伍 土砂降れば塒は失せり
雨季でもないのに急に降り始めた雨は、そのまま止むことなく小雨から葉を打つしっかりとした雨音へと変わっていた。天幕に雨粒が弾ける音が、絶えることなく夜を満たしている。
その天幕の下にいる
(……呪符、扱い辛いな……)
正確には符が、であるのだが。
つい先程まで瀬藍と
戦力としてやって来た面妖師達は天幕の下、地図を広げ何やら話し合っている。先程こちらに辿り着いた時、瀬藍と未純でたどたどしいながらも状況を説明しておいている。それを元に計画を立てているのだろう。「四季華達が戻ったらくわしく聞こう」「
未純は今、里からの祈祷師から何やら教わっているらしい。祈祷師は里の中で数も少なく、面妖師よりさらに密接な関係になる。里の祈祷師の言葉に、未純は真剣にうなずいていた。
手伝いとしてやって来た若者達は、つい先程まで自分達の為の天幕を張っていた。瀬藍と未純が張ったのは数人が雨宿りできる程度のものだったが、こちらはもっとずっと大きい。枝から枝へ、器用に渡して広々とした庇を作り上げていた。後は瀬藍が水源まで案内してそこで水を汲んだり、火を熾したり下に敷き物を敷いたりと忙しい。
その隅で背負って来た木箱を机代わりにして、瀬藍は呪符を作ることに専念している。
呪力を込められた後の呪符であれば、雨ごときの湿気も吸わず水たまりに落としたとて墨液を滲ませることも破けることもない。人々が生活で使う普通の火にも滅多に燃えない。だが、呪力のない状態であると、普通の紙よりは丈夫ではあるもののやはり弱いのだ。
そういうわけで、普段よりも集中して事に当たりたいのだが、
「瀬藍、何やってんだこっちをやれ」
「う、うん」
こうして何度も集中をぶつりと千切られる。主に声を投げてくるのは里の者たちだ。
「お前ごときが常宵に入れるとでも思ってるのかよ」
「……」
雨音よりもはっきりと聞こえる嘲りには小さな会釈だけをして言われたことを手伝う。
四季華の命で武具に呪符、そして面の手入れと管理を任されたが、それは狐面衆が聞いていたことであって里の者達はあずかり知らぬことだ。それに、自分の道具の管理は自分でやるのが当たり前。四季華の命だと主張すれば「嘘つけ」と切り捨てられるか後で四季華がお咎めを喰うかのどちらかだ。前者ならまだしも、後者であれば四季華に迷惑がかかってしまう。
里の者達は、四季華の言っていたように影縫いはまだ行わないものの、準備は整えさせることにしたらしい。運び込まれた大量の釘を皮の袋から取り出し、若者達に配っていく。この地面から瀬藍の腰ほどまでもある巨大な釘が、影縫いで必要なのである。
釘を渡す相手の中には、無論、狐面衆の者もいる。
「お前は出しゃばらずに雑用やってりゃいいんだよ」
てっきり里の方の者かと思えば、目の前にいたのは
四季華に託された呪符のことが頭をちらつく。四季華、氷槍、朱火に合いそうな呪符を作って渡してはいるが、常宵ともなればすぐになくなってもおかしくない。他の呪符ならあるが、できれば彼ら向けに誂えたものを渡したい……。
今命じられている手伝いも大切なことだと頭では分かっているが、もどかしい。
(……こんなんじゃだめだ)
自分の分の釘を手に取った瀬藍は、ひとつ息を吐いた。今の自分は、焦っている。これではいざ四季華に言われたことを果たす時間を得られても、いつも通りに丁寧に呪符を作ったり面を点検したりもできはしない。紙に描くのも失敗しそうだし、面のわずかなひびも見落としてしまいそうだ。
四季華、氷槍、朱火の3人での常宵の偵察は、1回につき二寸(約12分)としている。わずかな休憩や報告を挟み、それを既に2回こなしていた。今の不在が3回目にあたる。
無事戻って来た朱火もまた、「本当にただの森みたいだわ」と変な顔をしていた。これほどの異様な“淵”だというのに、中が「ただの森」とはこれ如何に。妖も相変わらず姿も声も、気配すらなかったという。
