2.知らずの北海道
我々は四台のバイクを連ね、変態のいる茶内駅を後にした。縦列で四十キロ走行。遅い、遅すぎる。高校生が言う巡航速度って、合法的な五十キロではないのか。もし後ろからゲバラが追って来たら、最初に捕まるのは最後尾の私だ。気ばかりが焦った。
だが、集団でバイクをゆっくりと走らせているうちに、徐々に頭が整理されてくる。おや? さきほどのトイレ事案って、私の貞操の危機だったのではなかろうか。男性でも、そういう事態はあり得る。今更のようにジワジワと恐ろしさ半分、可笑しさ半分の感情がこみあげてきた。やがて面白さだけが潮のように引いて消え失せると、沈殿して残されたゲバラの理解不能な怖さだけが純粋に際立った。
◇
国道をひた走ること十一キロ。
我々の話し合いが姉別よりさらに八キロ進んだ
私は手にした強力なフラッシュライトで、こちらへやって来る
「うわぁ来た」
フレンディがおびえた声を上げた。
「やべェ、アイツ斧を持ってる!」
シデンが指をさす。ゲバラの自転車の前かごには手斧が無造作に突っ込まれているのが見えた。何の恨みがあるのか知らないが、刃物を持ち出してくるとは、ゲバラは変態どころか完全にイカれている。
「逃げよう!」
私は恐怖に駆られて叫んだ。先ほどの貞操の危機どころか、今度は生命の危機だ。
「任せてください、俺たち柔道部ですから。変態野郎の話を聞いてやりましょうよ」
背の高いシデンが、ずいっと前に出る。
「話が通じないなら、この場で締め落とすまで」
筋肉質のムッツリーニが柔道の構えを取る。戦闘的な前重心。リーダーだけあって迫力が違う。
「お前ら、見ただろ!」、手斧を片手に自転車を降りたゲバラが、口の端に白い泡を吹き出しながら喚いた。さきほどのトイレの一件のことを言っているのだろうか。駅前の水銀灯に浮かび上がる姿は悪鬼そのものである。
「見たからどうしたって?」
シデンがニヤニヤしながら変態男に一歩迫る。
「隣の家のじいさまから聞いたぞ。泉の祠を開けたヤツがいるって。中のアレを逃がしちまったっていうじゃねェか。犯人はお前らだろうって言ってるんだ!」
「俺らは開けてねーよ、最初から開いてたんだ。なぁそうだろ?」
シデンがムッツリーニに同意を求める。
「その通り。おそらく開けたのはクルマの連中。俺たちより前に泉へ行ったヤツラだ」
こいつらは何を話してるんだろう? 私は面食らった。話の流れが、変態男から泉の件へと一気に変わっているではないか。『逃がしたもの』というのが、フレンディのいうイイものなのか? クルマって事故を起こしたファミリーカーのことか?
「ちょ、ちょっと落ち着いてください。いったい何のことやら」
事態が飲み込めない私は、ただオロオロする。
「お前らだろ、アレを逃がしたのはーッ!」
丸太のような右腕で手斧を振りかざしたゲバラは私に目もくれず、奇声を上げながらシデンに襲いかかった。シデンがスっと身を開いてゲバラの突進をかわすと、手斧を持った右手首をなんなく掴む。勢いあまってつんのめるゲバラの前へ、シデンが左足を出す。「セイや!」気合一声、ゲバラの体がコマのように空を一回転して地面にたたきつけられる。見事な
「お前らなぁ、泉のアレを見たんだろう? 知らないなら知らないと言ってみろ」
地面にあおむけに倒されたゲバラは、痛みに顔を歪め口角の泡を飛ばしながら、シデンをねめつける。
「見たさ。当然『知ってる』さ、なあ?」
シデンが若者らしい反骨精神で答え、仲間二人を振り返って同意を求めた。
「『知っている』とも」
ムッツリーニが重々しく応じ、
「俺も『知ってる』」
フレンディがうなずいた。
「お前ら、いま『知ってる』って言ったな?」
ゲバラはシデンの手を振り払うと勝ち誇った顔で立ち上がり、空いた左手で作業着のホコリをはたいた。
「それがどうした」
シデンが挑戦的にあざ嗤う。
「おしまいだ、お前ら」
ゲバラは判決を宣言する裁判官の声で告げた。手にした手斧の重さを確かめるように、右手のスナップを利かせて上下に振るってみせる。ブンブンと空を切る不気味な音がした。
その瞬間。真夏にはありえない冷気が上空からサアッと吹きおろした。周囲の大気が帯電したかのようにチリチリと皮膚を刺激し始め、全身が総毛立つ。
「あそこ! 泉で見たヤツだ!」
フレンディがゲバラの頭上を指さし大きな声を上げる。彼が示すものに気づいた高校生たちが「前よりデカくなってないか?」と、どよめいた。彼らが凝視するあたりにフラッシュライトを向けてみたが、私には何も見えなかった。
