第29話 地下一階
「その枝が覚えてたよ。水で紛らわせたひもじさも、心配そうに見てきたあの子の顔も、最後にしてやったっていう小さい喜びも」
「そんなことどうやって……なんなんだ、あんた!」
ハーツィグが眦を決する。何を繰り出してくるか知れないが知る必要はない。エリアは首を傾けた。ハーツィグの手に収束しかけていた力が砕け散る。
「私は平凡な魔法使いさ。味方に恵まれてはいるけどね」
エリアは闇をぐるりと見回してみせる――土の下、現世と黄泉とのあわい、そして雨が空に戻るまでのひと時の揺籠を。ハーツィグが切歯して逃げはじめる。
「あ、そうだ」
その一声で長身が反り返って痙攣を始めた。強固な麻痺の魔法を受けた時の反応だった。
「忘れてた。お前も返すものがあるんだったね」
エリアはつかつかと歩み寄りながら懐に手を入れた。回り込むのも面倒なので、指一本を動かしてハーツィグの体の向きを変える。懐の手を引き抜くと、握った黒曜石をハーツィグの額に突き立てた。割れ鐘のような絶叫に構わず、鼻柱まで裂いた傷に左手を突っ込む。阻む肉も遮る骨もなく、目当てのものがやすやすと指先に触れる。握った心地に覚えがあった。
「ああ、これだな」
わめき続けるハーツィグを無視し、勢いをつけて引っこ抜く。闇の中にあってなお黒い、ねじくれた枝だった。エリアは握った手に力を込める――破壊ではなく解放のための力を。指が堅い枝にたやすく食い込んで押しつぶす。朽ちてぼろぼろと崩れ去る枝から一条、淡い緑の光が煙のようにのぼっていった。全ての光が遥か上方に消えるのを見届けてから、思い出したように目を戻す。ハーツィグがくたびれた人形よろしく崩れ落ちた。
「さ、用は済んだよ」
見上げてくる焦点の合わぬ目に向けて、エリアはにっこりと笑う。
「それじゃ、よい黄泉路を!」
× × ×
エリアがスープを前にして歓声をあげた。主人が引っ込むのを見計らって「玉ねぎだけのを反省したに違いないよ」と耳打ちしてくる。スフェンは笑みをこぼしながら匙をとった。椀には玉ねぎの他に小間切れの羊肉が沈んでいた。スフェンは一杯、エリアは三杯飲み、いつもより大きな黒パンを二人で一つ平らげた。
支度は済んでいたので、部屋に戻って十分と経たぬうちに再び一階へ降りた。帳場で寝こけていた主人は女将に叩き起こされ、二人に手を一振りしたかと思うと、再び腕を組んで眠りはじめた。
「ごめんなさいね、最後まであんなで」
女将がため息をつき、気を取り直すように笑う。
「あなた、南に行くんでしょう」
「はい」
エリアが答える。
「少し急げば隣の町の秋市に間に合うわ。この町から買いに行く人もいるの。なんでもかんでも安いからのぞいてみて損はないわよ」
「へえ。いいですね」
女将がスフェンに目を移した。
「水やりの秘訣、教えてくれてありがとうね。さっそく試してみるわ。たまに様子を見に来てほしいけど――なんてね。気が向いたらいつでも顔を見せてちょうだい」
「ありがとうございます」
女将と手を握り合った後、二人は宿を出た。外はまぶしく、西には竜胆を清水に溶かした色の空が広がっている。
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