参 日は蝕まれ、凶星が瞬き

 夜中に「常夜が湧いた」との報せが入った時、瀬藍は呪符の予備を5日分は作り、寝ついたばかりだった。狐面衆の里に火急を報せる鐘が鳴り響いたのだ。まだどこかぼんやりする頭をふり、納屋を出る。


 寝ずの番をしていた者以外は、寝静まっている刻だった。日をまたいで少し経った頃か。母屋の茶の間は食事時だけでなく、常夜祓い前の作戦会議やその後の報告を行うことにも使っている。そこに全員が集められた。


「3つの落(らく)から報せが来た」


 茶の間の中央に、皆で車座になった。灯りは頭領である四季華の前に置かれた1本の蝋燭のみ。常人より夜目の利く面妖師なら、それだけで全員の顔が見渡せる。今宵の寝ずの番の1人であった氷槍が、単刀直入に告げた。


「薙(ち)の落(らく)と李(り)の落、そして穂の落からだ」


(穂の落……)


 つい先日、瀬藍が四季華に怪我を負わせたあたりだ。どきりとして身をこわばらせる瀬藍であったが、皆氷槍の報告に集中していて瀬藍のことなど気にしていない。


「氷槍、まさか」


「あぁ」


 仲間の1人の緊張した問いかけに、氷槍が静かにうなずいた。


「――『つい先程、常夜が湧いた』と」


「……!」


 息を呑んだのは、何も瀬藍だけではない。誰もが氷槍の報告にやはりと思う一方で驚愕し、言葉を失っていた。


『常夜』とは、昼日中をあっという間に異様な夜の色に染め上げる現象からそう名がついている。日が出ているにもかかわらず闇で覆ってしまう、と。


 だがその一方で、そこには人々の切実な願望も見え隠れしている。


 ――どうかこの平穏なる夜をも奪いませんように、と。


(狐面衆ができて、2年になるけど……)


 こうした事態に直面するのは、初めてになる。瀬藍はそっと全員の顔を見渡した。皆が緊張し、動揺しているのが薄明かりの中でも分かる。瀬藍はごくりと唾を飲み込んだ。


 それだけ、夜に発生する常夜というのは、未知の世界であった。


「さらに穂の落からは、子どもが1人いなくなっているという報せも来ている。男児で、年は6つだそうだ」


 氷槍が淡々と告げた言葉に、それは……と誰かが苦々しげにつぶやいた。


 家出だとか、こっそりどこかに遊びに行っているとか、実は家の中に隠れているという可能性も否めない。だが、常夜が湧いたという報せを聞いた後では、そう楽観視もできない。それが夜の常夜ともなれば尚更だ。


「どうする、四季華。里の者らを呼ぶか?」


 仲間の1人が、四季華に目を向ける。皆もざわめきを消して、まとめ役へと視線を注いだ。姿勢を正した彼らの様子にも動じず、四季華はやや下を見つめて口を閉ざしている。端正な顔立ちには影が差し、それがより一層彼の表情を険しく見せた。


「――夜に湧く常夜は、確実に長期戦になる」


 やがて、四季華が静かに口を開いた。


「燈記(とうき)の地では稀なことだから、経験している者も多くはないだろう」


 その言葉に、ほとんどの者が苦々しい顔になる。経験者であり生存者であるのは、四季華の他に霧津(むつ)と氷槍だけ。他は皆、あたったことがない。


「俺は狐面衆を任された時、里の長たちに夜間に常夜が湧いた際は必ず里に報せろと言われている。援助を送るからと」


 それは初耳であったが、驚くほどでもなかった。経験者はたったの3人。それらを含めても皆まだ若い。後を継ぐ者をむざむざ失いたくないのは、代々面妖師の里を守ってきた一族としては当然の心理だ。


「……だが、今回は……」


 橙の灯りが照らす、仄暗い中であっても、四季華の苦悩が目に見えるようであった。彼はきっと今、いなくなったという子どものことを考えている。


「四季華」


 静かに名を呼んだのは、狐面衆の副長として四季華を支えてきた霧津だ。この若い衆の中で最年長の彼は、しかし年下である四季華を頭領として尊重し、支えてきていた。四季華はそんな彼の目を、はっとした様子で見た。


