シンデレラタイム

 丸い窓が端のほうから徐々に濡れ、ピンク色の縦線が中央にあざやかに浮き上がる。

 涼子は下唇を噛んだ。後ろ手で閉めたトイレのドアはもう二度と開かないような音をたて、まもなく訪れたのはすべての分子が一切の運動をやめてしまったかのような静寂。涼子は下腹部に手をあてる。いまだ彼未満彼女未満の芽生えたこの命が、時計よりも、地球の自転よりも、惑星の公転運動よりも正しく時を刻んでいるという実感は、上の娘のマリを孕んだときのよろこびに対極な戦慄をまとっている。波打つ時間軸に立つ涼子には後ろというものがなく、いまという時間がつぎつぎと過去へと飲み込まれていく。ふりかえることなどできない。弾かれたように開いた玄関のドアから、下の娘のユリが飛び込んでくる。ランドセルを廊下に投げ捨て、涼子の前を突風のごとく通り過ぎた。

 その晩、娘たちを早々に寝かしつけ夫の進介への告白を試みる。

「あのね、」

 そのとき夫は、年末の忘年会に向けて新ネタの練習に勤しんでいた。とはいえまだ金木犀も香る季節。年を忘れるにはまだまだ早すぎる時期ではあるものの、基本的には無趣味の夫にとって会社の忘年会のネタ披露はここ一〇年に渡って一年を締めくくる一大イベントとなっている。そして勢いあまって、年末に予選があるとのことでここ三年はR-1ぐらんぷりにも出場している。結果は三年連続一回戦敗退。元来、おもうようにいかないほど燃える性格のせいか、諦めるどころか一回戦突破へのこだわりは年々強くなっている。おもえば付き合いはじめた大学生の頃もそんな感じだったっけ、と涼子は何度か回想したことがある。進介の涼子へのアプローチは知り合ってから一年で二十三回にのぼり、結局根負けしたかたちで涼子はかれを受け入れた。あのときから十八年、夫になった進介は現在半裸でリビングを縦横無尽に走り回っている。去年のネタは「シャラポワ・ジャンケン」。敗因は乳首が立っていなかったからだとかれは分析していて、今回はシュールではなくダイナミックをキャッチコピーとし、苦悶の表情を浮かべながらネタ作りに産気づいている。

「できたみたいなの」

 涼子の声に進介の動きはぴたりととまり、そしてゆっくりとソファに腰をおろす。

「まさか」

「そのまさかよ」

「ほんとに」

「うん」

「あの日?」

「あの日」

 そこで夫は半裸のまま天井に視線を投げ、半裸のまま長く息を吐き、それからゆっくりと半裸のまま腕を組んだ。その日、酔っぱらって帰ってきたかれは寝室になだれ込むなり涼子を求めた。こういう日はめったにないとはいえ、めずらしいこともなく、涼子としても夫の扱いに慣れているし、夫の求愛に応えてあげる程度に夫婦仲は表面的には良好。進介の性感帯である右乳首を中心に組み立てた簡単な前戯のあと、正常位――座位――騎乗位――側位――正常位と形態を変えながら絶頂にいたる。それははじめて肉体的な接触を持ってから十八年間変わらないルーティンで、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン」ととることも、「形骸化した愛のかたち」であるとも解釈の余地はさまざまにあるけれども、その先で生まれる子どもたちは「愛の結晶」と形容されることが道徳的な正しさとなっていることをふたりは理解している。しかし、涼子も進介もその表情は暗い。重々しい空気のなか、性感帯を露出した夫が口を開く。

「とりま、市販キットの結果だろ?」

「うん。だから明日、大野先生のところにいってくる」

「わかった」夫は両膝を手でたたき、勢いよく立ち上がる。「話はそれからだ」


 夫が去ったリビングで涼子はひとりソファに身体をしずめていた。すこしでも油断すると、こんなはずじゃなかった、という感情が心の隙間から顔を出してくる。涼子はお腹に手をあて、わたしはこの子を生みたいのだろうか、と問いかける。

