麒麟の男 明智光秀~賊軍の炎と戦国時代とその時代~

長尾景虎

第1話 麒麟の男 明智光秀~賊軍の炎と戦国時代とその時代~

麒麟の男・明智光秀

賊軍の炎と戦国時代と

<大河ドラマ『麒麟がくる』記念作品>~第六天魔王織田信長を殺した男~


                あけちみつひで のぶながをころしたおとこ

           ~「賊軍の将」明智光秀「策士」の戦略と真実! 

                 今だからこそ、明智光秀の真実

                 total-produced&PRESENTED&written by

                  NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎

             this novel is a dramatic interpretation

             of events and characters based on public

             sources and an in complete historical record.

             some scenes and events are presented as

             composites or have been hypothesized or condensed.

        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



~この小説は史実を基にしたフィクションも含まれています。一部、史実にはないところも御座いますので、ご了承下さい。~





   逆軍の炎 明智光秀 あらすじ<一部「ネタバレ」から引用>

脚本家のジェームズ三木氏が1995年大河ドラマ化するつもりだったとか。現在は福知山市、綾部市などが大河ドラマ化の招致活動をしている。2020年の大河ドラマとして決まり放送。タイトル『麒麟(きりん)がくる』。主役の明智光秀役は俳優の長谷川博己だった。

播磨の小寺政職の家老黒田官兵衛は、自分でも惚れ惚れする才能を持っており、別所や赤松といった播磨の大名達との戦いでも自慢の頭脳を使い小寺家を勝利に導く実力者である。

小競り合いが続く播磨とは違い中央では織田信長が勢力を拡大しており、情報収集に余念のない官兵衛はいずれ信長の勢力は中国地方にまで及び、毛利家との長い戦いが始まると予測していた。

秀吉が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。三成は秀吉の重臣・幼名・左吉である。十歳の頃より秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の合戦で武功をあげて出世した。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。その頃、三成は生まれた。三成が本当に得意だったのは貿易や検地などだった。決して勇気がない訳ではなかったが合戦は苦手だったようだ。小田原城水攻めでは自分のほうが溺れ掛けている。秀吉の死後は家康と並ぶ実力者となった。しかし、福島正則や加藤清正など武力自慢の武将に攻められ、一時、領地佐和山に隠居している。だが、野心を捨てた訳ではなく家康が会津討伐に向かうと毛利や上杉などと連携して挙兵した。関ケ原の戦いへ… だが、小早川秀秋の寝返りで西軍はやぶれ、三成は遁走して捕らえられ三成は首をはねられた。その後、大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康の天下になり、家康は死んだ。徳川幕府は二百七十年続いた。幕末の維新の英雄は私の各小説に詳しい。

 三成はその徳川政治を変えようとした最初の男だった。それだけに幕末の龍馬、勝海舟、西郷隆盛や木戸考充(桂小五郎)、高杉晋作と同じように評価されてしかるべきである。 平成の官僚霞ヶ関幕府末期の今、石田三成や嶋左近は再評価されてしかるべきだと著者は思う次第である。三成こそが独裁者への最初の反抗者だったからだ。       おわり


         1 桶狭間合戦と明智十兵衛光秀



運命のとき、明智光秀が軍勢を従えて月夜の山道を行軍しているとき、光秀は思った。

……土岐(とき・時)は今、天(あめ・雨)がしたしる五月哉(かな)……

馬をとめた。いよいよ、興奮した。鎧も、水色キキョウの旗指物も、すべてに〝命〝が宿った気がした。「…皆の衆!」光秀は月夜の天から金色に輝きながら現れる巨大な麒麟(きりん)が見える気がした。麒麟とは古代中国で、仁愛に満ちた政治家や武将のところに現れて、幸運を授けるのだ。「天が金色じゃあー!」「黄金色じゃあー!」

「皆の衆! 聞け!」光秀は決意を固めた。呼吸が荒くなる。

「これより、京へ進軍する! 我々の敵は毛利にあらず! 敵は…」

天空がまばゆい程の黄金色になる。麒麟じゃあー! 運命の麒麟じゃあ!

「敵は……本能寺にあり! 織田上総介信長を討つ!」

おおおぉーつ! 「続けー!」おおぉーつ! 馬上の光秀はにやりとなる。

まさに、正義の軍勢、麒麟に微笑まれた軍勢が本能寺に向けて一斉に駆け出す!

 敵は、本能寺、に、あり!

まさに、運命の時、で、ある。





 明智十兵衛(のちの明智十兵衛のちの明智光秀)は美濃国(現在の岐阜県)明智荘で生まれた。その頃の光秀の記録……というより光秀が美濃で斎藤道三の家臣としての数十年、あるいは信長の家来となるまでの過程、少年時代、それらの資料は残念ながら残っていない。つまり、諸説あるのだろうが、若い頃の明智光秀については何の資料もない。まったくの謎の前半生なのである。

但し、美濃一国を支配することになる斎藤道三の家臣であり、『美濃の虎』として、道三の重臣というか。道三の妻(小見の方)が光秀の叔母である。

そのころに『美濃の虎』と恐れられ、軍略や武勇で知られたのがのちの明智十兵衛、こと、光秀である。道三に寵用された光秀は、道三に美濃一国をとらせる。

〝ガマの油売り〟出身の下克上の男・斎藤道三は、光秀の知略と軍略で、美濃管領・土岐一族をやぶり、道三を『美濃国』の〝守護代〟にまで出世させる。ちなみに、斎藤道三は最近の研究では親子二代で、美濃国の〝守護代〟になったことがわかっている。がまの油売りの父親と、その息子が美濃の土岐氏を破って追放、美濃を二代で乗っ取った。

「殿! ようやっと、美濃国の守護代ですな。美濃の天下こそ天下最上で御座る!」

「光秀。いや……〝美濃の虎〝よ。お前はいつも「美濃だけで充分」などというが、もっと天下を、広い世界に出よ! 何度も言うが『大きな世界と対峙することがお前の宿命』じゃぞ。光秀ならば天下の大名も夢じゃない。野望をもて! わかったか?」

「……道三さま。いさい承知!」光秀は戦場の幔幕の中で平伏する。

鎧姿の若武者は眉目秀麗で、なかなか凜々しい。美形の武将でもある。

「美濃が手に入ったのも光秀のおかげじゃ、褒美をとらそう」

「ははっ!」

実は、美濃の斉藤家との縁は深い。土岐家の親類縁者でもあったが、斎藤道三の豪快さに懐の大きさに惚れて、道三の参謀であり、軍師となっていた。

 明智十兵衛光秀は美濃国・明智荘で生まれた(生年月日不明)。祖父は明智光継で、父は明智光綱、母は小牧の方、父親の光綱の妹が道三の妻で、道三の娘が帰蝶(濃姫)。父親の光綱は光秀が幼い頃に死んでしまう。母が光秀を育てた。

 父親代わりは叔父の明智光安だ。その頃、道三の家臣だった光秀の故郷・明智荘は度々、悪党の強盗集団に襲撃されていた。光秀は頭脳を使い、少人数ながら悪党共を撃退し、斬り倒すのだが、不満たらたらである。悪党の棟梁が鉄砲をもって、銃弾で光秀の味方を倒して、銃弾が光秀のすぐ横を通り、空圧を感じて驚いた。が、悪党共は退散する。

「いくら斬り倒せば! ……いつになったら斬り合いのない平和の世がおとずれるのか! いつになったら戦乱の世がおわるのか!」

 戦って光秀は血だらけになり、血の付いた刀を振って、血を払い、怒りを爆発させる。

 屋形に戻ると、光秀は尻から屋形の裏門の釜戸部屋に入る。

 母の小牧の方が不思議に思って、「光秀、何故、背中を見せているのです?」

「母上は昔……悪いことをしたら尻から家に入れ、と仰りましたから」

「なら、尻を叩かねばなりませんね」

「え?」光秀は冷や汗をかく。光秀は〝土岐源氏〟の末裔でもある。

 父親代わりの叔父・光安に戦のことで不満を言うと、「なんでもいいから戦え! 明智荘を守れ!」とどやされる。

「しかし、敵は数百……わが方は数十人……せめてもう少し軍勢があれば…」

「問答無用!」

 とりつくしまもないので光秀は不満が溜まるばかりだ。が、できるのはちいさな奇声をあげるくらいである。ところで、明智光秀の信長に仕えるまでの前半生がまったくの謎と書いたが、最近の研究では美濃国でホームドクター(外科・産婦人科)のようなことをしていたらしい。光秀の署名入りの『針薬方(しんやくほう・医学の書)』が発見されている。

〝金痕(金創・きんそう・刀傷)〟を診ていたという。

一度書いているが道三の正室・小見の方は叔母であり、のちに織田信長の妻となる道三の娘・濃姫は従姉妹ということだ。斎藤道三はやがて、息子の義龍(よしたつ)に殺されて、光秀も狙われて、全国を放浪し、〝権謀術数の将軍〟とも呼ばれた足利義昭と出会う。

光秀は、織田信長のもとへ仕官する。

そこまでは誰でも知っているだろう。だが、光秀がいなければ織田信長の〝朝廷工作〟は失敗しただろう。知恵の男・秀吉でさえ、〝朝廷工作〟は苦手としていた。

〝朝廷工作〟の達人でもある明智光秀がいなければ、織田信長は天下に号令をできなかった可能性は高い。光秀の才覚が、将軍・幕府・朝廷・天子さま(当時の天皇陛下)への働きかけを可能にし、信長の野望をたすけた。

明智光秀こそ、まさに、運命の人間だった。

だからこそのその後の『本能寺の変』であった。

光秀が〝主君殺し〟『本能寺の変』で信長を殺したのは、怨恨か、黒幕説か、攘夷説か、天下を狙っていた説か………今となっては何の確証も真実をあぶり出すことも不可能である。

だが、織田信長は死ぬべき人間ではなかったのか?

少なくとも、織田信長に長生きされて天下を取られて困る人間や勢力は大勢いたのだ。

その時代の波長や空気を読んで、信長を討ち果たしたのが、光秀である。

まさに、明智光秀は〝麒麟の男〟で、あった。



 主従関係が出来ていく。

義龍(のちの斉藤義龍)と半兵衛(のちの竹中重治)の主従関係が、である。

しかし、道三の子・義龍は邁進していく。

さらには奸臣の讒言(ざんげん)で、父親の道三を殺すにいたって、竹中半兵衛や明智光秀は斎藤義龍やその息子の龍興は彼らから見放される。

織田信長の勢力によって、やがて、道三の死後、斎藤家は滅亡…美濃は信長の領地となり、名を「岐阜(ぎふ)」と改めることになるのである。

 月日は流れ、織田と斎藤の密談の寺あとに明智光秀青年と細川藤孝青年がいた。

織田方の状勢を探る目的であった。

「ここかあ。一度来てみたかったのじゃ。」

「あそこが、斎藤道三さまが織田信長とあった寺……織田方は軍をふたつにわけて〝きつつき作戦〝で我らが斎藤道三公の軍を裏と表で挟み撃ちにしようとした…」

「しかし、道三公はそれを見抜き、夜明け前に行軍……濃い霧が晴れると織田信長は前面に斎藤家の旗を見て驚く。御屋形さまは一騎で織田信長と会談にいどみ、信長のうつけを諫めたそうな。…まさに御屋形さまは釈迦牟尼(しゃかむに)の化身!」

織田方の状勢を探った明智十兵衛(のちの明智光秀)と細川藤孝青年は天正元年(1573)、一路美濃の稲葉山城に馬で戻っていった。

美濃の斎藤道三には宿敵がいた。隣国の尾張の守護代・織田信秀(信長の父親)である。

 美濃の斎藤軍五千VS.織田軍二万……圧倒的な兵の数だが、道三は、

「戦は兵の数ではない!」と、織田軍を奇策縦横で散々に打ち負かす。

 織田だけでなく、駿河の今川義元や相模の北条軍など敵も多い。そこで、美濃のマムシ斎藤道三は一計を案じた。織田信秀の息子・嫡男・信長と、道三の娘・帰蝶(濃姫)を結婚させる。いわゆる政略結婚、である。

帰蝶は、「光秀叔父、その信長という男がどんな男か……見てきてくれまいか?」

 全国放浪の旅に出る光秀であった。織田信長の〝人間観察〟の前に、光秀は道三に頼まれて〝種子島(鉄砲)〟の調達のために京洛に一人おもむく。琵琶湖の船に乗り、風に吹かれ、光秀は〝時代の風〟に酔いしれる。

 京洛はさすがに首都で、人が大勢行き交い、寺院も館も商売衆も立派なものだ。

 光秀はさっそく、鉄砲を手に入れようと奔走する。

「お主、種子島(鉄砲)を所望だと。どこぞの家臣じゃ?」

 声をかけてきたのは幕臣の三淵藤英であった。

「はい。美濃の斎藤さまの家来の明智光秀です。なれど種子島……鉄砲なるものがどんなものか? まったく知らないのです」

「そうか」三淵は鼻で笑った。「おれは幕臣の三淵藤英だ。三好長慶さまの重臣の松永弾正さまが鉄砲にくわしい。会わせてやろう。のう? 明智殿」

 光秀は三淵のおかげで、松永弾正久秀に館で会った。

「お主……美濃の田舎者にしては鉄砲に着目するとは審美眼があるのう」

「いやいや、弾正さまにはとてもかないませぬ」

「貴様! ……相当に頭が切れる智恵者の知将・天才軍師とみた、この場で殺しておこうかあ!」

「滅相もない!」

 松永弾正は上座の側にあった鉄砲を構えた。火蓋を切る。

「これが鉄砲じゃあ!」

 松永弾正は光秀に狙いを構えていたが、銃口を庭先にかえて、撃った。

 日本庭園の枯山水の植木が弾丸を受けて爆発する。

「……凄い!」光秀は息をのむ。

「これが鉄砲の力じゃ! この兵器が今後の戦をすべてひっくり返すだろう。お主にくれてやろう! 銭金はいらん」

 明智光秀はこのようなことで、鉄砲を手に入れた。赤い布袋に鉄砲を入れて、背中に担いだ。今、話題の〝種子島(鉄砲)〟を手に入れたぞ! 光秀の心は躍った。

 だが、京の街を歩いていると、戦災孤児のような薄汚い子どもたちを大勢みかけた。

その中のひとりの戦災孤児が、光秀の懐の財布をスリした。光秀はその餓鬼をとっ捕まえる。しかし、斬るまでには至らなかった。戦災孤児の娘・お峰が土下座して代わりに謝ったからだ。「どこのお侍様か存じ上げませんが……どうかその子をお許しください!」

「なれど……!」

「戦が長引き、戦のせいで、我らは戦災孤児になりました。誰も悪いことはしたくない。ですが、やらねば飢え死にするので御座いまする! どうかお許しを!」

 光秀は温情をかけた。「……そうか」光秀は戦の悪影響はすべて庶民がかぶると知った。

 その夜、光秀の泊まった旅館の近くで、貧乏長屋が火災で炎に包まれた。

 光秀は炎の中に飛び込み、中の子どもを救った。スリの一味の子どもであった。

「焼け出されたか……長屋が火事に遭うなど不運じゃったのう?」

 お峰は、「いえ、これは〝付け火(放火)〟で御座います。戦災孤児を追い出したい町民が〝付け火〟をしたんです」

「なんと! ならば奉行所に訴えて……」

「無駄に御座います! 奉行所もお上も天子様も、戦災孤児のことなど考えません。孤児など弱い弱い立場……戦がなくなれば……戦災孤児もいなくなりまするが。それは不可能な夢。戦がおわるには、この世に泰平をもたらすお釈迦様のような英雄が必要……そういうひとは、英雄はきっと現れる……その英雄が天下を、戦を、静めるとき……その人は麒麟をつれてくるんだ」

