を吸ってしまって重たくて仕方ない。蒲公英色の飾り紐までもが、萎れてぶら下がっているようだ。


 どこに向かっているのか分からないまま、自分がどこへ行きたいのかも分からないまま、瀬藍せらはただ浮浪人のようにのろのろと彷徨い歩いていた。……何かを考えることすらも、もう、したくなかった。


 土砂降りとなった雨は、容赦なく瀬藍を打ち。ぬかるみに何度も足を取られ、無様に転んだ。だんだんと髪を払うのも億劫になり、泥を拭うことすらしなくなっていた。夜は寒く、雨は冷たい。けれどまだ長月という季節なのでどこか生ぬるい。それらの感覚すら、もう遠い。


 ――そうして歩いている内、途方もないほど闇一色だった景色に、変化が訪れた。


(あ……――)


 目の前の光景に、ずっと伏せられていた瞳が、奪われる。


 それは、うっすらとではあったが――確かに朝日であった。


 まだ雨は降っている。しかし、四季華の血を洗い流すかのごとく激しく降り注いでいた雨は、今や夜が弱まるのと同様に薄まっている。


 呆けたように、その様を見つめていた瀬藍はやがて。


「あは、は……、ははは」


 肩を震わせ、頬をひくつかせ。壊れたように、笑っていた。


 目の前の光景が、おかしくて仕方ない。


 煌めく朝日にはほど遠かった。空は曇天で、雨の濁りを未だ存分にはらんでいる。雨だとて弱まってはいるものの、粒は大きく冷たい。うっすらと、ただ色を薄めて明けていくだけの夜は、ちっともきらきらなんてしておらず、あまりにもぱっとしなくて。


 ――こんなに生きる気力が失せているのに、空ひとつとっても優しくない。


「……本当に、私って……どこまで行っても……、」


 自然と力が抜けていた。たまたますぐそこにあった木の幹に背中を預け、ずるずると座り込んだ。雨水の沁みた着物が冷たい。泥に濡れた地面も冷たい。でももうどうでもよかった。


(もう……、いいや)


 どこもかしこも冷たい。もう温もりなんて、この身体のどこにも残っていないんじゃないだろうか。そんなばかな考えが、他人事のように浮かぶ。


(……もうつかれた)


 それは意識を手放すに近かった。自然とまぶたが降り、ふっと力が抜けた。


 あんなに怖かった真っ暗闇が、今はこの上なく心地よかった。






 意識が泥のように、沈む。こんこんと、眠り続ける。


 うんと小さい頃は目をつぶるのさえ怖かった。瞬きですら怖かった。一瞬の真っ暗闇が怖くて、目をつぶらないように幼いなりにがんばっていた。その頃はまだ、周囲の大人にも「かわいいねぇ」と許してもらえていた。


 しかし、瞬きが怖くなくなり、眠るのが怖くなくなっても、瀬藍には怖いものがたくさんあった。


 こんな森の中でしゃがみ込み、眠ってしまったからだろうか。


 瀬藍の意識はふぅっと、それに近い過去の光景にたなびいていく。






 ――かくれんぼが、好きじゃなかった。




 あやし けやけし つたなし とがびとよ


 ひがごと ひにてり こうがえよ





 ……そんな歌と共に探されて、何故好きになどなれるのだろう。


「くっそぉ、どこ行った、瀬藍!」


「今日こそ見つけてやる!」


「お前なんか日の下に引きずり出してやるんだからな!」


「あやし けやけし――」


 そんな少年たちの声が、草陰にしゃがみ込む瀬藍の耳にまではっきりと聞こえてきた。思わず小さな身をすくませるも、少年たちは自分の大声でそのかすかな物音をかき消してしまって、瀬藍に気付くことなくずんずんと森の奥へと入って行く。


 ……かくれんぼは、里ではあまり感心できる遊びではなかった。だって入ってはいけないと大人が厳しく言っている夜母笛よもぶえの森にみんな入ってしまう。


 瀬藍だって、森が危ないのは知っているし、大人たちに怒られたくないしで、かくれんぼなどやりたくはなかった。しかし年の近い子どもらは無邪気かつ残酷に瀬藍をかくれんぼの法の中に引きずり込んでいく。


 ……かくれんぼは元々、罪人を日の下に引きずり出すものであったらしい。


 そんなことを言っていたのは、友達の祖母であったか。だから余計にかくれんぼなどいけないよと教えたかったのだろうが、それが尚更子どもらに残虐な火を点けた。


 ――瀬藍を引きずり出せ!


