AV鑑賞にはうってつけの日


 ぼくらのなかに早生まれはいなかった。

 18歳がどこか意味深いものとして思い出されてしまうのは、18歳により得られた権利の大きさなのか、それともたまたま高校を卒業し故郷を離れ人生の新たなステージを迎える年齢になるためなのかそれはわからない。選挙権もないくせに結婚と自動車免許取得とAV鑑賞を許されるという事実をいざ並列してみると、18歳をめぐる雑多なあれこれはさらに混迷を極めることになる。そういうめんどうなことはさておき、センター試験の1週間前のぼくらはとにかくみんな、そろって18歳だった。

 心身ともに万全な状態でセンター試験を受けよう、といいだしたのがだれだったか、いまでは思い出せない。「ぼくら」という一人称複数を構成する面々が5人だったか6人だったかについても同様に思い出せないでいるわけだが、主要人物のなかに日野くんがいたのは確実だ。剣道部で、大柄な体格と端正な顔立ちの無口なこの少年はクラスで「王者」とよばれていたのだが、実際になにかで秀でた成績を残したというわけではないらしかった。

 厳密には中学1年の夏、剣道初心者ながら恵まれた体格を活かした戦術により郡大会で優勝した経験があったらしいが、同世代の少年たちが順次成長期をむかえるなかでかれの戦績は語るにはとるに取らないものになっていったという。それでも「王者」と呼ばれたのは、「なんとなく王者っぽい風格があるから」という、十代の内輪ノリでよくある、ただそれだけの理由による命名だった。

 完全にぼくの独断と偏見ではあるけれど、そんな日野くんにとっての人生の大きな転機は、多感な時期にあったかれの自宅前に信長書店が突如出現したことだといえよう。21世紀初頭のわずか数年、台風のように現れて知らぬ間に消滅したこのアダルトチェーン店は「高校生」の立ち入りを固く禁じていたが、日野くんはその王者たる風格により入り口の厳重なチェックをパスすることができた。かれはみずからが先天的にもった性質と地の利により、インターネットがいまほど一般的とはいえなかった時代において他を寄せ付けない圧倒的な情報をもとに同級生たちを膝まづかせ、同時にぼくらの「健全」はかれの統治下にある国土の上で保護されていたのだ。

 ぼくらが望んだのは蒼井そらだった。1983年生まれでぼくらよりわずかに年上だった彼女がデビューしたのは2002年の夏。童顔に似合わないグラマラスな体躯によりたちまち人気を博し、2004年にはアダルトビデオ業界における大きな賞を受賞した。すでに多くの作品を発表していた彼女のDVDのなかから日野くんが選んだのはデビュー作だった。そのタイトルは「Happy Go Lucky!」。人生の門出に立つぼくらの船出を祝福を祈る、なかなか粋なチョイスだ。

「Happy Go Lucky!」はセンター試験1週間前から一晩ごとに宿主を変えながらぼくらの家を巡った。緊張と興奮がせめぎあうこの時期に絶大なインパクトを男子高校生たちの脳髄に与えたこのイベントで、ある者はかつてない全能感に満ち、またある者は歓喜のあまり涙した。ある者は晩秋の失恋を顧みて、またある者は志望する医学への想いを強くした。すべてはうまくいっている。ぼくらはそう信じて、疑いすらしなかった。

 ぼくのもとへ「Happy Go Lucky!」がやってきたのはセンター試験前日だった。そとには淡路島ではめずらしい雪がわずかに降っていた。雪は街灯や家々の光に阻まれることのない純潔の月明かりをうけてちらちらと輝き、緩慢に揺れていた。23時、ぼくは翌日の準備をすべて済ませ、JPOPのCDケースに収められた「Happy Go Lucky!」を片手にリビングへと赴いた。

