※危険なので真似をしないでください

目々

※危険なので真似をしないでください

 操作盤に部屋番号を打ち込んで通話ボタンを押下する。スピーカーから一切の返答もなくすぐさま共用玄関が開いて、運よく到着していたエレベーターに乗り込んで階を指定する。微かな上昇音がしたかと思うとチャイムと共に扉が開き、そのまま共用廊下を進んで目当ての203号室の呼び鈴を押せども返事がなく、まさかと思ってドアノブを下ろせば呆気なく開く。そのまま小汚い靴が数足転がったままの玄関で靴を脱ぎ狭いキッチンを横目に短い廊下の突き当りのドアを開ければ、ちゃちな折り畳みテーブルの前に座り込んだままへらへらとした笑顔でこちらを見上げる先輩がいた。


「お疲れさん。迷わなかったようでよかったよ」


 先に始めてるよと言いながら季節限定のロゴが刷られた缶ビールを掲げて笑う先輩に、俺は提げてきたスーパーのレジ袋を突きつける。


「玄関鍵掛かってなかったですよ。危ねえんじゃないですか」

「寝るときは閉めるよ」

「押し入られたらどうすんです。死にますよ」

「一応オートロックだしさあ……そもそも殺す気で来た相手には何やったって大体殺されるよ」


 面倒なんだものと一言を投げつけて、先輩は怠そうに部屋の隅まで這っていく。死骸のように転がっていた鞄から財布を出して元の位置に戻ってから、


「いくら?」


 俺が黙ってレシートを差し出せば、迷いなく一万円札が差し出される。明らかに過分な金額に首を振れば、それでもレシートより三割ほど多い額が何故か舌打ちと共に押し付けられた。


「多いですよ。計算できないんですか先輩」

「手数料だよ。つまみも酒も夕飯がわりだし」

「遠慮します。俺の夕飯でもあるので、本当なら折半だっていいくらいですよ」

「それはお前家飲み誘った側と俺が先輩っていう面子の分だよ」


 変なところで奥ゆかしいふりをするなよと結構な暴言を吐いてから、先輩はレジ袋から雑につまみの惣菜や菓子を置き並べ、当然のように限定の缶チューハイを自分の手元に寄せて、飲みかけていた缶ビールを一息に呷る。空いた缶を適当に潰してから流れるように限定缶のタブを開け、一口飲んで口に合わなかったのか怪訝そうに首を傾げた。

 テーブルを挟んで向かいに座り、俺は付属していた割り箸を袋から取り出しながら真っ先に唐揚げの容器に手を付ける。安い脂と塩気を適当に手に取った檸檬チューハイで流し込めば、先輩から他愛のない雑談の球が飛んできた。


「しかし遅かったじゃん。授業?」

「はい。教養枠で児童文学論入れてます。面白いですよ」

「何で金曜に五限まで授業入れてんの」

「次の日が休みだからですよ。長引いてもレポートやっても次の日寝てていいなら気分がマシです」

「休みの日に万全で備えたい派だからなあ俺……金曜の午後に街歩くのって学生の特権! って感じしねえ?」

「分かんなくもないですけど」

「うん」

「先輩それで単位足りなくってあっぷあっぷしてたんでしょうに。進級できたのが奇跡だって野村先輩から聞きましたよ」


 同じサークルの先輩の名前を出せば、誤魔化すようににやにやと笑って缶を呷る。悪びれる様子もないあたり本当にこの人はどうしようもないなと思いながら、俺は予想したより強烈だった檸檬チューハイの酸味に眉をしかめた。

 大体三年生にもなればおよその学生は必要単位は取り終わり、気が早くて要領のいいやつは就活だのを始めるあたりだろう。さして真面目ではないが小心で臆病な俺のような学生でも、このまま予定外の傷病や事件に巻き込まれない限りはそれなりの余裕のある単位数を取得できるように履修計画を立てている。何せ一浪の身としては留年などできるわけがない。後期の授業も今のところは出席や課題での――評価はともかく最低限のものとしては――問題がないはずだ。

 なのにこの人は一年の頃から進級に引っ掛からない程度にのらくらとして怠惰な学生生活を送り、最低限かつ不慮の事態や予定外の事故を一切考慮しない計画を立てた上にそれを実行する努力も度々怠った結果、余裕というものが磨滅した挙句にサークルの友人たち――野村先輩をはじめとする様々な人に迷惑と労力を払わせ、留年の憂き目をおめおめと逃れたかと思うとさして反省する素振りも見せずにのうのうと怠惰な四年生として独り暮らしの学生生活を満喫しているのだ。


「まあぎりぎりで何とかなったんなら別にさあ。致命傷になんなきゃ、何だって酒の肴だよ」


 墓石に酒掛けたってすぐ乾くばっかりだしなと冗談のようなものを言って笑う顔の目だけが妙に黒々としていて、俺はさりげなく視線を逸らす。

 馬鹿な先輩だと思う。だが悪い人間ではない。むしろ晩飯代が浮くからという理由で奢りの宅飲みを了承しのこのこと訪問する俺の方がロクでもないまであるだろう。実家が裕福なのか個人で稼ぎがあるのか金銭感覚がないのかは定かではない。だがこうして不定期に発生する暇を持て余したが故のお誘いは唐突で勝手だが、頑なに『先輩は後輩に奢るもの』という現在の貧乏な若人が口にするには崇高すぎる仁義を厳守してくれるので、付き合えば付き合っただけの経済的な役得が俺にもたらされるのも事実だ。