 発された言葉が誰からであったかなどどうでもよかった。みんなよりほんの少しだけ身を隠すことに長けていた瀬藍は、彼らにとっての『罪人』という玩具になった。


 せめて里の中だけにしないかという勇気を振り絞っての提案は、大勢に踏み潰されるようにして却下された。「それじゃつまらない」「里でやっていたら大人にばれてしまう」。……「罪人が逃げるなら森の中だろ!」。


 悪意のある言葉の数々が勝手によみがえり、胸を突き刺していく。血が出るかのように胸から熱いものがこみ上げ、幼い瀬藍は顔を伏せた。


「……もう、やだぁ……」


 少年たちはどこまで行ってしまったのか、もう喜び勇んで瀬藍を見つけてやるという声は聞こえなかった。胸がじくじくと痛い。涙をぼろぼろこぼしながら、瀬藍はただその痛みに耐え続けるしかない。


 ……わざと見つかってやれば、もうかくれんぼをやりたがらなくなるかもしれない。そうは思うが、「本気で隠れろよ」と何度も彼らに釘を刺されているし、いざ見つかったら本当に罪人相手のように暴力を振るわれそうで、それもできない。もしかしたらそのまま、家族や里の大人達からも罰を受けるかもしれない。幼い瀬藍は本気でそう思った。


 夜母笛の森は、晴天の昼下がりでも木々の影が濃く木漏れ日も頼りない。影というよりは闇にいるようで、それが、こわくて仕方がなかった。今にも後ろから何か恐ろしいものが飛び出してきそうで。日の光がほとんど入らない為に森の中はどこかひんやりとした空気が流れている。


 ――それに何より、と。里の人間であれば、誰もが懸念することがある。


(今ここが“とこよ”になったら、どうしよう――……、)


 突然昼間を夜に変えてしまうという、“とこよ”。そこには恐ろしいおばけがいて、瀬藍たちなんかあっという間に食べてしまうんだという……。


「――見つけた!」


「きゃあっ‼」


 突如何者かに掴み上げられ、瀬藍は悲鳴を上げた。泣き叫ぶ声に、相手がぎょっと動きを止めたのを感じ……る余裕など幼い瀬藍にはなく、がむしゃらに暴れた。


「はっ、離してっ、やだっ、やだぁっ‼」


「ちょっ、落ち着けって! ……意外と力強いな‼」


「やだぁっ、たすけて、たすけてぇっ……!」


「瀬藍、おれだって、四季華だって‼」


「……え?」


 瀬藍はきょとんとして、動きを止めた。


 ――「瀬藍」。……わたしの名前を知ってる?


 ――「四季華」。……しき、か。


「四季華お兄……ちゃん?」


「あぁ、そうだ。四季華お兄ちゃんだ」


 そこでようやく、瀬藍は自分を捕まえたと思っていた手が、そうじゃなくて自分を抱き上げているんだと気付くことができた。……そろそろと、後ろをふり向く。


「……な? 四季華お兄ちゃんだろ?」


 本当に、そうだった。安心させるように笑いかける少年が、そこにいた。しかし瀬藍は、尋ねずにはいられなかった。


「……本当に、本物?」


 だって、もし瀬藍が気付いていないだけで、今この夜母笛の森が“とこよ”になっているとしたら。おばけが四季華のふりをして、ここにいるかもしれないじゃないか。


 四季華と同じ顔をした少年は、怒ることなく笑顔になった。


「おれ以外にお前を見つけられると思うか?」


「……!」


 ――それがもう答えだった。


「……四季華お兄ちゃん!」


 そうして瀬藍は、今までの恐怖と突如湧いた安堵故に、四季華にしがみついてわんわんと泣き出した。四季華はそんな瀬藍の小さな体を抱きしめて、よしよしと背中をさすってくれる。


