コーちゃんとアタシ
猫宮
第1話
好きピの考えてることがわからない。
**
アタシの好きピことコーちゃんは、頭がいい。地元ではイチバン頭のいい、黒髪色白メガネしかいない進学校に通っている。
そして、アタシはコーちゃんの恋人のくせに頭が悪い。高校も地元で最底辺のバカ高だし、校内でタバコ吸って退学になったヤツいるし、卒業して進学するヤツなんかいない。高校出たら、みんな、就職するかニートになる。ちなみにアタシはもう就職先決まってる。
コーちゃんと付き合ってるって高校の友達に話したら、「ヤバ、陰キャじゃん」とか「頭良すぎて会話にならなさそう」とか言われた。
コーちゃんは陰キャじゃないからそこは怒っといた。コーちゃんは黒髪色白メガネだけど、優しくて、誰よりカッコいい。でも「会話にならなさそう」は否定できなかった。
たしかに、たまに会話が停滞する。
コーちゃんが当たり前に告げる言葉の意味がアタシにはわからない時がある。
政治とか、世界情勢とか、他にも色々。コーちゃんが一般常識と思って広げた会話の内容がアタシには分からなくて、たまにお互い気まずくなる。
*
「ごめんね、アタシ頭悪くて」
アタシ達が初めて出会った日。赤点を確信して図書館で絶望してたアタシに、コーちゃんが声をかけてくれたあの日。アタシは笑いながら謝った。
その日コーちゃんは選挙の話をした。その頃はちょうど選挙の時期だった。アタシに勉強を教えてくれた賢いコーちゃんは、まさかアタシが「ジミン党」すらわからないほどのバカだとは思わなかったのだ。
アタシの言葉にコーちゃんはメガネ越しの瞳を大きく開いて、それから、笑った。
「いや、楽しいよ」
微笑んだために目尻に生まれた、くしゅっとした皺。アタシは簡単に恋に落ちた。
*
それからコーちゃんは色々な話をしてくれた。お陰でアタシは高校の中では物知りな方になった。と言っても、相変わらずコーちゃんとの会話がアタシのせいで会話が滞ることは結構あった。
コーちゃんはそれでも「アヤちゃんは楽しいね」と言ってくれる。「知らないことは多い方が楽しいじゃん」と笑ってくれる。
勉強ができなくて「知らない」を嫌って生きてきたアタシは、最初コーちゃんの言ってる意味がよくわかんなかった。
でも、コーちゃんと話してるうちに「知らないことが楽しい」というのが、わかってきた。
事実、コーちゃんから新しい知識を知るのは楽しかった。数字は美しいと急に言われた時は気が狂ったのかと思ったけど、完全数と運命数の話を聞いたら、魔法みたいで綺麗だって思った。
小説は難しくて敷居が高いと思ってたけど、コーちゃんに薦められて読んだ本は面白かった。文章だけで織られた世界に感動した。
その度にコーちゃんは「アヤちゃんが楽しんでくれて嬉しい」と幸せそうに笑った。
なんでアタシが楽しいとコーちゃんが喜ぶのかわかんなくて、やっぱりコーちゃんの考えることはよくわかんないなあと思っていた。
**
もうすっかり冬だった。
「大学受かった」「会いたい」とコーちゃんから連絡が来て、アタシはスマホを引っ掴んでコーちゃんの家まですっ飛んでいった。
風が冷たくて、マフラーを鼻まで引き上げる。白い息を置き去りにして行き慣れた道を走る。冷たい空気が気持ち良かった。
鼻の頭を赤くしたアタシを見て、コーちゃんはココアを入れてくれた。コーちゃんママは「久しぶりねえ」と出迎えてくれた。
コーちゃんの部屋は、物が少なくて生活感がないのにコーちゃんの匂いに満ちていた。
ココアの入ったマグカップを両手で包む。ベッドに腰掛けて、ふうふうとブラウンの水面を息で揺らす間に、コーちゃんが唐突に口を開いた。
「僕、東京の大学に行く。親戚が武蔵野に居るから、そこに下宿する」
コーちゃんの声は緊張していた。アタシはせっかく入れてくれたココアを床に落とした。白いラグにしみが広がっていく。コーちゃんは、ラグも拭かずにじっとアタシのことを見ている。
「とうきょう」
「そう、東京」
コーちゃんが、椅子を立ってアタシの隣に座った。ベッドがキィと音を立てた。
「勉強するために、東京に行く」
コーちゃんは言い聞かせるように言った。
ココアの甘い匂いが室内を染めていた。
「べんきょう、するため」
口の中で言葉を反復する。
勉強するために、そんな遠くまで。わざわざ勉強するだけのために。勉強のために、アタシを置いていく。
アタシよりも勉強が大事って、わけわかんない。
「アヤちゃんと離れるのはすごく辛い」
アタシの気持ちを見透かしたみたいに、コーちゃんが言った。そこまでわかるなら。
「なんで」
なんで置いていくの、とは言えなかった。
「勉強がしたい」
コーちゃんは、まっすぐな目でそれだけを言った。
「勉強とアタシ、」
どっちが大事なの、なんて言いそうになったのを必死に噛み潰した。いくらアタシがバカでも、そんなこと言っちゃダメなのはわかる。
「アヤちゃんを傷つけてごめん」
