きょうを読むひと

柴田 恭太朗

音響とケイビング

 とある洞窟。

 洞内はひろく、京香きょうかが手にした小ぶりなランタンのあかりでは、天井の高みにとどかない。足元の三歩先には青く透きとおったガラスのような平面。地下水を満々とたたえた地底湖だ。ピチョン。天井の水滴が地底湖に落ち、波紋をつくる。


 京香は地底湖のほとりまで歩みよると、ランタンを足元においた。ほの黄色い灯りがフワリと周囲を照らしだす。


 地底湖の上を吹きわたる風を感じながら、京香は耳をすます。そこにあるのは、


――極上の静寂――。


 彼女の若く整った顔が期待に輝く。

 京香は胸の前で両手を小さくひろげると、おもむろに柏手かしわでを打った。


 ぱぁん。


 乾いた破裂音が洞内の空気を切り裂き、続いてまろやかな余韻がながく尾をひいてゆく。彼女は眼をとじ、じっと音の行方ゆくえに耳をかたむけた。


――ヒトツりゅう、フタツひつじ、全体とろける。右甘みぎあまめ。


 京香は小さくつぶやくと、胸ポケットから防水ノートを取りだし、いま『読み』取ったデータをペンで書きこんだ。


 すると地底湖に三つの光源があらわれ、徐々に浮上してくる。やがて水面がこぶのように盛りあがった。ひとつ、ふたつ、みっつ。あらわれたのはウェットスーツを着た三人の男性であった。


 彼らは京香の姿を認めると、最初に浮上した男がマウスピースを口からはずしてたずねた。

「誰だ? あの子連れてきたのは」

 ケイビングクラブの会長だ。

「俺です」

 一人の若者が立ち泳ぎをしながら片手をあげる。

慎也しんやか。洞窟ケーヴの中ではヘルメット着用厳守。あの子に、きつく言ってこい」

「りょかい、りょーかい!」


 ◇


 慎也が手ばやくウェットスーツから洞窟探検用のオレンジのツナギに着がえたとき、京香は360度カメラで洞内を撮影していた。洞窟に興味があるという京香のたっての頼みで連れてはきたが、友人の友人だ。親しい間柄あいだがらではない。慎也は思った。なにやら不思議な行動をする女の子だし、皆の迷惑にならなければいいけど。


「京香ちゃん、京香ちゃん?」

「地底湖って冷たそうですね」

 京香がたずねる。長く細い自立一脚に立てたカメラに顔をむけたまま。

「そりゃもう想像以上。体の芯まで凍えるね……」

 言いながら慎也は地面に伏せてあった京香のヘルメットを拾いあげ、彼女の頭にポスッとかぶせた。

「ちゃんとかぶっといてね。京香ちゃんのためだから」


「でもこれ、音を聴くのに邪魔なんです」

「邪魔でも安全のためだからさ。そこは守って」

「ですよね」

 彼女はバツが悪そうにへへッと笑うと、ヘルメットのベルトをしめた。

「京香ちゃん、さっきなにしてたの?」


 彼女はおもむろに一歩さがり、洞窟を見あげ両手を大きくひろげた。

「この場の『きょう』を読んでました」

「きょう?」

「響きです」

「それ、ひょっとして残響のこと?」

「キライです、その呼びかた」

「どうして」

「だって残響って言葉は、不要な残りもののような、なにかのオマケみたいな言いかたでしょう? 響きに対して失礼ですよ。だから純粋に『きょう』と呼んでください」

「つまり、音自体より響きのほうが主体ってこと……かな?」

「そのとおりです。耳をすまして響きだけ味わうんです。最後のひとしずくまで」

 京香は瞳をキラキラと輝かせる。

「じゃあさ、『響を読む』ってなに? たしかそう言ったよね」

「この洞窟を読んだメモ見ます? これです」

 京香は慎也に胸ポケットの防水ノートを開いて見せた。


「ヒトツ龍、フタツ羊、全体とろける。右甘みぎあまめ……? なんじゃこりゃ」

「それはね、こういう意味です。初期反射にビビりあり。ほら『鳴き龍』現象ってあるでしょ? あれに似た音がするので『龍』。二次反射からダンピングがかかって音がこもります、『羊』のモコモコした毛のように。そんなイメージあるでしょう?」

