澄みわたる空の下で

ざくろ山

澄みわたる空の下で

 日陰に残った雪を解かすように、南の空からやってきた暖かい風が吹いてくる。それに乗った高校生たちの歌声が『はらっぱ』を通り抜ける。テニスコートにあんまり上手じゃない大学生たちの笑い声が響き渡り、フェンスの向こうでは手をつないだ保育園児たちが保母さんに見守られながらアスファルトの道を力強く踏みしめていた。赤白ピンク、他にも色とりどりの帽子をかぶった可愛らしい行列にとっては散歩も立派な冒険だ。

 都立武蔵野中央公園、グリーンパークの愛称で親しまれるこの地は隣接する高校の生徒たちに部活や課外活動で利用され、近隣住民たちがスポーツで汗を流し、家族と共にピクニックをする憩いの場となっている。

「ちょっと男子、ちゃんとやってよ。合唱祭まで時間がないのよ!」

 女子生徒が練習に身が入っていない男子生徒に怒鳴る。「ちゃんとやらないってことは、出来るからなんだよね。じゃあ一人ずつ歌ってみて!」普段はヤンチャしていそうな茶髪の男子生徒も、これにはタジタジといった様子で小さくなっていた。女子生徒の熱意が伝わったのか、ただ怖かったせいなのかはわからないが、男子生徒たちも姿勢を正して声を出すようになった。もちろん、みんなで。

 高校生が織りなすハーモニーは澄みきった青い空に舞い上がっていった。空の向こうには昼間の月がその青白い顔を覗かせていた。今から77年前の1944年11月24日、その日は月ではなく、空には大型爆撃機が浮かんでいた。サイパン島がアメリカ軍に奪われ、そこから出撃したB29が最初に目標としたのが、日本の航空機製造のトップメーカーだった中島飛行機株式会社の工場であった。

 一式戦闘機「隼」や九七式艦上攻撃機、そして「零戦」のエンジンなど、多くの兵器がこの武蔵野の土地で製造されていたのである。軍事的に非常に高い存在価値があった中島飛行機がアメリカの第一目標になるのも頷ける。アメリカ軍が行ったのは高度1万メートル上空からの高高度昼間精密爆撃だった。精密爆撃と言えば聞こえはいいが、その命中精度は低く工場の破壊には至らず周囲の損害を徒に増やしていた。その攻撃も、アメリカ軍に南方の島々が奪われ、空母が日本近海に近づいてくるようになると、爆撃機は低い高度での爆弾投下やロケット砲による攻撃に切り替わり、その被害は大きくなっていった。

 1945年4月12日、数えること8回目に当たる空襲は、硫黄島から飛来したB29が無数の爆弾で武蔵野の地を焼いた。その日、田無に住む学生であった神原直人かんばらなおとは学徒動員の煽りを受けて兵器工場で仕事をするようになっていたのだが、7日の空襲で受けた傷が元で自宅での療養をしていた。7日は工場での人的被害がもっとも大きく、猫の手も借りたい状況ではあったが、煙で喉を焼かれた直人は工場に出てきても足手まといになるだけと暇を与えられていたのである。

 国の、工場の一大事というのに休みを取る自分は不甲斐ないと思いながらも、4月に入ってから苛烈になった空襲で疲弊していた心と体を休ませられると、心のどこかで安堵していた。直人の家は代々百姓をやっていて、周りの過程に比べれば食べるものには困らない程度の蓄えはあり、父も母も健在であった。7つ上の長兄が満州で戦死し、4つ上の次男も南方で戦死してしまっていた。口ではお国のために最後まで戦ったと言ってはいたものの、両親の本心では末っ子の直人までも戦争に奪われはしないかと気が気ではなかった。前線ではなく工場勤務となったため、ほっと胸をなでおろしたところにアメリカ軍による空襲の到来である。焼け焦げた制服で帰ってきた直人を見た時には生きた心地がしなかったが、怪我の程度も酷くは無いようでほっと胸をなでおろしたのである。

「この辺りも危ないのかねぇ。」

 部屋で横になる直人にお茶を持ってきた母親が何気なく聞いた。直人は無言で湯呑に手を伸ばしたが、思った以上に熱いお湯で淹れられていたため、これでは喉に障るとそっと湯呑を戻した。

『中島飛行場も工場疎開を進めていて、多くの機械や物資が運び出されているから生産能力を下がってきている。もちろん、そんなことをアメリカ軍が知るわけがないから今後も空襲は続くと思う。けど、あいつらの攻撃精度は悔しいことに上がってきているから、去年みたいに工場を大きく逸れてこの辺に着弾することは無いと思う。』

 と現状を踏まえつつも母を安心させる言葉を言おうと思ったが、焼かれた喉では上手く声が出せず静かに頷くしかできなかった。それでも、直人の目を見ただけで言わんとすることが伝わったのか、わずかに母親は微笑むと台所へと戻っていった。