そんな状態なので呪符を使う機会もほとんどないのだが、いつ何が起きるか分からない。呪符は多いに越したことはないだろう。
「そろそろ帰ってくる頃か」
里の壮年の面妖師がつぶやく声が聞こえた。
里の者たちがこちらに辿り着いたのは、四季華達3人が3回目の偵察に行った直後であった。確かにそろそろ二寸が経つ頃だ。
ついさっきまでは、二寸が経つのが怖かった。身体にしみついている時間感覚が、否が応でも刻限を感じ取ってしまう。……それでも四季華達が帰って来なかったら。
しかし、四季華達はきっちり二寸間隔で必ず戻って来てくれた。常宵に彼らの背が消える度に次二寸経つ頃には恐怖がゆり戻ってきたが、それもくり返される彼らの帰還に薄らいできていた。
(だって、四季華達だもん)
2人は常宵を祓って生き延びているし、朱火もあの2人が常宵に入って問題なしと判断しているほどだ。彼らよりも実力のない自分が心配するのもおこがましい、と恥ずかしくさえなってきていた。
常宵も妙に静かだと言っていたし、今回も無事に戻って来るだろう。そして、里の年上の面妖師相手に冷静に状況を説明して、その後の本格的な常宵祓いにも一員として参加するのだろう……。
「――四季華‼」
鋭い悲鳴に、皆が一斉に顔を上げた。面妖師は、耳がいい。だがそれにしても、雨音に負けずに響いたその声は皆を一気に緊張させた。
「四季華だと?」
「どうしたんだ⁉」
「何があっ――……、」
口々に言い、天幕を出た面々は。言葉を止め、足を止めた。そうして次の瞬間、
「――四季華‼」
最初に叫んだ声の再現をし、皆が天幕を飛び出して行ってしまう。天幕の奥にいた者らには、何が何だか分からない。薬箱のある1番奥に戻って来ていた瀬藍もそれは同じで、――嫌な予感がした。
(いや、……そんなわけない……)
逸る気持ちと、押し留める気持ち。矛盾する思いのままにゆっくり、しかし鳴り止まぬ鼓動に急かされるように、足を動かす。そうして皆が駆け寄って行き、――それが見えた。
「――四季華、四季華‼」
「下手に動かすな、出血が酷くなる!」
「天幕に入れてくれ!」
「未純はいるか⁉」
そこはもう大混乱だった。
雨に打たれ、仲間達に囲まれている者がいる。右側を桐江に、左側を氷槍に支えられている――……、
「……四季華……?」
瀬藍のつぶやく声は、激しくなる雨音や皆の声にかき消されて誰の耳にも届かない。瀬藍自身、自分の声が自分の耳に聞こえたか定かでなかった。それだけ、目の前の光景は現実味が薄かった。
2人の男女に左右から支えられている青年は、血まみれだった。自分1人で立っていることもままならず、左右の面妖師から手を離されたら無様に土砂の中に倒れてしまうだろう。首ががくりと下りていて、表情が分からない。だが、白と黒の継ぎ接ぎ模様の着物と、そこにこびりついている血が、彼が誰であるかと、どういう状況であるかをはっきりと瀬藍の視覚に訴えてきていた。
「四季華、四季華っ‼」
彼に必死に縋りついているのは朱火だ。雨音をも貫くように、彼女の声ははっきりと頭を殴りつけてくるかのようだった。
「一体何があったんだ⁉」
「四季華がこんなになるなんて……!」
皆も、血まみれの四季華を前に動揺を禁じえなかった。霧津の怒鳴り声で何とか彼を天幕に運び込み横にするに至ったが、誰もが冷静ではいられなくなっている。未純が皆の間から華奢な身体を滑り込ませ、四季華の容態を確認していた。
「……突然妖が現れたんだ」
氷槍が、顔を歪め口を開いた。
「人の形をした何かだった。……そうとしか言いようがないモノだ」
それは一体、どういうことなのか。だがそれを誰かが問うよりも先に、氷槍が先を続けた。
「常闇の中を走っていたら、
氷槍がそこで、何故か言葉を止めた。そうして、サッと周囲に視線を巡らした。ほんの一瞬の動作であったが、誰かを探すような動きだった。四季華の容態を見る祈祷師、里の者達、狐面衆――……、
(――……。え?)