彼らが指さし、見つめる空間が上空から徐々に降下し、やがて固定される。ゲバラの目の前の空間だった。
「違う、俺じゃない。あっちのガキだって」
ゲバラがツバを飛ばしながら、手斧を持った手で高校生らを指し示す。
「俺じゃないんだよォ」
無精ひげの男はいやいやをするように首を振り、そして何かに気づいたように目を大きく見開いた。
「言い間違えた。さっきの言葉は取り消す! 俺は知らない知らない」
叫ぶゲバラの首の周りにゆっくりと赤い線が浮かび上がってゆく。赤い線の正体は、彼の皮膚から染み出す血。目に見えない鋭利な何かが彼の首を切り取っているのだ。それは熱したナイフの刃がバターに食い込むように、抵抗なく滑らかに進んでゆき、ついにはゲバラの首を切断した。ニチャッ。粘着性の音をたてながら、彼の首がゆっくりと回転しながらずれてゆく。恐怖にカッと目を見開いたゲバラの首が、残像をひきながら地面に落ちていった。二本の頸動脈からドフッドフッと脈打ちながら大量の血があふれ出て、立ちつくしたままのゲバラの作業着をぐっしょりと濡らしてゆく。
「センさん、あれが見えないんですか!」
フレンディが指で示す方向には何も見えない。
「見えないよ! いったい何があるんだ」
「こっちへ来るぞ!」
高校生たちは、口々に悲鳴をあげてバイクにまたがると、われ先に逃げ出した。十メートルと進まないうちに、最初に先頭を走っていたムッツリーニのバイクが横倒しに倒れ、アスファルトに火花を散らしながら滑ってゆく。彼の右手はアクセルを握りしめたまま離さない。エンジンがレッドゾーンまで空回りし、甲高い叫び声を上げた。車体の横をヘルメットがボーリング球のように軽くバウンドしながら転がってゆく。私はヘルメットの中身に想像がおよび、胃の底から吐き気の塊がこみ上げ、えずいた。
そこにあたかも細い鋼線のギロチンワイヤーが張られているかのように、ムッツリーニの首が落ちた同じ場所で、シデンの、そしてフレンディのヘルメットがアスファルトの上に次々と落ちてゆく。首のない二人のバイクがシンクロナイズした動きでそろって横倒しになると、プラスチックパーツが砕ける音に、金属が路面にこすれるイヤな音が重ねて入り混じり、背筋をゾワゾワと寒気が駆けのぼった。フレンディのヘルメットは、軽やかな音を立てつつ国道の上で弧を描いて転がった後、真っ直ぐこちらを向いてピタリと静止した。彼のフルフェイスのシールドが中の見えないスモークタイプだったことに、私は震えながら感謝した。さもなければ彼の目と直接視線が合ってしまったことだろう。ひと懐っこいフレンディの死に顔を見るのはつらい。彼が弟のように思えていたからだ。
駅の公衆電話から警察へ通報した私は、パトカーが到着するまでの長い時間を待たされた。待つ間、横倒しになったバイクのエンジンを切り、路側に寄せることはできたが、首のない血まみれの高校生たちの体に触れることはできなかった。ましてや路上に転がる三つのヘルメットに関しては、視線を向けることすら憚られた。
警察が到着すると、私は参考人として
腑に落ちないのは警官たちの態度だ。四人の首が次々と切り落とされるという猟奇的な事件にも関わらず、彼らの様子は妙によそよそしく淡々としていた。それどころか、彼らは聴取の間、しきりに「分からない」「知らない」を連発するのだ。分からないからこそ捜査するのではないのか。私は警官たちの余りにも無責任な態度に怒りを覚えた。
◇
事情聴取が終わったときは、すでに午前二時を回っていた。私はすっかり心身ともに耗弱し、とうていバイクを運転できる状態ではない。それを察した警官の計らいで署内のベンチを借り、仮眠を取らせてもらうことができた。しかし激しい疲労のせいか、仮眠で済ませるつもりが深く眠り込んでしまい、気が付いたときにはすでに朝日が昇っている時刻だった。
私は駅構内の売店に入ると、店の太ったおばさんに声をかけた。
「そこの棚にあるガラスの小瓶って、ワインですか?」
「そうだよ赤ワイン。安物だけどね、飲めば朝までぐっすり眠れるよ」
「そりゃいいな、一本ください」
「昨日おっかないモンに
ワインの小瓶を棚から取り出しながら、おばさんが話しかけてくる。
「よくご存じですね」
「ここは人が少ないからねぇ、噂が広まるのはあっという間だよ」
「結局、アレはなんだったんですか?」