 しかし、新たな命は「望まれていなかった」という点において、マリやユリとは大きく違っていた。基礎体温を測り、排卵日を予測して狙いをさだめ、平日のセックスのストレスで夫の体重が落ちようとも、やはり妊娠の知らせはこれまでよろこびでもってむかえいれられたのだったが、この子はそうではない。ふと、いつか読んだ小説にあった文章をおもいだす。


 頼みもしないのに生まれてきて、どれほど頼んだところで二度と出られない。東セントルイスから出る道はほんの少ししかないし、そのどの道も、もっとひどくて住みたくない場所につながっているのです。


 もっとひどくて住みたくない場所、ということばを涼子はかみしめる。

 夫とは先月も子どもの中学受験について言い争ったばかりだった。涼子は娘たちにじぶんとおなじように私立中学へいかせてやりたいけれど、進介はといえば地方出身のためか首都圏の進学事情には疎く、中学受験の必要性をそもそも感じていない。つまりは涼子も進介もじぶんが歩んできた人生の正しさをある程度確信しているところがあり、だからこそ子どもにはじぶんのように育って欲しいと願っているにすぎない。はたからみればこのような見解になるだろうと涼子も重々承知してはいるものの、だからこそこの戦いでは一歩もひくことはできない。性別も環境も進介の幼少期よりも涼子の幼少期の方が参考としては妥当であり、そして進介は中学受験に対して肯定する理由はなかったけれども特に反対する理由も持っておらず、けっきょくは金の問題へと議論は収束した。マリは来年四年生で、受験の準備をしはじめても遅くない時期だ。そして下の娘のユリもだんだん手がかからなくなっていることを考えれば仕事ができなくもない。

 視界の隅にはうずだかくつまれたバイト情報誌。涼子には経験やスキルと呼べるものがなかった。大学卒業後、就職氷河期と呼ばれた当時、彼女は正社員として働くことをあきらめ、地元のドコモショップの代理店でアルバイトとして働いた。そして結婚を機に退職し、以降十二年間専業主婦である。

 しかし、この十二年間でまったく働いたことがないというわけではない。飲料メーカーに勤める夫が商品開発部に異動になった直後、新商品のモニターを依頼されたことがある。一日だけの短期だが、拘束時間は三時間程度で、新商品の試飲とかんたんなアンケートに答えるだけで、日給八〇〇〇円。三ヶ月をひと区切りと考えるかれの会社では、そのひと区切りをクォーターとよぶらしいのだが、曰く、一クォーターに二、三回ぐらいの頻度で実施しているとのこと。そういうことならと協力することにしたのだが、涼子は後にこのことを後悔することになる。試飲することになったのはそのメーカーの看板商品である炭酸飲料シリーズの「ゴビ砂漠味」だった。忘年会やクリスマスなどといったイベントで使えるちょっとしたパーティーグッズというコンセプトで期間限定発売されるとのこと。その時点でけっしておいしくはないことを悟った涼子ではあるが、仕事なので飲まないわけにはいかない。目の前に置かれた紙コップにはネパール人の作ったカレーの色をした液体がその表面に年輪のようにいくつも層をなす円形の干渉縞をうかべていた。紙コップを握ったところで涼子の記憶はとぎれている。気がつけば総武線にいて、家の最寄駅から二駅乗り過ごしていた。なお、関係あるのかないのかは不明ではあるが、進介がR-1ぐらんぷりにエントリーした名前は毎年「ゴビ松村」である。

 受験させるとしたら、せめてマリの塾代くらいはわたしが稼ぎたい。そうおもって涼子はここ一ヶ月、求人情報を意識的に集めるようにしてきた。特に経験がなくてもできそうな仕事の時給はだいたい一〇〇〇円前後といったところで、週に四、五日働いたとしても手元に残るのははたしていくらか?それに飲食店は夕方以降のシフトがほとんどで、事務職はオフィス街に職場があって家から遠い。短期の仕事はモニターの件がトラウマになっているというのはあるけれど、それ以前にどうせ働くなら長く働けるところがいい。収入が見込めて長く働ける、となると「手に職」ということばが脳裏をよぎる。涼子ははっとした。私立中学へ進学し、そのまま女子大までエスカレーター式にあがっていったところで社会を生き抜く力がわたしにはまるでない。卒業論文にまとめた「ユダヤ人作家としてのフィリップ・ロスのアイデンティティ」では、パンのひとつも焼くことはできない。

