短編集

藍空ミリ

猫奇譚

「ここだ」

 太ったアパートの管理人は1DKほどの部屋の前で立ちどまった。管理人は仕事を終えると「ハァ」とハッキリ聞こえるようにいうと、そそくさと足速に帰っていった。

「ボロい家だよね」

 声がした。

 僕はふりむいた。

 アパートの部屋のドアの前に、小柄な男の子が亀裂の入ったコンクリ製の壁にもたれるように立っている。

「うちの親さ、ムリして続けてんだ..堪忍な」

「あの管理人も家族なの?」  

 僕は聞いた。

「ううん。あれは魚に釣られてきただけさ」

 男の子は答えた。

「面白い言いまわしだね」

 男の子は、シャツから小麦色の腹を出し、ぽりぽり掻いた。

「......あんたいい人そうだからさ。今夜これ、枕の下に敷いて寝なよ」

 僕は肩をすくめて、男の子が差し出した、墨で書かれた文字が羅列した紙に手を伸ばした。

「絶対に起きちゃダメだからね」

「うん。わかったよ」

「ホントだよ?」

 男の子はうなるように言って、舌をチロリと出した。

「何を聞いても、何を見ても。だよ?」 

 その理由がわかったのは、深夜、虫の音がうるさく感じ始めた頃だった。ジージー...にゃんにゃん...ジージー.....まるで、猫が集まって、宴でも始めようとしているような騒がしさだった。

 僕は枕下の紙のことを必死に考えながら、ごろりと寝返りをうった。

「起きないと遅れるよ...起きないと...ほら、起きなよ」

 僕はバチリと目を開けそうになったが、すぐに「去年まで」実家暮らしだったことを思い出し、ぐっとまぶたを閉じた。もう起こしてくれる人なんていない。なのに声がするのはどう考えても奇怪だ。

 ジージー...にゃんにゃん...ジージー...声はしばらくすると止んだ。

「もういいよ。起きて」

 耳元で聞き覚えのある声がした。

「何?」

 僕は思わず起きあがって声の主をみた。

 とてつもなく巨大な猫が、寝ている僕を囲みこむように寝そべっていた。

「あーあ。起きたんだ...じゃあ、いただきます」

 生暖かい唾液をダラっと垂らした牙のある口が近づいてくる。頭が..肩が..丸呑みにされる...と、思った瞬間、巨大な猫は口を引っこめて、ニマッと笑った。

「丸呑みにされると思った?..お兄さんはちゃんと起きなかったから合格だよ」

 起きていたら、どうなっていたんだろう。ふたたび、アパートの窓から『ジー、ジー』とけたたましい虫の音だけが聞こえ始めた。

「..君、あの男の子?」

 僕は聞いた。

「だったら、なんなの?」

 巨大猫が言った。

「ぼくは『迷い猫』...妖怪だけど、呪ったりしない」

 巨大な猫は続けた。

「お兄さん。朝、僕が話してるのを聞いても、バカにしなかった。それに、ちゃんと約束を守って起きずに我慢してくれたね」

 猫はクスリとした。

「あんたはもっと幸せを与えられるべき人だ」

 僕は眼をパシパシして、天井をあおいだ。

「こんなこと、言いたかないけどさ。真夜中に『化け猫』は幸せとはいえないよ」

「知ってる知ってる」

 巨大猫はクスクスした。

「この世にはね。盆に盛られた魚みたいに、決まった数の幸せしかないんだ。だから、僕らが『猫の手』で幸せを再分配する仕事をしてるのさ」

「変わった仕事だね」

 僕はちょっと感心しながら言った。

「うん。だから、ひとつだけ願いを叶えてあげる」

 ...そこは、3つじゃないのか。僕はあぐらを掻いて枕をお腹に押しつけた。よく考えた方がいいかもしれない。

「じゃあ、その手が欲しいな....なんてね」

「うんうん。いいよ」

 ぼくは慌てて「いや、冗談」と取消そうとしたが、猫の長い鳴き声が聞こえ、まぶたが急激に重くなった。

 ...冗談じゃない。いや、冗談のつもりでいったんだけどさ....朝起きたら枕元に猫の手なんて、怖すぎる。 


------そして、真っ暗になった。


 チュンチュンと朝の合図が聞こえ、窓からは朝靄が見えた。

 ...だけど、猫の手はない。

「へんな夜だったな」

 ひとり暮らしのストレスでおかしなモノを見てしまったのかもしれない。

 .....きっとそうだ。

「あ、遅刻」

 カタカタッとアパートの錆びた階段を降り、大学に向かう。

 忙しく人が流れる朝の街に飛び込む後ろ姿に、猫の手の『肉球マスコット』がユラユラと誇らしげに揺れていた。


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短編集 藍空ミリ @skyousuke

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