「なぁんも。『シラズ様』だよ、」
おばさんはワイン瓶に積もったホコリを布切れで丁寧に拭いながら話し続ける。
「いいかい、シラズ様の話を聞いたら答えはヒトツ。知らぬ存ぜぬで通す。姿を思い浮かべながら『知らず』以外の答えをしたらアンタ、おしまいだよ」
「姿といっても、私はソレを見てないから。思い浮かべようがないです」
「アンタね。本当に見てないつもりかい?」
「えッ?」
「
「どういうことですか?」
「シラズ様の姿かたちは見る者によって変わるってことさ。だから言葉じゃ説明できないんだよ。見ていないつもりでも、アンタはもうハッキリと見ているかもねぇ。アレがそうだと気づいた瞬間から、シラズ様が見えるようになるよ」
おばさんは饒舌な人だ。しかもニコニコしながら、怖いことを話す。
「それ冗談ですよね?」
「昔話だったんだよ、昨日までは。でもシラズ様が泉から解き放たれたって言うじゃないか。とにもかくにもアンタは、何を聞かれても必ず『知らない』って答えておきな。そうしておけば何も心配ないよ、大丈夫だぁ」
「シラズ様って、このヘンじゃ有名な話なんですか?」
「そりゃあアンタ、この辺のモンなら誰でも当然『知ってる』っしょ」
おや? いま、おばさんは「知ってる」と言わなかったか? もしかすると、私がその答えを誘導してしまったのではないか? 恐る恐るその思いを口にしてみる。
「ごめんなさい、私、いまマズいこと聞きましたよね?」
その問いには答えず、おばさんは小さな眼を見開いて、私としばし見つめ合った。生ぬるかった駅売店の空気が瞬時に熱を奪われ、小さな旋風を巻き起こしながら冷たい大気へと置き換わる。体中の皮膚が不自然にひきつれ、ピリピリとした痛みを覚えた。わかる。アレが来たのだ。
――シラズ様。
おばさんの手からワインが滑り落ち、コンクリートの床の上で激しく砕け散る。おばさんは「あ」の形に大きく口を開くと、太い首の付け根を手のひらで押さえた。まるで首に止まった蚊をパチンと叩きつぶす勢いで。
「ぁぁぁ」おばさんの口から、かぼそい後悔の声が漏れた。首を押さえた指の間からヒュッと鮮血がほとばしり、売店のレジの上に赤い花を散らす。彼女の太い首の周りに赤く細い切れ目が入っていく。「ヵァァ」おばさんの声が、人間には発音できない音へと変わっていった。口からではなく首の切断面から直接声が漏れだしてくるのだ。赤い切れ目は最初は滑らかにゆっくりと、そして徐々に加速をつけながら、ためらいなくおばさんの首を切り取ってゆき、ついに一周した。
そこから先は何度も見てきたシーンだ。私は強く目をつぶった。売店の異変に気づいた乗客のそして駅員の怒号と悲鳴があがる。目を開けてはいけない。生暖かい液体がバイクウェアの腿から下をジットリと濡らしてゆくのを感じた。私の体液ではない。見なくてもわかる。ガラスのショーケース越しにドフドフと流れ落ちる、おばさんの赤く鮮やかな動脈血だ。
シラズ様が『何なのか』を知ってはいけない。知ればそれは即ち『おしまい』に繋がる。首を切り落とされた彼らのように。
でも、本当に私はそれを知らないのだろうか? 売店のおばさんの言葉が私を不安にする。フレンディたちとの会話に出てきてはいないだろうか。事故を起こした白いクルマ、露天風呂、泉でイイものを見た……。彼らが語った言葉の中にキーワードを探し始めた思考を、私は無理やりに断ち切った。
シラズ様はいつまで、そしてどこまで追いかけて来るのか。東京へ戻っても、この呪いは続くのだろうか。実証実験で確かめることはできない。仮定が誤った実験は、パラシュートなしのスカイダイブに等しい。途中で誤りに気づいても、やり直しはきかない。激しい後悔にまみれた垂直落下の果てに、地上で待つのは確実な死。となると、私が取るべき方策はただ一つしかない。北海道で見たすべての景色を、すべての出来事を記憶から消し去ること。そして、もうこれ以上、何も見ないこと。
――北海道のことは何も知らない。知らずの北海道で通すのだ。
あたりに立ち込めるおばさんの鉄臭い血の匂いに包まれながら、私は固く目を閉じたまま、最初の一歩を踏み出すことができず、ただただその場に立ち尽くした。
完
知らずの北海道 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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