「……麒麟?」

 明智光秀は、ぞくぞくと胸に立ち上る熱き血潮を感じずにはいられなかった。

「麒麟……麒麟が? おれは〝麒麟の男〟になれるだろうか?」

「誰かが行動しなければ……」

「誰かが行動をしなければ麒麟は来ぬ!」



稲葉山城では斎藤道三と息子の斉藤義龍(義竜改め)と軍師・竹中半兵衛と越前福井から庇護をもとめてきた足利将軍(足利義昭)らが軍議を開いていた。「どうであった? 光秀」

「はっ! 織田方はなにやら不穏な様子。もしやあのうつけになにやらあったのかも」

「うつけ殿(信長)が」

「はっ! なればわれらが斎藤は京に上るべきでございまする!」

「何故じゃ?」

「今なら織田方は不穏なまま。この気に上洛せねばもったいなくございまする! 足利公方(将軍)さまを掲げての上洛なれば上等でございまする」

「それは光秀の意見か?それとも義龍の意見か?」道三はきいた。

「……それは…当然、義龍さまのご意見でござる!」

「そうか」道三は頭巾をしていた。出家したのだ。「ならば竹中半兵衛の意見は?」

「わたしは尾張にいくべきかと。尾張の城主織田信長さまからの援軍要請もございます。信長さまは足利公方(将軍)さまを歓迎すると。光秀さま細川さまも同伴で尾張にいくべきかと。しかし、そこから更に西に上洛するには義がございません」

「よういうた、半兵衛。わしも同じ意見じゃ。娘のお濃(帰蝶)も信長に嫁がせるしのう」

道三は男前で知恵深い半兵衛に賛同した。

半兵衛は確かに軍師であり、頭脳明晰であるが身体が華奢で、女子のような外見である。だからこそ、竹中半兵衛(重治)は侮られた。義龍も男前は同じだが、がっしりした男だ。

が、義龍ともうひとりの子・お松は無口で何も言わない。感情がないかのようなひとだった。権謀術数の武将、というよりは、武力に頼り、力で他人を従わせるだけの暗愚武将だ。

 あとで、個室で義龍に光秀は謝った。

「申し訳ありません。またしても半兵衛にうまいところをもっていかれた」

「…別に……どうでもよい」

「ですが、悔しいではありませんか。殿は半兵衛の女子の人気や顔や能の見事な舞いなどや学問・見識すべて半兵衛のほうが上でございまする。されど殿には……」

「……されど……殿には…?」

「………思い当たりませぬ。」

「貴様! 光秀叔父!」

 義龍は光秀を叱った。

ある日のこと、若い明智光秀と美少女のお濃姫(帰蝶)は二馬で野がけをする。

家臣や護衛はなしのふたりっきりでの野がけであった。

最初のうち、天気が良く蒼天であったが、しだいに雲行きが怪しくなりどしゃぶりの雨となった。光秀青年と美少女のお濃姫(帰蝶)は雨をしのぐために誰もいない山小屋に入った。「早く、早くこの山小屋へ! あまりに濡れると風邪を引きまするぞ!」

「はい! 叔父上」

雨を払って、光秀は火をおこす。

だが、自分もお濃姫(帰蝶)もずぶ濡れである。「……寒い」姫は小刻みに震えた。

「それはいかん! さ、さ、火に当りおれ。風邪を引くとまずい」

そんなとき、雷の轟音が響き、お濃は「きゃああっ!」と、光秀にしがみついた。

まだ小娘で、未通娘であったが、美少女で、少しだけ胸がふくらんでいた。

胸があたる。光秀はとまどった。だが、その瞬間、お濃姫(帰蝶)は光秀に惚れた。

「あれ。お濃(帰蝶)は何処じゃ?」道三は、稲葉山城で家臣にきいた。

「姫様は、明智さまと野がけにいくのだと朝方に大喜びで、出かけられました」

「光秀と? こんなどしゃぶりの雨じゃないか」

「朝方は晴れていたので、今頃は雨宿りでもなさっているのでしょう」

「そうか。」

「殿。もうお濃も子供ではありませんよ。信じてあげてくださいな」

道三にそういって微笑んだのは、妻の小見の方であった。「子供じゃよ」

「まあまあ。もうすぐ尾張のおおうつけ信長に嫁ぐほどの娘ですよ?」

「親にとって子はいつまでたっても子じゃよ」

「おほほ。それをお濃の前では申されますな。女子のあの年ぐらいは父親を嫌うもの。」

「そうか。俺はお濃に嫌われているのか」

「いえ。お濃だけでなく、あれぐらいの子供はみな、親に反発するものですわ」

いわゆる〝反抗期〝な訳だが、お濃もそうだった。一方、光秀の母親の小牧の方は、病弱であったが性格の優しい女性であった。

風邪を引き、つらそうな光秀の嫁・妻木煕子を看病した。

「お母上さま、申し訳ありません」

「いいから。いいから。寝ていなさい」

小牧の方は、そういって微笑んだ。

綺麗な女性である。

面食いで、年上好きののちの竹中半兵衛が惚れる訳だ。また、小牧の方が、竹中半兵衛にやさしく声をかけて〝おにぎり〝を食べさせたことも、懸想(けそう・恋)のキッカケだ。

この数年後、織田が今川義元を討ち取り、織田の勢力が増大していく。織田信長は足利将軍家をまつり上洛したのち、将軍家を追放、天下人のひとりとして天下に知られるようになるのだった。永遠の仕従関係というのは嘘で、義龍の謀略により斎藤道三が死ぬと、明智光秀と細川藤孝は、斎藤(土岐)義龍を見限った。恋仲であったお濃(帰蝶)をたより、光秀と細川は足利公方(将軍)さま(足利義昭)をつれて、尾張の織田信長にくだったのである。

そんな織田信長にあうべく竹中半兵衛は、忍びのおんな初音とともに、馬で、尾張清洲城に向かった。

道三の娘・お濃(帰蝶)が義龍に「…兄上さまはあのような賢い軍師をもつと、ご苦労が絶えませんね」という。だが、義龍は「いいや。おれに出来んことをあやつがやってくれると思えばなんともない」というのみである。「それより……お濃。光秀叔父上のことはもうよいのか?」

「十兵衛光秀叔父上さまのこと……でございまするか?」

「ああ。お前は利口者・(竹中)半兵衛より、律儀者・明智十兵衛(光秀)叔父上さまが好きなのであろう?」

「わらわが……十兵衛叔父上さまを?」

「そうだ。おれには隠し事はなしじゃぞ」

「われは……光秀さまより、うつけに嫁ぐのでございましょう?」

「政略結婚な。それでもいいのか? ときいておる」

「それが戦国のならいとあれば……」

「織田のうつけのどこがいい?」

「そのうつけ殿こそ父上が見込んだお方です」

「ほう。そうか?」義龍は苦笑した。

織田信長は竹中半兵衛に一向一揆衆や本願寺を攻めるという。

半兵衛は「人に義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。

「ならば獣でけっこう! わしは天下太平の世を得られるなら鬼にでも魂をくれてやる。腐った世の中を根っこから変えたいのよ!」

「しかし、坊主を討ち仏像に火をかけるなど罰当たりです!」

「坊主ではない。武装した僧侶だ。女を抱き、銭金を集めて悪さするものでも、坊主なら許されるのか? わしは腐った世の中をひっくりかえしてすべてつくりかえる! そのための織田信長の天下じゃ」

半兵衛は驚愕して何も言えない。恐ろしい…はじめて感じた感覚だった。

だが、織田信長は斎藤道三と足利公方(将軍)さまと同盟を結びたい、と金箔の洛中洛外図(おおきな屏風絵)を道三におくってきた。

だが、それこそ金の装束をまとった挑戦状であった。

「おお! 京は天まで金色か」

「…おい。まて光秀。これをみろ」

「どうした細川殿」

「これは輿で、これは御所じゃ。京洛で輿にのれるのはそうとうの位の高いひと…これは道三公が許された毛氈鞍蔽(もうせんくらおおい)…まさか!」

「もはや京には将軍家はいない。京の将軍・足利義輝さまは松永弾正や三好衆に討たれた……これは…織田信長から道三公への挑戦状! くるならこい! ということか?」

光秀はすぐに道三に知らせた。

「光秀さまもお気づきか」同席の半兵衛も同意した。「あの屏風が挑戦状と」

斎藤道三は不敵に笑った。

「面白い! なればあの屏風は金箔の挑戦状! 受けて立つぞ、織田信長!」

 道三は光秀に期待をかけた。大笑いする。「儂は光秀は信用しておるが、息子の光秀の学友の義龍だけはどうも……のう。あやつは戦で、〝敵の数〟を見誤り、負けてばかり。あのような〝猪武者〟ではだめじゃで」

それをきいた義龍は怒る。光秀はなだめる。光秀は京都の医師・玄庵に出会い、医学や救民を知る。これがいつしか明智光秀の高い志となり、信条までになっていく。

だが、桶狭間の戦いで織田軍が今川義元軍を殲滅すると織田の勢力が美濃までせまってきた。斎藤道三が生きているうちは稲葉山城で織田軍を打負かすが、その道三公も死ぬと斎藤家はどうしようもないところまで追い込まれる。

…光秀よ、美濃の虎よ、そなたこそわしの義の心の旗を継ぐものである。

弘治二年(一五五六年)『長良川の戦い』(斎藤道三+光秀『鷺山城』VS.斎藤義龍『稲葉山城』の親子の合戦)

斎藤道三は息子の斉藤義龍に、謀略で討たれた。

「……義龍っ! 父を斬るか?」

「父親でもないくせにぃ! 俺の本当の父親は土岐家の亡き殿なんじゃろう!」

「馬鹿馬鹿しい! そんな奸臣の出鱈目を信じおって!」

謀略によって、すでに義龍の家臣団に包囲され、弓矢で四方八方から狙われている。

「そんなに父が憎いかあー! 俺の子でなく、土岐家の土岐氏の子? 出鱈目、出鱈目、頭を冷やせ! 奸臣や敵の謀なのがわからんのか」

「俺はそこまで馬鹿じゃない! やれ! その生臭坊主(道三)を八つ裂きにせよ!」

そこに道三方の家臣が雪崩れ込んだ。光秀も道三に味方していた。

「御屋形さまー! 道三さまー!」矢を剣ではね飛ばす。

しかし、道三の右脚と、腹と左肩に弓矢が刺さる。深い傷であり、また毒矢でもあったため、それが致命傷になった。

道三方の家臣たちによって、義龍方から道三を救い出したまではいいが、毒矢でやられ、居城・鷺山城も占拠されてはもはや、万事休す、である。

〝美濃のマムシ〟斎藤道三は、やがて失意のままに死亡する。

道三が死んでしまえば、明智光秀も細川藤孝も、竹中半兵衛も、斉藤義龍などに従わない。

斎藤義龍(よしたつ)とその息子の龍興(たつおき)は当然のように重臣で、軍師でもあった明智光秀一族を攻め立てる。足利将軍と盟友・細川藤孝とともに美濃を追われる光秀たち。「このままじゃあ、皆殺しにされる! 逃げるぞ!」

「もはや、義龍の美濃では生きられない」

「すべては命あっての物種……死ぬくらいなら浪人にでもなって捲土重来を目指そう!」

おおおぉーつ!

こうして光秀たちは諸国行脚という名の〝浪人〟生活になる。

諸国漫遊というか、浪人生活は、仕官への道を求めてのいまでいう〝ニート〝みたいなものである。何処ぞ、かの大名の家来への仕官がなければ、食べることもままならない。

そんな傷心の光秀の生活を支えたのは、妻の妻木煕子(つまき・ひろこ)だった。

「煕子殿 ……この儂の光秀の妻にならぬか?」

「妻? ……わかりました。光秀さまの妻になりもうす」煕子は笑顔で答えた。

浪人時代のある時、光秀が仕官先を求めてある武将の重役をぼろ屋によんだ。

すると、当たり前のように、豪華な食べ物や菓子や酒がたんまりでる。

光秀は内心、驚いたが、動揺を隠して、その重役にごちそうを振る舞い、酒を与えた。

宴会は上手くいき、後日、光秀は不思議な顔で、

「いったい何処に、あのようなご馳走や酒を買える銭金があったのか? へそくりか?」

と訊ねた。すると、妻の煕子は頭巾をとって、微笑んだ。

「いいえ。へそくりなどとうの昔になくなりました。わたしの髪の毛を売って銭金を作ったので御座いまする」

「……なんと!」

光秀は驚いた。妻の煕子の長い美しい髪は、見事に短くなっている。

煕子はまるで弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)のような神々しい慈愛の笑みである。

……この俺の仕官・出世のために「おんなの宝」ともいわれる髪の毛を売ったのか…?

なんともありがたい! まさに糟糠(そうこう)の妻であり、これぞ「内助の功」!

由緒ある武家の娘がおれのためにそこまでしてくれるのか。煕子!

かたじけない。かたじけない。煕子! 感謝しておるぞよ。涙が両目を刺激する。

これは有名な光秀の妻の「内助の功」の話しとして知られる。光秀は煕子に感謝した。

「おまえさまはいずれ天下を狙う武将になられる。信じていますよ」

「煕子!」光秀は言葉を飲んだ。泣いた。

煕子が疱瘡(ほうそう)になって、双子の妹が身代わりに嫁いで…という説は採用しない。

軍師・竹中半兵衛は義龍一派に侮られていた。

当主であった斎藤道三の家臣団からは信用されていたが、道三の息子の義龍やその家臣団からは悪質な陰口や暴言、嫌がらせ、などを受けたという。

原因は、半兵衛は頭脳明晰で軍略に優れていたが、腕力がなく、女子のように華奢であったことだ。城の櫓の下を歩いていると、

「うわあっ!」となった。櫓の上の義龍一派の男たちが半兵衛にしょうべんをぶちかけたのだ。「何をする! 卑怯者め!」

半兵衛は激昂するが、いじめっこたちはにやにやわらうだけだった。

竹中半兵衛は決起する。

彼は、謀を用いて、稲葉山城をたった数十人で無血占領した。具体的には、稲葉山の内通者とともに謀り、「見舞いの医者と薬師」と称して、半兵衛と医者などに化けた精鋭部隊で稲葉山城に侵入。その後、隠し持っていた刀や鉄砲などで武装……遂には病死した義龍の息子・龍興を人質にとって稲葉山城を占領し、たった数十人で、稲葉山城を手にした。

「……半兵衛。お主、この美濃を手に入れたいのか?」

「いいえ。龍興さま。拙者にはそのような野望は御座りません。この稲葉山城占領は、われの軍略を示すだけのもの。すぐに、龍興さまにお返し候」

「貴様―っ! ふざけるな!」

龍興の怒りに、半兵衛は微笑むだけだった。これが……軍師の軍略…か!

わしは竹中半兵衛を舐めすぎた。軍師、半兵衛! 恐るべし!