「きみは根っからのお嬢さまなんだよ」

 そういったのは進介だった。はじめてことばを交わした合コンで。そして、涼子が子どもを私立中学へ入れると宣言したこのリビングで。初対面の男に「お嬢さま」と皮肉交じりのレッテルを貼られた彼女は、あのときその男にこういいかえした。

「だからあなたは女にモテないのよ」


「おめでたですね」

 超音波検査の白黒画像の中央にはたしかにわが子がいるらしいのだが、涼子は何回見てもよくわからない。マリのときもユリのときもそうだった。鼈甲の眼鏡の奥で、大野先生の目はやさしくほほえんでいる。大野先生はやさしい。マリやユリのときもこのようにひととしての原理的なやさしさでもって接してくれて、涼子のよろこびを何倍にも増幅してくれた。しかし今はどうだ?生を祝福するそのやさしさは、ひととしての正しさゆえに悪意に満ちている。それは大野先生の悪意だろうか?ちがう、と涼子は直感する。絶対的なやさしさは、あらゆる感情を何倍にも増幅させてしまう。たとえそれが良いものであっても、悪いものであっても。

「そうですか」

 下された診断にこたえた涼子の声はしゃがれていた。

「決心がつきませんか」

 大野先生は眉尻をさげた。

「はい、」涼子は一瞬口ごもり、かわいた口を唾液で濡らす。「主人と相談して、またまいります」

 待合室に出て黒革のソファな身をあずけ、涼子は進介に診察の結果をLINEでつたえた。ここ大野産婦人科は、涼子の母親が情報をかき集めてすすめてくれた病院だった。母はインターネットにうとい人間だったけれども、大野産婦人科のような小規模でアットホームないわゆる「町医者」にあたる病院は、口コミでこそ知ることができるから、奥様のネットワークというものもなかなかばかにならない。すくなくとも、産むにしても堕ろすにしてもここでしかありえないと涼子は考えている。

ガラス窓の向こうに目をやる。中庭には松の木が植わっていて、奥にはかつてのじぶんの病室があり、そこでいま、赤ちゃんが泣いている。涼子の手には予定日より二週間はやく生まれてきたマリをはじめて抱いたときの三〇〇二グラムのおもさが、乳首には帝王切開で生まれてきたユリがはじめておっぱいに吸いついたときの感触が、涼子の身体を引きちぎるように蘇る。お腹に手をあてる。わたしはこの子を抱けるのか。わたしはこの子を抱きたいのか。首をふる。名前を呼ばれ、会計をしに受付までいくと、師長さんがいた。お世話になっていたときからまったく変わらない、上品でやわらかい笑顔だった。

「産んじゃいなさいよ」

 このひとことのために、彼女は診察室から出てきてくれたのだろう。涼子は目頭が熱くなり、

「ですよね」

 と力強くこたえた。わたしはこの子を抱きしめたい。おっぱいだって飲ませてやりたい。マリとユリのように、祝福されたわが子として。そういいきかせるように。外に出て、スマホを見ると、夫に送ったLINEには既読がついていた。

 車に乗り、シートベルトを締め、エンジンキーを回したところでふと母の顔が頭に浮かんだ。ここから実家に寄ってもたいした遠回りにはならない。涼子はいまでこそ娘たちの送り迎えなどの必要から運転するようにはなったものの、もともと大学二年生で免許を取得してから一度も車に乗ることなくゴールド免許になるほどのペーパードライバーだった。そのため、検診のたびに母に乗せてもらっていた。ハンドルを握り、そんなことをおもいだしていると、車は自然と実家のほうに向かっていた。