 やがて、瀬藍の泣き声に気が付き、自分を探していた少年たちが駆けつけて来た。


「あーっ、また四季華兄ちゃんかよ‼」


 少年の1人が、不満の声を上げた。瀬藍はその大声にびくりと硬直し、四季華の肩に顔を伏せた。彼の着物をぎゅっと握る手が震える。四季華は瀬藍を抱き上げたまま、少年たちに向き直る。


「あぁ、そうだ。おれが1番乗りだ」


「ちぇーっ、またかよ」


「四季華兄ちゃん、いっつも1番早く瀬藍を見つけるんだよなぁ」


「ずりぃよ~」


「はは、そういうわけで今日のかくれんぼはおしまいな」


 四季華がからからと笑いながら告げると、「え~‼」と少年たちがさらに不満をあらわにした。


「やだー、おれもっと遊ぶー!」


「また見つけらんなかったんだもん!」


「四季華兄ちゃん、瀬藍よこせよー」


 その言葉に、瀬藍はびくりと体を強張らせた。それに調子づいたように、そうだそうだと声がする。


「捕まったんだから、罪人はおとなしく“とうこう”しろよ!」


「お縄につけー!」


「日の下に引きずり出してやる!」


 ――今そちらへ行ったら、本当に、自分は罪人として扱われる。


 それは何にも代えがたい恐怖となって瀬藍の身体を震わせた。四季華の着物を掴む手に、もっと力がこもる。


「顔を上げろ卑怯者!」


「そーだそーだ! 面妖師のくせに弱虫!」


 そう言われても顔を上げられない。四季華にしがみついたまま、しかしどうしたって背中は無防備で。言葉の刃が、ぐさり、ぐさりとその背に突き刺さるようだった。みんな一斉にしゃべっているのに、そのひとつひとつを、はっきりと聞き取ってしまう。


(……やめて……)


 声なき声で、ぶつけられる悪意に懇願したその時だった。


「――面妖師法度その二十三‼」


 突如上がったよく通る声に、一瞬にして場が静まり返った。


 それが四季華の声だと気が付くのに時間がかかったのは、瀬藍だけではなかったらしい。他の子どもらも、ぽかんとしているのを背に感じた。


「獲物を捕らえた1番の者に、獲物の所有権が与えられる!」


 きりりとした声で言い切った四季華は、そうして纏う空気をやわらげた。


「……そういうわけだから、おれが瀬藍を保護するぞ。面妖師なら、面妖師法度も守れるよな~?」


 少年たちは、「えー……」と未だ不満げな様子を残しながらも、引き下がる気配を見せ始めた。「面妖師法度なら、しょうがねぇなー……」そんな大人ぶったことを言う者までいる。


「大体、お前らかくれんぼやるなって言われてるのに無視してやってただろ。親たちに告げ口されたくなかったら、ほら、散れ散れ!」


 瀬藍を片手で抱き上げ直した四季華が、もう片方の手でしっとしっと追い払っていく。少年たちはそれが決め手となったらしい、「わーったよ」と生意気な様子を見せながらも、1人、2人と、その場を去って行った。


 夜母笛の森は、少年たちの騒いでいた余韻すらも残さずに、またしんとした静寂に包まれた。


「……もういいぞ」


 やがて、四季華がそっと教えてくれる。瀬藍はまだ目に涙を溜めたまま、おずおずと顔を上げた。四季華の、快活そうな瞳と目が合った。


「よくがんばったな。えらいぞ」


 そうして地に瀬藍を下ろし、自分もしゃがんで瀬藍と視線を合わせた。そして、空いた両手で瀬藍の亜麻色の髪をわしわしと撫でてくれた。びっくりして目を見開いたのと、そうして頭を揺らされたのとで、ぼろぼろっと雫が瀬藍の大きな瞳からこぼれ落ちた。