こののち光秀一族や、盟友・細川藤孝らや公方(将軍)さまは越前の朝倉義景のもとに仕官する。だが、それは短期間で「失望」にかわる。

朝倉義景はちいさな男で、天下をとれる器ではない。

将軍を擁して、京洛で天下人として、天下に号令する武将ではない。光秀は、朝倉義景の家臣となり、越前(福井県)の称念寺門前に十年間住んでいたという。寺子屋、とか。

「朝倉の御屋形さま! 朝倉義景公! 殿の天下取りはいつに御座いまするか!」

「そうです! こうして足利公方(将軍)さまもいることですし……時は今、かと」

「つまらん。朝倉は天下など所望せぬ。越前だけでわしはいいとの思っておる」

「なんと? そんな、天下はいらぬ、などと」

「天下など骨が折れるだけ。越前一国で、何が不満ぞよ?」

「ひとかどの武将なれば…!」光秀は声を荒げた。「武将なれば、天下を狙うのは当然のことに御座る。毛利も長宗我部も上杉も今川も武田も織田も…己が天下人なり! と、なりとうて戦っているので御座いましょうや!」

「越前のような田舎で満足していては天下人にはなれませんぞ!」

「だから……わしは越前一国で十分じゃというとろう。蟹もうまいし、食べ物もおいしいしのう。京にも近い。便利じゃ。わしはもう満足なんじゃ」

「情けないことをおっしゃりまするな、殿。天下を狙ってこその戦国武将でするぞ!」

「………天下などいらぬ。貪欲は身を滅ぼす。この朝倉義景は天下を狙わぬわ」

「このような好機を前にしても動かれないとは情けなや。世の言葉に〝天地人〝というのが御座る! 天の時、地の利、人の和……それらがそろったときその人物は天下を取る、と」

細川は強く言う。「足利公方(将軍)様を擁立して上洛して、越前の地理的近さより京洛を恫喝し、我らを使い朝廷工作をする……これだけで天下は朝倉義景さまのもの。越前朝倉の数万の精鋭部隊は〝かざり〝で御座いまするか?」

「殿。……今なら苦労もなく天下人でするぞ?」

しかし、朝倉義景は動かなかった。


 ふたりは呆れまくりながら、居城の寝所で、酒を酌み交わしていた。

もう月夜である。おおきな蒼い月。

〝動けば雷電の如く、発すれば驟雨の如し。天地人。麒麟の男〟

〝大きな世界と対峙する宿命をもつ男〟

それが明智光秀の評判であり、『美濃の虎』のキャッチフレーズである。

「……細川殿、ここは朝倉義景さまではないな」

 光秀の苦笑に、藤孝はくしゃっとした顔をする。

「まさに。ここは織田さまであろう」

いうだけいってみた。織田信長。うつけ。馬鹿。不確定要素の塊。

想定外であり、才覚未知数。だが、おおうつけの噂の割には、領民は信長を慕っている。

「信長公か? 織田か? 尾張の…」織田信長か。

信長と言えば『うつけ殿』とか。

だが、風のうわさで耳にした『楽市楽座』とはなんじゃろう? 本当に織田の策なのか?まさか信長自身の知恵? いや、家臣だろう。家臣の中に天才軍師がいるのだな。

「賭けてみよう! こうなればイチかバチかじゃ。うつけ天下に賭けるのよ!」

「されど!」光秀は強く言う。「ただのうつけの大馬鹿者だったら?」

「斬ればいい」

「斬るって。……相手は信長。うつけとはいえ若殿だ。護衛が多いぞ。こちらがやられる」

「なあに。もしものときは信長を人質にとって織田の城を出る。織田の城門に早馬を用意して、人質ごと他国に駆ける。その後、信長を手土産にしてもいいし、不要なら信長を殺すのみじゃ」

「そんなにうまくいかないだろう! 織田信長の『うつけ』が演技なら、あるいは此方の死」

「演技? 『うつけ殿』を演じているだけじゃというのか? 光秀」

「そういうこともある。『大うつけ』が演技なら、信長こそ俺たちの希望になる!」

「なるほど……まさに賭けじゃな」

「『尾張のおおうつけ』相手に前代未聞の丁半バクチじゃあ!」


明智と細川は足利将軍をつれて尾張の織田信長をたより、くだった。

信長は立派な裃の正装で、足利義昭将軍を清洲城で迎えた。将軍を上座へ。信長は横座だ。

明智光秀や細川藤孝らも裃に烏帽子直垂姿、で、ある。

 しかし、その前に、隠密に光秀が会った信長は、汚らしい埃泥まみれの格好で、鉄砲を光秀に差し出したのだった。これが今後の戦の勝ちを確約する鉄砲じゃ、と。名は?

 明智十兵衛、と申しまする! 光秀は度肝を抜かれたのだった。で、今だ。

「足利公方(将軍)さま、織田上総介信長にございまする。御拝謁、まことにうれしゅう限りで御座る。この尾張清洲城にてごゆっくりしてくだされ」

「おおっ! 信長とやら! すまぬのー! まろは腹が減ったぞよ。うまいものをたらふく食べさせてくれ! あ! ……このまろの家臣の光秀や藤孝にものう!」

下座で平伏していた光秀たちは平伏したまま、

「いいえ。公方(将軍)さま、わたくしたちは後で頂きますので……お気になさらず」

「そうか? 腹は減ってはおらぬかえ?」

「ははっ!」「はははっ!」平伏するしかない。

信長は上機嫌のまま、「公方(将軍)さま、たんとご馳走をご用意いたしておりました。公方(将軍)様の御舌にあいまするかわかりませんが、たんと召し上がり下され! さ! ささぁ!」

織田の城では、飯の時間となった。だが、戦国時代の飯は朝飯と、夕方の飯の二回だけ。それ以外は食わずか、腹が減る前に「夜八時」には寝てしまう。

何故なら、夜は暗くて何も出来ないからだ。

現在のような街路灯も照明もなく、スマホもコンビニもない。コンピュータも自動車も汽車もない。当たり前だが、蝋燭の火、で長時間の勉強も読書も出来る訳もない。

時代劇ドラマでの屋形の夜の様な、全体がオレンジ色になるほど蝋燭の火は明るくはない。

しかし、ここで注目すべきはうまそうな飯が、織田の城で出されたことでもない。

明智光秀や細川藤孝が望んだように、織田信長は『名君』的な存在だったからだ。

どこが『うつけ殿』じゃ。どこが『尾張のおおうつけ』じゃ。

ちゃんとしたひとかどの武将ではないか。

賭に勝った。ふたりは思った。安心した。

だが、まだふたりは織田信長の恐ろしさを知らない。

「光秀さま!」

「……これはお濃さま! お久しゅう御座りまする!」

天下人・織田信長への憧れとお濃(帰蝶)への恋心めいた気持ちもあった。

光秀と細川藤孝らは、信長の元に馳せ参じた。

「明智殿、細川殿、この上総介信長の家来とならぬか?」

「織田、さまの?」

「家来に?」

「この織田家当主・上総介を信用出来ぬか?」

「いいえ。めっそうもない」

「ならば受けるかえ?」

「はっ! されど。織田さまは何処まで所望でしょうか?」

「ん?」

「織田さまの野望は天下(てんが)で御座いまするか?」

「天下? ふ」

「違うのですか?」

「いや」信長はにやりとした。「わしの野望は天下じゃ。〝天下布武〝じゃ」

「……〝天下布武〝。武力により天下を取る……さすがに御座いまする!」

「で。あるか」信長は上座で、グラスのワインを飲み干した。「この葡萄酒のように天下も飲み干して見たいものじゃ」

「織田さまならば、可能で御座りまする!」

「で。あるか。」

信長は不敵な笑みのままだ。「きたか、猿。明智に挨拶をせい!」

「ははっ! 木下藤吉郎に御座いまする! どうぞ、お見知りおきを!!」

竹中半兵衛は稲葉山城の占領、という軍略をみせたのち、尾張の信長の家来衆の木下藤吉郎(のちの秀吉)に仕官した。

こうして誰でも知る〝尾張の織田信長の家臣・明智光秀〝が誕生する。

『本能寺の変(1582年)』での裏切りまで、山崎の合戦(天王山・1582年)までのあわい歴史絵図である。

光秀は恩師・斎藤道三の最期を看取ってから信長のもとに馳せ参じた。

「御屋形さまー! 誰か薬師を! 誰か!」

「兄上様。ん? 光秀……お主を呼んでいるようじゃ」仙梅院は泣きながら呼ぶ。

光秀は一礼して病床の道三の口元に耳をそばだてた。

「……義!…」

「…はっ?」

そういうと美濃のマムシの道三と恐れられた斎藤道三はあの世の人となった。

葬儀のあと、美濃の斎藤家は家督争いの乱が勃発する。

織田信長の軍勢が美濃稲葉山城に迫る中での、悶着、で、あった。



         帰蝶



 今川義元の家臣で、名は大原雪斎という勇猛なお坊さんがいた。戦いにはいつも勝ったという軍師である。天文十八年(一五四九年)十一月に、その大原雪斎が、突然、軍を動かした。織田の城を落とした。そのとき、城主の織田信広は捕虜となった。

 軍師・大原雪斎は頭を働かせた。

「松平家を完全に服従させるためには、織田家にいる竹千代を取り戻して、今川の人質にしなければならぬと思いまする。よって、捕らえた織田信広と竹千代を交換しましょう」

「……なるほど」

今川義元は妙策だと膝を打った。「そちの策、妙策である」

 織田に使いが走った。

まもなく、織田信広と竹千代は交換された。織田信秀は苦々しい思いだったが、いたしかたなし、と思った。

 しかし、今川にかえされたといっても竹千代(のちの家康)がそのまま拠城である岡崎城にかえる訳ではなかった。そのまま駿河に連れていかれた。岡崎城も今川の武将の手にあり、城下町の奉行には鳥居元忠がついていたが今川のコントロール下にあったという。

完全に三河は今川の手におちていた。

 信長の父・信秀は幸運にも竹千代を手にしたが、大原雪斎という坊さんの活躍で手放さざる得なくなった。彼にしてみれば、息子の織田信広はふがいないうつけに思えたに違いない。

信長はこの頃、十五か十六歳である。彼はあいかわらず鷹狩りとうつけにうつつを抜かしていた。この時期、織田信秀は美濃の斎藤道三軍に大敗して、和議をむすぶことになったという。大事件勃発である。

 天文十一年に道三は、守護職の土岐一族を追放して、美濃の国主となっていた。昔はガマの油売りをしていた下郎である。しかし、彼は間もなく隠居した。自分の愛人深芳野という女性が産んだ義龍に家督を継がせた。道三の後をつぎ、義龍は右京大夫・美濃守となった。「義龍君は、実は土岐頼芸公の実子だ」という噂が美濃に流れ、策略家の道三は家督を義龍に譲ったのだ。だが、それは本心ではない。噂を消すための一次的なものだ。

いずれは義龍の欠点をあげつらって、廃嫡においこむ気でいたという。

 そんな忙しい時期に、織田信秀は攻めてきた。

 結局、和議となった……という次第である。

 和議の内容は、土岐頼芸とその兄・盛頼を美濃に戻す、ということと政略結婚だった。つまり、信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)を結婚させるということだ。道三は譲歩し、それを受け入れた。天文十七年(一五四八年)和議は成立、織田信長は道三の娘・帰蝶(濃姫)と結婚した。濃姫は十歳、信長は十五歳であり、まるでままごとのような夫婦であった。

 濃姫を嫁に出すとき、父・道三は短刀を渡した。

姫の母は名門の生まれで、美貌であり、道三は剃髪して髭を生やしてはいるが結構美男子だった。当然、帰蝶(濃姫)も美少女であったという。短刀を渡しながら道三はいった。

「織田信長というのは尾張ではうつけと評判がたっておる。もし、お前の目からみて本当にうつけ者だったら、この短刀ですぐ殺せ。その後、美濃に帰ってまいれ」

 が、帰蝶(濃姫)は「さて、どうでしょうか。逆にこの短刀で父上を殺すかも知れません」と答えたといわれている。冗談めかしだが、顔は真剣そのものだ。

「…さようか」道三はにこりと笑った。が、心の中では、この娘も俺が父親じゃないのではないかと疑っているのだろうか、と不安になっていた。

 しかし、帰蝶(濃姫)は父の望み通り、信長の近況をスパイをし、美濃に知らせた。

 そんな彼女のことを信長はよく理解していた。信長は天守閣に登り、毎晩、美濃の方角を眺めるようになったという。

「毎晩、何をごらんになっているのでござりまするか?」

 濃姫は不思議に思って信長に尋ねた。信長は冷ややかな、真面目で真剣な表情で、

「わしの意を汲んだ斎藤氏の家臣が道三を殺して狼煙をあげることになっておるのだ」

といった。えっ?! 濃姫は驚きのあまり声をあげた。その後、死ぬほどびっくりもした。仰天した。なんといってもまだ小娘の妻である。

「その家臣とは誰でござりまするか? 名は?」あえぎあえぎだが、やっと尋ねた。信長はなになにとなになにだ、と名をあげた。

 当然、それを知った道三は怒りにふるえ、その家臣たちを打ち首にした。しかし、これは信長の策略だった。『借刀殺人の計』で、斎藤氏の有力な家臣を駆逐したのだ。

 しかし、帰蝶(濃姫)は信長を裏切らなかった。彼のことを好いていた。気の強い少年と純粋可憐な少女は、互いにひかれあっていたのである。


 鉄砲の威力は予想以上だった。なにせ、百メートル離れた的をこっぱみじんに破壊したのである。城外で、信長は家臣を連れて、鉄砲を撃っていた。彼はいつものように髪を茶せんにし、汚れたよれよれの着物姿だった。蒼天のよい天気だった。

「種子島はすごいのう」信長は鉄砲で狙いをつけながらいった。

「そうですなぁ」家臣のひとりは頷いた。鉄砲はすごい迫力と轟音で弾が飛ぶ。反動もすごい。しかし、信長はにやにやしていた。これは使える、と思ったからだ。

「よし、この種子島を千丁都合いたせ」信長は飄々といった。

「せ、千丁? でごさりまするか?」家臣はびっくりして動揺した。

「しかし…南蛮鉄砲は値段が高くて……とても千丁も買えませぬ」あせった。

 信長は家臣を睨みつけた。「なんとかいたせ!」怒鳴った。

「御屋形様! わたしにも撃たせてくださりませ」突然、側にいた羽織袴の帰蝶(濃姫)が笑顔でいった。「わたしも鉄砲を撃ちとうござりまする」

「よし。さすがは斎藤道三の娘だのう」信長は笑った。大きな鉄砲を渡した。

「いけませぬ! 濃姫さま、女子には危のうございます」家臣は焦ってとめた。

「よい!」濃姫はいった。「わらわは斎藤道三の娘、是非に及ばぬ」

 姫は発砲した。すごい反動で、倒れそうになった。信長は笑った。「さすがは斎藤道三の娘だ。この調子で、濃に鉄砲を買う矢銭(軍費)も都合してもらえぬかのう」

 ふたりは笑った。

 いったいどうして彼女が、美濃の城で寵愛を受けて育った、美しい、きびしいしつけを受けて育った、頭のいい娘が、どうして〝尾張のうつけ殿〝と呼ばれて蔑まれている信長なんかとめぐり合うことになったのだろう。もっといい人生も送れたはずの彼女がどうして。なぜ、うつけの若妻になったのだろう。

 そうだ、思い出した。………帰蝶(濃姫)は彼をみつめて長いあいだ立ち尽くした。疑問の余地はない。彼女がいままで目にした男たちの中で、信長こそ一番の色男だ。長身、みごとな筋肉、だが、そのわりに細くてしなやかな十七歳の身体を持った織田信長、髪を茶せんにし、もえぎ色の糸でむすんである。目は切れ長で、大きく、きらきら輝くはしばみ色で、濃いまつげが影を落としている。唇はふっくらしていて、笑みを浮かべるまでは少女の唇といってもいいほどだ。信長が笑みを浮かべると……あぁ、誰がその微笑にうっとりせずにいられよう。戦国の習いに従って尾張に嫁いだ帰蝶(濃姫)だが、けして後悔はしていなかった。なぜなら、信長が眉目秀麗で、自分にだけは優しくしてくれるからだ。

