「ハロウィンに化かされて」後篇
3
手元のグラス、その半ばに減った水面を見つめながら、兎依は見覚えのないカフェの片隅に腰掛けていた。
薄暗い店内、頭上にひとつだけ点けられた照明。
自分以外に客の姿はなく、また手負いの自分をここまで連れてきた張本人もいずこかへ姿を消している。
深く、深く息を吐いてから、兎依は背もたれに倒れ込んだ。
兎依は、ここがどこだか分かっていなかった。
より正確にいえば、どうやってここまで来たのか、もである。
「……二度と、酒はやんないね。誓うよ、ナザレの旦那」
当然のように圏外と表示されるスマホを仕舞って、兎依は天井を
今思えば、露店の店主が
ごっこ遊びや、痛々しい設定などではない。
自分以外には、〝彼女〟は見えていなかったのだ。
しかし、酔いが回って誰も居ない空間に話し掛けているやばい女と思ったのなら、救急車を呼ぶなりしてくれてもいいものを――。
とにかく、正気を取り戻した時にはすべてが手遅れで、かよわい社畜にすぎない自分は為す術もなく襲われ、奪われ、そして気が付けばここに座らされていた、という間抜けぶりである。
「ついでと言っちゃなんだけど、今から改宗したら助けてくれたりしないかな」
「――ダメだよ」
横合いから掛けられた声に、視線をくれる。
桃色の髪と、笑顔が眼に
こんな人間離れした美少女を、人間だと思った自分の脳にも問題がある気すらしてきた。
「おねーさんは、もうわたしのなんだから。〝あいつら〟には渡さないもん」
向かいに座ったサキが、得意げに言った。
眼が合う。
元の色に戻っていた。
「ま、私も
「なむなむ。わたし、生まれも育ちもおねーさんと同じ、宗派も同じだよ?」
「そりゃ、ここいらじゃ敵無しだ」
「ふふん。それに、残念だけど〝あいつら〟はそう誰でも助けたりはしてくれないよ?」
「さて。異邦人でも入れる保険だって、聞いてたんだけどね」
姿を消したのは着替えのためだったらしく、対面のサキは普段着と思しき楽な格好に変わっている。
一方、自分は汗と泥にまみれた小汚いスーツ姿のままだ。
それをいささか不快に思っていると、サキが立ち上がって傍まで来た。
手には、いつの間にか濡らしたタオルが握られており、一瞬だけ身を固くした兎依の頬をゆっくりと拭い出した。
「ね、おねーさん。身体、痛くない? こけたの、大丈夫だった?」
「打った
「痛い? ――ほんとに?」
脱力したままの兎依に、サキが口の端を歪めながら聞き返した。
タオルに添えられていた指が、つつ、と
それだけで、兎依の首、その熱が狂ったように暴れ出した。
「――っん、はァ……!」
「おねーさん。うそついちゃダメだって、知らないの? 大人なのに」
「ウソ、じゃ……‼」
「でも、痛くないよね? ――ちゃーんと、気持ちよくなるように〝もらった〟もん」
サキが、傷口に押し付けた指先に力を込める。
どうしようもない身体が、自分のものではないかのように跳ね上がり、叫びを上げた。
指一本で――
兎依には、操り人形になる気は毛頭なかった。
「はっ……へたくそもいいとこだったよ、お嬢さん」
「……ふぅん」
「――ッ⁉ はっ、はっ、はァ……!」
力任せに、乱雑に傷口を弄ったサキを
それが面白くなかったのか、頬を
「拷問はおしまい?」
どうにか息を整えた兎依は、サキを見遣って言った。
「ふん。おねーさん、無理しちゃって。
「それじゃ、私の番だ。ここはどこなの?」
「お次は尋問?」
「サキ」
「……ここは、わたしのお父さんのお店。『ムーラン・ルージュ』」
「見覚えがないと思ったら、パリまで来てたとはね」
「まさか。同じ名前なだけ。ここは、おねーさんが働いてるところから、そんなに離れてないよ」
「それこそ、〝まさか〟だ。これでも、私はこの街で五年も暮らしてるんだよ」
「見たことなくて当然だよ。おねーさんは、こっちの街には来たことないでしょ?」
冷静になった頭が、含みを持たせた言い方に記憶を
サキに噛まれる直前、見慣れたはずの通りが、建物はそのままにまるで異世界になってしまったような奇妙な違和感を覚えた。