 玄関脇で金木犀があまくにおっている。実家には月に一回くらいなにかと立ち寄ってはいるが、それでも敷居をまたぐたびに新鮮ななつかしさを涼子はかんじる。六十六歳になる父は定年退職後に再就職しいまなお働いているため、平日はいない。出迎えてくれた母は、ちょうどお昼にしようとおもっていたのよ、と急に来たにも関わらず、涼子のぶんの食事も作ってくれた。「親しき仲にも礼儀あり」とは母の教え。しかし同時に「娘はいくつになっても娘」でもあるのだと、縁側のある六畳間で底抜けに明るい声で笑う。

 涼子は先ほどの診断結果を母に伝える。妊娠五週目。先月にマリの受験について相談したばかりなのにね、と笑って付け加えてみたものの、そんなものでごまかせるわけもなく、母親は苦笑した。

「この子がお金でも持って生まれてきてくれたらいいのに」

 という涼子のことばを母は反芻する。

「赤ちゃんはね、じぶんのロクを持って生まれてくるのよ」

「ロク?」

「禄高のロクよ」母はテーブルのうえに指でその漢字を書いて見せるが、画数が多くて涼子はいまいちピンとこない。「時代劇で出てくるでしょ。食いぶち、じぶんが生きていくためのお金ってところかしら。あたしのおばあちゃん、明治生まれのしゃんとしたひとだったけど、そんなことをいってたわ」

「そりゃあ、いまとむかしはちがうじゃない。当時は子どもにお金のかかんない時代だっただろうし」

「まぁ、そうね」母は苦笑する。「でもかわいい孫なんですもの。あたしたちもできるかぎりのことはしてんやんなきゃねぇ」

 帰るとき、母は玄関まで見送りにでてきてくれた。

「進介さんとよく話をするのよ」

 そういった母の顔には皺が増えていた。


 その夜、残業で遅くなった夫が帰ってきたのは娘たちが寝静まったあとだった。既読がついたままLINEの返事はもらってなくて、顔を突き合わせた食卓は重い空気に包まれていた。会話らしい会話もないまま、夫は食事を終えると風呂へいき、半裸で出てきたところに、

「せっかくだから、産んでしまおっか」

 と涼子は口を開く。目を丸くした夫は右乳首を二度掻いてから、

「それ、本気でいってるの?」

 といった。

「もちろん」

「そんな、時計でも買うような口ぶりでいわれても……」

「つぎは男の子かもしれないし」

「俺はもう満足してるんだ」

「お義父さんだってよろこぶんじゃない?」

「うちは長男家系じゃないから」

 そこでしばし沈黙がおとずれ、夫の表情はみるみる硬くなり、すると涼子に向かって頭を下げた。

「すまん」半裸の夫はいう。「悪いのは俺だ。だが頼む。堕ろしてくれないか」

 予想していた反応。涼子は依然頭を下げたままの夫の薄くなった頭頂部をにらむ。

「なんでそんなことがいえちゃうの?」せっかく夫婦のあいだに生まれた子だというのに、ということばを飲み込んだ。

「そっちこそ冷静になってくれ」夫は顔をあげる。「いったいいくらかかるとおもってるんだ。しかもマリを私立に入れたいんだろ。ユリも、そしてその子もか?」

 涼子は言葉に詰まった。夫はさらに続ける。

「俺の歳も考えてくれ。その子が生まれて、大学を出るころには六十四だ。そこに浪人だとか留年とか、大学院に行きたいとか、そういうことになったらどうする。いまの稼ぎで、子ども三人をまともに育てられるとおもうか?」夫の正論に、涼子は目に涙をためた。そして彼女にとどめをさすように、「老後破産だぞ」ということばを投げつける。

「それでも」涙といっしょに、涼子の口からぽつりとこぼれる。「わたしたちの子どもなのよ」

 それっきり涼子は黙ってしまって、夫も夫で困り果ててしまった。そして時計の針が午前〇時をさしたころ、

「すこし時間をおこう」

 と夫はいって、そのままひとり寝室へ歩いていった。


 あくる日は朝から分厚い雲が空を覆い、重くじれったい雨が窓の外で降っていた。掃除も洗濯もする気になれず、涼子はずっしりとソファに横たわり、クッションを抱きしめていた。そこに電話が鳴る。スマホのディスプレイに表示されたのは美香の名前。付属中学から大学までずっといっしょだった親友。