「はぁ、なんとなく」

 慎也は自信なさげな声をだす。

「右甘めというのは、音源に対して右からの反射がやや弱いことを表現してます」

「ん? じゃ、この全体とろけるは?」

「ああそれは……私が大好きな響きってことです。それこそ全身がとろけるほど素敵な音って意味」

「そこだけずいぶんと感覚的なんだな」

 慎也は笑った。

「だって音を文字を使って表現することってむずかしいもの。だから音を想起できる端的なワードで記録するんです」

「ははぁん。やっと分かった。それが『響を読む』ってわけだ」

「はい」

 京香がほほえむ。不思議な女の子の爽やかな笑顔に、慎也はおもわず引きこまれる。


「京香ちゃんって本職は巫女さんとか?」

「なに言ってんですか、違いますよう。建築音響設計です。ホールやスタジオ、防音室の建築設計とか音響効果の調整が本業です」

「なるほど、それで響きか。専門家なんだね」

「でも、響を読むのはあくまでも趣味。響きって心地いいでしょう? 魂がゆさぶられませんか?」


 京香はツナギのポケットから、小さなプラスチックの白いオカリナを取りだした。吹き口をくわえて息を吹きこむ。「ポー」、素朴な音が洞内を満たしていった。充分に音が響きわたったところで、彼女は吹くのをやめ、目を閉じて耳をすませた。


 オカリナの音が洞窟に吸われ消えようとすると、京香は両手を胸前に交差させ、そっと抱きしめてゆく。祈りをささげるように、わずかにうつむきながら。最後の余韻が空気に溶けきらないうち、それはガチャガチャという乱雑な音でかき消されてゆく。会長たちが機材を片づける音だ。


「ああ壊れちゃった。響きってはかない存在でしょう。少しのノイズでかき消されてしまう」

「君はどうしてそんな壊れやすい響きの世界を、こうやって」

「はい?」

「京香ちゃんは、なぜ壊れ物の世界を抱くの?」

 慎也は彼女の所作しょさをまね、両手を胸前で交差させてみせた。

「それはね、儚く消えていく音にすこしでも長くつつみこまれていたいから。だから逃げていく響きのしっぽをつかまえて、抱きとめるんです。ぎゅうっと」

 京香は、そこにぬいぐるみでもあるかのように、自分の胸をギュッと抱きしめた。


「難しい世界だねぇ。感性がすべてというか」

「そうかも」

 彼女がクスッと笑う。

「わかったような、わからないような」

「趣味ってそういうものでしょ。他人に理解されなくても、自分がその世界を思いきり愛せればいいんです。そこがポイント」

 京香は人さし指をたててみせた。


「そんなもんかな」

「そんなもんですよ」

「言われてみればケイビングも同じかな。他人からは理解されにくい趣味だから。つらくて危険で。でもその先には、地上では味わえない感動的な神秘がひろがっている」

「私も今はわかります。こうして洞窟の中に立ってみればね。なにごとも体験してみないと」


「体験かぁ。すると俺もホールとかに行けば、響きの楽しみかたがわかるようになる?」

「なりますよ! ぜひ一緒に行きましょう! 慎也さんはどんな響きが好きかなぁ、余韻の長いワインヤード型のサントリーホール、端正な響きならシューボックス型でトリフォニーとかNHKホール、あ、改装したミューザ川崎もいいですね……」


 いつまでも戻ってこない二人にれた会長が大声で二人を催促するまで、京香のホール解説はとめどなく続いた。


 終

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きょうを読むひと 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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