新卒のとき営業ロープレが下手すぎてマジックミラー号のAVを売りつける練習をした件

「たとえば、アルファヴィルでは涙を流して泣いた人は逮捕されて、公開処刑されるんです」

「なんで?」

「アルファヴィルでは、人は深い感情というものをもってはいけないから。だからそこには情愛みたいなものはありません。矛盾もアイロニーもありません。物事はみんな数式を使って集中的に処理されちゃうんです」

──村上春樹『アフターダーク』


 就職してもストレスが溜まると近所のTSUTAYAでAVを借りる癖は治らなかった。

 旧作と準旧作が4枚、7泊8日で1000円だった。ぼくはそのうちの3枚をアダルトビデオに費やした。女優単体モノ、素人詰め合わせ8時間モノ、マジックミラー号という内訳で、のこり1枚は適当にゴダールかタルコフスキーの作品を選んでレジまで持っていくことが多かった。

 その様子だけを見れば中二病と高二病と大二病がいっぺんに押し寄せてきたかのうような涙無しには語れない情景ともいえるのだが、当時のぼくはそれなりに表現性の強い映像作品に興味を寄せていたのは事実だ。なかでも複数回借りたのがゴダールの『アルファヴィル』で、新卒社員となったばかりの当時、感情と思想が奪われた世界にじぶんが属する社会との浅はかなアナロジーを見出そうとしていた。

「もっともじぶんに向いていない仕事をしよう」

 そう思って選んだのが営業職だった。就職活動をしていたとき、ぼくはそれなりにひととのコミュニケーションを楽しめる人間だとおもっていたのだけれど、じっさいにはすこしだけど致命的なちがいがあった。ぼくはじぶんとすでに仲の良いひととのコミュニケーションは好きだったが、なんの接点もない「他人オブ他人」とでもいうべき人間とのコミュニケーションはきわめて不得手であると面接をうける過程で気づいた。

 就職面接は端的にいって苦痛だった。とりわけ嫌だったのがある広告代理店の採用試験で「じぶんの人生をドラマティックな物語としてプレゼンしなさい(60分)」というものだった。面接日は研究室のゼミと被っていたので日程の変更を求めるメールを担当者に出したが返事はこなかった。そのことについて怒りはなく、むしろホッとした。もしあのときぼくがじぶんの特になんの変哲もない人生をドラマティックに脚色して無様な長広舌を垂れようものなら、それ相応のなにかを失ったにちがいないから。その「なにか」の正体はわからないし、たぶん生きれば生きるほどぼくはなにかを損ない続けているという実感がある。損なうのは仕方がない。だけど明確になにかを損なってしまったと自覚してしまうことで、「損なう」ことが現実を侵食していく気がする。あの会社の面接を受けていたなら、たぶんぼくはいまではもう本を読んでいなかったのではないか……というような。

 そしてぼくはなぜか採用担当に気に入られて別の広告代理店に勤めることになった。営業企画という職種で、とりあつかっている求人広告の案内、掲載プランの提案、ものによっては広告のライティングもおこなう。リーマンショック以降、求人倍率は右肩上がりを続けていて、求人広告のニーズは豊富すぎるくらいあったけれど、金がある市場の宿命として競合との血で血を洗うような戦争は日常化していたし、さらにワークスタイルの多様化やらも声高に叫ばれるようになったせいか、新規参入してくるベンチャー企業も増えてきた。メーカーからおりてくる売り上げ目標もなかなか厳しい数字で、昭和気質の残る体育会系なノリの会社だったため、プレッシャーとコミュニケーション不全ですぐさま膨大なストレスを溜め込み、さらには入社2年目の女性社員にイビり倒されて両手から蕁麻疹がでた。このときぼくを救ってくれたのは文学ではなく、アダルトビデオだった。

 配属された部署では、さいしょの1ヶ月はほぼ毎日上司のSさんと営業ロープレをした。Sさんが顧客役になり、ぼくはそこへ飛び込み営業をけしかける。店先にあった「アルバイト募集」の張り紙を頼りにニーズを拾い、話を膨らませ、受注に至らなくてもなんらかの進展を起こして店を出るのが目標で、自然な流れで「ラポール形成→ヒアリング→提案」を行うコツを掴むための練習だった。

 同じ部署には同期の女の子がいて、コミュニケーション能力に長けた彼女は営業ロープレをそつなくこなしていたのだが、真性陰キャのまま営業職についてしまったぼくはさいしょのラポール形成でつまづいていた。Sさんはいった。人間のコミュニケーションタイプは4つに分けられる。分析タイプ、ノリでなんとかするタイプ、主張せず周りに合わせるタイプ、じぶんの納得だけで動くタイプ。これを瞬時に見極めて相手のタイプに合わせることがラポール形成で大事だ。なんでもかんでも雑談をすればいいというわけでもない、仕事に不必要なものをぜんぶ排除すればいいというわけでもない、おまえはその判断が下手だ。

