お姉さんがハロウィンの夜にぶらついてたら人間のふりした人外少女にトリックオアトリートされる話

龍宝

「ハロウィンに化かされて」前篇




 人外の者が、此の世に現れる。


 地獄の釜の底が開く。


 三十一日の夜に。


 浮かれる生者の群れに交じって、彼の者らの夜が始まるのだ。

 












 1


 心臓が、狂ったように跳ね踊っている。


 街灯の明かりさえも届かない路地裏に、女の荒い息がやけに大きく響いていた。




「――ッ! くそァ、痛いっての……‼ こんな、こんなの……‼」




 手先の見えない闇夜を懸命に走る女。


 その赤くにじんだ喉からは、か細く引きった声が出るのみだった。


 もう十月の末つ方、まして夜更けともなればすっかり冷える頃合いだというのに、女の身体は汗でしとどにれていた。


 それは、接客業で身体がなまったというだけでなく――無論、自分はまだまだ若い盛りで、老いて動けなくなったなどというわけもなく――自分を追い駆けてくるものに、たまらない恐れを感じているのである。


 足音。


 こちらは必死で走っているにも関わらず、後ろから響くそれは実に軽やかな調子だった。


 くすくす、という笑い声もあいって、愉しげですらある。


 それが、付かず離れず、背中越しに聞こえてくるのだ。


 どれだけ足掻あがいたところで決して逃げられない、と言われているようで、女は腹立たしいやら恐ろしいやらで、おかしくなってしまいそうだった。




「――おねーさん。もう、いい? 捕まえちゃうね?」


「――ッ⁉」




 不意に、首筋をくすぐった吐息に、女は思わず身体を強張こわばらせた。


 背後に気を取られたその弾み、足元に転がっていたビールケースに蹴つまずき、女はもんどり打って倒れ込んだ。




いった……‼」




 したたかに打ち付けた肩を押さえてもだえる女のすぐ傍で、ぱたりと足音が止まった。


 いつくばったまま、とっさにそちらを見遣る。


 黒い編み上げ靴と、白く細い脚。


 更に上に眼をったところで、女は息を呑んだ。


 輪郭すらおぼろげに見える中、爛々と紅い光をたたえた双眼だけが、はっきりと自分を見下ろしている。


 人間ではない。


 眼の前で口の端をつり上げている〝もの〟は、ほんの数十分前まで可愛らしい笑みを見せていた少女とは、もはや違うものなのだ。




「えへへ、おねーさん。そんなにおびえないでよ」




 愉悦を隠そうともしない声色で、〝それ〟が言った。




「今日は、お祭りなんだよ? 楽しい、愉しいさァ。だから、みんな笑顔じゃなくっちゃ」


「……はっ。いきなり幼女に噛み付かれて、へらへら笑ってたらおかしいでしょ。でもないのに」




 ずるずると身体を引きずって、女は壁に背を付けて座り込んだ。


 あまりといえばあまりにも非現実的な状況に、立ち上がる気力も起きなかった。




「ええー。いきなりじゃないよ? ちゃんと、いたもん。〝悪戯か、然らずんばもてなしか!トリックオアトリート〟って」