「お前は本当にかくれんぼが上手だなぁ。よく隠れ切ったぞ」


「かくれんぼ……、よくないのに?」


 思いがけない言葉に、瀬藍はそう尋ねていた。「あぁそうだ」と四季華は迷いなくうなずいた。


「お前がちゃーんと隠れ切ってくれたから、おれが見つけられたんだ。自分の身をちゃんと守って、えらいぞ」


「でも……、面妖師なのに、弱虫って」


「面妖師だからこそだ」


 またわしゃわしゃと、四季華の手が瀬藍の髪をかきまわす。


「お前ももう少し大きくなったら、大人達にかくれんぼをやらされるだろう。それは遊びなんかじゃない、練習ってな」


「……れんしゅう?」


 何の? と首を傾げる瀬藍に、四季華は思いのほか、真剣な目を向けた。


「常夜で生き延びる為の」


 その言葉に、ひゅっと心臓を鋭く風が抜けたような心地がした。……大人達から聞かされていた、“とこよ”。今はまだくわしく知らなくていいと、未知のままでいる存在。


 しかし、そうされることもまた、瀬藍には恐ろしかった。どこにいるか分からない、ぱっくりと大きな口を開けた怪物が、暗がりにまぎれているかもしれない感覚。いつもその口を意識して、瀬藍は暗闇がこわいままでいる。


 ――その未知の化け物が、自分の前に姿を現そうとしているのだ。


「隠れることは、大事なことだ。ずっと隠れていることはできないかもしれない。それでも、隠れていれば勝機が見えるかもしれない」


「……しょーき?」


「あぁ、瘴気じゃなくて、……ってこれもまだお前の年じゃ教えられてないか。お前が勝つ為の手がかりって言えばわかるか?」


 それなら分かる気がしたので、瀬藍はこくりとうなずいた。


「お前はこわいのに負けずに隠れ切った。あいつらに見つからなかった。だから、おれが1番に見つけることができた。だからこのかくれんぼはお前の勝ちだ、瀬藍」


 ――勝ち。四季華が力強く言い切った言葉に、瀬藍はまたしても、目を見開いた。


 それは途方もなく瀬藍には分不相応なものに思えた。自分なんかには似合わない、とびきりきらきらしていて、きれいな宝玉を与えられてしまったかのような。だから瀬藍は、慌てて首を横にふった。


「でっ、でも、弱虫だから、よくないよ……!」


 どんくさいと、気が弱過ぎていけないと、親からも周りの子どもたちからも言われていた。この子は常夜に入って大丈夫なのかねぇ。頼むからしっかりしてくれよ。お前なんか“とこよ”に入ったら、あっという間におばけに喰われるに決まってる!


 そんな自分が、勝ちなわけがない。だって四季華にすがりついてわんわん泣いてただけだ。


「いーやお前の勝ちだ」


 四季華が大真面目に言い切った。


「だってお前は罪人じゃないのに罪人扱いされてたんだぞ? 逃げるのが正解。隠れるのが正解」


 しかもだぞ? と四季華が瀬藍の前で人差し指を立てた。


「お前は、おれが現れてもまず信じなかった。おばけなんじゃないかって思ったんだよな?」


「……う、うん」


「なら尚更面妖師としていいことだ! 練習もしてないのにもうそこまでできて兄ちゃんは鼻が高い!」


「……!」


 誇らしげに言い切られ、途端、抑える間もなくぶわっと頬が熱くなった。


 ……褒められた。心の底から。そんな実感が、じわじわと全身の熱を高めていく。1番熱いのは顔だけれど、胸のあたりや、指の先までもがぽかぽかとあたたかくなっていくのが分かった。


「さ、里に帰ろう」


 四季華が手を差し伸べてくれる。自分のより遥かに大きくてたくましい手を、瀬藍はおずおずと握った。瀬藍が痛くならないぐらいで、だがしっかりと、四季華が握り返してくれる。


 瀬藍は四季華と共に、里への帰路をゆっくりと歩いていった。


 ――それは罪人としてではなく確かに、面妖師の1人としてだった。






 ……なら、今は? 今の私は、どうなるの?