 いっこうに上達しないぼくに業を煮やしたSさんは、

「ほんならとりあえず俺がおまえに合わせてやる。あと、話題もお前が一番売りたいものを俺に売ってこい」

 といった。なにがいい? ときかれ、ぼくはしばらく考え、

「マジックミラー号のDVDでお願いできますか?」

 といった。

「マジックミラー号か」

とSさんはいい、

「マジックミラー号?」

 と同期の女の子は首を傾げた。

 MM号でググったらわかる、といえばなにかデリケートな問題に発展しそうな気がして会議室に戦慄がはしった。男性陣の戸惑いでわずかに変わった空気の流れを同期の女の子は即座に読み取った。

「わかった」とSさんはいった。「じぶんがおもうように、おもいっきりやってみろ」

 ぼくは不可視の扉を開け、Sさんが待つ架空の店へと入っていく。名刺を差し出し、「オススメのアダルトビデオ募集中!」と張り出された紙を見てここへやってきたことを伝える。

 Sは退屈そうに名刺に視線を落としてぼくの声を聞いていた。ぼくは考える。オススメのアダルトビデオを募集している張り紙を出すような人間がほんとうにオススメのアダルトビデオを持ってやってきたときの心情を、あらゆる文学を貪り読んで身につけた禍々しい想像力で直視する。

「ああ、そう」とSさんの平板な声が現実の会議室の壁を打って冷たく響いた。「あれはちょっとした遊びや」Sさんはぼくのほうを見ず、依然として名刺を見つめている。「ちょっと気になるやろ? なんやねんこの店!?みたいな」

 ぼくはそこでじぶんのことを曝け出して猛烈に語った。

 学生時代からストレスが溜まると近所のTSUTAYAでAVを借りる癖があること。DVDを借りるときは決まって3枚がAVで1枚はなんらかの芸術映画であること。3枚のAVの内訳は、女優単体モノ、素人詰め合わせ8時間モノ、マジックミラー号であること。

 そこでSさんははじめて顔を上げ、ぼくの眼をまっすぐ見た。

 なぜその3ジャンルなのか?──その問いが打ち水のごとく冷淡な口調で発せられたとき、ぼくは真にはじめてみずからのことを省みたのだった。ぼくはなぜアダルトビデオの鑑賞を続けてきたのだろうか。

 アダルトビデオには特別な思い入れというものはなかったのだが、あるとすればネガティブな記憶くらいだ。18歳のころ、センター試験前日に見た単体女優モノのAVは青天の霹靂ともいえる結末をぼくにもたらした。あのとき、ぼくはもう二度とアダルトビデオなんて観ないと心に誓ったのだが、故郷を離れて上洛し、学生証を手にすると一目散にビデオ1高野店で会員証を作り、アダルトビデオを借りた。

 ぼくは気がつけばSさんにビデオ1高野店について語っていた。

 川端通り沿いで広大な敷地を構えるこのレンタルビデオ店は1階の2割、2階の8割ほどのスペースがアダルトビデオに割かれていて、あらゆる細かなニーズにお値打ち価格で対応できる体制が整っている。ビデオ1高野店のアダルトビデオコーナーの注意点といえば2階から暖簾をくぐってはいけないことで、そこは出会い頭にスカトロコーナーが待ち受けてる。暖簾をくぐるとそこには美醜さまざまな女性たちのアナルからひりだされた糞がパッケージに刷られたDVDが惜しげも無く面陳されているのである。それを受け止める覚悟があるものだけが、ビデオ1高野店の2階の暖簾をくぐることができる。「この暖簾をくぐるものは一切の希望を捨てよ!」とぼくはSさんに高らかにダンテを引用してみせた。

 ビデオ1高野店に通い詰めたのは大学1回生のはじめから博士課程1回生の終わりまでの7年間で、博士2回生になるとアメリカに留学し、帰国した半年後、ぼくは神戸に住むことになった。駅の近くにTSUTAYAを発見したのはその頃だ。形容がむずかしいほどに特徴のないTSUTAYAで、2階奥に人目を避けるようにひっそりと垂れ下がった暖簾の向こうには大手メーカーの作品が揃えられていた。むしろ大手メーカーだけだったとさえ言えた。しかし重要なのは製作元の規模ではなくてあくまでもその作品に宿る固有の想像力であるとぼくは考えている。