「お菓子なら、さんざっぱらおごった挙句じゃないのさ。頂くもん頂いたら悪戯ってのは、ルール違反でしょ」


「ルール、ね。……ちゃんと守ってるよ。〝わたしたち〟は、特にそういうのに敏感だから」


「ど、どの口が……⁉」




 声を荒げようとした女ののどを、少女の指がなぞる。


 異様に冷たい感触に、女はそれ以上の言葉を呑み込まざるを得なかった。




「これはね、悪戯じゃないもん。お祭りの出店で食べるどんな甘いものよりも、上等な〝ごちそう〟を、もらいたいだけ。おねーさんは、くれるって言ったもんね?」




 べっとりと赤いものが付いた指先を、少女は恍惚の表情かおで舐め取った。


 やがて、ゆっくりと顔を近付けてくる少女の口元で、ひときわ鋭く尖った犬歯が女の首に狙いを付ける。




「おねーさん。おねーさんの血は――?」




 はしゃいだ声を上げる少女に、女は抵抗する暇もなく押さえ込まれた。


 紅い瞳。


 そういえば、今宵の月はこんな色をしていた。


 少女の牙が、肌を突いて入ってくる。


 言いようのない感覚に荒い息をこぼしながら、女は力無く叫んだ。




ハロウィンくそくらえH a p p y  H a l l o w e e n……‼」











 2


 退勤のタイム・カードを切る。


 いささか乱雑な仕草で支度を整えた三原みはら兎依ういは、重い身体を叱咤して更衣室を出た。


 我ながら、無駄に忙しいだけの仕事。


 終わったのは、規定の刻限を二、三時間ほど過ぎた頃だった。


 辺りは、すっかり夜の帳に包まれている。




「あー。明日も仕事。明後日も。その次も。はは、笑える。死んじゃうわ」




 途中のコンビニエンスストアで買った果実酒の酒缶を片手に、くたくたのレディス・スーツ姿で――フロント用の制服とはまた別である――兎依は駅までの夜道を歩いていた。


 うるさ型の専務に見つかれば、説教のひとつでも頂戴ちょうだいする具合である。


 そうと分かっていながら、兎依はへらへらと缶をあおる。



 地方――あえて言わせてもらえれば、県庁所在地ではあった――からそこそこ有名な大学に出てきて、卒業後にそのまま就職。


 両親との折り合いは随分と前から悪かったし、四年も過ごせば新天地もそれなりに住み慣れた土地になる。


 ただ、運不運というか、自分の気質の問題というか。


 就職はそう上手くいかず、結局は焦りに焦って一族経営のビジネスホテルに落ち着いたのだった。


 同期を見渡す限りは、仮にもホテルのフロントはこのご時世そう悪くない就職先といえたが、如何せんこの経営陣の一族というのがまた厄介で、兎依は近頃すっかり参ってしまっていたのである。


 力を伴ったパワハラの毎日に、耐えに耐えて一年足らず。


 次に理不尽な叱責を受けたら、その場で啖呵たんかを切って辞めてしまおう、と何度も決意したものの、いざとなると中々気後れするもので、もはや疲れた笑いをこぼすのが日課になっていた。