 怠け者で馬鹿だが悪意も害意もない。気前と愛想はそれなりにいい。つまり相棒だの友人だのという関係の候補としては論外だろうが遊び相手としては十分だ。


 しばらく続いた他愛ない雑談の切れ目。先輩は機嫌よく飲んでいた手をぴたりと止めてから、ふらりと立ち上がって台所の方へと消える。水でも汲みに行くのかと待てば、何故か空のペットボトルを持って帰ってきた。


「お前さ、筆記具ある? ボールペンでもシャーペンでもいいけど」

「ありますけど何ですか。契約書の類なら絶対に書きませんよ」

「いや科学実験っていうか……実験っていうかあれだ、悪ふざけ」


 とりあえず名前書いてくれないと投げ渡されたメモ用紙に、俺はいよいよ疑念の目を向ける。テストや役所の手続き以外で名前を書かされる状況は十中八九ろくでもないことになる未来に発展するのだと、防犯動画や犯罪ものを見る度に叩き込まれてきた非常事態に対しての知識が脳内で警報を鳴らす。

 よほど険しい顔をしていたのだろう。先輩は俺をじっと見て黙り込んでから、短い唸り声を発してから口を開いた。


「違えのよ本当に。そういう詐欺とかじゃない。スライムとか作る系だと思ってくれていい」

「名札スライムに必要ないでしょう。百歩譲ってもあれだ、呪いの儀式じゃないですか」

「そういうんじゃなくてさあ、動画サイトで見たのよ。作り方」

「何ですか。今時藁人形の作り方でも見たんですか」

「いや科学実験系のやつ……電撃棒とかわくわくすんじゃん、そういうやつ」


 とりあえず説明するから聞いてくれよとチューハイを飲みつつ揚げ出し豆腐を突きながら言う先輩の姿に、人を説得する姿勢としては論外でしかないだけにここから宗教なりビジネスなりの勧誘に繋げるなら見てみたくはあるなと思った。


「おとといだったかな、夜中眠れなくて動画見て回ってたの。チャンネルの実験とか企画とかそういうやつ眺めて、ほらスイカとか輪ゴムでぎちぎちにするやつとか」

「あれ名札要りませんよ」

「な、つうか名札貼ったスイカ破裂させたら喧嘩売ってるとしか見えねえ……でさ、おすすめ動画伝って色んなの眺めてたの。そしたら面白いのがあってさ、誤字脱字を物理的に作る方法があるんだって」


 物理的な誤字という不安になるような語句を聞いた瞬間、宗教でも商売でもなさそうだがもっとタチの悪そうなものが出てくる予感がした。

 先輩は揚げ出し豆腐からカルパスに移行し、妙に手際よく個々の包装を剥きながらまた新しい缶を開けて、喉を鳴らして飲んでいる。

 とりあえず先程の正気を疑う発言に対して最低限の常識を提示しておくべきだろうと考えて、俺は口を開く。


「質問いいですか」

「難しいこと答えらんないよ俺」

「……物理的な誤字っていうのがもうアレなんですよ。そもそも書き間違えるか忘れるかすれば誤字るし脱字するんですから、手書きにせよキーボード入力にせよ『文字を書く』って行為は物理的動作でしょう。出力先とか形態はほら、あれこれあるでしょうけど」


 黒鉛で紙の上に書かれようが、PCで数値として変換されデータとして入力保存されようが、記録されたものは手が加えられない限りは変化しないものだ。誤字脱字は発生したものが見落とされそのまま保存されたからこそ発生し存在するものであり、自然発生的に――それこそ正しい文字から変化して発生するようなものでは断じてないはずだ。

 先輩は俺の主張を聞き終えてから眉根を寄せてひどく情けない表情を作って、首を数度振った。


「違えってあの、そういう難しいやつじゃないっていうか理屈は別にいいっていうか……お前さ、レポートとかPCで書くだろ。文書ソフトで打ち込んで、誤字と字数チェックして、送るじゃん受付先に」

「たまに印刷したりもしますけどね。まあだいたいそうですね、データ送って終わりですね」

「そういうときにさ、誤字が発生するじゃん。もうばきっと見直して校正して確認したのに、何でか送った後にしばらくして見たらまた誤字が出てくる」

「……ああ、まあ、ありますけど。注意不足でしょうよそりゃあ」

「あれってさ、事故ってるんだって。文字データが」


 馬鹿を通り越して正気を疑うような発言が出てきて、俺は缶を机に置く。


「俺も流し見してたからよく分からんのだけどさ、文字データを揺らしたりぶつけたりするとごく稀に文字情報自体が欠損したり変質して、森が林になったり嬲が嫐になったりするんだってさ。勿論ごく低い確率だけども」

