肆 いざや来ん来ん、宵の口

 ザザザザザ、という音が幾重にも重なる。新月の下を駆ける人影が、森の中に4つ。いや、1人はもう1人をおぶっているから、正確には5つだ。


 その様は、獣に匹敵するほどはやい。何も知らぬ常人がこんな夜闇が深い森で目にしたら、腰を抜かすのではないだろうか。現に常人は面妖師の優れた身体能力を不気味がっている。鍛練に励む様を偶然目撃され悲鳴を上げられるのは、面妖師にとって珍しいことではない。


(こんな風に荷を持っていたら、余計異様に見えるかも……)


 疾駆する皆の最後尾をついて行きながら、瀬藍せらはそんなことをぼんやりと思った。


 いつもはもっと身軽であるが、今日はそうもいかない。つい先ほどまで作っていた呪符にそれらの材料となる特殊な紙、筆や色とりどりの墨液、武具の手入れに必要な拭紙や打粉、丁子油など。面の手入れに必要な和紙や呪符なども入れた木箱を、瀬藍は背負っていた。


 瀬藍の腰から肩までを覆うこの木箱は、本来は医者が往診用に背負って歩く薬箱だ。四季華がいずれ使うやもと、質屋から安く買って瀬藍に与えていたものである。中が細かく区切られたそれは、様々な手入れの道具を入れて持ち歩くには打ってつけだった。


(四季華の先見の明は、本当にすごい)


 密かに感嘆しつつ、前を行く4人の背中を見る。


 先程茶の間で話していた通り、氷槍は未純をおぶって駆けていた。その速さはただ1人で走る時と何も変わらない。こんな速さで移動したことがないのだろう、氷槍にしがみついている未純は固まっているようだ。


 その未純の荷は瀬藍のと同じような薬箱で、朱火が代わりに背負っている。いつも通り自分の槍も1本手にして。四季華はいつもの常夜祓いで必要な最低限のものを詰めた皮の袋を背負い、さらには自分の槍と氷槍の槍、それに予備の槍を2本肩にかけて先頭を突っ切っていた。


 誰も彼もが、決して軽くはない荷を持ってなお素早いのだから、常人としてはより異様な光景には違いないだろう。しかしそれは、最後尾を走る瀬藍にとっても他人事ではなかった。


(……いつもとまるで違う……)


 背にある薬箱の重さだけではない。何もかもが非日常を実感させ、瀬藍を緊張させていた。


 燈記とうきの地では常夜はほとんど日中に起こるから、鍛練以外で夜間に森を走ることなどほとんどない。


 これほどまでに四季華と氷槍の気配がひりついているのも、常にないことであった。集中すべく黙っているにしても、いつもはここまで殺気じみてはいない。いつもなら「足引っ張らないで」と釘を刺してくる朱火も、今ばかりは瀬藍をひと睨みもせず黙っている。未純の背が見えるのも不思議な光景であった。


 夜であれ獣の気配がしてもおかしくない筈の森が、嫌に静まり返っているのも気になって仕方ない。響き渡るのは自分達の足音だけ。まるで、この世にはそれ以外の生き物はいないのだと耳に訴えてくるように感じる。


「四季華、着いたらどうするつもり?」


 そんな中で口火を切ったのは、朱火であった。


「まずは俺と氷槍で偵察に行く」


 まったく足を止めぬままに、四季華が答える。


「二寸(約12分)を目安に戻ってくる。それで問題なければ朱火も連れて入る」


 このように常夜に入って出て、入って出てをくり返すことは、珍しくない。その為面妖師は、幼い内から時間の感覚も叩き込まれる。


「最初以外は3人行動で動くつもりだ。……それと俺が言うまで影縫いはしなくていい」


「え?」


 朱火の怪訝な反応を筆頭に、瀬藍も瞬き、未純は顔を上げた。


 影縫いとは、常夜がそれ以上範囲を広げたり移動したりしないよう固定する術のことだ。人や獣の影を縫って動きを封じる術もそう呼ぶが、面妖師にとっての影縫いといえば前者である。