瀬藍のところで、視線が止まった。……気がした。
しかし誰が察するよりも早く、氷槍は“全体”に視線を戻していた。
「『さっきからずっと毒の匂いがする。不快だ』と言っていた。……言い終わるか終わらないかの内に、いきなり四季華が斬られていた」
氷槍は冷静に状況を伝えているが、それが努めての態度だというのは、誰の目にも明らかだった。彼の瑠璃紺の着物にも、べったりと血がついているのがよく見える。あれは、すべて四季華の返り血なのだろう。雨に打たれ体温をひとえに奪われながら、瀬藍はそんなことを茫然と考える。
「……あんたのせいよ……」
ゆらりと、火が立ち上るかのように。声が這い上がった。
「朱火」
「――あんたのせいよ‼」
留めるような氷槍の声。しかしそれすらも遮って、呪詛が響き渡った。
それが誰の声なのか。誰に向けて言った言の葉なのか。理解するのに、間抜けなほど時間がかかった気がする。
だって普段の朱火であればこんな風に髪をふり乱してなりふり構わず大きな声を出すことなどありえない。気が強くて厳しい人だが、状況を冷静に見れる人だった。ただちょっと、四季華についてだけは感情的になる人で。
そんな朱火が、はっきりと自分を睨みつけている。普段の比ではない。手負いの獣であるかのような殺気で、案の定、倒れ伏せる四季華の手をしっかと握ったまま。けれどそれが何故なのか、瀬藍にはまるで分からない。
(だって私、一緒に行ってない……)
自分はずっと、ここで待機していた。未純と力を合わせて場を整えて、里の者達が来たら状況を説明して、手伝いもして。
少しは役に立ったと、思っていたのに。
「朱火、今すべきは」
「あんたがあの時、四季華に怪我なんかさせなきゃ……‼」
氷槍が再度止めようと朱火の肩を押さえるも、彼女はそれをふり払った。ふり払って、声を荒らげる。耳の奥にじんっと、その響きが突き刺さる。
(……怪我……)
何故今、その話になるのだろう。瀬藍は突っ立ったまま、やはり頭が真っ白になっていた。
狐面衆も、
「おい朱火、何で今その話が出るんだ……?」
「ていうか、瀬藍が四季華に怪我を……って、何の話だ?」
「あの妖は、毒を持っていたのよ⁉」
……どく。という言葉が、じっくりと頭に沁み込んだ。
「だけど四季華は、それをみんなに黙っていて……知ってるのは、あたしと未純ぐらいで……ずっと半月以上、苦しんでいたのよ⁉」
(……四季華が……毒に……)
意味を理解した途端、ぐわんと頭を瓶か何かで殴られたような錯覚を覚えた。皆の視線が、こちらに突き刺さってくる。その感覚も、どこか遠い。
「ちゃんと怪我してることも伝えて、毒を喰らったこともみんなに伝えた方がいいって言ったのに……四季華、『それ以上言ったら瀬藍がもっと自分を責めるから』って……‼」
血に汚れ眠る四季華の顔を見つめた朱火が、地面に拳をふり下ろしてまた瀬藍を睨みつけた。
「何であの日四季華が常夜の中で面をつけていなかったか、あんた分かる⁉ 自分が囮になる為よ‼ でもそれは自分が犠牲になる為じゃない、」
痛い。
「四季華ほどの実力があったら、囮になっても無傷で妖を祓えるって確信があったからそうしたのよ⁉ そうじゃなきゃあたしも許可したりしない、何より‼ 自分だけが怪我をするような真似、頭目としてするわけにはいかないって四季華が決めていたからよ‼」
……痛い。
「それを、あんたが、あんたなんかが勝手な判断で動いて……‼ それで四季華に怪我させて、毒でも苦しませて、四季華の頭目としての矜持までへし折って‼ それで今度はこんな命にかかわる重傷⁉ ふざけないでよ‼」
――正論が、痛い。
「それで自分は常宵の外でぬくぬく過ごして、こんな、こんな……っ‼」
朱火がしゃにむに、四季華の懐に手を突っ込んだ。思ってもみない何事かと思う間もなく、何かを投げつけられる。
「——っ——」
それは瀬藍の胸にまでしっかりと届いた。皆が、朱火のただごとじゃない怒鳴り声と剣幕に押され、朱火と瀬藍の間からそっとどいていたからであった。雨の水気を吸ったそれは、ずんと胸にぶつかってどしゃりと落ちる……、