 いらないと突きつけられ。ふらふらと彷徨い歩き。自ら意識を闇へと落とす、この私は。






 ――……一体、何だというの?






「――……っ‼」


 自分のものとは思えない、冷たい声に刺された直後。周囲を取り巻く闇が一気に剥がされる感覚に、瀬藍は目を見開いていた。目の前の光景に何を思うよりも、鮮烈過ぎる夢の残滓と信じられないほど息の切れた自分の肺に意識が向く。


(……今の、声は……)


 自分だったというのか。心の臓が激しく脈打っている。四半刻駆けたって息切れひとつしないのに、今は空気が足りなくて仕方なかった。嫌な汗が噴き出ていて、しかしそれが身体を冷やしていく。


 必死に呼吸をして、少しだけ息苦しさがましになったところで何気なく顔を上げた瀬藍は、そこではっと目を見開いた。


(……夜……?)


 闇が一気に剥がされた、などと錯覚していたが。目の前に広がっているのは、間違いなく夜闇であった。


 一瞬、夜母笛の森の闇なんじゃないかとか、いつの間に常夜に入ってしまったんだろうなどといったことを考えた。……だがすぐに、そうじゃないと気が付いた。


 泥まみれの身体。そろそろ秋がうっすらと匂い立つ頃だと分かる夜気。背に当たる堅い幹の感触。


(……私……寝てたんだ……)


 一晩中、歩き続けた。あまりにも儚い夜明けを見て、力尽きた。そうして、そのまま。ここまでのことを思い出し、瀬藍は茫然とした。


 あれから、どれくらい経ったのだろう。今は月が見える。うっすらと雲が漂う夜空に上弦の月。あまり高くは上っていない。


(……違う、上弦の月は……)


 昼頃に東の空に昇り、真夜中に西の空に沈む。だからあの月は沈もうとしているところなのだと、どうでもいいことを思う。


 あのうっすらとした朝日を見てから、まる一日近く寝てしまっていたのだろうか。瀬藍の中の最後の記憶では雨が降っていたが、今は晴れている。……何日も眠っていたとは、あまり考えたくはない。


 しかし、そんなに寝てしまった自分の呑気さにゆっくりと顔が青ざめていく。あんなことをしておいて、と後ろめたさが。こんなところで誰にも知られず、と今更になって恐怖が。


 まだ夏も終わりを迎えたばかりとはいえ、夜は冷える。雨に打たれ泥にまみれ、外套もなく寝っこけていた瀬藍は、今になってかたかたと震え出した。


(さむい)


 思わず、己の身体を抱きしめた。身動きしやすい格好をしているから、防寒の役にはあまり立たない。……でも、それだけじゃなかった。


 ――……誰も自分を、見つけてはくれない……。


 それは崖の淵に立っていて、とんっといきなり後ろから誰かに背を押されたかのような。後は真っ逆さま。あとは奈落の底が、口を開けて瀬藍を呑み込むだけ。


「……っ」


 じゃり、と足の下で乾きかけの泥が鳴る音が、やけに耳に食い込んだ。自分はこんなところで何をしているのだろう。こんな、どことも知らない場所で、全身汚れて、1人震えて。


(……情けない)


 そんな思いが、はっきりと湧き上がった。帯には相も変わらず狐の面がある。狐面衆の証である面。四季華が誘ってくれて、入ることができた、狐面衆の。……四季華が引っ張ってくれて安堵できる、居場所の。しかし。




 ……自分を見つけてくれる四季華も、今ここにはいない……。




 みじめだ、と思った。無様だ、とも思った。


 泥が自分を地面に縫いつけるように動けない。暗い。寒い。……怖い。


(……いやだ)


 そんな思いが、湧き上がった。こんな、誰にも知られない、暗くて、みじめなところで、1人、どうにかなってしまいたくなんてない。


(……たすけて)


 ――でもその四季華はいないのだ。


(……誰か)