 常夜祓いの際、まず最初にこの影縫いを行うのが基本なのだが……。


「まだ向こうに人間が来たと気付かせたくない」


 四季華の言葉に、ざわりと肌が粟立った。


 確かに影縫いは、常夜という世界に外側から干渉する技だ。それ故に、中にいる妖からはその異変を感知されてしまう。人間への警戒を強め、その分立ち回りも厄介になる。


 本来であれば、人命が第一なのでそうであってもまずは影縫いを行うことがほとんどだ。放っておけば常夜は広がり、外にいる人間までも呑み込みかねない。日中の常夜であれば、干渉を察した妖でも手に負える範囲の脅威であるというのも大きい。


「俺と氷槍が偵察に行っている間、3人は常宵の近くに待機。未純はいつでも祈祷できるよう準備してくれ。必要なら朱火に手伝ってもらえ。瀬藍は水源の確保」


 前を向いて駆けるがまま、四季華はてきぱきと指示を出していく。そのきびきびとした声に、不安に沈みそうな心が引っ張り上げられていくのを感じた。


 水源を確保し、周囲で異変がないかを確認し、常宵の様子にも気を配ること。子どもが森に迷い込んでいるだけの可能性もあるから、見つけたら保護すること。里にも援助を求めたから、里の面妖師もいずれこちらに来ること。その場合、現状を伝えてほしいこと。そうしたことを、四季華は無駄なく指示していった。それが終わった頃だ。


「――ここだ」


 氷槍の静かな声に、瀬藍は反射的に足を止めていた。……そして目の前の光景に凍りついた。


(……これは――……!)


 そこが常宵の“淵”であることは、一目瞭然だった。


 静寂を彩る、夜闇の中。そこよりなお濃い闇が、目の前に広がっていた。あまりにその黒は深く、そこが“淵”だと分かるのに、あと何歩でその中に入れるのかが分からない。


(……昼間の常夜とは、まるで違う)


 異様な妖の世との境目に、瀬藍はごくりと唾を呑み込んだ。


 昼間の常夜は、遠くから見ると境目が分かる。物見櫓などから見れば一発だ。だが、近付けば近付くほどにその境目が曖昧になる。妙に暗くなっているところがあるような、蜃気楼が揺らめいているかの如く幻めいて見えているような。そうしたところへ向けて歩いていると、突然世界が夜に変わるのだ。


 一方常“宵”の淵は、明確にどこからがそうであるか分からないという点では同じだ。しかしこちらは、目の前にある状態で確かに違う世がそこに在ると分かってしまう。夜の闇の中だというのに、まぎれることなく異端であることを主張しているのだ。


「……これは……、下手すると吸い寄せられそうね」


 朱火が顔を歪め、そうつぶやいた。


 何故先程、穂の落で子どもがいなくなったという話を聞いて皆が常宵の可能性を危惧したのか。それこそがここにあった。


 常宵に限らず常夜にも言える話なのだが、これはただそこに入らなければいいという話ではない。“見ない”ことの方がもっと重要だ。淵を見つめている内、どういうわけか、意識をそちらに持って行かれてしまう。吸い寄せられ、気が付けば夜の世に立っている。あたりを見渡しても、出口が分からない。


 朝昼の常夜は、近付けば近付くほど境目が曖昧に見え、はっきりとは分からなくなる。だからいつの間にか“向こう側”に1歩を踏み出してしまっていることが多い。対するこの常宵は、はっきりと視認できる。だから気を付けられると考えてしまう常人もいるそうだが、そうもいかない。


 常宵が、「常酔とこよい」から転じた所以だと言われるのはそこにある。――淵を見つめた者は、「酔う」のである。現の夜闇に広がる別の夜(よ)に。


 妖が酔うほど居心地が良く力が増す、というのも所以ではあるらしいが、どちらにしても言い得て妙である。現に瀬藍も今、禍々しい気配を放つ闇から目を離せなくなっている。


「面をつけろ」


 氷槍の指示に、はっとする。帯に括りつけていた白狐の面を素早く外し、顔に嵌めた。――木々や草原くさはら、四季華達の輪郭がより明確に視認される。不気味な酩酊感も治まっていく。何より、慣れ親しんだ面の感覚にほうっと肩からこわばりが抜けた。