「……」


 彼らの間に、言葉はない。ただ静かに、視線を交えていた。それを狐面衆は、ただ黙って見つめた。


 どこか昂る沈黙は、実際には5つ数えるほどもなかっただろう。しかしそれ以上に長く、濃く感じられた。四季華の目に、蝋燭の灯りだけではない強い何かが宿った。


「本来であれば、里の指示を仰ぎ、そちらの面妖師と合流するまで待機となるところだろうが……、」


 ここにない闇を見据えるかの如く、四季華が顔を上げた。


「――俺と氷槍で偵察に行く」


 きっぱりと告げられた言葉に、四季華の意志を尊重するつもりでいた面々がざわついた。


「四季華、それは……!」


「いくら何でも、お前に下見をさせるわけには」


「そうだ、偵察だけなら俺が行く」


「頭(かしら)として、四季華は待っていてくれ」


 朱火を筆頭に、四季華を留めようとする皆を容赦なく遮ったのは、


「――お前たちは『常宵(とこよい)』を甘く見ている」


 氷槍の冷徹な一声だった。


……常宵。現世の夜闇に湧いた常夜のこと。常夜(とこよ)威(い)、常酔(とこよい)が転じたとも。誰もが避けていた言の葉を、氷槍は敢えて唱えてみせた。


「昼間に湧く常夜とは比べ物にならない。瘴気は濃く、身動きが取りにくい。面が外れれば面妖師であれすぐさま命にかかわる。霧も濃く、闇は昼間の常夜以上に深淵だ。面をつけていてなお油断すれば呑まれてしまう」


 ――何より常夜とはまるで違う異界が広がっている、と。常宵を生き延びた者は語る。そこがどれだけ、危険な領域であるかを。


「何より、妖の強さは今までの比じゃない」


 常宵には、昼間の常夜に住まう妖を遥かに上回る殺傷力や敏捷性、凶暴性、知能――残虐性を備えた妖がいる。そんなことは常識だ。だから常人である落の者達も、夜中には特に神経質に見張りを巡らせる。盗賊や人攫いなどの侵入者を警戒してというのもあるが、それ以上に、この滅多に現れない常宵を恐れて。


 今回常宵の出現を周辺の3つの落がすぐに狐面衆に報せられたのは、そうした経緯があったからであった。


「奴――もしくは奴らに見つからないよう偵察できるのは、あの地獄を体験している者であった方がいい。仮に見つかっても、逃げられる」


「……」


 地獄と彼が言い切ったことで、茶の間はしんと静まり返ってしまった。


「……氷槍、ありがとう」


 四季華が、頭を下げた。氷槍はただ軽くかぶりを振るだけであったが、それで充分だったらしい。いつもの四季華らしく微笑んだ後、表情を引き締めて皆を見渡した。


「どちらにせよ、里の者に待機せよと言われても、偵察だけはこちらで行うつもりでいた。確かに俺も霧津も氷槍も常宵を経験しているが、それだって1、2度程度のものだ」


 それだけ常宵が稀ということである。


「ただ入るだけでも危険だが、その分得られるものは大きい。そして俺たちは、圧倒的に経験が足りない」


 だから場数を踏ませる為に、積極的に狐面衆を参加させるつもりでいた。偵察でも後方支援でもいいから。常宵のすぐ外で待機だっていい、もし入る機会がなくても、そこの緊張感を知っているのといないのとではまるで違う。ただ故郷の援助を待つだけなのではなく、その援助に何もかもを任せてこの里でやり過ごすのでもなく。もっと自分達で、自立の地盤を固めていけるように。


「本当なら、常宵に入ったことのある俺らが付き添いつつ、ここにいる全員に一瞬でもいいから常宵の地を踏ませたかったんだが……」


(……そこまで考えていたんだ……)


 瀬藍は四季華を見つめ、静かにその本心に驚いていた。


 里ではどうしたって、掟や伝統が最重要で、年功序列の世界だ。実力主義の側面もあるが、年の長さはそれだけ数々の常夜を経験し生き延びてきた証でもあるから、やはり年がものを言う。


若い上に足手纏いの瀬藍はそれに従うしかないが、四季華はそこまで考えていたのだ。


(それに全員ってことは……、)