 瀬藍が、壊したのだから。


「……誰か、助けて……」


 かすれた情けない声は、自分の鼓膜を弱々しく打つだけで、誰にも届かない……。






 ――ヒュンと何かが空を切る音が、ふいに耳に届いた。






「……?」


 それは決して大きい音ではなかった。ただ、どこか分からないこの森がとても静かで、瀬藍が常人より耳のいい面妖師だから気付けた。……だが、何よりも。


「……」


 涙に濡れた顔のまま、瀬藍は音のした方を探るようにじっと見つめた。ただ1度のそれで、方角が分かった。瀬藍は四つん這いでゆっくりと、音を殺してそちらへと近付いた。


 ヒュン、という音が、また聞こえた。またすぐにヒュン、ヒュンと。


 近付けば近付くほど、あたりがうっすらと明るくなっていく。まるでその音が大気を揺らす度、光が地に優しく満ちていくような。だが実際は木々の間隔が徐々に広がって、月の光が瀬藍のところにまで降り注いでくるだけのことであった。


 しかしこの音の正体はまだ目に見えない。音に導かれ、月影に誘われ、瀬藍は、茂みの向こうに広がる光景を目にした――……、






 ――ヒュン、と光が閃いた。






(……あ――……)


 見えてきた光景に、ゆっくりと目を見開いた。


 ヒュン、と音が鳴るのと同時、やわらかな月光を研ぎ澄ませた光が一閃する。


 瀬藍が身を隠す茂みの向こう、木々の間。木漏れ日ならぬ木漏れ月を浴びて、誰かが絶えず動いていた。


 手には得物が握られている。その刃が素早く、鋭く空を切る。その度に、月光が弾かれて火花のように瞬くのである。火花よりずっと冴えた、冷たい光で。


 刃の無駄のない変則的な動きに、刃が弾く一瞬の光に目を奪われる。しかし瀬藍が目を離せなくなった理由は、他にもある。


(……面……)


 漆を塗ったようにつやのある黒い面だ。仄明るい月明かりを受けて、濡れるように光を反射している。


 鋭い目の形に合わせて穴が貫通している。その目元に沿うように赤い塗料で模様が描かれていた。面の頭にあたる部分には頭(と)襟(きん)まで被せてある。どうやら鳥の面らしく、鋭い嘴が突き出ている。面の主が動く度に、頭の後ろで括られた紫色の面紐が舞った。


 その嘴部分がちょうど鼻のあたりを覆っているように見え、それより下はなかった。口、顎と、木漏れ月の下に晒されている。だから空を切る音に混じって、呼吸の音も割によく聞こえる。


 整った呼吸だ、と瀬藍は思った。刃が振るわれ、袖が舞い、面紐がなびき、その度短く鋭く、息が吐き出される。そして必要な分だけ息を吸う。また刃が振るわれ、息が出る。動きひとつ、呼吸ひとつ取っても、何から何まで無駄がなかった。


 月明かりの下で行われるそれは、神に奉納する舞なのだろうか。もしかして、目の前にいるのは神使(しんし)なのではないだろうか。人でも獣でも妖でもない、神の使いだと言われるモノ。馬鹿げてると一蹴されそうな考えが、瀬藍の中で真実味を帯びてくる。だってこんなにも何もかもが神聖なのだ。


 現実離れしたそれにぼうっと魅せられるまま、瀬藍は、いつの間にか棒立ちになっていた。この舞をもっと見ていたい。泣いて痛くなった目が、それでもこの光景を焼きつけようと夢中になっていた。


 夢でも見ているかのような心地で、ふらりと1歩、足を踏み出した時だった。


「――ッ」


 面の主によって作り上げられていた空気が、ブツリと途切れた。夢から覚めたように、瀬藍は目を見開く。


「……あ……」


 急に現実が迫ってきて、瀬藍の血の気がざっと落ちた。


 どこだか分からない森の中。他にひと気はなく、今は真夜中。体力は万全とは言い難く、面妖師などという卑しいとされる身分の小娘が、1人でいる。……そんな。そんな、状況で。


 ――黒い面をした男が、こちらを見ていた。

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