冬の魔人サムイ=サムイ

 冬の魔人サムイ=サムイは人間よりも体温が一〇℃低い人間だった。つまり、「魔人」というのは他人が勝手にそう呼んだだけのものに過ぎず、ふつうのお母さんの産道をひんやりさせながらつるりとこの世にやってきた。安産だった。その力強い産声とは裏腹に、生まれながらに死者に近い冷たさのその肉体を医者たちは恐れ、生まれてからの半年を設備の整った迷宮のように大きな病院のなかで過ごすことになった。つらいことにおもわれたが、さいわいにして母親とおなじ部屋に暮らせたから大丈夫だった。父親はうつくしい姿かたちのお仕事さんと恋に落ちてどこかに消えた。サムイ=サムイは夏の、クーラーが壊れたある日、かれの体温をはるかにこえたうだるような暑さのなかで、せっかく分裂した細胞が溶けてまた合体してしまうかもしれない眠りとはまったくちがう意識の失いかたを数時間ごとに繰り返し、母親がかれの名を呼ぶ声を頼りに黄泉の道をさまよった。かれは歩くはおろか、寝返りをかろうじてうてる程度だったからかれ自身は黄泉の道をじぶんの意志で動くことはできなかったが、風景のほうが動いてくれた。風景はやさしかった。通りがかった生き死にをさまよい歩く子どもやおとなもかれのことを心配してくれて、特にじぶんの死がくつがえらないひとびとは火葬で火照った肉体をかれを抱きかかえ、未練で煮えたぎるその心とともに沈めたのだった。そうして死者たちのやさしさによってもう一度この世にサムイ=サムイはやってきた。そのことはもうかれにも思い出せない。かれの冷たい身体で無事に冥土の門をくぐることができた者たちは、黄泉の道のあちこちにサムイ=サムイへの感謝のことばや歌を残した。それは生き死にをさまようものたちにとっての貴重な道しるべとなり、生き死にの正しいほうへと魂を導いた。早すぎる死や、生者を幽霊が減った。この世とあの世の治安は格段に良くなり、閻魔大王さんはもう何千年も消化しきれていなかった有給休暇をとれるようになった。地球以外の別の銀河にも旅行できるようになり、訪れた地でたくさんの知見を仕入れ、より思慮深い判断ができるようになった。その聡明たる閻魔大王さんの姿に憧れた鬼たちは、みずからの攻撃的象徴であるツノをやすりでごりごりと削って丸くした。鬼たちはおしゃれになって、恋愛をたのしむようになった。たくさんの子どもが生まれた。

 それからのサムイ=サムイはいたって健康だった。鬼のような強靭な肉体と、鬼のようなやさしい心をそなえ、小学校にあがったサムイ=サムイは夏のたびに人気者になった。遊びつかれた子どもたちの熱中症寸前の身体を冷たい手で冷やしてあげた。しかし冬になるとかれのまわりにはひとが集まらない。触れていなくてもなんとなくひんやりするかれのまわりにいると風邪をひきやすく、子どもたちは石油ストーブのまわりを囲んで暖をとった。かれはそれがかなしかった。冬はかれを孤独にした。かれは冬が心の底から嫌いだった。授業中も休み時間、なんとなく家に帰りたくない放課後に、窓際の一番後ろに固定されたじぶんの席から空を見上げてこんなことをおもった。じぶんは身体がどんどん大きくなるのにどうして太陽は大きくならないのか。ほんとうは太陽も少しずつ大きくなっているのだけど、かれはそれをしらなかった。太陽の時間はかれの時間とちがう進みかたをしていた。太陽がもっと大きくなって、もっと強い光で地球を照らしてくれたなら、冬なんてなくなるのに。地球は年々確実にあったかくなっていた。かれが中学生になるころには北極の氷はすべて溶けた。南極もけっこう溶けた。だけどかれの街には毎年欠かさず冬はおとずれ、石油ストーブはひとを集めた。雪も降り、積もった。夏になればまたひとが寄ってくるとはいえ、サムイ=サムイにとっての冬は途方もなく長かった。それゆえにかれにとって、幼少期の記憶はほとんど孤独だけが残り、また他者との身体的特徴の差異を「魔人」ということばで表現されたこともまた、かれの孤独をいっそう強めるものとなった。

 そうした日々のなか、かれがふと目をとめたのは学校の片隅でつつましく暮らす幽霊たちだった。赤ちゃんのときに黄泉をさまよっていたせいか、サムイ=サムイは物心がつくそれ以前から幽霊が見えた。しかし巷でよくいわれるように足がないとか半透明とか鏡に映らないとか、幽霊たちはそういう特徴を有しておらず、また血まみれであったり、すくなくともこの世では聞く機会がないだろうおどろおどろしい奇声を発することもなく、幽霊たちはその存在に死をかんじさせるものを一切まとっていなかった。廊下で先生とぶつかって、先生が抱えていたプリントが散らばってしまったら幽霊たちは聞こえない声でちゃんと謝っていたし、幽霊たちは幽霊たちで仲良く遊ぶし、サムイ=サムイよりもはやくに思春期を迎えたりもしたが、これは単純にサムイ=サムイ自身の思春期がおそかっただけに過ぎない。幽霊たちは生きてる、とおもったけれどそれはちがうかもしれない。サムイ=サムイたち「生きているひとびと」にしたって、よくよく考えるとみんなのふるまいに生をかんじさせるものなどなにもなかった。ただ単にサムイ=サムイたちと幽霊たちは見えているものがちがうだけであるようにおもえた。サムイ=サムイが中学二年生のころ、トイレの花子さんと仲良くなった。でも花子さんは花子さんじゃなく「あかね」という名前で、学校のない日は流行りのおしゃれをしていた。サムイ=サムイが、学校のみんなが花子さんって呼んでるよ、というと、なにその古臭い名前、と彼女は笑った。昭和じゃないんだから!