 わずかに胸の奥底が熱を持とうとしているのには気付かないふりをして、瀬藍は四季華の話に集中した。


「だが今回は時間がない。子どもの命がかかっている」


 四季華の目には、もう迷いがなかった。


「だから、今回は人命を優先した結果なんだと思ってもらいたい。決してお前達を軽んじているわけではない」


「……」


 四季華を慕う皆、危険な役を任せたくない一方、常宵を経験していないという後ろめたさや、四季華の熱意と主張の正しさに、何も言えなくなってしまっていた。


 面妖師は、常宵を生きて祓えて一人前。そうも言われるほどだから、狐面衆においては四季華と霧津、氷槍は特に一目置かれていた。


「3つの落の報せから当たりをつけて、大雑把に囲ってみた」


 話はついたと見たのだろう。四季華の隣にいる霧津が、中央よりやや四季華寄りの位置に広げられていた地図に手を置いた。


ここから北西の広々とした狭架(さか)の森の中に、紫の墨でぐるりと大きく囲まれた円がある。それが常宵を示しているのだろう。ちらを視線を落として場所を把握した四季華が口早に言う。


「偵察の俺と氷槍、それと補助1人、後方支援2人で先に行く。霧津、後のことは頼めるか」


「あぁ」


(――え?)


 心得た霧津をよそに、瀬藍は自分の耳を疑った。今の四季華の言だと、5人で行くということにならないか。たった、5人。四季華に負傷させてしまった時、穂の落付近で6人で当たっていた。それよりも、少ないのか。


 そしてそう思ったのは瀬藍だけではなかったらしい。


「たった……5人……⁉」


 信じられない、と言わんばかりに聞き返したのは朱火だった。他の面々も同じような表情で口を開きかけるも、


「時間がない。意義は認めない」


 ぴしゃりと黙らせたのは氷槍だ。四季華も当たり前のように話を続ける。


「同行者を言う。――まずは朱火」


「!」


 名指しされた朱火が、目を見開く。


 常宵祓いの経験こそないものの、朱火は氷槍に次ぐほどの優秀な面妖師だ。順当な人選と言える。


「返事は」


「わ、……分かったわ」


 朱火がわずかに頬を紅潮させながらうなずいた。


「それから未純(みすみ)」


「私……ですか?」


 意外な指名に、未純が目を見開いた。


 未純は祈祷師だ。瘴気を祓ったり、病や怪我、呪詛の祈祷にあたる彼女は、常夜に赴くというよりは拠点に定在し帰ってきた皆の治癒にあたる役割だ。現地に行くことはあまりない。


「時間がない。現地に向かいながら説明する」


「で、ですが、私は皆様のようには走れません……!」


 生まれた時から祈祷師として育てられてきた未純は、当然面妖師としての訓練は受けてきていない。体力も身体能力も常人と変わらない。火急を要するこの場面で、足手まといになりかねないと思ったのだろう。


「氷槍、おぶってやれるか」


「あぁ」


「!」


 四季華の確認に氷槍が首肯し、未純がさらにびくついた。萎縮していると言ってもいい。


「俺と氷槍も偵察の際に負傷してもおかしくないんだ。よろしく頼む」


「わ、分かりました……!」


 四季華に頼もしく笑いかけられ、未純は力いっぱいうなずいた。


 その様子に、瀬藍はそっと微笑んだ。未純は自分よりひとつ年下で小柄な彼女は、とてもかわいらしく映ってしまう。栗色の髪は愛らしい巻き毛で、同じ色の瞳は大きく小動物のようだ。しかしこの年にして祈祷師としてとても優秀で、狐面衆の皆彼女を頼りにしている。


「!」


(あ)


 そんな未純と、ふと目が合った。未純は小さく会釈をして、気まずげにそっと目を逸らした。自分の顔を見た途端に、高揚が消え去ったのは間違いない。


(……それはそうだよね)