「ふー……明日フロントでぶっ倒れたら、労災のひとつも下りるかね」




 と、頭の中で今日の上司の戯言ざれごとを立てている兎依の視界に、かぼちゃの装飾品が飛び込んできた。


 笑っているような顔つきの、何と言ったか。


 そう、ジャックオーランタン。


 次いでスマホの待ち受けに眼を遣れば、十月の三十一日とある。


 一拍置いて、兎依は今日がハロウィンであることを思い出した。




「へえ、洒落しゃれたことになってるじゃないの」




 通い慣れた街並みは、すっかりハロウィン仕様になっていた。


 朝にはなかったそれらしい飾り付けや、ケーキ屋やパン屋の便乗した期間限定商品とやら、果ては当日限りのフード・トラックや出店まで。


 一夜城の如く、知らぬ内に出現した祭りの雰囲気に、兎依はそれとなく足取りをゆるめた。


 元来、こういうのは嫌いではない。


 往来で声を上げている、仮装した学生たちに混ざるとまではさすがにないが、見ている分にはそれも楽しめた。


 商売上手の親父が、まったくハロウィンと関係ない酒を勧めてくるものだから、ついつい杯を重ねてしまう。


 同じ酒でも、仕事を思いながらと、祭りの只中で呑むのとではまるで違う。


 行く先々で景気よく平らげる兎依に、出店の旦那も上機嫌である。


 駅までの楽しみができた、くらいに思っていた兎依も、気付けばすっかり酔いが回ってしまっていた。




「嬢ちゃん、随分とふらついてらァ。ちっと休みねえ」




 最後に寄った出店の主人が、兎依を止めて言った。


 自分のような客のために、通りには点々と休憩所と称したベンチが設置してある。


 ありがたくおひやを頂戴しながら、兎依はかばんを放り出して腰掛けた。




「……はァ、良い夜だよねえ。まったく」


「――うんうん。まったく」




 誰にともなく呟いた兎依に、返事を寄越す者がいた。


 さては、自分と同じように祭りに浮かされた月夜烏の類か。


 話し掛けてみるのも一興か、と振り向いた先には、年端もいかなそうな少女がひとりでベンチに座っていた。


 これには、兎依も驚くまいことか。


 いや、祭りの夜である。


 少女がひとりでうろついていても、迷子か、放任主義の家なのだと思えばそれほどの不思議はない。


 兎依が度肝を抜かれたのは、ひとえに少女の人間離れした容貌ようぼう故だった。


 見つめ続けていると眩暈めまいがしそうなほど整った顔付きと、年相応に華奢きゃしゃな体躯は、少女が着込んでいるフリルたっぷりの衣装と相って、それこそ高級精巧な人形のようにも思える。


 それに、夜中でも眼を引く明るい桃色の髪だ。


 可愛げにサイドテールで結ばれたそれも、染めたとは思えないほどのつやを放っている。


 仮装というには、完成度が高すぎた。


 絵巻物の中から抜け出してきた、と言われた方がまだ納得できるほどに。




「あれ? おねーさん、わたしが見えてるの?」




 しばらく呆けたように見つめていた兎依に、少女が眼をぱちり、と瞬かせた。




「? 居ない人間に話し掛けるほどには、まだ酔っちゃいないさ」


「そうじゃなくて……まーいいや! へえ、そっか。見えるんだ」




 多少意外そうに、しかしすぐに嬉しそうに席を詰めてきた少女に、兎依は首を傾げる。


 お冷のグラスを傾けながら、ややあって「これはしたり」とばかりに手を叩いた。


 もしかすると、〝そういう遊び〟の真っ最中だったのかもしれない、と。


 子供のごっこ遊びであれ、一足早い中二病の設定であれ、楽しんでいる人間に向かって、酔った勢いで正論を吐くような真似は、まともな大人のするふるまいではない。


 狭量な俗物のすることだ、それは。


 無粋な返答をしてしまったこと三原兎依一生の不覚ではあるが、幸いにも少女に気分を害した様子はなかった。




「ね、ね。おねーさん?」


「何かな?」


「おねーさんは、今日が何の日か知ってる?」




 隣にやってきた少女が、上目遣いにたずねた。




「そりゃ、決まってる。地獄のかまふたが開く日さ」


「じごく?」


「そう。そこから死んだ人間の霊やら、人外の悪霊妖怪の類が、わんさかい出てくるって話だ。そいつらに気付かれないように、みんなああやって仮装だなんだと正体を隠してる」