「それ以上近付くな」


 氷槍が短く釘を刺す。既におぶっていた未純を下ろし、彼女の外套を頭にまですっぽりと被せてやっていた。祈祷師は、面を被らない。その為、妖の皮で作り呪符で守護を固めたこの特殊な外套で彼女を守る。


(……こういう時にも役に立つんだ)


 この外套は、面妖師達の面の代わりの役目を果たしてくれる。その為、常夜に迷い込んだ常人を保護した場合はこれを被せるのだ。面を不気味がる常人は、命の危機にある常夜の中で面を薦めようものなら「そんなおぞましいものつけられるか」と頑なに拒否することが多い。面妖師の側としても、面は自分達の誇りであるから、常人などには、何なら他の面妖師にも自分の大事な面を被せることを厭う。


「お前達はこの場で待機してくれ」


 そう言い置いて、四季華が手早く準備を始めた。氷槍も既に面をつけ自分の槍を手にしている。偵察に行かない瀬藍達は、黙って成り行きを見守るしかない。


(……行か、ないと)


 瀬藍はぎゅっと唇を噛みしめた。四季華達の準備は早くも終わろうとしている。ずっと懐に入れていたものを取り出し、どきどきしながら待機組の脇をすり抜けて行く。


「四季華、あの」


 思い切って声をかけると、四季華の狐面がこちらを見た。他の3人の視線もこちらに集まっているのが分かる。こんな風に、他の人の前で四季華に話しかけたことがほとんどないので、どうしたって緊張した。


「これ、もしよければ」


「これは……」


 そこにある20枚ほどの呪符の束に、面の奥の目が見開かれた。自然な動作で、それを手に取る。瀬藍は四季華が受け取ったことにほっとして、今度はそそくさと青灰色の狐の元へと――氷槍の被っている面である――歩み寄る。目を伏せたまま、どうにか同じものを差し出した。


「氷槍も、……嫌だろうけど……」


「……」


 氷槍は瀬藍の手にある呪符に1度視線を落としてから、こちらを見た。


「人によって中身を変えているのか」


 四季華に渡したもの、自分に差し出されたものとを見比べて、氷槍が尋ねてくる。


「う、うん」


 瀬藍はおずおずとうなずいた。


 四季華には鶏冠石けいかんせきの墨で、氷槍には青藍色の墨で書いた呪符を渡してある。書いている紋様も、それぞれ微妙に変えてあった。


「……」


 氷槍は何も言わずに、呪符の束を手に取った。自分の手から呪符が離れたことに、瀬藍はほーっと息を吐く。


「ありがとう、助かるよ。いつの間に作ってたんだ?」


「たまたま今日、寝る前に作ってて」


 呪符の補給は、常夜祓いでは欠かせない。であっても各々で自分に合ったのを作るのが常であるが、瀬藍の場合は仲間たちのを押しつけられるので他の人の呪符を作る機会が多かった。そうしている内に、人に合ったものを考えて作ることに夢中になっていたのだ。


(よかった、氷槍にも受け取ってもらえて……)


 氷槍は特に、自分の道具は自分でという意志が強い。受け取ってもらえない可能性も高かった。瀬藍としては、せっかく作ったものでもあるし使ってもらえるとありがたい。


「……そうか。大事に使わせてもらうよ」


 狐の面を被っていても、笑いかけてくれているのが声で分かる。四季華が呪符の束を懐に滑り込ませた。氷槍はじっと呪符の出来を眺めてから懐に。ひとまず2人共が持って行ってくれるようで、瀬藍はほっと息を吐いた。