  父・織田信秀の葬儀が終わると弟・信行が食ってかかってきた。

 座敷の上座には、またもうつけ殿そのものの信長が、よれよれの汚い服で座って、瓜をむしゃむしゃとほうばっているところであった。

 弟・信行は正装のぴしっとした身形である。信行は兄に猛烈に腹がたっていた。

「兄上!」珍しく声を荒げた。「織田の当主ならば、もっとちゃんとした身形でいて下され! 父上はあの世で泣いておられまするぞ!」

 信長は笑った。なにがあの世だ、そんなものあるものか、というのだ。

「織田の当主が、そのような乞食同然の格好をしていては資質を問われまするぞ!」

「乞食か」信長はにやりとした。「まぁ、お前と一緒に町をあるけば、お前は殿様、わしは乞食か雑兵にみられるわな」

「兄上!」

 信行は眉をひそめたが、また兄・信長のほうを向いた。信長はほうばっていた瓜を弟に突然なげつけた。この信長をなめるな、と怒鳴った。急に〝キレた〟

 弟の信行は一瞬、その場で凍りついた。

 彼は慌てて振り向いた。信長の顔は暗く、目は怒りの炎でぎらぎらしていた。「この信長に指図しようとは百年早いわ」怒鳴りつけた。「なめるな!」

 弟の信行は彼になぐられたようにすくみあがったが、唇をきゅっと結び、彼が四方八方から受けている圧力のことを考慮に入れた。兄・信長はカッとなりやすく、圧力釜に長いこと入り過ぎていたため、釜のバルヴが壊れて、あらゆるものが噴きこぼれていた。うつけと呼ばれ、攻撃され、嘲笑され、罵倒され、危なっかしく生活しながら、何もかもひとりでまとめようと奮闘している。

「兄上、兄上の苦しみ……この信行にはわかります」説得しようとした。

 しかし、無駄な努力だった。信長は怒りで顔を真っ赤にして、「わしの何がわかるというのだ!」と歯をぎりぎりしながら立ち上がり、座していた弟に強烈な蹴りを食らわした。   

厳しい視線を向ける弟に怒鳴るようにいった。

「信行! おぬしに林通勝を授ける。お前のいう資質とやらを教えてもらえ!」

 弟は崩れた身体を起こしながら、兄をにらみつけた。やはり、兄上は只のうつけ(阿呆)だ。少しでも同情したわたしが馬鹿であった。信行が茫然と黙り込むと、信長はどかどかと歩き去った。……うつけを始末せねば織田家もあやうい…信行は強く思った。それは、嫉妬というより怒り、激しい怒りであった。



         平手の諫死



 林通勝はいった。「うつけもここに極まれりか」

柴田勝家も「あれほどうつけがひどいとはな」と頭をふった。

 ふたりは、信長様を廃し、弟の信行様に当主になって頂こう、と決心した。

 ますます守役の平手政秀は窮地においやられた。

 信長を、平手政秀は放任主義で育ててきた。しかし、うつけになった。信長は我儘で、癇が強く、すぐ怒って暴力をふるううつけ殿になった。その後、葬儀での事件である。

 平手政秀は絶望的な気分だった。

 あるとき、酒席で信光(信秀の弟)が平手政秀に文句をいった。あのうつけ者(信長のこと)の責任は平手にある、というのだ。平手政秀はぐっと唇を噛んだ。

 すると、平手政秀の息子・平手五郎左衛門が

「しかし、大殿さまに信長さまの補佐を承ったのは父上だけではありませぬ。林殿、柴田殿、青山殿、内藤殿…皆同罪です」

と意義を申したてた。

だが、泥酔の信光は

「平手政秀は守役筆頭であろう。すべては平手の無能と馬鹿ぶりのせいじゃ」とのたまった。

「許せぬ! その言い方はゆるせぬ!」五郎左衛門は太刀を抜き、信光を斬り殺そうとした。が、同僚たちに抑えられとめられた。

「後生だ! 斬らせて下され!」暴れた。

 そこに信長がやってきた。「どうしたのじゃ?」と尋ねた。

「おぉ、信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」

 泥酔の信光は真っ赤な顔であえぎあえぎいった。

「五郎左衛門! ……まことか?!」

「いえ、殿! 五郎左衛門は……酒に酔って乱心しただけにござりまする!」

家臣たちは平手五郎左衛門を抑制しながらいった。

「嘘じゃ! 信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」

「後生です! 斬らせて下され! 信光を斬り、わたしは切腹いたしまする!」暴れた。

ぜいぜいと肩で息をし、信光を睨みつけた。

「馬鹿者めが! 外で頭を冷やせ!」信長は怒りに震え、平手五郎左衛門の顔を殴りつけた。五郎左衛門はもんどりうって倒れた。一瞬、場が静まった。いや、凍りついた。

 信長は、それ以上は何もいわなかった。只、平手五郎左衛門をにらみつけるだけだった。 平手政秀は平伏した。


 白無垢姿の平手政秀が信長の前に現れたのは、その次の週のことであった。

天文二十二年(一五五三)閏一月十三日の朝である。

「平手政秀、切腹するそうじゃな?」信長は真剣な顔になった。「なにゆえ、息子の平手五郎左衛門ではなく、そちなのじゃ?」

「はっ、息子の罪は親の罪にござりまする。みどもは腹切って、殿に忠節を示しまする」

「ならぬ! 平手! おぬしが腹を切って何がかわるというのか!」

「殿!」平手政秀は強くいった。「もっともっと強くなって下され!」

「な……何っ」

「鬼のように、まるで鬼神、阿修羅のこどく!」平手は続けた。「今、尾張には問題が山積しておりまする。東の三河の松平家、さらに東の駿河の今川家、美濃には斎藤家、都には三好一族や松永弾正などの脅威がありまする。また、大殿さまの死によって尾張も分裂ぎみで、連中は虎視眈々と尾張を支配しようと企んでおりまする。また、弟君の信行さまには織田家累代の重臣たちがついておりまする。殿、強くなって尾張を、この日の元の国を救ってくだされ。もっともっと強くなって下され!」

「………で、あるか」信長は頷いた。平手政秀は切腹した。それは、信長を諫め、一国一城の主へと変身させるための壮絶な教えでも、あった。




         道三



  尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と舅・美濃の斎藤道三は、信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。

 舅の斎藤道三の方は興味深々である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……

 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。

 信長のお共の者も八百人くらいだ。

ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。

「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。

 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。

 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。

 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。

 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。

「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。

 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。

 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。

 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。

「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。

「これは、これは、婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。

「織田信長でござりまする、舅殿」

 信長は笑みを口元に浮かべた。

「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」

「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」

「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」

「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。

「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」

「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」

「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」

「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」

「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りの息子のわしとは違う気迫じゃ」

「舅殿がガマの油売り上りの息子なら、わしはうつけ上りでござる」

 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。

  信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。

 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。

 織田信長の天下取りの勝負がいよいよ始まるのであった。



   今川義元



織田信長は足利義昭を引き連れて京都に上洛した。

織田勢は足利幕府の要でもある足利義昭を将軍にたてて天下に号令するのだ。

元々、織田信長の元に足利義昭(足利幕府の次期将軍候補)を支えて信長に推挙したのは明智十兵衛光秀と細川氏であった。

信長が『天下布武(てんかふぶ・武力により天下を制する)』と称して天下人に名乗りを挙げていたが、信長も段々と世界がわかってきていた。

只、いたずらに武力蜂起しても朝廷工作や将軍推挙がなければ天下は取れないのだ。

それを教えて、しかも、足利義昭を足利幕府の将軍に推挙すればいい………と理解させたのはただならぬ光秀である。

信長は旗印『織田木瓜(おだもっこう)』を翻して上洛する。

馬上の織田信長……御簾の駕籠の足利義昭…光秀は一旦早くに京に上り、朝廷工作をして、京都の安全を確認して上洛する信長を歓迎した。

「信長さま! この光秀、京でもろもろ朝廷工作に奔走いたし、成功いたしました!」

「…で、あるか」

「はっ!」

「サル、これより明智光秀とともに京都奉行として働け!」

「ははっ!」サルこと木下藤吉郎のちの豊臣秀吉は答えた。

サルが大嫌いな光秀は「そんな…御屋形さま!何故サル殿と拙者が!」と文句を言った。

すると信長は「〝きんかん〟頭の光秀! お主はあの馬鹿将軍足利義昭の手綱をちゃんと握っとれ!」と命令した。

………きんかん? 光秀は口をあんぐりと開けて驚いた顔をした。

「光秀殿! よろしく頼みますじゃあでのう」藤吉郎は猿顔のまま笑顔になった。

 明智光秀にとって木下藤吉郎(のちの豊臣)秀吉は、出世レースの対抗馬であり、好敵手であった。だが、武士の息子の光秀に対して、秀吉は出自の卑しい百姓の息子……差別ではないが明智光秀は藤吉郎を蔑む。蜂須賀小六らの盗賊集団に、襲われて、身ぐるみ剥がされそうになった時に、助けたのは藤吉郎だ。

 だが、それでも光秀は、木下藤吉郎秀吉は好きにはなれなかった。「猿殿?」

 明智十兵衛は苦笑した。「世の中にはこんな男もいるのだな、猿殿か。ふふっ」

光秀の妻は煕子(ひろこ)といい、娘がふたり。珠(たま・のちの細川ガラシャ)としげ、で、ある。光秀の糟糠(そうこう)の妻であり、光秀は煕子の在命中は側室を設けなかったともいう。戦国時代には珍しいほどの純愛であり、最愛の妻、であった。

義理の息子が明智光満という青年である。

「義父上。義父上は世間からケチだと悪口を言われていまする」

「何がわるい? ケチである方が、ゼニがたまる。贅沢では世間や天下の形成は握れない」

「されど、義父上。矢銭はこのところ減る一方で御座る」

「……まあ、足利義昭公を将軍に推挙する経費や矢銭(戦費)も浅倉義景や武田信玄や上杉謙信や比叡山延暦寺、一向宗、毛利勢、北条勢……織田信長さまの御味方は徳川家康公ぐらいだからのう」

「それなのですが……その足利義昭さまが全国の諸将に文を何百通も送っているとのうわさも御座います」

「義昭さまが? 何と?」

「信長公を討てと。まあ、噂ですがね」

「光満、風のうわさなど当たるものではない。義昭さまは馬鹿ではない」

「……されど」

「義昭さまが信長公の〝操り人形〝だと嘆いていることは知っている。だが、諸将に文を出して成功する訳がない。義昭公は〝権謀術数〝のひと。馬鹿ではない」

「あらゆる武将に文を送り、によって、〝文・将軍〝とも」

「文とて、知略。謀略。頭の悪い人間にはひとを動かす文さえ書けない」

「ですが、武田も上杉も石山本願寺も毛利も北条も信濃の真田さえもいまや反信長公一色で御座るが。…公方(将軍)さまにもいい加減にしてもらいたいのです。信長さまを怒らせれば足利幕府の崩壊で御座る」

「わかっている。わかっている。」

光秀は自分にいいきかせるように言った。

この時代、甲斐・信濃の武田晴信(信玄)や、越後の長尾景虎(上杉謙信)、尾張の織田信長・信秀親子、安芸・長門の毛利元就、駿河の今川義元、相模の北条一族、土佐・四国の長宗我部元親、薩摩の島津義弘(鬼島津)、駿府の松平元康(徳川家康)、肥後の大友宗麟、松永弾正、三好三人衆、北方出羽の最上義光、米沢の伊達一族など……群雄割拠であった。

まさに血で血を洗う、戦国の世、である。



   明智の血筋


テレビ朝日時代劇ドラマ『敵は本能寺にあり(2007年放送)』より

のちの明智左馬助(あけち・さまのすけ)は主君である明智光秀の娘・お倫が、信長を裏切った荒木村重の息子の側室から外され、実家に戻されたことを驚いた。

恋い焦がれた主君の娘との仲を切り裂き、荒木村重の息子に嫁に嫁がせたのは信長の命令だった。

「お久しゅうござりまする。お倫殿」

「これは左馬助さま」

やはり、恋したおなごが元に戻るのは複雑な心境ではあるが、やはりうれしい。

信長の命令がなければ普通に夫婦になっていただろう。

その後、主君・光秀は虫のいいことを提案してきた。

娘のお倫(光秀の長女)と夫婦になってくれ、というのだ。

「しかし……殿…」

「出戻りの娘ではいやか?」

「いいえ。けしてそのような…」

「ならばお倫をもらってやってくれ。お主等が惹かれ合っていたことをこの光秀、知らないではないぞ。」

「……はあ」

迷いの中、馬で、一騎で〝野がけ〝をしていると通り雨がざあざあ降ってきた。

明智左馬助は山小屋に雨宿りをした。無人の山小屋だった。

たき火をし、しばらく山小屋にいると〝鷹狩り〝でもしていたのか?武将が雨宿りをもとめた。ひとりきりである。「ここはお主の山小屋か?」

不思議な威風を身につけた武人であり、まだ若い男である。

「いいえ。わたしも雨宿りでござる」

「であるか」

「〝鷹狩り〟の最中でしたか?」

「おう。急に降ってきおった」

「どこぞかの殿様ですか?」

「おう。お主こそ何処ぞかの家臣か?」

「はい。明智惟任日向守十兵衛光秀さまの家臣でございます。名を明智左馬助と申します」

「光秀……あの〝キンカン頭〟の」

「もしや……」左馬助は平伏した。「織田上総介信長さまでございまするか?」

「いかにも。わしが信長である」

「此はご無礼を!」

「かまわん。それより、キンカン頭の家臣よ……光秀の娘の倫が荒木村重より戻されたそじゃのう?」

「ははっ」

「お倫とお主は恋仲であったとか。わしを恨んでおるか?村重にお倫をやったはわしの命じゃからのう。ばっさり斬って恨みをはらすがよいぞ」

「いいえ。昔の恨みなどとうの昔に琵琶湖の湖底に沈めました」

「……であるか。」

「しかも、主君・光秀さまはお倫さまと夫婦になってもよい、と」

「ほう。では昔の恨みは解消した訳じゃな?」

「ははっ」

「よい夫婦になるがよいぞ!」

「はっ」左馬助は調子が狂ったように首をかしげて「失礼ながら……信長さまは冷酷非情であり、何万人もの民百姓や僧侶を大量殺戮なさる第六天魔王と……巷では噂されていますが……拙者にはそうは思えませぬ」

「ひとの噂には〝尾ひれ〟がつくからのう。だが、第六天魔王とはいい。間抜けな神よりはいい」

「しかし、人間には情がなければ、と」

「馬鹿者……人間の情にはしがらみがつく。家族なればなおさらだ。俺が本当に信じているのは〝力〟〝銭金〟だけだ。ひとは力ある武将に頭をたれる。銭金を大量に持った人間にひとは頭を垂れる。力とは武力、銭金は百騎の武者にも値する。銭金は力じゃ」

「銭金と力?」

「そうだ! わしに織田家に銭金がたんまりあったればこその長篠合戦での種子島(鉄砲)合戦である。わしに銭金と力が無ければ武田を滅亡できなんだ。であろう?」

「……まさしく!」

左馬助は平伏した。

こののち、明智左馬助は明智光秀の娘・お倫と夫婦になった。

信長は西洋のハープの楽器を結婚祝いにと贈った。

「これが地球というわれわれがすむ星じゃ」

信長は左馬助に南蛮からの地球儀を見せた。「これがエーロッパ、エジウ、アフリカ、インド……見てみろ! 日本国などこんなちいさな島じゃ」

「このようにわが国はちいさいのですか? 驚きです!」

「おれはまずはこの国……ジパングの王になる!」

 織田信長は宣言した。


    桶狭間と厳島合戦


 

 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。

 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。

 斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。

 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、 

鬼神のような阿修羅の如く強い男に。

 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。

「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。

「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。急に動きをとめ、はっとした。

「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。

「は?」

「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。

 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。

将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。

 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など〝糞くらえ〝と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。

 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。

 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。

 美濃(岐阜)の斎藤義龍である。道三を殺した斎藤義龍は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。

 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。

「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。

 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。

 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。

 今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。

 特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。

 今川義元は〝なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか〝と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。

 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、

「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」

今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。

しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。

「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」

そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。

 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。

 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。

 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを、夢ごとを。



         元康の忠義


 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。

 今川義元は軍議をひらいた。今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。

「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。

 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」

 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。

 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。

 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。羅生門を宮福太夫という猿楽師に、舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。

「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」

 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。

 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。

「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。

「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」

「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」

「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そのままどこかへいってしまった。

「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」

「まったくあきれる。あれでも大将か?」

 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」

 信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。

「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」

「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」

「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」

 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。

「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」

「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」

 日吉は迷ってから

「奇襲にでればと」

「奇襲?」

信長は茫然とした。

「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」

「さしでがましいわ!」

信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。

「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。

 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。

「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。

「なんじゃ、猿」

「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」

「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」

「八百あまり」

「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。

「いま何刻じや?」

「うしみつ(午前2時)でござりまする」猿はいった。

「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」

 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。

有名な「敦盛」を舞い始める。

「人間五十年、下天の内を食らぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。

「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎のわずか五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。

 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。

「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」

 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。

 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。

 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。

 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」

 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。

「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。

 信長は叫んだ。

「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」

 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。

「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」

 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせた。にやりとなる。

「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形さまである」と感心した。

 織田軍は密かに進軍を開始した。




         桶狭間の合戦


                

 丘の上で信長軍は太子ケ根を登り、待機した。

 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。

部下は嵐の中で「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。

 しかし、信長はその策をとらなかった。

「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」

 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。信長は叫んだ。「突撃!」

 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだ。喚声をあげて山から下ってくる軍に今川本陣は驚いた。

「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」

陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」ハッとなった。

「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」

 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!

