第24話 最終話
峰子が最後に言った言葉が頭から離れない。
―美香が合鍵を置いて出て行った意味
僕が考えているのと違うって、どういう意味なのだろう?
美香は合鍵を置いて出て行った・・・。
美香が合鍵を置いて出て行った意味・・・。
仕事中もそのことばかり考えるのだけれど、まるで答えが見つからない。
そしてその日一日、僕は自分がどんな様子で仕事をし、過ごしたのか、よく覚えていない。
お客との会話、スタッフとの遣り取り、そんなものの一切合切が、殆ど記憶にない。
翌水曜日、携帯電話のコールで目が覚めた。
美香からの電話に違いないと、僕はそう思った。
昨夜(とは言っても、明けて午前三時頃だが)、眠りに落ちる前、ボンヤリと、それでいて如何にもリアリティのある夢(?)答え(?)を見たのだ。
そう、それは峰子が言っていた『意味』の答えだった。
昨日一日中考えあぐねて見つけることが出来なかった答え、それがあっさり分かってしまったように思える。
僕は携帯電話を手にして、電話に出る。
「はい、もしもし・・・」
「カズヒロさん・・・」
「ああ・・・」
「・・・・・・・・・・・」
美香は言葉が続かない。そしてそれは僕も同じなのだが、僕は絞り出すように、言ってしまう。
「ねぇ、これから、あの場所で、待ち合わせないか。あの場所で、二時間後・・・」
「・・・ええ・・・」
それ以上は言葉にならなかった。
僕は携帯電話をテーブルに置き、シャワーを浴びる。
シャワーから上がると、僕は指輪を外し、Gジャンの胸ポケットにそれを入れた。
僕が出した答え、美香が出す答え、恐らく違うものなのだろう・・・。
雨こそ降っていないものの、上空から街を圧迫する曇天は、息を詰まらせるには充分過ぎるほどの湿気と闇を感じさせた。
FZRのエンジン音は、どこか悲し気な叫びを上げているように聴こえるのは、僕の気のせいだったのだろうか。
それでも僕は、アクセルスロットルを開き続ける。
僕は約束より一時間も早く待ち合わせの『あの場所』に着いていた。
バイクを防波堤の脇に停め、シートに跨ったまま空を見上げ、それから防波堤のその先にある桟橋に目を向けた。
頭上の真っ黒な、今にも雨の滴を落としそうな雨雲、そして桟橋のずっと先には海と空との境のほんの少しだけの切れ間に、うっすらと光が見える。
綺麗な光景だった。
あの雲の切れ間の向こう側には、もう夏がやって来たのだろうか・・・。
そんなことをふと思い、何を考えているんだ、と、自分で自分を笑うしかない。
背後から軽自動車のエンジン音が近づいてくるのを感じたが、僕は振り返ることはしなかった。
車が停車し、ドアが閉まる音がした。細い足音が近付いて来て、僕の後ろでピタリと止まると、美香の声はやけに明るい。
何かを振り払おうとしているように・・・。
「早かったんだね。ごめんね、待たせちゃって」
「待ちたかったんだ」
僕は今出来る限りの優しい口調でそう答える。
「そっか」
「うん・・・。なぁ、桟橋まで、歩かないか?」
「ええ、いいわよ」
僕が歩き始めると、美香も僕の後に付いて歩いてくる。
今朝方まで降り続いた雨でぬれた砂に足を取られながら、ゆっくりと前だけを見て進む僕には、美香の様子を窺い知ることは出来ない。
それでも僕は決して振り返らず、桟橋の先のほんの薄い線のような光の筋だけを見詰めて一歩ずつ桟橋を目指すのだった。
桟橋の袂まで辿り着き、僕はそこで初めて美香を振り返ると、美香の手を取り桟橋の上に引き上げる。
そして再び前を向き、その突端に向かって歩き始めた。
美香と目が合った瞬間、僕の造られた『心』は、揺らぎそうになる。
だから僕は前だけを向いて、歩を進めるのだ。
波の音、湿った潮の匂い、それから薄ぼんやりと遠くに霞む雲の切れ間・・・。
