惨劇の部屋

渡邊利道

惨劇の部屋

 とつぜん天井が現れて目が覚めたと気づいたとき、自分がいまこの瞬間まで夢を見ていたに違いないという確信が彼に訪れた。またもや夢の空間から放逐されてしまったのだった。限りない失望が彼を襲い、狼狽していますぐ夢を思い出し、直ちに追体験しなくてはならないと思い詰める。それはもうずっと前から、何度も何度も見ていたはずの夢だったので、想起は容易であるに違いない。はず、というのは、これほどまでに鮮やかな記憶が刻まれているのには、反復の力が作用しているとしか考えられなかったからで、尤ももしかすると、ちょうど現実のそれと同じように、夢であってもあまりにも衝撃的な体験であれば、一度きりの出来事であっても問題ないのかもしれない。けれどもそれならばそれを自分はむしろ現実と取り違えてしまうのではないか。畢竟彼にとってその体験はまさに夢のなかでしかありえないものだった。

 夢のなかで、彼は一人の若い女性であった。彼女は、というかそれを見ているのは彼自身であるのだが、彼女は夢を見ている彼にはまったく気づいておらず、夢を見ている彼は、彼女の姿を見ている彼であって、見られている彼女は夢のなかの彼なので、その彼はいわば二重化し夢を見ている彼に気づいていない彼女とぼんやり気づいている彼に分かれているのだ。地下に続く階段を下りる。そこは冴え冴えしたコンクリートが剥き出しになった職員専用通路のようで、スチール製の手摺には錆が浮かんでいた。天井は高く、蛍光灯の光がゆっくりと落ちている。灰色の壁の隅々に外光が小さく漏れて鬼火のように揺れている。無音で、人の気配はなかった。ただ靴の音だけがやわらかな暗い空間に響いていた。段の一番下まで降りたと思うと、キャットウォークに続いていて、鉄柵の向こうを見下ろすと地下鉄の線路が通っていた。線路に沿って延びるキャットウォークをしばらく歩いていく。とつぜん轟音を響かせて七両編成の車両が通過していった。彼女の位置からは乗客の姿がはっきり見えていたが、乗客のほうは誰も彼女に、というかキャットウォークの存在そのものに気づいている様子はなかった。実際彼もその地下鉄は何度も利用したことがあったが、こんな位置に通路があるとは知らなかった、と夢のなかの出来事であるにもかかわらず、彼は現実の記憶を探っている。

 彼女は歩みを進め、線路の上をまたいでいるスチール製の狭い渡り通路を抜け、ふたたびコンクリートの広い空間に出た。ぽっかりあいた長方形の穴があり、その下の階段を下りていく。その動きはなめらかでまったく迷いがなく、何度も何度も歩き慣れた道程のようだった。それは何度も同じ夢を見ているためなのか、それとも夢の最初からすべてを知っているというふうに事が進んでいたのか、彼にはわからなかったが、彼女の歩みは確実であった。右側の壁に窓があり、その向こうに小さな部屋があった。簡素な作りで、木製のクローゼットと、ベッド、そして電話が置かれたサイドテーブルがあった。階段を降り切った右側のドアを開けてその部屋に入った。真白いシーツのかかったベッドに座ると、まるで豪華客船の船底にある秘密の小部屋にいるようだ。深海をゆっくり進む巨大な魚、あるいは海生哺乳類の腹の中で悔い改める小人のようだった。彼女はベッドに横たわり、目を瞑ると、階段を誰かが降りてくるのが聴こえた。あるいは彼女は眠っており、夢のなかでその足音を聴いているのかもしれない。ゆっくりと降りてくるのは男で、その手にはナイフがしっかりと握られている……

 そこでふと我に返り、夢を見ていたと気づいたときには、彼はいつもの自分の部屋のベッドの上に横たわっていて、鮮血ではなく全身が汗でびっしょりになっており肌の上に指を辷らせて見るが、指先を眼前にさしだしてもそれは赤黒く凝った液体ではない。見慣れた自分の部屋は灰色の雨が降っているように暗く、まったく無音で、と思うやマンションの前の道路でここ数日続いている工事の騒音が響き渡っていることに気づく。カーテンの隙間から射す光の線にうっすらと降りてくる誇りがキラキラ反射しているのが目に入った。工事の振動でマンションが揺れている? まさかな、と思う。

 吐息を漏らし、ベッドからのろのろ起き上がって彼はシャワーを浴び、身支度を整える。食事は外で摂ることにした。なんにせよ彼は失業中で、所持金はすでに心もとなく、朝食と言ってもコンビニで買った菓子パンと缶コーヒーを公園のベンチでかっ込むだけだ。真冬で、とてつもなく寒いので、パンを握る手も悴んで震え、痛みさえ感じる。何もこんな時期に公園のベンチで飯を食わなくてもと思うのだが、どうしてもそれが必要なように、彼には思われていた。こうして、厳しい思いをすることで、どこかに恩寵のようなものが現れるのではないかと思っているのだった。

 午前十時、空は薄曇り。人影はまばら。どうしてもビルの影の部分を選んで歩くような心持ちであり、目的地である会館までの距離は遠く感じられてしかたがない。会館では失業保険の給付が行われているのだが、彼はすでに三回それをもらっており、今回からは職探しの不具合についての釈明書を添付し、給付の申請に関する審査を受けなければならない。権利としては失業保険は半年は給付されることになっているのだが、いつのまにかこのような審査制度が導入されているのだった。そもそも、給付がいまどき手渡しだというのが確実にある種の嫌がらせに違いないのだ。いつからこんなことになったのか。

