Week 12

安全を確認して、もう一度用紙を見直してみた。そこには、達筆な字で彼の名前が記されていた。僕は空欄になっている箇所を指でなぞりながら、その空間をどんな思いで空けたのかを感じ取っていた。


 用紙を持って教室へと向かう廊下で、山中と彼が僕の数歩先を歩いていて話し声が少し聞こえた。


「初瀬川くん、進路どうするのか決めた?」


「あー、具体的な感じにはなってないんだ。」


「そうなの?大体みんな決まってるから、ちょっと心配だね。なんかあったら相談してね。」


「あ、うん。ありがと。」


そっけなく何か考え事をしながら返事をしている彼。その顔を覗き込む様子が僕には見えていたが、彼はその様子に気づいていないようだった。進学が控えている中で、心も揺れ動くこの時期はとても繊細で難しい時期だ。優先順位がつけられずに、将来のために時間を使えない生徒も出てくる。僕の勘違いであればいいのだが、彼女の視線が気になってしまう自分がいた。そして、会話に割り込んだ。


「おはよう、初瀬川、山中。」


二人が同時に振り返り、返事を返した。近くに寄ると彼の肩が濡れていて、拭いてあげたくなって優しく雨の雫を払ってあげた。制服の上から彼の肩を感じる。意外に骨格がしっかりとしていて、異国の血が流れているのを指先から読み取っていた。彼に触れた初めての瞬間で、指先が彼の肩を覚えてしまったようだった。


「初瀬川、肩濡れてるぞ。」


僕の指先での出来事が気づかれぬように、言葉でカモフラージュをしてみた。言葉は便利なもので起きてしまったことを修正する手段としても使えるのだ。僕の指先が行ったことがより気づかれないためにもその手段を使うしかなかった。彼は雫を払う僕の手を見ながら、ためため息まじりに口を開いた。


「梅雨って面倒ですね。」


「そうだな、この時期はタオルがあると便利だぞ。」


「今度からそうします。でも、雨だけじゃなくてなんか気分が上がらないです。」


「それは気圧のせいだろうな、きっと」


「気圧?」


「そう、気圧。それから、この時期があるからその他の季節が味わい深くなるってこともあると思うぞ。」


彼を少しポカンとさせたまま、そうですかね、と言いながら僕を見る。


「気圧についてと一緒に説明してやるよ、とにかく教室に入るぞ。」


 教室は湿気が立ち込めていて、正直入る気にならない程だった。少しでもその湿気を逃すため、教団近くの窓を開ける。朝礼を始めるために、生徒たちを席につかせる頃には少しだけ湿度が下がったように感じた。


「今月から進路相談をするとアナウンスしていた通り、先日記入して用紙の内容を含め各自の進路について面談をします。各自話したいことなどもあると思うので事前に何を話すか考えてくるようにな。」


生徒の中から、メンドクセーという声がちらほら聞こえる中で山中が何かを彼に話しかけている。山中の足が机から出て彼の方向を向き、紺色のハイソックスが女子生徒の透き通る肌を強調させる。彼の体は前を向いたままで、耳だけを貸して彼女の話を聞いているようだった。彼のぷるんとして朝日を浴びたような桜色の唇が少しだけ動いたのが遠くから見えた。

すると、山中が少し寂しげな表情をして、紺色のハイソックスが机の下へとしまわれていった。なんて事のない一瞬の出来事ではあったが、どんな会話が交わされていたのかが少し気になった。先ほどの廊下で後ろから二人をみていた時に、普通っぽくてカップルにも見えなくはないなと思ったが正面からしっかりと捉えた時の二人には同じものを感じなかった。


人は時に見たいものを見たいように見てしまう。その時の心情や、固定概念など原因は様々だがきっと今朝の僕もそうだったのかもしれない。見る面を変えることで、全く違う現実が見えてくる。彼らの青春の一コマを僕は前と後ろから眺めているだけだが、本人に聞かないことにはその真相を確認することはできないのだ。少女の少し曇って見える表情と、青年の霧のかかった眼差しが僕に全く違うものに見えていた。


「それでは、進路相談のスケジュールを配布します。」


パラパラと各列の先頭の生徒へ紙を配布して、教室内がざわつくが、彼と山中は静かに回ってきた紙を見つめなが何かを考えている様子だった。


 その日の放課後になって数人の進路相談を終えたころ、朝に降っていた雨が止んでいた。進路相談の中で、その選択肢を選んだ理由を聞くと大半の生徒は将来的に安定したとか、大体みんなそうしているし、といった主体性や個人の考えなどから導かれるような理由は返ってこなかった。これについて僕は、何も意見をすることができない。なぜならば、自分もそうしてきたからだ。周りと調和することだけが人生ではないのだと、伝えたい気持ちはあるが生徒に助言をするのであれば自分自身が体現できていなければならないと僕は思う。ここで教師として、型にハマりながら仕事を続けている以上は僕は行動に移せなていないということで説得力がない。今僕にできることは、本人たちが口にした進路へ無事に送り出してあげる手伝いをしてあげるだけなのだ。現代の学校教師というのは、それくらいのことしかできないのだろうかと少し自分自身に苛立ち覚えていた。類は友を呼ぶ。苛立ちを隠しなが職員室に戻る、イライラさせる人が来てしまう。高橋先生がお節介なおばさんのように根掘り葉掘り聞いてくる。


「大谷先生初日の進路相談どうでした、大変じゃなかったですか?」


「今のところは問題ないですね。今日の生徒たちは自分の成績で行ける範囲の志望校を選んでたので。」


「最近の生徒はあまりチャレンジが必要のないところで落ち着こうとしますからね。」


「きっと僕たち大人のがそういった行動とっていて、その様子をみているからじゃないですかね。チャレンジして欲しければ、まずは大人が見せないダメですよね。」


イライラしていたせいか、彼女への当てつけのように言ってしまった。ハッとして、言葉を言葉で修正する。


「まっ、僕もできていなんですけどね。」


ハハハと、軽く笑って誤魔化したのがマズかった。


「私もなんですよ。チャレンジで言うと、最近少し悩んでいて男性の意見を聞きたいんですよ。お時間ある時にお話しできませんかね。」


今だけ男性ではなくて女性になりたい、そう思うとタオルを持たない大沼先生が現れた。今日はいいタイミングで現れてくれる、この男性がなんだかありがたい存在に思える。


「男性の意見なら、僕より男らしい大沼先生がいいですよ。」


高橋先生が大沼先生を二度見すると、さっきまで小悪魔に見えていたのが一瞬にして悪魔に変わってしまったように見えた。


「なんですか、男性の意見って?」


「なんか、高橋先生男性の意見を聞きたいみたいだから相談乗って欲しいんだって。男の中の男といえば大沼先生が適任だと思うんですよね。」


「高橋先生の相談ならいつでもウェルカムですよ。」


よくわからないが、上腕二頭筋の筋肉を見せながら男らしさをアピールしつつ承諾してくれる。頭の中も上腕二頭筋ほど筋肉が詰まっているようで、とても安心した。そんな筋肉が詰まった脳みそをしている大沼先生と違って、僕の頭の中は今朝の彼と山中のことで少し頭がいっぱいになりそうになっていた。遠くから見る二人の組み合わせは、とても自然に見えて普通に感じる。その普通の組み合わせで、なぜだか心もいっぱいになりそうになる夕方だった。


夕日が職員室を差してきて、僕のデスクの上を照らす。そこには数日後に控えて彼の記入した用紙があり、空欄が僕を心をいっぱいにする。

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僕の彼-桜並木の向こうへ- @hata_4649

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