 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。

 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!

「御屋形様をお守りいたせ!」

 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。

「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、人差し指に噛みつき、新助のそれを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。

 義元はこの時四十二歳である。

「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。

 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。

「勝った! われらの勝利じゃ!」

 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。


 かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が、「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。

「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」

「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。

「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。

 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。

 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。

 今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。

 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。

 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。

 これに対して信長は

「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」

と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。

 駿河についた岡部は義元の子氏真に大いに感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。

 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、泥まみれの猿(秀吉)もいる。

 清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。

 信長は「いや」と首をゆっくり振った。続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」

 意味がわからず家臣達は顔を見合わせたという。                





 天下布武

        秀吉 墨俣一夜城「タヌキ家康」



 織田信長は奇跡を起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。

 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだ。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。

 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。

しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。

 信長はさらに、既存価値からの脱却もおこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟任家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに織田信長は天才であった。阿修羅の如き。天才。



 奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。

 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだ。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。

 



 今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。

「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。

「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。

しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。

 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。

 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」

 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。

「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」

 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。

「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。

「事実に御座りました!」その報告をきくと、元康はがくりとして、「さようか」といった。

声がしぼんだ。がっかりした。その表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。

 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。

 部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。

 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」

 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。

 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。

 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。

「さようでござる」

「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」

 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。

「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。

 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。

 元康は、同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。

「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!」

 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。

「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」

 道三が殺されて、義龍、龍興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義龍は道三の息子ではなく土岐家のものだとの情報が美濃中に広まると、国がぴしっと強固な壁のように一致団結してしまった。

 信長は清洲城で「斎藤義龍め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。

「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。

 しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。

 くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義龍たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。



         尾三同盟



 永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。

 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。

「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」

 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。

「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。

「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。

 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときの発案をマネたものだった。

 織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。

 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。

「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」

「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。

 また、信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。

 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。




       サル



 織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。

「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、との情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。例え家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなったりすれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。

 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。

 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。

「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。

 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。  

信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。

「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩、あやつなのだ?」

 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」

 信長は不快に思った。憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。

 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!

 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!

 ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、

「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。

 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。

「なにっ?!」

 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。

 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。

「なぜ上にあがらない?」

 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。

 信長は唖然として、「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。

 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。

 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。

秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。

「御屋形さま……秀吉殿は……織田の……家宝に御座いまする!」 

明智光秀は出世競争のライバル秀吉を、苦しい顔のまま、褒めた。

信長は、「よし! 〝きんかん〟、〝猿〟の価値がわかるとは見事じゃ!」と、にやりとした。光秀はひそかに下唇を噛んだ。

こんなエピソードがある。

 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。その竹を、竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。

 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。

「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は

「肩衣をつくります」

「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。

 また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。

 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」

 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。

戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。

 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。

 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。 

戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、

「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。

「木下藤吉郎の部隊で御座りまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。



         石垣修復



 織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。だが、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。

 信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が

「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」

とにやりと猿顔を信長に向けた。

「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。

「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。

 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。

「サル、やってみよ」信長はいった。

サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。

 信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤義龍の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。

 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。

「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。

「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。

 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。

「……わかった。しかし、人質はいないのか?」

「人質はおります」藤吉郎はいった。

「どこに?」

「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。

 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。光秀も呼応する。「秀吉殿の申す通りです!」

信長は「お前らはわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」

「いいえ!」秀吉と光秀は首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」

「約束を違えれば、誰からも信用されなくなりまする!」光秀は頷く。

 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。


         竹中半兵衛



 信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。

松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。

浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。三人の娘が生まれる。のちに秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。


「サル!」

 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。

「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。

「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」

「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」

「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川義龍を裏切ったのだ?」

「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川義龍が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」

「ほう?」

「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川義龍に城を返したといいます」

「気にいった!」信長は膝をぴしゃりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」

「かしこまりました!」

 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。



 汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 

しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。

「理由は? 理由はなんでござるか?」

「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」

ハッキリいった。さらに続けた。

「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」

「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。

 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。

 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。

「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」

 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。

「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。

「かたじけのうござる!」

「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」

「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」

「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」

 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。


         墨俣一夜城



 当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。

 そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。

 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のど真ん中である。そんなところに城が築けるであろうか?

「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」

「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。

「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)さまや五郎左(丹羽長秀)さまでさえ失敗したというのに…」光秀は首を捻る。

「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」

「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」

「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」

「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」

「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。

「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」

「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」

「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」

 信長は唖然とした。

 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。

信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。

「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。

「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。

 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。

 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたりしたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。まっこうから武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで、短期間で天下をとれた訳だ。



 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。

「御屋形様! おにぎりを!」

 まだうら若き娘であったおねが、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。おねはきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」おねは声をあらげた。

「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。光秀も大笑いする。

 ある夜、秀吉はおねの屋敷にいき、おねの父に「娘さんをわしに下され」といった。おねの父は困った。すると、おねが血相を変えてやってきて、

「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。

「ごもっとも!」

「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」

「……おね殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。

「黙れサル!」おねはいった。続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」

「運命にござる! おね殿!」

 おねは仰天した「運命?」

「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。

 かくして秀吉はおねと結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉はおねに目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目がおねの小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれはおねの肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。

 信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」

 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。

 永禄三(1560)年、のちの石田三成は生まれた。貧しい農家の生まれである。    

 幼名・左吉という。

 家が貧しく、近江の観音寺に預けられることが決まっていた。

 そこで運命的な出会いをする。また黒田(まだ小寺姓)官兵衛も播磨で「臥竜(野に隠れ世に知られぬ大人物)」と呼ばれ、軍師として織田信長、秀吉と運命の出会いをすることになる。

 そう、あの秀吉とである……




          秀吉に支えよう




初陣と元服を果たした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は度々、周辺の反乱や敵軍の侵略を討伐し、小寺政職から信頼を置かれる存在となる。

小寺家に小寺官兵衛ありと言われるようになった。

いわゆる『臥竜』として、である。


若き官兵衛にとって、播磨だけがすべてであった。

官兵衛はいわゆる『晴耕雨読』の日々を送っていた。黒田官兵衛の父親は黒田職隆(くろだ・もとたか)という。播磨国(現在の兵庫県)の姫路城下だけが領土の弱小外様大名である。よく親子は馬で播磨の丘にいった。

広大な播磨の山々や田園風景が眼下に広がる。

職隆は田園風景を馬上より眺め、しんとした感じでいった。

「のう万吉……いや官兵衛。我ら外様が主君に引き立てられるにはしゃかりきに努力をし、血反吐を吐きながらでも働くことじゃ」

「父上。我が主君・小寺政職公は、毛利や今京で話題の織田信長なるものに勝てまするか?」

 職隆は「わからん。だが、降りかかる火の粉はふり払わなければならん」

「播磨は大丈夫に御座りましょうか?」

「その為の我ら軍師であり、その為の外様黒田家である」

「なるほど」

官兵衛は馬上で頷いた。

鳶が青空に雄大に飛んでいる。そう、若き官兵衛にとって「播磨」だけがすべてであった。すべての世界だった。のちに天下の軍師になるとは夢にも思わない。

最初の主君・小寺政職(こでら・まさとも)は「飼い犬が主の手を噛んではならぬぞ」と家臣にいい欠伸をする。官兵衛が幼少期から青年期まで主君として仕えているが、小寺政職ははっきりいうと凡庸な人物である。このころは戦国の乱世でもまだ播磨は平和な時代であった。

 官兵衛だって初恋はある。大河ドラマではおたつという田舎娘で、馬で官兵衛が村の畔道を城に向けて走らせたときでも、「官兵衛さま! 栃餅がありますから……あとでお訪ねください!」という。

可愛い娘である。だが、その恋は、突然断ち切られることになる。雨宿りでの山小屋でのおたつとの愛も、同じだ。

織田や毛利の勢力が、播磨にも近づき、播磨も戦火に包まれる。

その戦火で初恋のひと、おたつは命を落とす。官兵衛は亡骸にすがった。「おたつ! おたつ!」

黒田官兵衛は絶望のうち彷徨い、ふと立ち寄った耶蘇教(キリスト教)の教会で大粒の涙をはらはらと流したという。

 戦国一の軍団『黒田家臣団(黒田二十四騎)』は『生涯無敗』を誇る。

黒田二十四騎の始まりは栗山善助である。「軍師殿、この栗山善助、若さだけには自信があります。是非とも家臣に加えてくだされ!」

次々と若い精鋭の若き青年たちが集まった。

『黒田二十四騎』のはじまりである。

「よし、栗山、家臣団をまとめよ!」

「ははっ!」

 この頃、織田信長は天下人への道を確実に上りつつあった。『天下布武(てんかふぶ)』というのが信長のビジョンである。

信長は岐阜城の下座で平伏している官兵衛をまじまじと見た。

「お主が黒田官兵衛か?」

 低い声で尋ねた。

「ははっ!」

 烏帽子直垂姿で官兵衛は益々平服する。黒田官兵衛は小寺氏や黒田氏の織田方への服従だけでなく、「我が領地・姫路は中国地方の重要拠点であり、毛利攻めの最、必ずお役にたちます」と軍略までも披露したという。感激した信長は現在では国宝となっている名刀『圧切長谷部(へしきり・はせべ)』を官兵衛に授けたという。名刀『圧切(へしきり)』とは信長の茶坊主か部下がヘマをやらかして棚の隙間に逃げ込んだが、信長が「棚ごと「へし斬って」殺した」事から『へしきり』と呼ばれた名刀だ。

 信長はのちに黒田官兵衛の武功を讃え「神妙(あっぱれ)な軍師である」と書状に書いている。

 そこに現れたのが羽柴(のちの豊臣)秀吉であった。

「御屋形さま! ご命令の一件無事完了いたしましてございまする!」

「秀吉、よくやったのう! 嫁のおねが風邪じゃそうじゃのう。大丈夫か?」

「ははっ! 心配ご無用! に御座いまする!」

「そうか。猿よ、お主にこの臥竜を預けよう」

「臥竜?」

「うむ。こいつは臥竜じゃ。竹中半兵衛とともにその軍師・竜虎、軍師・両兵衛でこの織田信長を支えよ!」

「ははっ!」

「官兵衛とやらそれでいいな?」

「はっ!」

 やがて官兵衛は秀吉と話した。

「わしはこの戦国の乱世を終わらせる。その為に『天下布武』『信長さま』は必要なのだ」

「官兵衛もそう思いまする。なるたけ人を殺さず、戦わずして勝って……何が何でも戦乱の世をおわらせねば」

「お主もそう思うか?」

「はっ、まさに!」

「ならばお前がこの乱世を終わらせろ」

「かしこまりました」秀吉と官兵衛は笑顔でがっちり握手を交わした。英雄とは凄い。官兵衛は本当に軍師として乱世をおわらせてしまう。

 官兵衛と秀吉は出生というか運命が似ている。ひとりは元・百姓、もうひとりは元・目薬屋、である。信長に見いだされ、秀吉を天下人にし、家康に恐れられた天才………。

秀吉を天下人にしたのも黒田官兵衛と黒田家臣団『黒田二十四騎』で、ある。



話を過去に戻す。


 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。

 その出会いは天正二年……

 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、

「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。

 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。

「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。

 左吉は、今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。

「うむ、もう一服じゃ」

 秀吉が所望した。

 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。

 秀吉は大いに感心して、

「小僧、名は何という?」

「左吉です。石田左吉にござりまする!」

 平伏した。

「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」

「はっ!」

 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。  

羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)

 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・おねが佐吉に「腹がすいているのか? ほれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も『人間らしい所』があるという。

「三成にも人間らしいところがあるのだ、と、関白殿下はおっしゃりたいのだろうが余計なお世話だ」

「いや、殿。〝人間らしさ〟を見せるのもまた計略。〝人間らしくない〟を見せるのもまた計略でござる」

嶋左近はにやりと言った。

いまでいうプロパガンダ・大衆操作みたいな戦略が嶋左近の真骨頂であった。

「石田の殿、どんな人間もその人間の〝値札〝に訴えれば九割の人間は必ず動きまする」

「〝値札〟? 銭か?」

「ははっ! ある人間には銭や禄高でしょう。ある人間には女子・美女………ある人間には義や名誉や高い位・地位や名誉…贅沢…拍手喝采……城…動かないものはおりませんし、また、この嶋左近、動かなかった武将や武士や民百姓を見たことがござらん」

「それは正しいことなのか?」

「謀のことでござろうか?」

「いや、ひととして」

「さすが殿。上杉謙信公の義のようなことを申されているので御座るな?」

「いや。そんな立派なものではない」

「殿はやはり常人とは違いまするな。流石でござる」

 嶋左近は感心した。「流石は治部少輔ほどの位のお方だ。」

「信長公は暴君であったとか。第六天魔王とも」

「これ左近よ、信長公はおやじさま秀吉さまの恩人じゃ。口を慎め」

「されどあの悪魔のような大虐殺…天罰が下りまするぞ」

「これ。信長公は悪魔ではない」

「もし秀吉さまが信長公のようになられたら…お止めする者は?」

「おやじさまが?」三成は苦笑した。「ならぬならぬ」           







        将軍義昭と光秀

         稲葉山城攻略


 いよいよ稲葉山城攻撃がはじまった。

 しかし、城は崖の上に建ち、まるで天然の要塞であった。

せっかく墨俣に拠点墨俣一夜城を築いても、稲葉山城の攻撃は難行に思われた。

 信長が「くそったれが」と拳をつくっているところ、西美濃三人衆と呼ばれる斎藤家の重臣の連中から、「お味方したい」という内応の使者がやってきた。

「よし!」信長は目を輝かせた。

 西美濃三人衆というのは、大垣城主の氏家ト全と、北方城主の安藤道足と、曽根城主の稲葉一鉄のことである。墨俣城を築いても、この西美濃三人衆に背後から襲われたら、斎藤家との間ではさみ討ちにさせてしまう。信長はそれを危惧していた。