 母親が直人でも食べやすいようにと芋粥を作っていたまさにその時だった。B29が抱え込んだ1t爆弾を吐き出したのは中島飛行機の工場から北西の方向に離れた田無駅周辺だった。雨のように爆弾が落とされ、折り重なるように爆風と高熱が荒れ狂い、爆音は雷よりも鋭く大気を震わせ、市街地からそれまで当たり前のように繰り返されてきた人々の営みがを一瞬にして失われた。

 駅からは若干離れていた直人の家も例外ではなかった。家屋への直撃は無かったものの、畑に落ちた爆弾は鼓膜を破らんとする轟音と共に弾け飛び、膨大なエネルギーは周囲を飲み込んでいった。大砲のような熱と空気の塊が到来すると、家の柱はマッチ棒のように簡単に折れ、一瞬にして倒壊が始まった。直人は咄嗟に吹き飛ばされそうになる布団をしっかりと掴み、その中で丸くなり頭を守りながら外部と触れあう体の面積を少なくした。屋根が崩れ、直人は下敷きになるところであったが、取っていた体勢のおかげで運よく折り重なる板のすき間に入っていて難を逃れることができた。しかし、次の危険はすぐそこに迫ってきていた。木と紙で出来た家は一旦火が付くと簡単に燃え広がり、辺りを炎が取り囲んだ。まるで窯の中に入ったかのような高熱が直人に襲い掛かる。そして、火の付いた木材はその重さに耐えられず、二度目の崩落が始まった。火の粉を舞いあげながら屋根や梁だったものたちが覆いかぶさり、わずかに残された空間が圧迫されてくる。何とかそこから這い出ようとするも、その重さと熱で身動きが取れなかった。

 『諦め』という言葉が頭をよぎった瞬間思い出されたのは母のことだった。今燃え広がっている炎も台所からかもしれない。だとしたら、一番危険なのは母のはずだ。父は朝早くに畑に行ってしまっているから、助けられるのは自分しかいない。なぜ3兄弟のうち一番幼い自分だけが生き残っているのか。それは兄たちのように立派にお国を守る力は自分にはなくても、せめて手の届く範囲にいる家族を守ってみせよという役割を授けられたからだ。その使命感が浮かび上がり四肢に力を漲らせる。火傷で真っ赤に焼け爛れた手足を踏ん張らせて、背中に乗る瓦礫を押し返すと、芋虫のように体全体を揺り動かして倒壊した部屋から抜け出ることが出来た。

 熱で溶けた肌に木片が貼り付いているのも、もろともせずに立ち上がり母の姿を探して台所だった場所に向かう。そこも一面火の海で誰かいるかすらわからない。それでも目を凝らして必死に探しているとわずかに炎の中で何かが揺れたような気がした。

 直人は無我夢中で再び火の中に飛び込んでいった。動いたように見えたものは家具や壁が崩れただけかもしれない。それでも動かないわけにはいかなかった。そして炎を分け入って抱え上げたものは人の形をしていた。黒く焼け焦げてみる影もなかったが、間違いなく母親だった。口元に顔を近づけるとわずかに呼吸していることがわかる。まだ死んでいない。消えかけている命のろうそくを消させないため、直人は母親を勇気づけようと必死に声をかけようとした。


 しっかりするんだ。

 俺はここにいる。

 必ず助ける。


 その言葉は声にならなかった。先日の空襲で焼かれた喉は、今日の炎でさらに傷つき声帯はその機能を失っていたのだった。コヒューコヒューと情けない音と出しながら、むなしく息ばかりが吐きだされるだけだった。

 直人はその腕の中で母親の命が消えていったのを実感した。最後の最後に声すら届けることしかできなかった自分を恨んだが、体中の水分を蒸発して干からびた体からは涙すら流れなかった。

 直人の頭上でB29が高度を下げた。

 終戦の1週間前まで空襲は続き、それは計9回にまで及んだ。中島飛行機武蔵製作所では死者220名、負傷者266名にも及ぶ犠牲が発生した。市街地の被害を含めるとその損害は計り知れない。

 戦後、中島飛行機の鉄筋コンクリート造りの建物の多くは再利用された。東工場は電気通信省の研究所や学校の校舎に使われた。西工場はアメリカ軍に接収され、在日米軍基地のための住宅となった。その住宅の名前が「米軍住宅グリーンパーク」である。グリーンパークの名前は野球場の名前にも使われ、米軍から返還された後も今に伝えられている。

 合唱祭に向けて女子生徒に尻を叩かれた男子生徒の歌声も次第に大きくなってきた。高校生たちよ、大いに歌うがいい。声すら出すことが出来なかった直人とは違うのだから。君たちの頭上に広がる空には雲一つない。2月の澄んだ空気は若い歌声を天高く響かせていくのであった。

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