「――よし」


 表情を引き締め、片鎌槍を手にした四季華が、待機組を見渡した。


「先程言ったように、まだ影縫いには手を出すな。俺たちが帰って来て許可するまでは近付いてもならない」


 黒と白の継ぎ接ぎ模様の着物に身を包んだその姿は、頼もしい。


「もし常宵が広がる兆しが見えたなら、すぐに離れろ。俺たちが常宵から戻って来たら合図を出すから、それに応えてくれればいい」


 ――とにかく手を出すな、と。拠点でも言っていたことを、四季華はもう1度くり返す。念を押す。


「今はまだ常宵の気に慣れるだけでいい。決して慌てるな。――氷槍、いいか」


「問題ない」


 緊張感漂う問いかけに、しかし氷槍も落ち着いてうなずいている。


「それでは――行くぞ‼」


 四季華の呼びかけは、決して声を荒らげてはいなかったのに、夜闇によく響くようだった。それぞれの着物の裾を翻し、2人は華やかに、しかし静やかに常宵へと駆けて行く。四季華の着物は、白と黒の継ぎ接ぎ模様。氷槍の着物は、青海波の模様が躍る瑠璃紺色。


 面妖師が皆これほど華やかな着物を身に付けるのは、常夜の闇に何もかもすべてを呑み込まれぬよう、という願掛けであった。常夜に身を馴染ませるよすがとなるのは面だけで良い。その身に纏うものは、こちらの世と繋ぐものでなければ。


 だから余計に、常人には面妖師が奇異に映るのであろう。罪人と同じ面をつけ。しかしそれとも常夜ともそぐわない、華やかな柄や色、造りの着物を着ているというのは。


 氷槍も朱火も人目を惹くほど鮮やかな色合いでよく似合っているが、先頭を駆ける四季華の背中は誰よりも目を惹いた。きっとそれは、他の皆もであろう。黒と白という、下手をすれば闇に紛れてしまいそうな色合いは、しかし黒を根強いものとして際立たせ、白はくっきりとその中に浮かび上がる。


 常宵の中に突入したのだろう。四季華と氷槍、2人の背中があっという間に闇に呑まれるように侵食し、不自然に見えなくなっていった。


(……2人とも、どうか無事で)


 先陣を切った仲間達を見届けた瀬藍は、祈りを込めて両手をぎゅっと握った。そうして、四季華に指示された通り水源の確保へと向かう。ここに着くほんの少し前に、川のせせらぎを確かに耳にしていた。幸いなことに、水源はそう遠くないらしい。


 戦いはまだ始まったばかりなのであった。






 ただの偵察とはいえ、常宵の中に入ったともなれば無事戻れるかは定かでない。それは常宵の危険性を幼い頃から教わり、さらにこうして常宵の淵を目の当たりにして異常さが身に沁みた待機組には、余計に現実味を帯びたことであった。


 水源の確保がすぐに終わった瀬藍は、いつでも作業ができるように準備を済ませじっと待機していた。


 未純はイチイの枝を振り、周囲の気を少しでも整えようと集中している。この時期のイチイは、小さな赤い実をつける。未純が舞うように枝を振る度に、しゃん、しゃんと葉のこすれる音がし、彼女の両手首、足首につけられた鈴輪がりん、りんと涼やかな音色を立てていた。


(……すごい)


 実際にこのはらえを見る機会はあまりなく、瀬藍は周囲を清めていく未純に密かに見惚れていた。未純が舞い始めてから、より息がしやすくなったのは確かであった。しかしこの浄化も常宵には無意味らしく、淵に近い位置で未純の力がふっと消えているのが分かる。これは常宵に限った話ではなく、元々祈祷師が現世に身をやつした存在だからであった。彼女達の力が及ぶのは現世のみなのである。だからこそ四季華も祓を止めなかったのだ。