 そんなところに内応の伝達があったのだから、信長は喜んだ。

 信長はすぐに、「三人衆から人質をとれ」と村井と島田という武士に命じた。

 サルをよんだ。「サル、稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ」

 藤吉郎は驚いた。

「しかし、せっかく西美濃三人衆が味方したいと使者をおくってきたのではありませんか。ここは三人衆がやってきてから、攻撃したほうが情報も得られて得ではありませぬか?」

「それが普通の人間の考えだろう。しかし、西美濃三人衆の応援を得てから稲葉山を落としたのではわしの面子がすたる。なぜお前に墨俣城をつくらせたのかもわからなくなる。お前が指揮して稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ。わかったか!」

 藤吉郎は「ははっ!」と平伏した。

いいようもなく顔を紅潮させていた。自分が…必要と……されている。

「かしこまりました!」サルは叫ぶようにいった。

 サルはさっそく蜂須賀小六を呼んだ。

「親方、もう一度力を貸してくれ」

「いや、いいが……もう俺は親方ではない。頭はあんただ、藤吉郎殿」

「浮浪のおり、貴殿には世話になった。いつまでもあなたは親方だ」

「稲葉山城をせめるのか?」蜂須賀小六はするどかった。

「さすがは親方、その通り!」

「いやに簡単にいうじゃねぇか。あの城を落とすのは困難だよ。正面からじゃ無理だ」

「なら裏からならどうじゃろうか?」

「手はあるだろう」

「では、一緒にまいろう」藤吉郎は、成人して役にたつようになった異父弟小一郎(のちの秀長)をよんで「小一郎、おまえは大手から攻撃しろ」と命じた。

 城の正面の大手からの攻撃は囮である。木下蜂須賀本隊は背後から攻撃しようという算段だった。蜂須賀小六は選び抜かれた尖鋭部隊をつくり、稲葉山城の背面の山道をすすんだ。険しい道だったが、蜂須賀小六は難なく進み、藤吉郎も本当の猿のようにあとをついて進んだ。それぞれの腰には兵糧をさげ、瓢箪をぶらさげていた。瓢箪には酒がはいっていた。……こんな危なっかしい仕事、シラフでやってられるか。一同は笑った。

 木下蜂須賀本隊は谷や崖を抜けてすすみ、ちょくちょく酒をのんだ。

 やがて、山を越えて見下ろすと、稲葉山城がみえた。山からみると、背面の警護は空だった。木戸に門番さえいない。

「これならば落とせる」藤吉郎はにやりとした。

 事前に、明智十兵衛光秀から〝稲葉山城の情報〟を得ていた。

やがて城にはいると、さすがに城兵たちがばらばらやってきた。蜂須賀たちはそれらを斬り殺した。その兵たちの具足を剥ぎ取ると、斎藤家の兵士に化けた。そこら辺にある柴や薪に片っ端から火をつけた。発見した薪などをもって大手の方へ運ぶふりをした。まだ、斎藤方で気付いた者はいない。

 藤吉郎は皆が飲みほした瓢箪を竹の先にくくりつけて、塀の中からあげて、大きく振った。瓢箪が揺れる。蜂須賀小六の部下は稲葉山城の水門をあけていた。瓢箪は突撃の合図である。信長はそれをみて「突撃!」と、劇を飛ばした。信長軍は強力なマン・パワーで城に突撃し、陥落させた。驚いた城主・斎藤義龍は城を脱出した。長良川から船でどこかへいった。稲葉山城は完全に信長のものになった。

「御屋形様!」サルは先に瓢箪がくくられた竹をもったままだった。「城をおとしました」「サル」信長は呆れて「きさまはその瓢箪がえらく気にいったようだのう。これからはその瓢箪を馬印につかえ」といった。

「ははっ!」サル平伏した。

「ただし、最初はひとつだけじゃ。手柄をたてたらひとつひとつ瓢箪をふやせ」

「ははっ! このサルめは手柄を沢山たてまして、瓢箪を百にも千にもいたします」

「大口をたたくな。まぁ、サルよ、お主はよくやった」信長はサルを褒めたてた。

 藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして笑顔になり、また深く平伏した。信長軍の重臣たちは、サルめ、と不快に思ったが口にはださなかった。こうして、のちの秀吉の知謀によって稲葉山城は陥落し、斎藤氏から領土を奪えたのである。

 さて、ここでふれたいのは藤吉郎(秀吉)よりもむしろ小一郎(秀長)である。稲葉山城(岐阜城)を攻めたとき、秀吉は少数で城に潜入し、合図によって、小一郎(秀長)の主力部隊が雪崩れ込むという戦略だったが、そのときの小一郎のタイミングや方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」と褒めている。 いわれるままに実行し、成功させる…これは補佐役の鉄則だ。しかも、小一郎(秀長)は死ぬまで「補佐」に徹した。もしこの男に「いずれは兄と同じように大名に…」「いずれは兄の次の天下人に…」などという欲があったら到底できないことである。

 秀吉は朝鮮出兵という過ちを晩年犯したが、それはこの〝よき弟〟が早死にした結果とみる歴史家が実に多い。その意味で、小一郎は実によい弟で、ナンバー2だった。

 果たして天下をとれたろうか?もし、秀吉にこの弟がいなかったら……


         足利幕府



 のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。

 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。

 また、信長が始めた『楽市楽座』という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この『楽市楽座』というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。

 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。

 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三と父親(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。

『座』をもたないものでも何を商ってもよいという『楽市楽座』は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。


 信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、『岐阜』とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。

 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。

 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。

 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。

 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。

 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。

 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は『必要』と考えていなかった。天皇のほかに『帽子飾り』が必要であろうか?

 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、『武家による武家のための政』をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。

 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。

 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだ。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。

 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。

 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだ。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)

 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好長慶らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、〝阿波公方〝と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。

「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。

 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。

 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。

 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。

 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。

 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。(堺屋太一著作より)

「よくやったサル!」

 信長は、夜、墨俣一夜城に着いて、秀吉をほめた。

 一同は平伏する。しかし、秀吉の弟・小一郎は「御屋形様! 褒美を下され!」と嘆願した。「こら! 小一郎! 黙れ!」秀吉は諫めた。

「われらは褒美のために働いたのでござる! 褒美を!」

 小一郎は必死に嘆願した。秀吉は黙ったままだった。信長は冷酷な顔でふところに手を入れた。もしや、刀を抜いて、小一郎を……斬りすてる?!

 一同は戦慄した。

 しかし、信長は袋にはいった小さな茶壺を秀吉に手渡し「ご苦労であった」といった。場を去った。左吉はそれをみて、銭じゃなく、……茶壺? そんな…と落胆した。 だが、秀吉は一同に笑顔を見せた。〝こんなの屁でもないさ〝と強がってみせる笑顔であった。 

……こんなの…屁でもないさ……? 光秀は眉間に皺を寄せた。


 官兵衛の幼妻・光(てる)は「わたくしは逞しい男が好きでござりまする」

 と旦那にいう。官兵衛は生涯側室をとらず光だけを愛した。「でも、頭の賢い男はもっと好きであります」

官兵衛と光の夫婦仲はよかった。だが、播磨姫路の小大名・外様大名でしかない。そこで信長への接近、となる訳である。

信長は「竹中半兵衛? 黒田官兵衛?」と彼らが仕官する前に秀吉にきいた。「使える者か?」秀吉は「つかえまする、必ずや御屋形さまの『天下布武』の役に立ちましょう!」

稲葉城の返還により斎藤義龍は美濃(岐阜県)の大名に復帰したが、その後に織田信長に侵略され、伊勢(三重県)へ逃げた。

一方、稲葉城を斎藤義龍に返還して隠居した竹中半兵衛は、その後、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家臣となり、黒田官兵衛と共に木下藤吉郎を支える軍師となるのであった。この竹中半兵衛は黒田官兵衛とともに『両兵衛』『軍師・竜虎』と呼ばれるまでになるのだ。

 黒田官兵衛は竹中半兵衛より自分は『器が小さい』と嫉妬してもいたという。尊敬と嫉妬、その一方で、竹中を「聖人か?!」と嘲笑もしている。

竹中半兵衛が「物事を治るのは義、仁であり、至誠を持って動かざる者あらん」というと「そんな綺麗ごとでは人間は動かん!」と官兵衛は反発した。

「人間は利益と恐怖に弱いものだ。至誠を持って動かぬなら『利益』や『恐怖』で動かせばよい。人間の値札に訴えるのだ。人間の値札は百花繚乱、ある人間は銭金だ。ある人間にとっては城と大名職かも知れん。ある人間にとっては女子や地位かも知れん。そういう値札に訴えれば九割以上の人間は動くものだ」

「ならば孔子の論語もいらぬと?」

「いや、論語と算盤だ。どんな綺麗ごとをいったところで銭金がなければ一握りのおにぎりひとつ買えん。それが現実だ」

「いやはや、官兵衛は現実主義か」

「竹中さんのように本ばかり読んでいる訳にはいかんよ」

 竹中半兵衛は押し黙った。

 歴史通なら知っていることだが、秀吉の軍師・竜虎、軍師・両兵衛のひとり、竹中半兵衛はやがて病により早逝する。官兵衛は半兵衛の死に泣いたというが本当だろうか?




         明智光秀と細川藤孝




 足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど感心を示さなかった。

また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。

 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。

 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。

 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。

「なるほど」細川は唸った。

「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」

 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つ。

こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。

 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。

 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。

 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。

 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。

 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!

 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。

 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。

 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。

 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。

 そこで信長は『天下布武』などといいだした。

 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!

 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。

 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられる。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。

『天下布武』などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。

 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!

 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!

(堺屋太一著作より)

     


    

足利将軍・足利義昭




 織田信長など足利義昭にしてみればチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾景虎(上杉謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。

 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。

 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、

「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。

 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。

 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。

 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。

 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津に逃れて、やがてそこで死んだ。

「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。

 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。

 信長は義昭のために二条城を造らせた。

 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。

「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。

 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。

 義昭は上座に座ると、「信長、まろはちと金がほしい。用意あるか?」といった。信長は家臣に命じて二百貫を与えた。義昭は当たり前のように金をみると、「ケチだときいていたが、信長はやるのう」といった。

「銭はつかっていいときに使うものにござりまする」信長は低い声でいった。

「公方(将軍)さまの家来、明智光秀殿をわしの家来にしたいのです」といって、光秀のほうに目をむけた。「もちろん、公方(将軍)さまとの関係もそのままで。四千貫でいいがか?」

「余は知らぬ。勝手にいたせ」

「ははっ、おおせのとおりに」信長は珍しく低姿勢であった。

「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」

「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」

「それは?」

「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」

 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。  

信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                        

        




        堺に着眼



 大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。

 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。

工兵と緇重兵(小荷駄者)がところが、織田信長が登場してから、独立することになる。

早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。

 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。

 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあった。が、兵糧が尽きて結局、撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。

 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。

 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。

 また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長は、これはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。

 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。

 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。

 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。


 京都に上洛するために信長は『矢銭』を堺や京都の商人衆に要求しようと思った。

『矢銭』とは軍事費のことである。

「十兵衛!」

 信長は清洲城で明智光秀(十兵衛)をよんだ。光秀はすぐにやってきた。

「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」

「きんかん」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に『矢銭』を要求しろ」

「矢銭、でござりまするか?」

「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? きんかん頭」

「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」十兵衛は平伏した。

 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。

 十兵衛はさっそく堺にはいった。商人衆にいった。

「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」

十兵衛は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。

「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」

「て……」光秀はつまった。続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」

「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」

「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは十兵衛を馬鹿にするだけだった。

 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もホロロに扱った。 

信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。

 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。堺のことを光秀に調べさせた。

 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。

 信長は光秀に教えられて勉強し、堺の富に魅了された。

 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による『自治』が行われていた。

 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。

 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好長慶には多額な金品が渡ったという。

 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。

「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? きんかん、サル」

「ははっ!」秀吉と光秀は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」

 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。

 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。

 しかし、義昭など信長の〝道具〟にしかすぎない。

 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。

 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。

 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。

 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。「ご立派!」光秀は褒めた。




         フロイス


 京都に第十五代将軍足利義昭がいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な〝道具〟が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。

「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」

信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………

 信長はすぐに堺を脅迫しだした。

「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな! すぐに連中を撤退させよ。前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」

 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。

 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、

「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。

 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。

 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。

 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。

 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。

「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」

信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。

「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」

 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を〝道具〟としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、〝自分の野望を実現させるための道具〟、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………

 信長は修羅の道を突き進んだ。

 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。

 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。

 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。

 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレンと日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。

 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。

 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。すぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだ。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。

 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。

 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。

 その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。

 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。

 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には感心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。

 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。

 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。

 ……これならキリスト教徒としてやっていける…

 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。遭遇した。

 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。

 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。

 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。洗礼を受け、イエズス会に入会したのである。










         フロイスと信長



 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田と光秀に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。

 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。

 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。

「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。

「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。

「よかろう」信長は頷いた。

 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。

 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。

 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。

「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。

 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。

「お主の年はいくつだ?」

「三十一歳で御座りまする」フロイスはいった。

 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」

 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。

「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」

「はい。そうです」

「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」

「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」

「さようか」信長は感心した。「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。

「二年」フロイスはゆっくりいった。

「………二年? それは、それは」信長は感心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。光秀は声も出ない。

 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。

 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。

 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。

 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。

 

         焼き討ち

        浅井長政の裏切り




 確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。

 義昭は将軍となり天皇に元号を『元亀』にかえることにさせた。しかし、信長は『元亀』などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を『天正』とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で『殿中五ケ条』を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。  

しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、〝美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう〟、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

「御屋形様……これは……」光秀が何かいおうとした。秀吉もハッとした。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。考えた。

……殿(しんがり・後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 

信長は四人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は〝両腕〟として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、光秀、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとる、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになった。とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだ。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 信長は思った。皆殺しにしてくれる! 