(……あ……)
もうひたすらに、頭が真っ白になっていた。ただ朱火の怨嗟を受け入れるだけの、器と化したようで。しかし足元のぬかるみに落ちたそれを見た途端、心が戻って来た。……戻って来て、しまった。
——面妖師たるもの自分の道具は自分でってのが常識だが、今回ばかりはそうも言っていられない。……恥ずかしい話だけどな。それに、今は少しでも上質な呪符が欲しい。
――後方支援になってしまうが、これも必須事項なんだ。どうか手を貸してくれ。
――……そうか。大事に使わせてもらうよ。
いつか誰かの役に立てばいいと思って作った、呪符が。彼が褒めてくれた、呪符が。雨に打たれて、泥に汚れていく。朱火は汚らしいと言わんばかりに自分の袖の内に収めていた呪符も地面に叩きつけていた。しかし、紐でまとめていた四季華の呪符に対しこちらはまとめられておらず、ひらひらと舞って地面に落ちていく。……雨に、濡れていく。
「こんなもの作ったごときで、彼を……四季華を守った気にならないで」
朱火は息を乱していた。はっきりとした拒絶が、心の臓を抉る。
(……あぁ。私は)
ものすごい勘違いを、してしまっていたらしい。
「――消えてよ」
私はただ、足手まといになりたくなくて。……誰かの役に、立ちたくて。
「……消えてよ‼」
だってそうすれば、四季華が喜んでくれるって信じてた――……、
「ごふッ」とくぐもった音がしたのは、その時だった。
「! 四季華‼」
四季華の手を握っていた朱火が素早く反応する。四季華の身体が跳ねたのを皮切りに、皆が押し合いへし合いで彼へとなだれ込む。「早く止血を!」「四季華、分かりますか⁉」……そんな声が飛ぶ。
瀬藍への非難の眼差しは、もうどこにもなかった。その代わり、――……瀬藍のことなど、誰1人として見えていないかのようだ。
見えていたとしたら、それは最後、朱火だけだったのだろうか。四季華へと引きずり戻された目線が、1度だけ、皆の隙間からこちらを射殺すかのように見据えた気がした。……本当はどうだったが、分からない。だってもう四季華の急変にみんな意識を奪われている。
瀬藍はそれを、ただ見ているしかできなかった。さっき呪符を叩きつけられた胸が、痛くて重い。……おかしいな、呪符は水気を吸わなくなるはずなのに。そんなことを、他人事のように考える。
足はそのまま、地に根が生えたかのように1歩も動かない。虚ろな目は、ただ皆の後ろ姿を映すだけ。雨音と口々に何か言う声は、意味を捉えることなく流れていく。
――でも気にしてくれるお前だからこそ、信頼できるっていうのもあるんだよなぁ。
憧れの、お兄ちゃん。
――ほらな。噛んだのはお前じゃないだろ?
誰もが信頼し、憧れて止まない、狐面衆の頭目。
――だから、お互い頑張ろうぜ。な。
(四季華……、ごめんなさい)
――……励みになっていたはずの言葉が。すべて、遠ざかる。
そうして、気が付けば……、足が勝手に動いていた。雨音に紛れ、皆の声にかき消され。誰もこちらに見向きなんてしない。
……謝りたいことが、たくさんあった。四季華、ごめんなさい。やっぱり四季華に怪我をさせた私が悪いよ。庇わせちゃってごめんなさい。毒を喰らってたなんて、知らなくて。呑気な私でごめんなさい。頭目であるあなたに守られるんじゃなくて、あなたを助ける存在でいたかった。……もっと前のことに遡れば、何度「ごめんなさい」を言ったって足りない。
――こんなもの作ったごときで、彼を……四季華を守った気にならないで。
(……本当に、その通り)
朱火のあの言葉は、
闇に吸い寄せられる。すぐそこで、手招きしている。瀬藍はそれに、
雨音が、耳を覆う。雨粒が、温もりを奪う。頬を伝っていくのが雨水なのかそうでないのか分からない。着物は重く重く、それでも、足は勝手に進んでいく。
そうして瀬藍は、完全に――……、
同郷の者達の前から、文字通り姿を消していた。
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