僕は今日のこの日、この時刻(とき)、そしてこれから起こること、その刹那、総てを目に、心に刻み付け、その全てを一生忘れないでおこう、そう思った。
僕が桟橋の突端に辿り着くと、直ぐに美香が僕の右隣に肩を並べた。
手すりに手を掛け、美香は遠い目をして、それから僕にこう言う。
「カズヒロさん、『本当の気持ち』って、何なんだろうね?」
「そうだね・・・。俺も、そんなこと、考えていたよ・・・」
僕は少し驚いていた。
ひょっとして、美香が出した答え、それは別ルートを辿ってはいるものの、結果、僕と同じ答えに辿り着いたのではないだろうか。
そうか、僕が見た夢での『答え』は、美香が僕に再び連絡をしてくるところ迄で、その先は僕の勝手な憶測だったのかもしれない・・・。
暫く黙った後、再び美香が僕に語り掛ける。
「あのね、今日このあと、ミィネに会うんだ。カズヒロさん、ミィネから聞いてるっしょ?うちのこと・・・。それでね、今、一度だけ謝るね。ごめんね、黙ってて・・・。でも、もう泣き虫な『ミィカ』は、卒業、もうおしまいにしようって、そう思ったの・・・。うちのわがまま、聞いて、お願い。だから、カズヒロさんも、もうミィカに『ごめん』とか、言わないで・・・。
それでね、うち、今日は、カズヒロさんに、うちの本当の気持ちを、知って欲しくて、それから、カズヒロさんの『本当』も知りたくって・・・。
だから、うちのわがままに付き合って・・・」
悲しみが込み上げてくる。
美香はやはり、僕と同じ結末を見ている。
「多分だけどね、このあとミィネに会ったら、ミィネから言われるんだ。婚約者と別れるなんて、そんなバカなこと止めなさい、って。でも、ホントはもう遅いんだよ。だって、もう、うち、別れ話、しちゃったんだ・・・。
別れ話して、キッチリ別れられたら、もう一度、カズくんのところに行って、許してもらえないかも知れないけど、ちゃんと話して、もう一回、合鍵を渡して貰いたい、って、そんな風に思っていたんだ。うちのわがままだね・・・。
でもね、その時、彼、凄く勘が良くって、他に好きな男が出来たのか?昔の男か?って。
うちが、そうよ、って言ったら、俺を捨てないでくれ、って、電話口で泣くの・・・。
男の人がだよ・・・、そう言って本当に泣いてるの・・・。
可笑しいっしょ?」
可笑しくなんかない。
きっと美香はその作った笑顔の下で、本当は泣いているのだ。
美香だって、その彼のことを『可笑しい』だなんて、これっぽっちも思っていないのは明らかだった。
少しだけ分かった気がした。
僕の中に在る『本当』、美香の中に在る『本当』、峰子、岸本さん、北島、彼らの中に在る『本当』は、例えそれが其々に『真実』であったとしても、上手く言えないが、それが『正解』とは限らない、そういうことなのだと。
海の先の細く薄かった光の隙間が少し広がり、虹が掛かっていた。
美しい。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「僕の『本当』はここにあるよ。全て見せてあげる」
「うちのも、ちゃんと、ここにあるよ」
「ああ、そうだね。ちゃんと分かってる。心配しなくても大丈夫だよ」
「うん・・・」
「カズくん、ありがとう・・・」
「こちらこそ」
「カズくん、訊いて良い?」
「良いよ」
「もし、もっと早く、二人の『本当』が何処にあるか分かっていたら、うち達、上手くいっていたかな・・・。ううん、やっぱ、答えなくていいや・・・」
「・・・そう?」
「うん・・・。うちに言わせて。きっと、上手くいっていたわね・・・。でも、時間は逆戻りできないものね・・・」
「そうかも知れない・・・。僕もそう、思うよ・・・」
「僕も訊いて良いかい?」
「ええ、もちろん」