         姉川の戦い



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大いに喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 すると光秀が「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、きんかん! さすがはきんかんじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 光秀は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、きんかん」

 光秀は驚いて目を丸くした。いや、光秀、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




         焼き討ち



 三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

「信長さま! どうか…本願寺攻めはおやめくだされ! 僧侶や仏像を焼き殺すなど罰が当たりまする! 民も怒り出しまする! 信長さまの御名に傷がつきまする! どうか!」

「だまれ〝きんかん〟頭! 僧侶ではない! 女や肉を食らう僧兵じゃ! 仏像など木や金属でできた像に過ぎぬわ! 馬鹿たれ!」

「されど!」

「こざかしい! 光秀、お前に本願寺攻めの大将をまかせるぞ!」

「な?」

「………文句があるのか? 光秀!」 

 信長は光秀を蹴り倒した。「…わかりもうしました」

 この頃、直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御味方なのかそうでないのか…」

「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」

「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」

「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」

「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」

「…ほう」

「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」

 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。

 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。

「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」

「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」

 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」光秀は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。〝御屋形様は魔王じゃ……〟家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     


 永禄十一年(一五六八)四月、光秀四十一歳。足利義昭との出会い(〝足軽衆〟〝明智〟『永禄日記』より)……五ヶ月後に信長とともに、足利義昭を掲げて上京し、足利幕府が再興される。一年後(一五六九)、足利義昭の命を狙った三好長慶軍の松永弾正らを、光秀は少数の軍勢ながら撃退する。これにより、光秀は信長に信頼された。

 木下藤吉郎秀吉とともに、明智光秀は京都の行政官のようなポストを任される。

 また、この時期の最大悪事、比叡山延暦寺焼き討ち(元亀二年(一五七一)九月十二日)だが、今までは明智光秀らは〝焼き討ち〟〝皆殺し〟に反対していたのが定説だった。

 しかし、最近の研究ではむしろ明智光秀のほうが〝(女子ども問わずの)皆殺し〟を指揮していたのだ。その後、光秀は織田軍の先兵として、丹波攻めに成功し、丹波を平定した(天正三年(一五七五))。

 だが、その直後に、明智光秀は病(風痢・ふうり・ウィルス性腸閉塞)に罹り、数ヶ月、病床で生死をさまよう。京の名医・曲直瀬(まなせ)道三に診てもらい、なんとか回復するも、その頃には、織田信長に〝役立たず〟扱いを受ける。

 信長の側室で、調整役、妻・煕子の妹・御ツマキ殿の死去も痛かった。

信長が、光秀の所領・丹波などを取り上げて、敵の領地・出雲・石見を切り取り次第に所領とせよ……という無慈悲な言葉で、明智光秀は激昂した。


        





         

        三方が原の戦い




    

 武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、〝神将〟という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。

真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。

 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだ。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが、三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。(実は後年、家康の死後につくられた作り話)

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」

この頃、おねはひとりっきりの屋敷で激痛におそわれてうずくまっていた。そこに佐吉がやってきた。「おね様! いかがなされた?!」かれはすぐ薬師(医者)を呼んだ。おねは子供が産めないからだになった。「佐吉、藤吉郎殿につたえないで…」

 おねは泣きながらいった。嘆願した。

 佐吉は切羽詰まった表情のまま無理に微笑んで、「このことは私とおね様の一生の秘密です。私は死ぬまで殿下にこのことはいいません」といった。おねは感激し、泣き崩れた。

比叡山焼き討ちの功績により、明智光秀は近江の国・坂本城を与えられている。

そこに妻・煕(ひろ)子と娘・珠・しげらと住んだ。

だが、妻は本願寺攻めを責める。光秀は「御屋形さまのご命令じゃったのじゃ!」というのみ。城門でも民が「坊さん殺し! 仏像殺し!」と民百姓が押しかけて投石や悪罵を放つ。光秀は土下座して謝った。「すまない! すまない! 御屋形さまのご命令だったのだ!」

妻の熙子は涙ながらにそんな夫を見守った。

しばらくして、備中攻めの最中だった秀吉が訪ねてきた。

「光秀殿、大根ばもってきたがあね。ほろ吹き大根でも食べさせてくれ」

秀吉は猿顔でにこにこ言った。光秀は秀吉が嫌いだった。

「秀吉殿!ひさしう御座る!」

明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉は〝最後の晩餐〟を催した。


テレビ朝日時代劇ドラマ『敵は本能寺にあり(2007年放送)』より

「……見るんじゃ……なかった……」

信長の安土城の天守閣を見た後、先の関白・近衛前久(このえ・さきひさ)はあまりの恐怖に足がふらついた。恐怖で歩けないくらいだ。

のちにそのことを明智光秀に近衛前久は伝えた。

「安土城の天守閣は〝天守閣〟ではなかった〝天主閣〟じゃった」

「………天主閣?」

「あの男は天子様……天皇陛下などあがめてもいない。自分がこの国の天皇になる考えなのじゃ!」

「ななんと! 自分が天皇に?」

「朝廷より信長討伐の書状を準備する故、信長を殺すのじゃ! 光秀!」

「……信長さまを? しかし……」

のちに、明智光満は「朝廷よりの討伐令があればわが軍は官軍! これはいい!」

しかし、左馬助や藤田伝吾は反対する。

「なれど! 正式に討伐令の書状が手元にきてからになされ! でなければ我が軍はただの逆賊の軍となりもうす!」

「明智十兵衛! いま、織田信長は京の本能寺にいる! 手勢はわずか百! この期をのがせば官軍といえ戦は長引く! 今しかない!」

「しかし……朝廷は源義経を見捨てた! 何度も武士や強軍を利用して生き延びてきたのです! 義経のように裏切られれば……確固とした討伐令の書状がなければ裏切られる可能性もありまする!」

「グズグズしてたら、あの猿・禿げネズミ(秀吉のこと)にしてやられる!」

「この本能寺自体が朝廷の罠かも……それこそ羽柴さまの罠かも…」

「いや!」光秀はうなった。「これは天命に違いない! 天子さまを廃して自分が天皇になろうとする織田信長を討てという天命であろう」

「……しかし、殿!」

 左馬助や藤田は反対するがもはや明智光秀の決心はゆるがない。

……敵は本能寺にあり!

光秀の頭上の天空に黄金の麒麟が、現れる。『大きな世界と対峙することが宿命』

運命の、伝説の、麒麟……! 我こそ麒麟の男じゃあ!

 この頃、織田信長は身内の贔屓をし出した。能力主義で、出来る家臣は次次と登用したが、この時期から身内の血族を贔屓し権力を与えた。これでは天下人ではない!

信長の危険性を察した光秀は決断をする。……織田信長を討ち滅ぼす!

「誰かが行動をしなければ麒麟は来ない! よし!」




         室町幕府滅亡



 信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。

 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。

 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。

 知らせをきいた信長は激怒した。

「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」

 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。

〝落ち武者〟のようなザンバラ髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。

「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。

「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。

 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?

「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」

 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。

 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など〝用なし〟なのだ。

「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」

 光秀は「しかし……御屋形様?! 公方(将軍)さまを斬れと?」と狼狽した。

「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。

 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」

「なんじゃと?! サル」

「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」

 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。

「……わかった」信長はゆっくり頷いた。

 秀吉もこくりと頷いた。

 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。










         どくろ杯




 大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。

 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。

 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。   

朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

 北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならば、と、城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。


 天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。

 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。

「酒の肴を見せる」

信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。髑髏にはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。

「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」

 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……

 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。

「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。

「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。         

         


 信長の狂気

         長篠の合戦と安土城





 正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。

「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!

「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」

「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」

 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」

「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」

 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。

  ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。

 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。

 それは微かな、暗い呟きだった。


 信長は〝長島一揆〝〝一向一揆〝を実力で抑えつけた。

 有名な武田信玄の嫡男・勝頼との〝長篠の合戦〝(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。

 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。

 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。

 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、三番手、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。

 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。

「撃て! 放て!」信長はいった。

 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。

 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。

 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。

 こうして、〝長篠の合戦〟は信長の勝利に終わった。

 これで東側からの驚異は消えた訳だ。

 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。



 信長は岐阜から、居城を安土に移し、絢爛豪華な安土城を築いた。

 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとっては、それは我慢のならぬことでもあった。

 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……

「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、明智光秀がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」

「信長さまは人間に御座りまする! 人間は神にはなれませぬ!」

 光秀は必死にとめた。

「……光秀! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。

「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。明智光秀は驚愕した。

 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………

 明智光秀の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。

「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……

「御屋形様は……神にござる!」光秀は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。

  


天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母・小牧の方は殺された。「母ごぜ……」光秀は愕然となった。

「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、秀吉は信長にいった。

「頭を冷やしなはれ、秀吉殿」千宗易(のちの利休)は秀吉を諫めた。




         本能寺の変




 大雨の中、明智光秀と義理の息子の明智光満は、馬上で、丘の上で、美濃傘のまま雨に打たれた。ふいに光秀が、

「天下は織田信長公のものとはなるまい。まずは逆賊が現れ、逆軍が信長公を討つだろう」

「それは………? いまや信長公は天下人に一番近いひと…」

「いや。信長公は誰かが止めなければならない。逆臣が信長を討ち、その後、正当な後継者が天下を取るだろう。そのときこそ麒麟がくるんだ」

「正当な後継者? ……柴田殿? 前田殿? 林殿? 森殿? 滝川殿? まさか義父上?」

「………いや、サルだ」

「まさか秀吉殿!」

「そうだ! あのサルは木にも登らない。〝サルも木から落ちる〟というがあのサルは木にのぼることもなく、木にはきんかんがなっており、きんかんが落ちて、地面に落ちたきんかんをサルが食らうのだ!」

「そんな…義父上! 秀吉に天下を」

「……そうだ。わしの天下など三日…三日天下よ。わしの宿命は『大きな世界と対峙』すること。大きな世界として、次世代の世をつくること。それはわしではなく猿殿の仕事である。それこそが『大きな世界と対峙』することじゃ。誰かが行動しなければ麒麟はこぬ!」

光秀はにやりと苦笑すると馬を走らせて去った。

激しい雨が身を濡らす。

……くそったれめ! 天下は秀吉が? 光満は天を呪った。

光秀さまこそが、麒麟の男で、あるはずなのに。



 明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。

 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」

「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」

 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。

 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。

「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」

 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。

「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。

「わしは命令に従っているだけじゃ」

 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。

「あの方が……いなくなれ…ば…」

 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!

「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…誰かが行動をしなければ麒麟は永遠に来ない」明智光秀は暗く呟いた。

 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。

 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。

「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。続けた。

「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」

「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」

 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。

「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。

「いえ。めっそうもない」

「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」

「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことで御座る」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」

「ははっ」家康は平伏した。

 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」

「……いいえ」

「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」

 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。

 だが、光秀は信長の怒りを買ってしまう。

「我々、織田軍の宿敵・武田軍を〝長篠合戦〟で破り、武田家は滅亡……これで我々の長年の努力と苦労が報われました」光秀の言葉に、信長は柳眉を逆立てた。

「なに? ……光秀、お主がいったい武田攻めのいったいなにを苦労して努力したというのだ!」信長は光秀を羽交い締めにし、光秀の頭を柱に叩き付けた。血が滴る。

「光秀! 調子に乗るな!」信長は怒りの声で体罰を加える。

 その後、信長は場を去る。しかし、光秀は両手の拳を握り、怒りを抑えるのだった。



 この年、光秀の正室・熙子が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。光秀はこのとき初めて神に祈った。しかし、熙子の命は風前の灯であった。光秀は熙子の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、熙子は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。熙子は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。

やさしく彼女を胸元で抱きしめた。

「…わらわは光秀さまの妻……光秀さまが神を信じないのなら…わらわも…」

 熙子は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、光秀の崩壊を防ぐ唯一のものだった。光秀は傷つきやすい孤独な心で、熙子を抱擁した。「熙子……死ぬな」

 かすかな悲しげな微笑みとともに、光秀はささやいた。光秀は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。光秀は微笑み、「第六天魔王信長に天誅を…」煕子は死んだ。

 秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。

「ひさしいのう、秀吉殿」上座で、光秀は秀吉に声をかけた。側には娘らがいた。秀吉は「これはすべて熙子さまへの御土産にござる!」

「サル……母上は…死ん…だ……のだ」珠は泣きながらいった。

「珠、秀吉殿はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」

 光秀はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、光秀様!」といった。

「わしが泣いても……笑われるだけじゃ」光秀は涙目で呟いた。

「光秀さま。この秀吉からの……お話が御座いまする」

「何じゃ? 話し……?」


 しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。

「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」

「は? ……羽柴殿の?」

 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。

 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。口を開いた。

「お主の所領である近江、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」

 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。

 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。

 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!


 秀吉は備中高松城攻めで、巨大な堤防をつくっていた。土袋を金で庶民から買う…という奇抜なアイデアでわずか十一日で巨大な堤防をつくった。あとは雨が降り続けば高松城は水の中である。だが、雨はなかなか降らなかった。

「ちくしょう! 雨降れ! 水攻めなんじゃ! 雨降れ!」

 秀吉はふんどしだけになって、百姓たちと「雨乞い」の踊りをおどった。竹中半兵衛なきあとの秀吉の軍師・黒田官兵衛はあきれた。その後、笑った。

「あれで……百二十万石の大名なのだから……おもしろい人物だ」

「兄じゃ!」小一郎秀長も百姓踊りに加わった。そこに、佐吉(のちの石田三成)がやってきた。「おやじさま!」

「おお、佐吉! なんじゃ?!」猿顔をゆがませ、秀吉はきいた。

「おやじさまの母上さまから文にございます」

「なに? かあちゃんから?」

 佐吉は文を秀吉に渡した。小一郎秀長らはにやりと笑って「かあちゃん…字がかけるようになったんだ」といった。汚い字で、すべてひらがなだった。

 ……ひでよし、がんばれ。おまえはにちりんのこじゃで、かならずかてる…

「……かあちゃん!」秀吉は笑った。「よし! なんとしても勝つのじゃ」

 すると、雨が激しく降り出した。

「かあちゃんからの土産じゃぁ!」秀吉は天を仰ぎ、大声でいった。



  元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 かれは完全に油断していた。


 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝吾、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。

光秀は「信長を討つ」と告げた。

「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」

 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。

 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀は愛宕山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。歌会をひらいた。

 ……時は今、雨がしたしる五月かな…

 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。

 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやった。しかし、それは生き延びるための戦だった。かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。

 ……信長を討ち、わしが天下をとる!

 光秀は頭を激しくふった。「誰かが行動をしなければ麒麟は来ない! 平和は来ない!」

天空の頭上に、黄金の麒麟が見える。これが「麒麟(きりん)」……いや、これこそ麒麟の男の〝呪い〟じゃ! 神仏が生け贄を求めておる! くそくらえだ!


