第30話 はなむけ

 スフェンは手ぶらで、エリアは行李を背負い、馬頭の杖をついて歩いた。水路を何本か渡り、未だにぎわう市場の端をかすめて間もなく、町の南を走る大通りに差しかかった。エリアが散歩のような歩みを止める。


「できることはやったから、後は木に任せよう」

「はい」


 スフェンはエリアをまっすぐに見る。いつもの悠々とした表情がそこにあった。


「エリアさん」

「うん?」


 あくびをこらえながらエリアが応えた。


「あの……ここにはまた来ますか?」

「折が合えば、かな。まあ、お互い元気ならまた会えるさ」


 続けてエリアの口から、聞き慣れぬ響きが一つ紡がれる。スフェンは首を傾げて聞き返した。


「君に望みの降り注がんことを。私の故郷で使うはなむけの言葉だよ」

「素敵ですね。エリアさんにも、恵みの雨が降りますように」

「ありがとう。それじゃ」


 手を振り合った後、エリアが門に向けて歩きはじめる。スフェンはそっと手を下ろし、振り向くことなく遠のいていく背中をながめ、それから鼻をすすって進みだした。西街区に入ると、聖堂のファサードと、祈祷のために早々とやって来る人影が見えた。セレクは祈祷の準備を手伝っているだろうか、あの実をちゃんと噛まずに食べただろうか、今度会ったらもう一度ちゃんとお礼を言おう――思いが浮かんでは消える。


 やがて銀の樺通りで立ち止まった。古い酒場と民家の間に伸び、小伽藍通りへと抜ける細い路地は、すがしい朝のなかにあって薄暗く沈んでいる。スフェンは静かに目を閉じ、眉間の奥をのぞいた。若木は枝を返した後と変わりなく沈黙しているかに思えた。しかし、わずかな違和感に意識を凝らしてみると、根元の窪みに萌えるひこばえに気がついた。小指よりも細い茎の先に一対の葉がつき、淡い光を露のように戴いている。


「スフェンさま」


 自分に向けられた声に意識を呼び戻した。見れば、数軒先で女中が弟の手を引いて立ちつくしていた。女中がもう一度声をあげ、駆けだそうとし、ほどけた弟の手を握り直して小走りに寄ってきた。弟が両手で顔を覆う女中を見、それからスフェンを見た。


「お兄ちゃん」


 抱きついてくる弟の柔らかな髪をなでながら、スフェンは女中に向き直る。


「戻ってきました。心配をかけてすみません。……母さんは家にいますか?」

「ええ。いらっしゃいます……いらっしゃいますとも」


 女中がしゃくり上げつつ何度もうなずいた。


「わたし、トルムさまをお連れしてお祈りに行くところだったんです。奥さまは後でお一人でおいでになるものですから……わたし、お伝えしてきますわ、スフェンさまがお帰りになったと……ああ、それから、ご主人さまのところへも!」


 返事を待たずによそ行きの裾をつかみ、女中が駆け去っていく。


「お兄ちゃん」


 トルムに服を引かれてスフェンは視線を落とした。


「うん?」

「後でね、一個だけお願い聞いてくれる?」

「お願い?」

「マールカのこと」


 手足がもげ、綿の飛び出たぬいぐるみが脳裏をよぎる。スフェンは努めて声を落ち着けた。


「どうしたの?」

「マールカね、ばらばらになっちゃった後、お母さんが縫って直してくれたの。なのに、お兄ちゃんを探してくれる魔法使いさんが、マールカを使いたいからって持って行っちゃおうとしたから……嫌だって引っ張ったら足が取れちゃった」


 トルムが目を伏せ、再びスフェンを見上げる。


「お兄ちゃん、また直してくれる?」


 スフェンは静かに唾をのみくだし、眉間の奥に呼びかけた。今度こそ直したい。弟のために。できるかと蘖に問う。若芽は幻の風を受け、葉の緑を輝かせた――あえかに、しかし力強く。


「うん、分かった」


 トルムの顔に笑みがあふれた。瞬間、強い風が落ち葉を追い立てて吹き抜ける。スフェンは外套にトルムをくるみ、目を細くして風の行方を振り仰ぐ。長雨を惜しみなく降らせた雲が、東の空遠くに流れていた。




 終

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歪樹のスフェン 藤枝志野 @shino_fjed

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