「同期会いく?」

 美香にいわれておもいだした。二、三日前に幹事からメールがきていて、勤労感謝の日に高校の卒業二十年の会があるという。

「ごめん、いまそれどころじゃなくって」

「え? どうしたの?」

「できちゃったの」

 一瞬、間ができる。

「三人目?」

「『このやらかした感がすごい!2016』ってとこよね」

 電話の向こうで美香が笑ってくれていることに、涼子の心はすこし軽くなる。

「もちろん、進介さんの子だよね?」

「あたりまえじゃん」

「『この夫婦がすごい!2016』とれるよー。うちなんかじゃ、まず浮気騒動に発展しちゃいそう」

 しかし積極的にネタに乗っかってこられると、なんだか微妙な心地になる。このなんとない嫌悪感を涼子はじぶんでもうまく受け入れられない。

「でもね、堕ろしてくれっていわれちゃって、ね」

「どうだろ」一転して、美香の声色は真剣になる。「うちだって、腕白小僧ふたりでもう手いっぱい。三人目なんて無理よ」

「そうかな……」涼子はがっくりと肩を落とし、そしてか細い声で「やっぱり、そうなのかな」とつぶやいた。

「ごめん。うちと涼子の家だと状況はぜんぜん変わってくることはわかってる」

「うん」

「涼子に魔法をかけてあげる」

消え入りそうな声でかろうじて相槌を打つ涼子に美香はいった。

「魔法?」

「うん。でもね、それが涼子にとって必ずしもいいものとは限らない。それでもよかったら」

「おねがい」

「そう」電話の向こうで、美香が大きく息を吸った。「あなたに宿ったその命のことを、あなた以外のすべての人間は命とみなしていない。お金とくらべることができてしまう『モノ』だとおもっている。いや、ほんとうはあなただってそうおもっている。すべての命は『モノ』でしかない。でもあなたはそういう風にとらえることができない。母親として、それがゆるされていない。ほんとうに感じたりおもったりしたことは、けっして口には出されない。口に出る前に、理性によって駆逐されてしまうから。人間であろうとするがゆえに、わたしたちはそうしてしまう。生まれてきた子どもたちがあんなにもかわいいのは、あの子たちがわたしたちのそういう心よりもはるかに強いからなのよ」

「美香って、魔女ね」

「涼子がやさしすぎるだけよ」美香の声は低い。「舞踏会用のドレスも、かぼちゃの馬車も、ガラスの靴も、それらのうつくしさゆえにシンデレラが人々を魅了するわけじゃない。魔法にかかっているあいだも、魔法が解けたあとも、そこにあるのは現実なのよ」


 夕方、いつのまにか雨はあがっていて、分厚く空を覆っていた雲もいまではちりぢりに浮び、青空がのぞいている。涼子は帰ってきた娘ふたりをテニススクールに送り届ける。

 レッスンのあいだ、スクールに隣接しているショッピングモールに駐車して、いつも敷地内をぶらぶら散歩する。先月からは無駄な出費をすこしでも減らすために麦茶を入れた水筒を持ち歩いている。

 いつも立ち寄るパン屋さんの前を通りかかったとき、お昼ごはんを食べていないことをおもいだす。一分ほどお店のまえで考え込んだあと、そこでミックスサンドを買って店先の庭のまだところどころ濡れているベンチをテッシュで拭こうとしたとき、涼子の手が止まる。

 トンボだ。目玉から長細いしっぽの先まで、鮮血のような色をしている。ベンチにとまったまま、飛び立とうとせず、みごとなまでに真っ赤な銅も、うすく透ける網目の翅も、小刻みに震えている。おそらく、翅を痛めたのだろう。

 なんとかしてやれないものか、とおもったと同時に涼子ははっとする。なぜ、わたしはそんなことを考えているのか。わたしはこのトンボになにもしてやることはできない。この身を切るような無力さ、切なさは、いったいなんだというのだろうか。わたしはそれを無意識的に求めてしまっているのだろうか。風前の灯となったこのちいさな命を、涼子は自身に宿った命と重ねていることを自覚した。この感情ははたして本能か、それとも理性か。涼子はベンチに腰を下ろすことなく、逃げるようにその場から立ち去った。そしてスクールへと戻り、ロビーのイスに座って、手つかずのミックスサンドを握りしめていた。つぶれたトマトの汁がわずかに包装の隙間からしたたった。