言わないよう堪えたのに、コーちゃんはやっぱり見透かしたみたいに謝る。傷ついたアタシに本気で謝る。本気でアタシのことを大事にしてくれる。
コーちゃんの優しさが無性にムカついた。コーちゃんが優しいほど、それでも勉強のが大事なんだって思う。
「謝られても、わかんない」
八つ当たりみたいにそう言った。
コーちゃんは、泣きそうな顔をしていた。アタシだって泣きたかった。
悲しくて、苦しくて、心臓が痛い。コーちゃんとのお陰で、わからないことは楽しいと知った。なのに今は、わからないことが悲しい。
「ごめんね、アタシ頭悪くて」
イヤミみたいにそう言ってベッドから立ち上がった。コーちゃんがアタシの手を掴もうとして、けれど掴まなかった。アタシは部屋を出て、冷たい町に1人歩いていた。
**
コーちゃんはもうすぐ東京に行く。
無駄にできる時間はないのに、会いにいくには勇気が足りなかった。
それなのに、気づけばコーちゃんを探している自分がいる。今日もまたフラフラとコーちゃんと出会った図書館に来てしまって、自分に自分でヒいてしまった。
せっかく図書館まで来たし何か借りようと館内を歩く。考えてみれば、アタシはコーちゃんのオススメを読んだだけで、自分で本を選んだことはなかった。
小説コーナーを作者名順にアから見る。気になった本をパラパラ見て棚に戻す。カ行の半ばを過ぎた時、背表紙に書かれたタイトルに目を奪われた。
『武蔵野』
手に取って、ページに指を触れる。かさり、と乾いた空気の中で紙が擦れる音がした。
***
あの日からアヤちゃんは顔を出さない。
僕が彼女を傷つけた。そう考えると、僕からアヤちゃんのところへ出向くのは躊躇われた。
あの後、母さんに根掘り葉掘り聞かれて全て素直に話したら「アヤちゃんのために勉強して良い職に就きたいって言えばよかったじゃない!」と怒られた。「でも僕は僕のために勉強がしたい」と言ったら、母さんは呆れた顔をして「そういう融通が効かない所、お父さんにそっくり」とぼやいた。
たしかに僕は融通が効かなくて面倒くさい人間だと思う。そんな僕のことをアヤちゃんは好きでいてくれた。僕もアヤちゃんが好きだった。僕はアヤちゃんと話をしなくちゃいけない。僕の言葉不足を謝らないといけない。まだ好きだとはっきり言わないといけない。
さあ行くぞ、と膝を叩いて気合いをいれる。
玄関の扉を開けたその時、チャイムの前で立ち尽くす想い人を見つけた。
「アヤちゃん」
思わず大きい声が出た。
彼女は長い睫毛の下の大きな瞳を丸くして、僕のことを見つめた。突然僕が現れたことに驚いて少し後退ったアヤちゃんの手を、逃すまいと捕まえる。
「僕、アヤちゃんに会いたくて」
縋るように言った。アヤちゃんはオロオロと視線を彷徨わせて、それから泣き出しそうな顔をした。掴んだ手が痛かったのかと慌てて離す。
「アタシ、これ読んだの」
唐突にそう告げた彼女がカバンから取り出したのは、国木田独歩の『武蔵野』だった。市の図書館のマークがついている。話の流れが掴めなくて、僕は彼女の言葉を待つ。彼女はぽつぽつと話す。
「コーちゃんが行く町がどんなとこか知りたくて借りたけど、よくわかんなかった」
彼女が図書館で『武蔵野』を見つけて、僕のことを思い出す。僕のために本を借りて、僕のために本を読む。それを想像して、なんだかすごく愛おしかった。
「武蔵野って場所は林がエモいってことしかわかんなかった。けど、どこもかしこも美しいって書いてあった」
彼女は必死に言葉を探している。
彼女は自分のことを頭が悪いとよく卑下するけれど、彼女の言葉はいつでも誠実で素直で嘘がない。それは知識の有無よりもずっと尊いことだと思う。
素直な彼女は、真っ直ぐに僕のことを見つめる。彼女の大きな黒目に映る僕は、穏やかに彼女の言葉を待っている。
「だから、たまにになると思うけど、コーちゃんに会いに私も武蔵野に行きたい。武蔵野は遠いけど、どこもかしこもエモくて、しかもコーちゃんがそこにいるなら、アタシも行ってみたいって言いたくて、来た」
チグハグな言葉は、けれど誠実だった。
彼女はそこまで言って、はあぁ、と大きく息を吐いた。僕もそれに釣られて息を吐く。
緊張の糸が解けた時に出る独特の笑いが込み上げた。青い酸素を求めて空を仰ぐと、どこまでも続く空が眩しかった。
「国木田独歩は、僕も昔読んだけど、難しかったな」
ぽつりと呟いて、視線を彼女に戻す。
今度は彼女の方が、じっと僕の言葉の続きを待っている。僕はたっぷり息を吸い込んだ。
───武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。
『武蔵野』の一文が、鮮明に思い出された。
ただでさえ美しいあの町を、彼女と一緒に歩けば、どれほど。
「武蔵野、一緒に散歩してくれる?」
彼女は笑顔で頷いた。
コーちゃんとアタシ 猫宮 @Darkness_kyatto
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