 ふと道が途切れて、灰色の背広を着た男たちの一群に出会す。誰の顔も区別がつかない個性のない男たちは、団子状になって群れていたが、男たちの半白の頭叢からたなびく煙が見え、彼はそれが給付が認められなかった男たちのための炊き出しであることに気づく。自分もあそこに並ぶことになるのだろうか。ほんの少し前まではあんなに喧伝されていた人手不足は、人工知能の進展と外国企業が矢継ぎ早に開発した網状の技術によって一気に解消し、いまやごく一部のエリートを除けばむしろ就業していることが奇跡のように思われる有様だ。すべての事務と接客と工場が機械化されたと言うし、技術転換に間に合わなかった企業はおおかた潰れ、若者たち、女たちは職を求めて海外に流出していった。とくに長年マルチタスクを求められてきた日本人女性は海外での評価が高く、結婚相手としても労働力としても好感を持って迎えられているという。一番使えないのが中年以上の男たちで、幼年期に繁栄に湧く日本を無意識に刷り込まれたにもかかわらず、成年に達するや大不況に見舞われて充分な職業訓練も受けられず、無為と怠惰に日々を遣り過ごした年代の者たちなのだ。

 自分はそういう男たちとは違うと、彼はずっと思ってきたのだった。

 もちろん、そんなわけはなかった。

 彼は両手をコートのポケットに入れて、背中を丸めて会館に入る。会館の前に炊き出しが可能なスペースがあるのは、これはわざとというか、せめてもという政府の気持ちの現れなのだろうか。それともお前らもしっかり準備しなければこうなるぞという警告なのだろうか。エントランス・ホールにはすでに人が溢れているが、今日は書類の提出だけなので、うんざりするような列を尻目に地下の受付に向かう。コンクリートの階段を下りていくと、地下一階は誰も人がおらず、ひっそりと静まり返っている。リノリウムの床を革靴で歩く。一歩ずつ靴底が擦れて、キュッ、キュッ、と不快な音を立てた。

 暗い廊下には蛍光灯が水のように微弱な光を流していて、階上の混雑と喧噪が嘘のように時間が停止していた。

 長椅子があって、窓口が開いている。顔を入れて声を掛けると、応対する人はなく、画面を押せというモニターが鎮座しているのだった。必要事項を入力し、開いたスライドに書類を投げ入れて発行された受け取り証を引きちぎり手続きは完了。結果は後日メールされてくる仕組みだった。受取証を財布にしまおうとしたとき、小銭が零れ、軽い音を立てて床に落ちた。舌打ちしたいような気分で目で追うと、意外なくらいの速さで硬貨は床を跳ね、スーッと廊下の奥まで転がっていった。

 あらゆることがうまくいかないという気分に落ち込みながら彼は廊下の端の扉の前まで歩き、壁に当たって倒れた硬貨を拾いながら何気なく触った扉が、きいいという不気味な音を立てて開いた。内部は打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しになった、照明がないのにぼんやりと薄明るい空間で、ふらふら足を踏み入れると奥の方に長方形の穴が空いているのでそのまま引き寄せられるように近づくと、かなり急傾斜の階段が下に続いている。彼はおっかなびっくりその階段を降りた。長い長い階段はコンクリート製で、スチールの手摺には錆が浮かんでいた。空間のなかを宙づりになっているように長い長い階段を宛もなく降り続け、巨大な空洞のなかに一人で降りていく。彼の他に人の姿はまったく見えなかった。一番下まで降りると、方向感覚が喪われてもはや一歩も踏み出せないと思うのだが、身体はまるで慣れ親しんだ場所をほとんど意識せずに行くように歩きはじめていて、驚愕に襲われながらまったく見知らぬ場所の入り組んだ行路を迷いなく進みふたたび階段を下りて、右側の壁に足下を照らす窓があるのに気づく。一歩一歩段を降りると窓の向こう側に見覚えのある部屋があって、ベッドに一人の女性が座っているのがその豊かな髪、華奢な肩、流れるような背中の線、とガラス越しに連続写真のように現れてきて、もちろん彼の手にはいまやギラギラ光るナイフがしっかりと握られているのだ。ドアを開けると彼女は期待に充ちた瞳を彼に向ける。彼は暗鬱な気持ちで握りしめたナイフをこころもち刃が上を向くようにして彼女に示すのだが、もちろん、彼女は何もかも承知した様子でベッドから立ち上がりさえするのだし、一歩、二歩、と彼の方に歩み寄りさえするのだ。ゆっくりひろげられた両手の中に身体をすっぽりと収めるように身を縮めながら彼は、そのまま彼女のやわらかな胸の谷間に刃を潜らせる。洋梨のような彼女の心臓がぱっくりと裂けて大量の血液が溢れ白いドレスをぐっしょりと濡らし同時に「ああ」という彼女の声が彼の脳天を貫いていつのまにか激しく勃起していた陰茎から精液が迸りぐぐっとさらに力を込め輝かしい顔で彼女が彼を抱きしめるのをそのままベッドに押し倒して、丸く口を開けて叫びが途切れた彼の姿を探す瞳に向けて微笑を向けナイフを抜くと、彼女の頬をナイフを持っていない左手で支え右手を首の後ろに回し刃の先をゆっくりと埋めていく。瞳から光が喪われ、どくどく流れる血がナイフから彼の右手、二の腕としとどになっていくのを温かく感じながら彼は彼女を抱きしめたままでプールに飛び込むようにベッドに身を投げて、強く目を閉じてこの夢が完成されることだけを祈る。夢のなかで時間は空間の形式をとり額縁の中の絵画のようにすべてが一瞬に定着される。

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