もしかしなくても、あれが〝こっちの街〟とやらへの入り口だったのだろう。
「まるでサイレント・ヒルだ。子供のためのハロウィンなんだから、全年齢で頼むよ」
「じゃあ、ハリー・ポッターってことにする?」
「それなら、あんたはベラトリックスだ」
言ってから、兎依は当たらずとも遠からずなのでは、と思った。
ハロウィンの夜に悪い魔女に
「それで、あんたは――」
「そう。おねーさんの想像通り。わたしは〝
「――吸血鬼、だよ」
4
サキの父、という人物が奥から出てきたのは、それからすぐのことだった。
「いやァ、申し訳ない。うちの馬鹿娘が」
後ろ手に頭を
「これだから、ひとりで行かせるのは心配だったのだが。まさか、連れて帰ってきてしまうとは」
「だって、おねーさん、わたしの
まったく反省の色を見せないサキをひと睨みで黙らせる程度には、しっかりと父親をやっているようだ。
吸血鬼の父親というから、どんな化け物が出てくるかと心配していたが、意外にも話の通じそうな印象を受ける。
元々、サキにしても、知り合ってからのわがままぶりを年相応のものと思えば、あまり人外らしい倫理観を持っている、といった感じはない。
それが安堵に値するのか、とまで考えて、吸血鬼の親子と対面しているという非現実にあまり疑問を抱いていない自分に気付いた。
酔いが残っているわけでもあるまいに。
理不尽な出来事に割とすぐ順応できるのは、訓練された社畜フロント係の面目躍如といったところか。
何も嬉しくないが。
「ほお、隠形を。今時の人には珍しいですな。素質がおありのようだ」
「素質……そんなものがあったばっかりに、私は吸血鬼の
「ははァ、安心したまえ。見た感じ、まだ完全な眷属にまではなっていないようだ」
「そうなんですか? 私は、てっきり――」
「いや、吸われた人間も吸血鬼になるってのは、よく言うがね。あれも運次第というか、一回でなるようなものじゃないというか。まあ、そういうところは性交とよく似ておるが――おっと、若いお嬢さんの前でしたな。はっは、失礼。普通に人間としての生活を送っていただけますよ。大きめの蚊にでも吸われた、と思って」
「失礼。お父さんも馬鹿なの?」
前言撤回。
話が通じるとかいう問題じゃない。
「お父さん、恥ずかしいからやめて」
「恥ずかしいとはなんだ。お前のわがままが原因なのだぞ。申し訳ない、お嬢さん。これは小学校の高学年になってから、少し反抗期の気が出てきましてね。少し前まではお風呂にトイレにと、べったりだったのですが――」
「お父さん、恥ずかしいから死んで」
こんな父親なら、百年でも反抗期のままな気がする。
「もう! 話が! 進まない! じゃん! わたしは、おねーさんにお仕事紹介しようと思って連れてきたの!」
「やめなさい。お父さんを
「ちょっと待って、仕事って?」
「お嬢さん。君も少しは止めてくれたまえ」
頭から派手に流血している父親を無視して、サキが隣に座り込んでくる。
吸血鬼でも血は赤いのか。
「うん。あのね、おねーさんは、今のお仕事
「そりゃあ、できることなら――もちろん――是が非でも」
「君、めちゃくちゃ辞めたいんじゃないか」
「うんうん! それでね、うちのお店で働いてくれたら、ずっと一緒に居れるからわたしもうれしいし、おねーさんもハッピーだよね!」
「この店で?」
「お父さんも、お手伝いさん雇いたいって言ってたし、ちょうどいいなって! ね、いいでしょ⁉」
興奮した様子で畳みかけてくるサキに気圧されつつも、兎依は戸惑いを対面に座っている父親に視線で投げた。
「ふむ……」
「いや、ふむ、じゃなくて」
悪くない、とばかりに顎に手を遣って考え込んでいる父親に、兎依は半眼を向けた。
「サキの言う通り、昼の間に店を手伝ってくれる人を探していましてね」
「昼って、吸血鬼なのに? 不眠症?」
「はっは、面白いジョークですな。そうでなく――いえ、順を追って説明しましょう」
立ち上がった父親が、「そういえば何も出していませんでしたな。これまた失礼」、と慣れた手付きで珈琲を