 当時、我が家でDVDを視聴する手段はプレステ2しかなかった。北朝鮮が軍事開発のためにプレステ2を買い込んでいるなどという噂がのぼるほどの性能を誇ったこのハードは、とにかく起動音がうるさい。スイッチを入れ、ディスクを食わすと、シューーーウンンンンーーーーー(ガガッ)ウィーーーーンンーーーンン……ッピ的な音が鳴る。これがなかなか気になる音で、ロード時間が長いなども考慮すると、緊急避難や長丁場の工作活動には不向きだ。幸い、我が家の大人たちは基本的にみな就寝時間が早かった。祖母は20時に、両親は22時に布団に潜り込む傾向にあったが、ひとりだけこの時間を読めない人間がいた。当時大学2年生の姉だった。

 じぶんの関心の有無により他人のいうことを聞いたり聞かなかったりするいわゆる「問題児」のようなぼくとは正反対に、姉は幼いころから「優等生」として育った。幼稚園から高校まではぼくと同じ淡路島島内の公立に通い、卒業後は小学校の教員を目指して教育系に強いと評判の女子大に進学した。高校時代の彼女の成績は良かったらしく、ぼくはよく姉と比較された。高校3年生になって、じぶんの模試の成績と姉の当時の成績を見比べてみたことがあったけれど、実際には偏差値でいえば15くらいぼくの方が上だったわけだが、家族内、というか母のなかでは依然として「姉の方が優秀」という見方をされていた。家で机に向かっている時間は姉のほうがはるかに長いじゃないか、と母はよくいった。もちろんぼくは天才でもなんでもないので、そんなことはありえなかったわけだけれど、ある種の人間はどうやら結果や実態ではなく、じぶんの目で見た理解可能な事象とそれ以前に抱えている印象により物事の決定をくだすものだと学んだ。後になって母は「高校時代のあんたはよく勉強していた」とときどきいうようになったが、それには「でもいまはふらふら遊んでいるじゃないか」という批判をことばにこそしなかったが匂わせていた。ぼくにとって高校時代の受験勉強などその後のあれこれに比べれば大した勉強量ではないのだが、母は苦痛をともなう努力こそ「ほんとうの努力」とみなす。母とそんなやりとりをするたびに、

「何時間しただの、苦痛に耐えることを努力だのいっているうちは大したものじゃないんだよ」

 といってみるのだが、母はひとこと「ああ、そう」と不満そうにつぶやいて話題を変える。どこそこの息子さんが嫁をつれて淡路に帰ってきたとか、どこそこの奥さんとコストコにいってきたとか、そういう話を延々とする。

 優等生だった姉はセンター試験に失敗した。受験生だった当時、彼女は国公立大学の教育大学を志望していて、成績もじゅうぶんに合格圏内だった。センター試験でよっぽどのミスをしない限り落ちることはないだろう、と担任にもいわれていたらしいが、他人が想像できてしまうことというのは容易に現実になってしまうのが世の常で、その「よっぽど」は日々身の回りで起こり続けている。すべての出来事はただそれだけのことにすぎない。当時高校1年生だったぼくは、部活から帰ってきたその日、石油ストーブのまえで体を暖めながら号泣している姉を見た。もう終わりだ、第1志望以外は行きたくない、今後の試験を受けるつもりはない、など感情的にわめき散らす声は夕食を食べている最中ずっと耳に入ってきた。震災のために家を建てたばかりだった実家には経済的な余裕などなく、弟もいるのだから浪人などとてもさせられないと母はいった。みずからのセンター試験直前になって、ぼくの脳裏にその当時の姉の姿がよぎったのだった。

 大学2年生の姉が通う女子大では教員採用試験の対策が充実し、また同様に教員を志す先輩や同期が多数いたため、そのためのハウツーについての情報はなにもしなくても耳に届く環境だったという。ボランティアの経験はしとくべきだ、との助言をうけ、姉は神戸市のボランティア団体に籍をおき、週2日か3日はその活動に時間をあてていた。その他の時間は淡路島のサービスエリアにある飲食店のバイトに費やしていて、家に帰り着くと風呂も入らずにリビングで気絶したように眠りこける。その生活スタイルについてぼくは立ち入るつもりはなかった。ただセンター試験前日、蒼井そらの「Happy Go Lucky!」のDVDを片手に持ったぼくにとって、それは非常に迷惑でしかない。プレステ2は姉が眠りこけるリビングにしかないのだから!