 彼女には彼女の家族がいて、健康な両親と弟の四人家族だった。お父さんは外資系の覚えるのがむずかしいカタカナの長い名前のコンサルティング会社に勤めていて、お母さんとは社内恋愛で、いまは専業主婦をしているらしかった。あかねは生まれたときから幽霊で、さいきんも親戚の幽霊が幽霊の赤ちゃんを生んだらしく、その写真をこっそり見せてくれた。かわいかった。幽霊には生きているひとがちゃんと見えていて、たまになにかの弾みで物理的な接触が起こってしまうことがあるけれど、基本的にはそういうことはしたくないらしい。いまでこそ元は生きていた幽霊はずいぶんとすくなくなったけれど、かつてはそういうひとがいまよりももっと多く、かれらは生きていたときに幽霊をおそれていたから、できるだけ他のひとを驚かさないようにしたかった。あかねたちもそのように大人たちから教わっているのはその名残で、なんでなのかを深く考えたことはなかったという。単純にかれらがじぶんたちのことを見えていないことは知っていたし、そう考えると、たとえばあかねが視界の外から突然腕を掴まれたり声をかけられたりするのは嫌だった。それでも幽霊の子どもたちもちょっとしたいたずらはしたいのであって、夜、生きているひとたちがぐっすり眠っている時間になると、ちょっとくらいはかれらに触りたくなる。五人くらいの友だちでじゃんけんをして、負けたひとが眠っているひとのおでこに手を当てたり、手を握ったり、足をすりすり撫でたりする遊びはだれもが一度は経験する。生者はあたたかい。それがやみつきになった子どもはいずれ大人にばれてこっぴどく怒られる。幽霊に触られた感触をおぼえているひとは生暖かさを皮膚に残していた。赤ちゃんの写真をサムイ=サムイに返してもらうときに手が触れ、あかねはかれの体温が彼女らにちかいことに気づいた。それがうれしくてサムイ=サムイに話すと、かれはならばどうしてぼくは「冷たい」といわれるのだろうとおもった。おなじ種族のあいだに生じている差異が単にことばとして現れただけに過ぎないことぐらい、ちょっと考えればかれにはわかったが、それはなんだか生きているひとたちにとって、サムイ=サムイは幽霊よりもとおい存在だとみなされている証拠なのかもしれない。かれのなかに浮上する疑問と思考はすべて「かもしれない」に着地せざるを得なかった。だれも答えをしらなかった。あかねはある日突然消えた。最後にあった季節すらサムイ=サムイがおぼえていないほど突然のことで、気がつけばすこしずつ街から幽霊が消えていて、高校にあがるころにはひとりの幽霊も見当たらなくなっていた。母親の仕事の都合でサムイ=サムイは海の向こうの国に引っ越した。引っ越し先にも幽霊はいなかった。あかねへの誕生日プレゼントとして手袋を買っていたのだけど、渡す機会を永遠に失ってしまったと悟ったかれは、女物の手袋をじぶんでつけた。手がこれ以上大きくなることはなかった。

 海のむこうのあたらしい街で、サムイ=サムイが生まれてまもないころに消えた父親がかれと母のもとに帰ってきた。帰ってきた、といういいかたは母がしたもので、そのよく知らないおじさんの登場は、サムイ=サムイにとって出現ということばのほうが正しくおもわれた。父親と名乗るそのおじさんにはうつくしい仕事が寄り添っていて、うつくしい仕事はサムイ=サムイや母の生活を脅かすことなく、ただただ静かに、冬になるたびに細くなめらかな素足をサンダルにすべりこませてベランダで夜空を眺めていた。冬の星空はかつて住んでいた街とはちがう模様をしていた。緯度のちがいが見える星を変えているのだとサムイ=サムイはおもっていたが、そうじゃないことをテレビのニュースが教えてくれた。冬の夜空の方角には大きな龍が住んでいて、宇宙を渡りながら星を食べている。何億光年もとおくの星々の消失はあたらしい街からよく見えた。しかし、それはこの星に降り注ぐ星々たちの絶命のまたたきが教えてくれるように、もう何億年もまえの物語でしかない。そうしたものをいまさら見て騒ぐことに、いったいなんの意味があるのだろうか。父や、父のうつくしい仕事はそのことをまったく教えてくれなかった。語ろうともせず、ただはるかな宇宙のかなたを眺めるばかりで、ときどき白い深いため息を吐きながら、ずっと空を見上げるばかりだった。白い息は幽霊のように消えた。

(了)

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