 レッスンが終わるとマリとユリが涼子のもとにかけよってくる。涼子は両手でふたりの汗ばんだ身体を抱きしめる。わたしは理性的に娘たちを愛しているというのか。ちがう。涼子はよりつよく娘たちを抱きしめる。そうすることによってじぶんの愛が絶対なものであると証明できるわけではないということはわかっている。しかし、そうせずにはいられない。愛はだれかのゆるしをえて正当化されるものだろうか。そもそも愛に正当化など必要なのだろうか。理性的であっても、本能的であってもかまわない。この感情はすべてわたしのものだ。わたしはこの子たち三人を愛している。

 夕食後、テニススクールの帰りによったTSUTAYAでかりてきたアニメDVDを娘たちは食い入るようにみていた。食器を洗いながらも涼子の頭のなかは「今晩夫とどう話すか」のシミュレーションをしていた。涼子の気持ちは感情的なものに由来しているとはいえ、感情的に話すことで夫の理解をえられるとはおもえない。きょうも残業で、遅くなるとLINEで連絡がきている。おそらく、帰宅は二十三時ごろになるだろう。しかし夫が疲れ切っていたら、きっとろくな話し合いにもならないということは目に見えている。

 とにかく頭のなかを整理しておこうと、涼子はリビングにある夫婦共用のデスクトップパソコンの電源を入れ、Wordをひらく。アニメに夢中の娘たちを横目に、胸の内をおもいついた順番に箇条書きで書いていく。


◯現実的かつ冷静にみたら、堕ろすしかない

◯だったら早めがいいだろう。

◯でも割り切れない。三人目というだけであまりにも不公平、かわいそうだ。


 ここまで書いて、涼子はふと、あのベンチのうえで震えていた赤トンボのことをおもいだす。


◯怪我して飛べない赤トンボ。だれも助けてやれない。


 気がついたらこう書いていたが、まるでじぶんのものではないかのように指はキーボードのうえを踊り続けている。


◯わたしはその赤トンボから逃げた。


 そこで指が止まった。涼子はすぐさま全文消去し、目の前は白紙にもどり、画面左上でカーソルが点滅している。

「また逃げた」

 はっきりとそんな声がきこえ、涼子は心臓を冷たい手できゅっと握りしめられたような心地にとらわれた。その声の主は長女のマリだった。追い詰めた悪者を、主人公がつかまえそこねたようだった。

 涼子はふたたびキーボードのうえに手を置き、


わたしはこの子を産む。


 と書いてみた。そしてその文章を保存してから新たにWordを立ち上げ、文章を書き連ねた。それから便箋に手書きで清書し、封筒に入れる。夫の帰りを待ってすぐに渡そうかとおもっていたが、案の定、かれは帰宅時にはすでに疲弊してしまっていて、口数少なくお風呂に直行する。そして性感帯をむき出しにして二足歩行でリビングにやってくると冷蔵庫から発泡酒をとりだした。涼子自身もたしかに気持ちが前にいきすぎている自覚があったので、やはりこれを渡すのは明日にしようと決めた。

 翌朝、スーツ姿の夫を玄関口で呼びとめ、封筒を渡す。夫は困惑した様子だったが、視線を涼子の目と封筒のあいだを二度往復させてから、

「ああ」

 といった。


あなたへ

 一緒に住んでいるのに妙なものかもしれないけれど、言い争いにはしたくないので、手紙にしました。

 あなたの意見ももっともだと思うのだけど、私はどっちに決めたら、あとでより大きく悔やむことになるかについて考えてみました。

 まずはもしも産んで後悔するとしたら、やはり経済的な負担が大きくなってしまうからでしょう。でもそういうのって、もっと働こうとか、贅沢をやめようとか、夫婦で力を合わせさえしたら好転させることのできる種類のことだし、あなたのことだもの、今は反対していても、生まれてきたらかわいがってくれるに決まっているからね、最終的には産んでよかったねって心から言い合えるんじゃないかと思うのです。