ありがたく頂いた兎依の横では、サキがスティック・タイプの砂糖を両手の指の間に挟んで注ぎまくっている。
こういうところは、やはり子供なのだ。
「実は、今月から飲食店の休業要請が解除されまして」
「いやどっかで聞いた話だけど⁉ 吸血鬼の店にも適用されてたのそれ⁉」
「もちろん、こういう店ですからな、人間の客が来ることはないのですが。我々も、影にばかり生きているわけでなく、今日の娘のように、普段は人間の社会と人知れず共生しているのです」
父親が言うには、そういった人間社会に溶け込んでいる人外を監督する機関があり、極力こちらとあちらの生活に
無論、疫病程度、吸血鬼やその他の人外にはどうということもないので、実際には一種のお祭り気分のようなものらしいが。
いうなれば、人間ごっこ、である。
「とはいえ、油断していると、表の世界でぼろを出してしまいますからな。普段からの心掛けが大事、というわけです。この娘も、他の娘ふたりも、人間の空気が読めてない、と小学校でいじめられるのは見たくないので」
「ちなみに、お父さんは休業中食べ物を運ぶやつ、えーと、そう〝優婆何時〟で荒稼ぎしてたんだよ」
「それも似たようなの聞いたことある」
「あれは天職でしたな。我々は、人様の屋敷には招かれないと入れないのですが、配達員としてならば、普段は教会の門がごとく鉄壁を誇るオートロックも容易に通り抜けられて――それに、注文者は大体女子大生でしたからな。ウィン・ウィンというやつです」
「まんま変質者じゃん⁉ なに最新のスタイル取り入れてんの⁉」
「我々、時代に適応できる吸血鬼ですので」
したり顔の父親に、置き配文化に駆逐されればいいのに、と兎依は思った。
「と、話が
「あ、なるほど」
「まあ、
「常連さんからも、お昼ごはん時もあけてくれーって、毎日言われてるんだよ」
「表で食べればいい、とお思いでしょうが、やはり正体を隠しながらの飲み食いはいまひとつ、というところでしてね」
その言い分は、兎依にはよく分かった。
強制参加の会社の呑み会ほど気を遣って退屈なものもない。
美味しいご飯を食べるか、あるいは酒を呑む時は、自由で、ありのままで、何というか救われてなければいけないのだ。
「如何せん、私も妻も夜型なもので、昼でも動ける人外の者に手伝ってもらおうか、と話していたところ――」
「ね、おねーさん♡」
前と横から、視線が集まった。
甘えるように寄りかかってくるサキはともかく、父親まで眼に
「ところで、前職は?」
「前って……ホテルのフロントですけど」
「フロント! ――では、昼はもちろん夜勤もいける、と」
「ちょっと? 何書いてんのそれ⁉」
「いえいえ。……ホテルなら接客は言うことなし。体力に自信は?」
「……そりゃ、うちブラックもいいとこなんで、連勤連勤で仮眠ばっかとかざらですけど……」
「それは素晴らしい。――人外相手の忙しさも問題なし、と」
「面接⁉ いつの間にか面接始まってるよねこれ⁉」
「おねーさん! ね、転職しちゃお! 今のお仕事よりも絶対楽しいよ! サキも居るし♡」
「それが一番問題だっての!」
冗談じゃない。
せっかく首の皮一枚つながって、人間の身体のままでいられたというのに、裏の世界で吸血鬼の一家が経営する食堂で働くなんて。
それなら、まだ鬼畜の一族が経営する株式会社とは名ばかりのホテル稼業に戻った方がまだましだ。
これは悪夢。
ハロウィンの夜に見た、悪い夢に過ぎなかったのだ。
明日になれば、またいつも通りの日常が待っている。
それでいい。
それで、いいはずだ。
逃がさない、とすり寄ってくるサキを振り解く方法を考えながら、兎依は口を開いた。
「悪いけど、ことわ――」
「でも、ボーナス出るよ?」
「――ここで働かせてください‼」
この日から、スーツ姿の兎依を見ることはなくなったという。
転職したっていいじゃない。
新卒だもの。
お姉さんがハロウィンの夜にぶらついてたら人間のふりした人外少女にトリックオアトリートされる話 龍宝 @longbao
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