「・・・いや、やっぱり、いいや」
「いいの?」
「・・・僕だって、嫉妬することはあるんだぜ」
「知ってる・・・」
「でも、その人、良い奴なんだろ?」
「・・・うん」
「そっか。それなら・・・良かった」
「・・・うん」
「指輪、貸して」
「ええ・・・」
「ここから、一緒に、海に落とそう」
「ええ」
僕の指輪、美香の指輪、それから僕の部屋の合鍵・・・
海に落ちて、ゆらゆらと、沈んで、やがて、見えなくなった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
峰子には『本当に、あれで良かったんですか?』、そう訊かれた。
『ええ、二人で決めたんです』
僕がそう答えると、峰子は『そうですか・・・』とだけ言った。
岸本さんには『お前は、バカが過ぎるくらい良い奴だ』と、(多分)呆れられた。
由紀恵さんが
『Tomyくんも、その彼氏と同じくらい、どうして泣かなかったの?』、そんなことを真面目な顔をして訊ねるから、僕は『どうしてですかね』と、惚けるしかなかった。
北島が『マスター、今度、女の子紹介しますよ』、と言うので、僕は
『ああ、だったら、半年後にしてくれ。俺の傷、結構深いんだ』
そう応えて笑っておいた。
世間一般的に考えると、僕と彼女は、彼女の婚約者にしてみれば、最低最悪なのだろう。
それでも彼は彼女を望んだ。
そんな彼を彼女も選んだ。
僕は直接彼のことは知らない。だから僕には分からないのだけれど、そこには彼の今の『本当』があるのだと思う。
僕の中に在る『本当』・・・、放っておけば、これもいつか変わっていくかも知れない。
いや、変わるのではなく、いつか『本当』が分からなくなる・・・。その時の新しい『本当』が上書きされていく・・・。
僕には、それが嫌だった・・・、認めたくなかった・・・。
その後、美香が結婚したのか、それとも婚約破棄したのか、それは知らない。
何故なら、僕はそのひと月後に店を辞め、旅に出たから。二度とここへは戻らない旅に。
アパートの部屋を引き払い、車を友人に譲り渡し、施設長のミヤギさんに『お世話になりました』と挨拶に行った。そして最後の手伝いの日、一人では食べきれないくらいのパンを貰った僕は、そのパンを店に持って行き、常連客に配った。
何故だか、皆、僕が居なくなることに、泣いてくれた・・・。
相棒のFZR250に跨り、行く宛も無く全国を駆けて回り、気が付くとひと月が経ち(あの日から二ヶ月だ)、手持ちの貯金は三十万円を切っていた。
ひと月の間走り回り、僕は自分の中の『本当』が変わっていないことにホッとすると同時に、まだほんのひと月っきりだ・・・、そうも思う。
でも、この辺りでいいだろう・・・。
東京にほど近い海沿いの街、そこで僕はバイクを降りる。
そして、部屋を探し、仕事を求めた。
残った有り金ほぼ全てを叩いて、部屋は直ぐに見つかり、仕事も海沿いのカフェバーに職を得ることが出来た。
新しい街での生活にも慣れ始めた次の年の夏の始まり、僕はやはり自分の『本当』がまだそこに在ることを感じることが出来た。
バカみたいだ。
そう思って、ひとり苦笑するくらいの余裕も出て来たし、それでもこの『本当』がいつまでも続いて構わないとも思った。
カランッコロンッ。
ドアベルが鳴る。
―いらっしゃいませ
なんか、デジャヴみたいだ。
「まだ、オープン前かしら?」
―いえ、大丈夫ですよ
「よかった・・・。じゃあ、Sea Breeze、頂こうかしら・・・」
僕は顔を上げた。
《ねぇ、ほんとうって、どこにあるの》・・・・完
ねぇ、ほんとうって、どこにあるの ninjin @airumika
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