 だけどもしも今、私たち四人の安定した暮らしを確保するために、堕ろす決断をしたらね、少なくともメンタルの弱い私はやましさが胸に巣食って、消えそうもありません。暗い雲がいつまでも心のひだに影を落としそうとでもいうのかな、お金なんかよりもずっと根源的で目に見えないなにかが失われてしまいそうな気がするのです。

 あなたと結婚して十二年、娘たちも生まれて、幸せでした。これからもずっとあなたを信じ、支え合っていきたい。だからこそ、せっかく授かった小さな命を見捨てないでやって。それが私の切なる願いです。

涼子より


 お昼、おそらくは会社の休憩時間だろうか、夫からLINEで、

《わかった》

《今夜、ゆっくり話をしよう》

 とふたつ続けてきた。このみじかいことばだけでは夫の真意ははかりかねる。涼子はお腹に手を当てる。イエスなのか、ノーなのか、それはともかく面と向かって話し合わないことにはわからない。逃げてはいけない。いつもであればうさまるスタンプで返事をしてしまう文面ではあるが、さすがにそれは思いとどまり、

《お願いします》

 と返信し、ソファから立ち上がった。

 そのときだった。腹部に生理痛よりも二倍、三倍重く鈍い痛みがずしんと襲いかかってきて、涼子はおもわずその場でうずくまる。なんとか這ってトイレにいき、確認すると出血している。

 下腹部の鈍痛は五分おきに軽くなったり重くなったりをくりかえし、涼子は大野産婦人科へいくためにタクシーを呼び、それから実家の母に電話をする。

「ついて行こうか?」

 と母はいったが、娘たちがじきに帰ってくるので家にいて代わりに欲しいと涼子はいう。


「残念ですが」診察を終えた大野先生は静かにいった。「流産です」

 いまだ下腹部の鈍痛は五分おきに潮の満ち引きをくりかえしている。突然のことに涼子も混乱していたのだが、痛みに反比例して周期的に冷静さを取り戻す。大野先生が流産を告げるこのとき、痛みは軽くなっていて、どこか他人事のようにきこえていた。ここ数日の疲労がどっと押し寄せてきて、虚脱感さえある。

「ほっとした、といったところでしょうか」

 大野先生は茫然とする涼子にそう声をかけた。涼子はおどろいた。まさか、大野先生がそんなことを口にするとは、夢にもおもっていなかった。涼子は無表情でうなずく。

「あの、」涼子はうわごとのようにつぶやいた。「わたしはいったい、どう感じればいいのでしょうか?」

 大野先生は涼子の顔をじっと見つめ、それから鼈甲の眼鏡の奥で目尻をさげ、

「つづけてください」

 という。

「この子は、わたしたちのこと、わたしのことをすべて見透かしていたんじゃないかっておもうんです。わたしたちが望まなかったから、母親のわたしでさえも一〇〇パーセントの祝福ができなかったから、この子はじぶんで流れてしまったような気がするんです。流産となったいまの、この居心地の悪い心地よさは、そのなによりの証拠なんじゃないかって」

 じっとだまって涼子の声にうなずいていた大野先生が口を開く。

「いいんですよ。ほっとした、というあなたの感情はなにも間違っていないんです」

 涼子の目から、大粒の涙がこぼれた。そしてその涙が、目の前にあるタイル張りの魔女の魔法でぬりかためられた世界を一枚一枚はがしていく。

 魔法にかかっているあいだも、魔法が解けたあとも、そこにあるのは現実なのよ。

 数日前、電話を切るまえに美香がいったことばがよみがえる。魔法で彩られた現実の背後にあるのも現実で、その現実さえもまたなんらかの魔法でなんらかのベールを被っているにすぎない。背後に、暗闇がせまっている。流れてしまったわが子も、聞けなかった夫の本心も、その暗闇がつぎつぎと飲み込んでいく。

「命はね、正しさの外にあるんですから」

 涼子は目を閉じる。この世からあの世に向かって、出血はまだ続いている。

(了)

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