 姉の目が半分開いたタイミングでぼくは「風邪ひくで」と声をかけた。まどろみの浅くなったポイントで声をかけるのがコツだ。意識をとりもどした姉は決まって時計をみる。すると特になにもいわなくても姉はパジャマをとりに自室へいき、そして浴室へと降りていく。姉が風呂からあがるまでのおよそ30分がぼくのすべてだった。この間にDVDに収録されているチャプターをあらかた把握し、絶頂に達するべきポイントを正確に把握し、すみやかに射精しなければならない。

 ミスは決して許されなかった。姉をリビングに送り出し、脱衣所の扉がしまる音が広さだけが取り柄の我が家に反響するのを確認して、ぼくはプレステ2の電源へと手を伸ばそうとした。しかし、そこに襖がひらく音がしてぼくは手を止め、とっさにDVDをほかのソフトが収められた箱のなかに放り込む。まもなく母がリビングにやってきて、「あんた、あしたセンターやろ。はよ寝なさい!」と叱責した。寝れんねん、と返答したが、母はリビングの電灯を消すと「さっさと部屋に戻れ!」とさらに声を荒げた。

 こうして自室への退散を余儀なくされ、母はぼくの部屋の扉がしまるのを確認すると、トイレに行き、豪快な放尿音を響かせた。水が流れ、足音が遠のき、廊下の電灯がパチンと消されると襖がパタンとしまる。暗闇に包まれた自室のなかでぼくの聴覚と肌の触覚は最大限に研ぎ澄まされた。もう扉から外へ出るわけにはいかない。我が家ぜんたいに漂う微弱な空気の張り付きと、一歩踏み出すたびに生じる床の軋みが、ぼくの人生を大きく左右することを悟った。そうこうしているうちに、姉は風呂を終え、ふたたびリビングのドアを開けた。

 ぼくはプランを変更を余儀なくされた。リビングの両隣はぼくと姉それぞれの自室がある。リビングにいる姉の気配は自室からでも感知することができる。姉はテレビをつけ、バラエティ番組を観ている。おそらくは向こう1時間は動けまい。しかし姉がリビングから退散したとしても、自室のドアを開け廊下を通りリビングのドアを開けるのは物音を立てる動作を多く含みすぎている。先ほどとっさにベランダの鍵を開けたのはそのためだ。ぼくの自室、リビング、姉の自室の南向きの3部屋はベランダでつながっている。つまり、ベランダを使って秘密裏に移動することにより、ふたつのドアを開閉するリスクは回避できる。暗闇のなかでぼくは待った。そのとき過去をおもった。恋とは無縁の学生生活を送ってきたぼくは、これまで数々の同級生、先輩、後輩、元モーニング娘。の市井紗耶香に至るまで数々の親族以外の女性を性的対象として消費し、同一人物をオカズにするのは週に1度までという鉄の掟を守ってきた。しかしそれはぼくにとって枷でもなんでもなかった。「あの子とはちょっと前にやったばっかやしな…」という擬似的なプレイボーイ体験がむしろ自尊心を強くしてくれた。リビングのテレビが静まったのは午前1時過ぎだった。ベランダからリビングに忍び入り、暗闇のなかでテレビをつけ、プレステ2を起動する。シューーーウンンンンーーーーー(ガガッ)ウィーーーーンンーーーンン……ッピ的な音とともに桃源郷の案内図が表示される。画面のなかで男優は19歳の少女に対して技巧の限りを尽くし、やがて果てた。


***


 けっきょくぼくはセンター試験をわりと派手に失敗した。ぼくだけではない。日野くんをはじめとする蒼井そらのDVDを手にした全員の5教科7科目の合計点数が、模試よりも100点以上低かった。ぼくらは泣いた。子どもそのものとして泣きじゃくった。

 もう13年以上前のあの日のことを、ぼくは「青天の霹靂」と呼んでいる。

 (了)

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