「この暖簾をくぐるものは一切の希望を捨てよ!」

 その高らかなじぶんの叫びに、懐疑的なまなざしを向けるじぶん自身の姿をぼくは幻視するのだった。かつてビデオ1高野店の2階の暖簾の向こうにあったスカトロAVについて、ぼくは完全に軽蔑と卑下の感情を持っていた。「この暖簾をくぐるものは一切の希望を捨てよ!」ということばがまさにそれを象徴しているのである。排便を見て興奮する性癖をぼくは持ち合わせてなくて、そうした性癖が社会的にマイノリティであることを経験上心得ている。つまりは暴力だった。ぼくはスカトロAVを希望なきものとみなし、スカトロAVをこの世から──少なくともじぶん自身の世界から──排除しようとしたのであり、あまつさえそれを営業ロープレの場でSさんに主張し、「この暖簾をくぐるものは一切の希望を捨てよ!」と高圧的に同意を求めさえしている。マジョリティの暴力をぼくは現在進行形で振りかざしているのである。


 カオルは眉を寄せる。「アイロニーって?」

「人が自らを、または自らに属するものを客観視して、あるいは逆の方向から眺めて、そこにおかしみを見いだすこと」

カオルはマリの説明について少し考える。「そう言われてもよくわかんねーけど、でもさ、そのアルファヴィルには、セックスは存在するわけ?」

「セックスはあります」

「情愛とアイロニーを必要としないセックス」

──村上春樹『アフターダーク』


 饒舌に語れば語るほど、ぼくのなかでの自己否定の声はささやきから喘ぎに変わっていった。それでもぼくはSさんに、ほとんど訴えるように話すのだった。ぼくが女優単体モノ、素人詰め合わせ8時間モノ、マジックミラー号という3種類のアダルトビデオを借りていた理由は、それがアダルトビデオの主たる分類に当たるからだ。

 アダルトビデオは3種類のセックスを描写する。

 固有名のセックスと、匿名のセックスと、関係性のセックスだ。

 なかでもぼくが偏愛したのは関係性のセックスだった。恋人同士のセックス、友だちと酔った勢いで致してしまうセックス、近親相姦、家庭教師などさらに細かな分類は可能だが、マジックミラー号の素晴らしいところはマジックミラー号という固有の空間のなかで関係性の変態を垣間見れるという点にある。街で声をかけられた(という設定の)女性が奇怪な車のなかに詰め込まれ、初対面の童貞や友人、スタッフ、謎のマッサージ師などとの性行為を要求される。そこへ金銭というストレスが加えられることにより、関係性の性急な変態が半ば暴力的なかたちで履行され、その変態過程としてセックスが展開される。マジックミラー号におけるセックスは関係性の変化によりもたらされるものではない。関係性の変態のなかにセックスが見出されるのである。

 なかでもぼくは「素股500回チャレンジ」シリーズが好きです、とSさんに自信を持って推薦した。「素股500回チャレンジ」シリーズは街を歩いているところ偶然声をかけられた(という設定の)恋仲にない男女がマジックミラー号のなかで素股500回にチャレンジし、もし達成したらお金をもらえる。往々にして挑戦者たちは420回あたりから我慢できず、志半ばかあるいは素股500回チャレンジ達成後に性行為に及ぶのだが、素股500回を我慢しなければならないという非日常と窓外にある日常というマジックミラー号が作り出すコントラストにより、性行中の2人は友人関係ではない「なにか」になる。わたしでもなく、あなたでもない、「わたしたち」として経験される絶頂の末、2人は行為の後に晴れて恋人同士になることもあるなど、場合によってはハートフルな企画ともいえよう。アダルトビデオとは恋愛へのミメーシスである。マジックミラー号が映し出すのは恋愛への擬態を渇望し、そそり立つ性器を剣のごとく握りしめたわたしたちの姿なのだ──

「わかった、もういい」Sさんはいった。「一言で教えてくれ。お前にとって、マジックミラー号のもっとも素晴らしいと思うところはどこだ?」

 ぼくは少し考え、考えをまとめると十分に時間をとってから口を開いた。


「夜になると中が外から丸見えになってしまうので、カーテンを引いてただの箱になってしまうことです」


 今でもぼくは、社会とはカーテンを引いたマジックミラー号のような場所だと思っている。特別などどこにもない。世界への擬態に失敗し続けたくだらない箱のなかで、ぼくらは働いているに過ぎないのだ。

(了)

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悪役令嬢だったわたしがSF作家に転生したもののチートスキル「異常論文」をクソスキルと誤認され文学賞パーティーから追放。その後田舎でスローライフを満喫しながら量産した小説がクソオモローなのだがもう遅い。 大滝瓶太 @machahiko1205

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