 あえて怖がらせる物言いをしたのは、先ほどの非礼に対するサービスのつもりだった。


 サンタが来るとうそぶく大人のように、遅ればせながら祭りの雰囲気を楽しんでもらおう、と。


 だが、前を横切っていったゾンビ・コスプレの女子大生を指した兎依に、少女は「ふぅん」と気のない返事をしただけだった。


 人選を間違えたか。




「じゃあ、おねーさんはどうして変装してないの?」


「そりゃあ、おばけなんて怖くないからよ。それよりも仕事が怖いってね」




 我ながら、つまらない返しか、と兎依は苦笑を漏らした。


 空になったグラスを置いた矢先、少女がおもむろに立ち上がった。




「おねーさん。うそばっかり」


「……へえ、どこがうそだって?」


「だって、今日は悪戯をして、お菓子をもらえる日だもん」




 ステップを踏むように振り返った少女が、はずんだ声で言った。




「ちょっと、そりゃ欲張りすぎさ。どっちかにしときなよ」


「どっちか?」


「そこらでみんな言ってるじゃん? 〝トリックオアトリート〟ってさ。あれよ、あれ」


「そっかァ。じゃあ――」




 思わず見惚れるほどの笑みを浮かべて、少女が息を吸った。






「――おねーさん。〝悪戯か、然らずんばもてなしか!トリックオアトリート〟」






 なるほど、そうきたか。


 半眼になりながら、酔いが回る頭で、兎依はこの問答を如何に切り抜けるべきか思案した。


 数瞬して、そこらに放り出してあった鞄を引き寄せる。




「……悪戯? もてなし? へへっ、上等さァ」




 祭りの雰囲気に酔ったといえばそれまで。


 とんでもない美少女とのひと時を、これまた一興と思ったというのもある。


 ストレス過多で自棄やけになりつつある兎依の頭脳は、この非日常をとことん楽しめ、と号令を下したのだった。


 行くとこまで行ってやる、と兎依は財布の中身をばっと取り出した。




「こちとら天下の正社員だオラァ! ボーナス出ないけど!」


「おねーさん⁉」


「〝もてなしトリート〟だァ……‼ 欲しいもの何でもくれてやる‼ 満足かコラァハァン⁉」


「え、ええー……思ってた感じと違う……うれしいケド」


「ほら行くよっ! おっちゃん、お冷ありがと!」


「……おう、気ィ付けてな嬢ちゃん!」




 何故か気まずそうにサムズアップを返してきた店主を妙に思いつつ、兎依はふらついた足取りで街路にり出した。


 後ろから少女が追ってきているのを確認して、片っ端から甘い菓子やらを買って回る。


 多少値が張る創作スイーツも、はたまた昔懐かしい屋台のベビーカステラも、兎依が自分用に買った焼きそばまで、少女は何でも旨そうに平らげた。


 瞳を輝かせて、おねーさん、と甘えてくる少女――サキ、というらしい――に、兎依も締まりのない面をさらすはめになった。


 生まれてこの方二十余年。


 妹、というものに縁のなかった兎依には、満更でもない。


 まして、美少女である。




 夢のような時間が過ぎ、夜も更けてきた頃、二人は人気の少なくなってきた夜道を歩いていた。


 まだ遠くに出店の喧騒が聞こえるものの、そろそろ祭りは潮時だろう。




「わたし、来てよかった。すっごく楽しいもん。ありがと、おねーさん♡」


「なに、安いもんだって」


「ふふ。おねーさんは、何のお仕事をしてるの?」


「退屈な仕事さ。忙しいだけのね」


「退屈なのに、忙しいの?」


「そうとしか言いようがない。もう少し大きくなったら、分かるさ」


「ふぅん。……ね、おねーさんは、そのお仕事嫌じゃないの?」




 もたれ掛かるように、サキが腕を組んで言った。




「別に嫌ってわけじゃない。今すぐ辞めたいと思ってるだけさ」


「めちゃくちゃ嫌がってるよね⁉」


「そんなもんだよ。毎日毎日、怒鳴られて突き飛ばされてたら、逃げ出したくもなる……って、子供にこぼす話でもないね」


「おねーさん……」




 気遣わしげな声を漏らすサキに、迂闊うかつだったと兎依は空いた手で頭を掻いた。


 しばらくの間、沈黙が続く。


 気まずさを避けるように視線を辺りに遣っていた兎依は、ふと足を止めた。


 何か、違和感を覚えたのだ。




「……かわいそうなおねーさん」




 隣から、小さな呟きが聞こえた。






「やっぱり、わたしが連れていってあげるね」






 瞬間、兎依はサキの腕を振り払っていた。


 悪寒ともいうべき震えが、身体の芯まで通り抜ける。


 酔いが、一気にめていった。


 違和感の正体。


 それが何か、兎依ははっきりと悟ったのだ。




「……どうしたの? おねーさん」




 人気のない道を歩いていた。


 それは、分かっていたのだ。


 だが、いつから、自分たち二人以外に通行人が居なくなった?


 いつから、大通りの喧騒も聞こえなくなっていた?


 通りに居並ぶどの店も、いつの間にか二十四時間営業の店まで暗く閉まっているのは、どういうことだ?


 そして何より――


 自分たちの真横にある店頭の大きな鏡に、間抜け面をさらしているのは、どういうわけなのか――。




「ふふっ、くふふ。やっぱり、うそつきだったね」




 うつむいていたサキが、顔を上げた。








「――おばけ、怖くないって言ったのに♡」








 紅い。



 血のように紅い眼が、ゆっくりと細められる。



 首。



 熱い、と思った時には、サキの桃色の髪が鼻先をくすぐっていた。




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