 朱火は野に駆ける狐らしい赤毛の色の狐面を被って、じっと淵を見つめていた。槍を肩にかけ、いつ何が起きても対処できるように神経を研ぎ澄ましているのが分かる。


 不思議な空間であった。ただイチイの葉が茂る音、鈴の音色だけが規則的に鳴り響く。その合間すべてを緊迫感が覆っている。


 朱火と瀬藍は、時折常宵の淵が揺らぐのを目にしてはっと構えるくらいしか動かない。淵にそれ以上の変化がないのを見届けて、その度またほっと息を吐く。


 そんな緊迫の中で、偵察組は予定通り二寸で帰って来た。


「子どもは見当たらなかった」


 開口一番、四季華が言った。


「四季華、大丈夫だった?」


 面をつけたまま3人を見渡す四季華に、いの一番に駆け寄った朱火が尋ねる。


「あぁ、大丈夫だ」


 その言葉に、朱火がほっと息を吐いた。瀬藍も、それにまぎれて細く息を吐き出す。四季華の後ろには、同じように面で顔を覆ったまま歩いて来る氷槍もいた。2人ともに怪我はなく、声を聞く限りでは精神的な消耗もなさそうだ。


「中はどうなってたの」


 表情を引き締めた朱火が、四季華と氷槍とに問うた。それは瀬藍も未純も気になっていたことで、四季華たちに熱心な視線を投げかけた。


 四季華と氷槍が、狐面の顔を見合わせる。


「まぁ、……そうだな」


 片鎌槍を肩にかけ、四季華が視線をやや落とした。


「子どもが見つけられなかったのもそうだが、妖も見つけられなかった」


「見つけられなかった?」


 思いも寄らない言葉に、朱火が訝しげにくり返した。


 四季華曰く。常宵の中を走り回ってはみたものの、妖の気配はまるでなく、どういった異能を授かっているかの手がかりすらもなかったのだという。


「無人の森をひたすら走らされてるみたいでな。気味が悪かった」


「森……?」


 瀬藍は思わずくり返していた。


 常夜の濃度――つまり、中にいる妖の強さ――を図る基準は、いくつかある。


 まず、昼に湧くか夜に湧くか。夜に湧く常夜は「常宵」と区別して呼ぶ名があるほどに、それだけで強い。別格どころかまるで別物だと、常宵を生き延びた者は皆口を揃えて言う。


 次に、実際に中に入ってみての瘴気の濃度。これも基本ではある。そうしたものを測るものがあるわけではないが、肌で感じる瘴気の重さ、呼吸してみての息苦しさや味でおのずと分かるものだ。無論、人体に負担がかかればかかるほど瘴気は濃い。つまり、妖は強い。


 そして同じく基本となるのが――中の景色である。


 常夜は、現世を闇で塗り替える。つまり、実際にある場所を様変わりさせている。その“様変わり”がどの程度なのか、というのが、面妖師が常夜に入ってまず見るところであった。


 燈記の地は緑豊かで、そのほとんどが森に覆われている。つまり常夜も森の中に湧くわけで、いざ入ってみると森が異形と化したような世が広がっている。実はこれは、比較的扱いやすい範疇であることを表している。


 例えばこれで、森の中に発生した常夜であるにもかかわらず中に入ってみてまったく違う景色が展開されていれば、それだけ主とも言える妖は油断ならないと判断されるのだ。


 常夜は、現世に干渉する業(わざ)だ。どれだけ深く干渉しているかが、そのまま瘴気や妖の強さに反映される。燈記の地では常宵が起きることの方が珍しい。さらに、森の中に湧いた常夜の風景も異形と化してはいるもののまた森。つまり、それほど強い常夜に悩まされずにきた、恵まれた土地なのだ。現に燈記の地に住み続ける瀬藍は常夜の景色を森しか見たことがない。


(常宵なのに、ここと同じに森が広がってる……?)