 役立たずの瀬藍、足手まといの瀬藍。そんな年上の者となんて、かかわりたくもないだろう。現に狐面衆の中で最年少は14歳で、瀬藍よりも余程役に立っている。現地に行ったことがないにしても、瀬藍の落ちこぼれぶりは耳に入っているだろう。優しい子だから露骨に嫌そうな顔はしないものの、いつもどこか申し訳なさそうに目を逸らされる。瀬藍自身、未純のそうした態度を察して怪我をしても極力彼女の元には行かずに自分で手当てするようにしていた。


「それともう1人……、」


 四季華が最後の同伴者を名指しするらしい。この中ならと、数人の候補が頭に浮かぶ。しかし彼ら以外でも、きっと四季華の役に立つだろう……。


「――最後に、瀬藍」


 ………………………………………………………………………………彼は異国の言葉でも話しているのだろうか。


「……。え?」


 何を言われたのかを理解し切れないままに、瀬藍は間抜けな声を漏らした。ざわ、と今までで1番露骨に、車座が蠢いた。


「四季華、何でこんな奴を⁉」


「1番役に立たないだろう!」


「未純は分かるけど、この子を置く意味が分からないわ」


「里に残留させるべきだ」


 不満がわっと溢れ、顔が自然と下がっていってしまう。ずしりと、石でできているかのように重たくて仕方ない。……誰もが自分を無視し四季華に向けて主張している。面と向かって言われるのとはまた違ったきつさがあった。


(本当のことなのに……)


 こんなことでいちいち傷付く自分が嫌になる。膝の上、着物の裾をぎゅっと握り締めて、耐えていると。


「そりゃそうだろう」


 四季華が、あっさりと肯定した。


「だってこいつ、呪符の扱い上手いんだから」


 瀬藍の同伴に大反対していた仲間たちが、呆気に取られた。瀬藍も、きょとりと瞬いてしまう。


「特に今はどれだけ呪符があっても足りない。常宵には長居せず、何度も出入りするつもりだ。常宵を辞する度に補充しておきたいんだよ。ほらこいつ、呪符作りがべらぼうに上手いだろう?」


 だからとにかく作ってもらいたくて、と四季華が続ける。


「面妖師たるもの自分の道具は自分でってのが常識だが、今回ばかりはそうも言っていられない。……恥ずかしい話だけどな。それに、今は少しでも上質な呪符が欲しい」


「……まぁ」


 氷槍が、素っ気なく同意した。


「他人の呪符を使うなど癪だが、常宵ともなればそんなわがままも言っていられまい」


「そうだな。面の点検なんかもさせるつもりか?」


「あぁ、そのつもりだ」


 霧津の問いに、四季華がうなずいた。


「瀬藍」


 狐面衆頭領が真剣な眼差しで、瀬藍を、瀬藍だけを見つめた。


「後方支援になってしまうが、これも必須事項なんだ。どうか手を貸してくれ」


「――……」


 瀬藍は、信じられない思いで四季華の顔を見つめ返した。


 これまで足を引っ張ってばかりだった瀬藍は、「経験を積む為」という面倒見のいい四季華の采配や、「雑用が欲しいから」というだけの他の仲間たちのおこぼれで任務にありつくばかりだった。留守番するだけの日も多く、むしろそちらの方が分相応だと思っていた。


 それが、思いやりでも押しつけでもない理由で、自分だからという理由で、必要とされている……。


 静かな高揚が、じわじわと頬を熱くした。


「返事」


「はっ、はいっ」


 氷槍に素っ気なく促され、瀬藍は慌ててうなずいた。四季華がそれに、ちらりと笑みを浮かべた。それでいい。そう言ってくれている気がした。


「今呼ばれた者は準備をして北西の物見櫓前に集合。揃い次第出発する。二寸(約12分)以内には必ず集まってくれ」


「あぁ」


「えぇ」


 氷槍と朱火が即座に承諾し茶の間を出て行く。未純と瀬藍が慌てて「はいっ」と続く声が重なった。顔を赤くしながら、瀬藍もそそくさとその場を後にする。仲間達とすれ違う際、確かに冷ややかな視線を感じた。何だよ。絶対しくじる。調子に乗るな。そんな囁きが、いくつも瀬藍の耳に入り込む。


 彼らをすり抜けた先、灯りをつけていない廊下は真っ暗だ。しかし茶の間から漏れる淡い光に背を向け駆け出した瀬藍は、まっすぐに前だけを見つめていた。

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