「敵は本能寺にあり!」

 明智光秀軍は京都に入った。斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」

 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。

「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。

「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。

「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」

「何っ?」

「…殿…すべて包囲されておりまする」

「是非に及ばず」信長はいった。

 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。

「信長を殺せー!」

「光秀! この裏切り者めが!」

矢は光秀の左頬をかすめた。「……殿」

「たいしたことはない。信長よ、もはやこれまでじゃぞ! これぞ、麒麟(きりん)ののろいじゃ!」

「……麒麟…の……のろいじゃと」

「信長を討てー! 討てー!」

信長は肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。

「人間五十年、下天のうちを食らぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛(あつもり)」を舞った。

「……光秀。おまえも天下が欲しかったか」

信長は、切腹して果てた。

 享年四十九、壮絶な最期であった。


         秀吉・ 天下を獲る

「中国大返しと山崎・牋ケ岳」




信長は〝本能寺の変〝で、死んだ。

 その朝、家康や千宗易はがばっとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。

 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。

 天正十年(一五八二)五月、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。

 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。

今度の高松城攻め、である。

 秀吉軍は二万あまりであった。

 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。

 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。

 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。

 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。

 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。

「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」

「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。

 時代は急速に動く。

 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……

 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。

 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利公方(将軍)様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…


  秀吉は驚愕した。

「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」

 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。

「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉は地団駄を踏んだ。

 信長の死に号泣するは狼狽する秀吉に黒田官兵衛は囁いた。

「貴公が天下の采配を取り給(たま)うべき候(あなたさまこそ天下を取るべきだ!)!」

 官兵衛は迅速に行動する。毛利と半日で停戦交渉をまとめ(毛利方の使者は安国寺恵瓊)、明智光秀のいる京に向けて行動しても毛利方に攻められないようにした。

後は世にいう「中国大返し」である。秀吉軍は武将から足軽までとにかく六月六日から八日まで千キロ走りまくった。

 姫路につくと官兵衛はダウン気味の足軽や武将に「蔵が空になるほど」銭を配り、「もう少し頑張ってくれ」と士気を鼓舞したという。

 またこれから通過すむ村の百姓たちに事前におにぎり等つくらせ渡させた(まかない作戦)事もした。無論銭を払ってである。黒田官兵衛は「倹約家・ケチ」で知られるが、大事な時には惜しげもなく銭金をばらまいた。



 石田三成は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な〝天の時〟……わたくしに策があります」と策を授けた。

実は官兵衛の策の盗策だった。

 盗作はすぐばれた。「佐吉! 黒田官兵衛の軍略の盗策ではないか!」秀吉は三成を殴った。黒田官兵衛は心の中で、この三成という男は盗策してまで褒められたいのか?こいつにはひとを動かせない。人望がない。と石田三成の弱点を見破った。だからこそそののちの関ヶ原では、息子・黒田長政を家康側につかせたのだ。

 黒田官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。という内容である。恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。

六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう〝中国大返し〝である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。

 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。  

このことも秀吉の幸運、といえるだろう。

 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。

〝本能寺の変〟を知った光秀のかつての盟友・細川幽斎(藤孝)や息子の忠興らは、明智光秀の味方にはならなかった。この親子は、信長暗殺を知ると、関わりない、とでもいうように〝剃髪〟をして、〝出家〟した。忠興は正室のガラシャ(珠・光秀の娘)を離縁する。すべては細川家を守るためであった。

 けして秀吉に味方するでもなかったが、細川家が中立を保ったおかげで、秀吉の〝中国大返し〟は成功したということだ。



 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。

 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。三成も手柄をたてた。

「殿! まずは坂本城に戻り形勢を挽回しましょう!」

「うむ。まずは一時撤退じゃ」

「近江坂本城まで逃げのびれば…再起の道も開けましょう!」

「そうだな。まだまだじゃ」

暗い真夜中の月明かりの山道で、光秀と家臣たちが落ち武者として遁走していた。

だが、

「…ぐうっ!」

光秀が歩みを止めた。

「殿? いかがなされた…!」

光秀の腹に落ち武者狩りの農民兵の竹槍が刺さっていた。

「貴様! …があっ!」家臣たちもやられる。「ぐああっ!」

「殿! どうか…殿! お逃げくだされ―っ! うああっ!」家臣たちも竹槍でやられる。

「……秀吉―っ!…義昭さま。天子さまーっ!」

さらに竹槍で刺される。光秀は最期の力で刀を抜いて、竹槍を斬り、天を仰いだ。

「…秀吉殿―っ!……後は頼んだぞー!…この日の本の国の…将来を…頼んだぞ!」

光秀は血を吐きながら叫んだ。「…おのれ、百姓どもめーっ!」

……やはり、これは天命…麒麟(きりん)の呪い……神仏は生け贄を求めた……

さらなる百姓たちの竹槍で、絶命し、その魂は昇天した。

百姓たちは光秀らの鎧や金品を物色した。死屍累々に屍にむらがる百姓たち……

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。

本能寺の変から、山崎の戦い(天王山)で秀吉と戦い、明智光秀が最期を遂げると、近江の明智光秀の居城だった坂本城は総攻撃を受けた。明智左馬之助らは勇敢に戦ったが、戦死する。死に花を飾った。僅かな城の兵士たちは籠城するが、駄目で、坂本城は炎上……

明智光秀の長女・お倫は城の中で、家臣に槍で胸をつかれて自害して果てた。

光秀の娘で、明智珠は細川藤孝の息子・細川忠興に十五歳で嫁ぎ、細川家の正室となっていたため一命をとりとめた。が、光秀の謀叛のため、冷遇された珠、のちのガラシャは、関ヶ原合戦の前哨戦・大坂城大名妻子人質事件で、有名な、悲劇の自決を遂げる。

その後は、もはや秀吉、家康など、英雄達の時代である。

〝麒麟の男〟明智光秀の物語は、こうして、永遠に、おわった。

               

おわり









         あとがき



 関ケ原の役から大阪落城、豊臣家の滅亡まで、家康は根気強く足かけ十六年の歳月をかけた。すべての懸案を解決したのを見届けて、死んだ。彼は非常に幸運だったといわねばなるまい。当時としてはまれな長寿といい、わずか一年の差で大阪の豊臣家を滅亡させたことといい、天運がつきまくっていた。

 家康は登りつめたひとであった。

 かれは勝つためには何でもやった。策略をめぐらした。徳川政権維持のため、さまざまなひとをおとしいれた。そのため、徳川家康の人気は低い。黒田官兵衛(如水・じょすい)もNHKの大河ドラマになるまで日陰者の陰謀家・謀略家、という暗いイメージと先入観で歴史に刻まれていた。だが、家康も官兵衛も凄かった。

 また三成も敗北者としてのイメージしかない。黒田官兵衛も陰謀家の暗いイメージだ。だが、最初に徳川幕府に反抗したのは石田三成である。幕末の坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛、高杉晋作、大久保利道……

 しかし、三成も黒田官兵衛もそのパイオニアである。

 時代、戦国時代 - 江戸時代初期。生誕、天文15年11月29日(1546年12月22日)。(グレゴリオ暦1547年1月1日)。死没、慶長9年3月20日(1604年4月19日)。(グレゴリオ暦1604年5月17日)。改名、万吉(幼名)、小寺孝隆、黒田孝高、 如水軒(号)、 如水円清(法名)。別名、祐隆(別名)、 官兵衛(通称)、 小官、黒官(略称)、 黒田の瘡頭(渾名)。

 戒名、龍光院殿如水円清大居士。霊名、ドン・シメオン。墓所、福岡市博多区千代の崇福寺。京都市北区の大徳寺塔頭龍光院。官位、従五位下、勘解由次官。主君、小寺政職 → 織田信長 → 豊臣秀吉。氏族、小寺氏、黒田氏(自称宇多源氏)。父母、父:黒田職隆。母:明石宗和の娘(小寺政職の養女)。兄弟。孝高、浦上清宗室、 浦上誠宗室、利高、 香山妙春(三木通秋室)、 虎(妙円・尾上武則室)、 利則、直之、心誉春勢(一柳直末室)。妻、正室:櫛橋伊定の娘・光(幸円)。子、長政、熊之助 養子:一成(加藤重徳の次男)。「松寿丸」(一柳直末の息)。

光秀の娘で、細川藤孝の息子・細川忠興の正室となっていた明智珠(たま・ガラシャ)が死んだのは、豊臣方の石田三成の謀略で、大坂城の西軍総大将・毛利中納言輝元の『人質作戦』に対抗しての自殺であった。大坂城近くの細川屋敷で、屋形に火をつけて、部下に胸を槍で突かせて自決したのだ。

この細川ガラシャの悲劇、で知られる事件も、戦国時代の悲劇、である。

明智光秀の盟友・細川藤孝は『本能寺の変』のとき、光秀に味方しようとはせず、隠居して見放した。明智の不幸は、家臣団や人望、天の運に見放されたことだった。

明智光秀はまさに「麒麟の男」ではあった。

だが、それこそ「麒麟の呪い」でもあった。

明智の不幸は、麒麟に好かれ、「大きな世界と対峙」する運命に、身をゆだねたこと。

それ故に最期は悲惨な最期となった。故に、明智光秀を忍ぶのも、また、故としない。

 明智光秀の魂よ、石田三成の魂よ、黒田官兵衛の魂よ、永遠なれ! こういってこの小説のおわりとしたい。

                                おわり






(本作の歴史説明文群はネットウィキペディアや「ネタバレ」等の記事を参照しています。ちなみにこの作品の参考文献は藤沢周平『逆軍の旗』、フジテレビドラマ『明智光秀~神に愛されなかった男~』(唐沢寿明主演・柳葉敏郎・長澤まさみ・上川隆也、他)、佐竹申伍著『島左近』 PHP研究所、隆慶一郎著『影武者徳川家康』 新潮文庫、山元泰生著『嶋左近』 学陽書房人物文庫、原哲夫作『影武者徳川家康(1 - 6)』 集英社 1994年(原作:隆慶一郎著『影武者徳川家康』)、原哲夫作『影武者徳川家康外伝 SAKON(左近) -戦国風雲録-(1 - 6)』 集英社 1997年、「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」「軍師官兵衛」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、「軍師 黒田官兵衛」高橋直樹著作(潮出版社)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ガイドブック」TOKYO NEWS MOOK、等である。ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。裁判とか勘弁してください。盗作ではなくあくまで引用です。) 




      ポスト・スクリプト



話を戻す。

夜更けの本陣に、当時のセンサーともいうべき「鳴子板」の音が鳴り響いた。黒田官兵衛(くろだ・かんべい)は、耳をすます。やがて足音が近づいてきた。軍師の寝床に近づいた栗山善助(くりやま・ぜんすけ)が官兵衛を呼んだ。

「一大事でござりまする、軍師殿」

「入れ」栗山は戸を開けると手に持った書状を差し出した。

「この書状を毛利陣営に運ぼうとした明智の使者が、先ほど鳴子板にか?」

「ははっ!」

「明智の使者をとらえたのは誰じゃ?」

「益田与助(ますだ・よすけ)にござる」書状には明智の署名もある。

「すぐに筑前殿(ちくぜんどの・羽柴秀吉)の陣に参ろう」官兵衛は書状を懐へしまい立った。三十七歳なのにもう杖をついている。すでに病で片足があまり動かない。皺だらけの顔は疱瘡みたいにかさかさだ。頭巾をかぶっているが、すでにつるつるの禿げ頭で、ある。秀吉本陣は毛利攻めの水攻めの途中だ。

軍師殿は「明智光秀が主君・秀吉の上司・天下人織田信長を討ったこと」に驚かない。軍師は策を練る。「このまま毛利と和睦して「中国大返し」だ。謀反人・明智光秀を討てば筑前殿の天下じゃ」天下に名だたる天才・軍師「黒田官兵衛」の策略の見せ所で、ある。「秀吉殿、いよいよ御武運が開かれましたな!謀反人・光秀を討ち果たし、殿が天下人となる好機でござりまする!」軍師黒田官兵衛は言った。

大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。

参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』(2014年10月22日放送分)

三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。

石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。

三成の秀吉への〝茶の三顧の礼〝は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

      


「よし! 今日中に姫路城に撤兵しよう…」

 黒田官兵衛は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な〝天の時〝……わたくしに策があります」と策を授けた。

 官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。     という内容である。恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。宗治は恵瓊の腹芸とは知らずに承諾。

 恵瓊はその足で、小早川隆景、吉川元春の陣へ、かれらは信長の死を知らないから署名して和睦。四日午後、無人の城に兵を少しいれて警戒。五日、小早川隆景、吉川元春の軍が撤兵、それを見届けてから、六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう〝中国大返し〝である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。

 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。 このことも秀吉の幸運、といえるだろう。

 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。

 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。

 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は〝清洲会議〝へともちこまれた。

 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。

 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。   残るは、次男・信雄、三男・信孝か?

 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。

 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。

「謀ったな……秀吉…」柴田勝家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、勝家は我慢がならなかった。

 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ!

 秀吉は信長の妹・お市をも手籠めにしようとした。お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒に、である。

 琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。ここでも秀吉は勝った。勝家は炎上する城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。

「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」

「市……娘たちは助けてくれようぞ。あのサルめは子供までは殺さぬからのう」

 ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。

 農民たちは戦を楽しんでいたという。牋ケ岳の合戦のときも、農民たちは弁当片手で戦をまるでスポーツのように観戦していたのだ。また、合戦のあとは庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪えることができたからだ。また、敗者の武将をとらえれば多額の賞金までもらえる。そのため、合戦のあとはかならず農民の落人狩りがおこなわれた。天王山から坂本城にもどる途中で、竹やりで刺された明智光秀らは、庶民の強欲の犠牲者であるという。


「信長公のあとつぎだと天下に宣言するため安土城よりでっかい大坂城を築こうぞ」

 秀吉は大坂に城を築城しはじめた。

 この頃、奥州(東北)の伊達、徳川、北条氏が三国同盟を結んでいた。その数、十万、秀吉軍は十七万であったという。大坂城の大工事をやっている最中に、信長の次男の信雄が家康と連合してせめてきた。

「わしは信長の子じゃ、大坂城にはわしが住むべきじゃ!」信雄はいった。

 家康は「そうですとも」と頷いた。

 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。

 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。  その後、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。

 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。

 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。

 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長宗我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」と、にこりとした。その後、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。そのために…」


「………義兄弟?」

 居城で、家康はもどった石川に尋ねた。「秀吉公がそう申されたのか?」

「ははっ。つきましては秀吉殿の妹君を殿の妻にと…申されました」

「妹君?」家康は茫然とした。「秀吉公の…?」

「はっ。朝日の方。年は四十三でござる」

「それは…」家康は続けた。「年増じゃのう」

「連れ添った夫と離縁して、嫁ぐそうでござりまする」

 家康の家臣たちは反対した。秀吉の妹などいらぬ! というのである。しかし、石川数正だけは冷静で、「受けたほうがよろしいかと存ずる」とがんといった。

 家康は遠くを見るような目をして、口をとじた。何にせよ、家康が何を考えているのかは、誰にもわからなかった。

                         



 石田三成は安土桃山時代の武将である。

 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)

 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。

『関ヶ原』の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。

当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。

 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。

「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。

「バカのヤツよのう、三成!」

福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。

「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」

 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。

「たわけ! 徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」

「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」

「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」

「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」

「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」

「佐和山城にいったのか?」

「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」

「全焼したか?」

「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。〝三成(治部少)に過ぎたるものが二つある。嶋の左近と佐和山の城〟か?嶋左近は奮闘したが死んだからのう。酒はどうだ?」

「いや、いらぬ」

 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」

「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」

「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。

「まあ、今回は武運がお主になかったということだ。武勇の嶋左近がいてもお前のような嫌われ者に味方する武将は少ない。直江兼続も上杉景勝も悔いていることだろう。嶋左近も憐れよのう。あれだけの武勇の天才軍師が…お前みたいな糟のせいで討死とは…」

「正則」

「なんだ?」

「縄を解いてはくれぬか? 家康に天誅を加えたい」

「……なにをゆう」

「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」

 福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している

「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」

「家康は老獪な狸だ」

「…そうか」

 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。

 次に黒田長政がきた。官兵衛(如水)の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。

「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

「三成殿の鬼武者・嶋左近めに左肩を槍で射抜かれた。痛くて困る。まるで弁慶のように矢や銃弾を受けても勇猛果敢にわが黒田勢を倒していってのう。今でも左近の「かかれーっ!」という声の悪夢を見る」

「…あの世の左近も黒田さまに一槍報いて喜んでいることでしょう」

三成はそういうと苦笑いを口元に浮かべた。

………嶋左近、死してなお黒田長政を恐れさせるとは…まさに諸葛孔明!


 関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な『直江状』を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、『義兄弟』の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。

 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。

 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。

 直江らは「何故にございますか? いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか? 御屋形さま!」

 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」

 直江は刀を抜いた。構え、振り下ろした。しゅっ! 刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。

 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。


 石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。

 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。

 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるときに事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。

 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。



「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」

 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。

「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」

秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」

「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」

 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。

「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」

 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。




  絢爛たる前田慶次


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長は『本能寺の変』にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が『賤ヶ獄の戦い』において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。

 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。

北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。

 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。

 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。

 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。

「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」

「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」

 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」

 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。

「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」

 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」

「は…はあされど…」

 利家は絶句した。

 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。

 歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。

 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく『猿踊り』をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して『天下の傾奇者』と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。

 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。

前田利家の正室はおまつ(もしくはまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。

 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。

 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父に嫁ぐのか。もったいない。

 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。

 慶次と助右兵衛門はまつを救った。

 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」

 慶次はそのときまつに惚れたのだ。


 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。

 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。

 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。

 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。

 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。

 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。

 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。

 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。

(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)

おわり

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麒麟の男 明智光秀~賊軍の炎と戦国時代とその時代~ 長尾景虎 @garyou999

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