 その違和感に、瀬藍は首をかしげた。


 常宵は強い。だから当然、景色が変わるはずなのだが……。


「しかもまったく普通の森だった」


 四季華の言葉に、一同は、ますます怪訝な顔になってしまった。それだけを聞くと、とてつもなく弱い常夜という風にも捉えられかねないが。


「……常宵って、そういうものなの?」


 朱火が、皮肉を込めたような口調で問いかける。


「いいや、少なくとも前の常宵とは大違いだ」


 四季華がかぶりをふる。


「以前俺たちの入った常宵は、逆にもっと騒がしかった。鴉によく似た妖が空中に群生していて、そいつらを目くらましにまったく違う妖が常宵の主となっていた」


「森に湧いた常宵だが、中は岩山になっていた」


 そう付け加えたのは氷槍である。


「今回は誰もいなかった。――いるにはいる筈なのだが」


「……つまりそれだけ、気配をくらませるのが上手い妖ってこと?」


「どうだろうなぁ。それとも違う気がしたんだが」


 四季華が槍を肩に担ぎながらぼやいた。


「とにかく、今のところ妖に動きはない。そっちでも、常宵に動きがなかったんじゃないか?」


 四季華の予想はその通りで、待機組はうなずく外ない。たまに揺らぐだけだった、と朱火が言い添える。四季華は次の指示を出した。


「じゃあ、朱火。これからお前にも常宵に入ってもらう」


「分かったわ」


 朱火が、わずかに緊張のにじむ顔でうなずいた。しかし気の強そうな雰囲気はそのままで、見ていて頼もしい。それをまぶしく思いながら、瀬藍は朱火から視線をはがした。


「朱火はとにかく常宵に体を慣らすことに集中してくれ。俺と氷槍は引き続き偵察と子どもの捜索、それから朱火の補助だ」


「分かっている」


「よろしく頼むわ」


 朱火は若草色の襷を素早く結び直した。それは、常夜に入る前朱火が必ずやっていることであった。そうやって、気を引き締めているのだろう。特に今回は常宵だ。いつもよりきつく袖をたくし上げているように見えるのは、きっと気のせいじゃない。


(朱火も、緊張しているんだ……)


 当たり前のはずのことだが、この時、瀬藍は初めてそう実感したような気がした。


 だから、1歩を踏み出せた。


「あの、……朱火」


「何よ」


 襷掛けを終え、槍を手にした朱火がふり返る。きつい印象を与える瞳が、面に空いた穴から見える。こちらを睨むように見返してくるものだから、瀬藍は思わずぎくりとした。だが、もう時間がないのだ。目を伏せながらそそくさと朱火に近付き、呪符を彼女の前に押し出した。


 唐紅の墨で彩られた文字と図形が、六角形の紙の中で躍っている。


「持って行って」


「……」


 最早顔なんて見れなかった。「いらない」とはたかれてもおかしくない。覚悟している。でも。


(……変わりたい)


 情けないことに、わずかに手は震えてしまっている。心の臓はドクドクと体の内側を叩くよう。それでも、踏み出さないより踏み出した方が遥かにマシなのだ。


「……あっそ」


 朱火が漏らしたのは、それだけであった。あぁこれは、見向きもされない感じだろうか……と下ろしかけた手から、呪符がかすめ取られた。


 えっ、と瀬藍は顔を上げる。朱火はとっくに常宵へと歩み寄っていて、瀬藍から見えるのは後ろ姿だけだ。でも、手にあるものを懐へとしまい込んだのが、確かに見て取れた。


「よし、行こうか」


 四季華がちらりとこちらを見た。笑みを含んだ目と目が合い、次の瞬間にはもう常宵へと駆け出している。氷槍、朱火と躊躇なくそれに続いた。


 深淵の闇は、あっという間に3人を呑み込んだ。


「……あ、雨……」


 ふと未純がつぶやいた声に、瀬藍は黒々とした葉越しに夜空を仰いだ。薄く星明りが瞬いていた空は今や仄暗い雲で覆われ、そこから一粒、二粒と、雫が落ちてきていた。


 このあたりではこうした天候の変化が珍しくないものの、常宵を前にしてのこの雨は吉兆、どちらを表しているのか。薄く雨が漂い出す中でそこまで考えた瀬藍は、しかしかぶりを振った。


「未純、ごめんね。天幕張るの手伝ってもらっていい?」


 未熟な自分では常宵には入れない。けれど、やれることはたくさんある。

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