「待ってください。データを揺らすとかぶつけるって何ですか。概念とか比喩ですか」

「ガイネン」


 明らかに単語自体をよく分かっていない発音が返ってきて、俺は頭を下げて話の先を促す。俺とてさほど賢くないのだから、説明を求められても上手く答えられる自信がない。先輩は気分を害した様子もなく、だらだらと説明と弁解の中間のように話を続ける。


「まあそういう、何? 送信とかファイルの置き場移動とかそういうのも該当するんだってさ。データに衝撃を与える行為として」

「はあ」


 呆れと相槌の中間のような声が出て、俺は目の前の先輩を眺める。先輩は酔いが回ってきたのか、いつもの軽い口調を二割増しでふわふわとさせながら饒舌に語る。


「で、動画内で誤字らせ方と誤字りやすい漢字とかも上げててさ。それお前の名字と名前に入ってるからお得じゃんって思ってさ」

「人の名前をそんな目で見てたんですか」

「あと暇だから家飲みやりたかったし、これは詰め合わせでお得だなって」


 どうだろうとまた缶を片手でへこませて、先輩は次のビール缶を手に取る。

 言っている内容もやっていることにも知性というものが感じられず、どうしてこんなに思い付きと暇潰しのためだけに生活を送れるのだろうと俺は解決のしようがない疑問を抱く。少なくとも合法的に酒が飲める年齢にもなって気の利いた暇の潰し方を持っていないのはどうなんだと言おうとして、そのまま自分にも手痛く刺さる事実だということに気付いて黙った。

 この部屋飲みが奢りだということを思い出す。流石に与太が荒唐無稽過ぎて否定する気も失せたというのもある。そして腹立たしいことに、ほんの少しだけ好奇心があったのも事実だ。


「……まあ、いいですよ。飲み代の分だと思えば安いですし」

「あ、マジ? ありがと」


 嬉々として差し出されたメモに、俺は鞄から取り出した筆記具で乱暴に本名を名字から名前まで書き記す。そのまま渡せば先輩は受け取ってから無造作にくるくると巻いてペットボトルの口に放り込み、そのままぎゅうとフタを閉めた。


「どうすんですかそれ」

「物理的な振動でいいってやってたからほら、こう」


 やる気のない野球の応援のようにテーブルの縁に叩きつけられたペットボトルは、べこんと妙な音を立てた。


「どのくらいやるとどうなるんですか」

「非常にごく稀って言ってたしなあ。見たやつだと『ね』が『わ』になってたり、爆発したりしてた。容器が」

「何で文字が爆発するんですか」

「説明してなかったから知らない……あれじゃね、『ク』と『ズ』は単体だとただの文字だけど組み合わせると『クズ』で単語だし、人に言うと怒るだろクズ! って」


 分かるような分からないような答えが返ってきて、俺はいい加減馬鹿馬鹿しくなって次の缶を物色する。先輩がうわごとを言いながら景気よく開けていたせいだろう、二人としては十分な量を買ってきたはずなのに既に二本しか残っていない。

 自分の分を取って先輩の方を見る。意外と真面目にぽこんぽこんと規則正しくペットボトルを叩きつけている姿がおかしくて、流石に噴き出すのは失礼だろうと目を逸らした。


「いつまでやる気ですかそれ」

「とりあえず飽きるまでやって、飽きたら止めよう」

「満遍なく馬鹿なこと言うのやめてくださいよ」

「暇潰しだもの。気分次第だよそんなもん」


 酔いのせいか少しだけ上ずった声で言って、先輩はちびちびとビール缶を啜る。缶を二三度上に持ち上げてから軽さに不満そうに目を眇めて、次の缶を手に取ろうとして残数の少なさに頓狂な声を上げた。


「ああもうない……何で飲むとなくなるんだろうな、買ったのに」

「消耗品全般を困らせるようなことを言わないでください」

「外のコンビニで買ってきてくんね?財布貸すから」


 言ったが早いか投げ寄越された財布を押し返せば、不思議そうな顔で先輩がこちらを見た。


「どうしてそういうことするんですか。せめて札だけ寄越してくださいよおっかない」

「ええ? めんどくせえなあもう」


 別に持ち逃げしたって怒らねえのにとぼやきながら先輩は再び財布を拾って、おぼつかない手つきで札を数枚抜き取ってから確認もせずにこちらに押し付ける。この人は馬鹿なのか育ちがいいのか破滅主義なのか分からなくなりながらも、俺はとりあえず千円札以外を返す。その辺に雑に畳んでいた上着を羽織り、玄関へと向かった。


「俺鍵持たずに出ますからね、寝ないでくださいよ」

「そんなにかかんの? パッと行ってサッと帰ってきてよ、寂しいじゃん」

「うわごと言ってないでくださいよ。締め出されたら本当に金と酒持って帰りますよ俺」


 靴に足を雑にねじ込めば、納まりが悪くて何度か爪先で床を突く。雑に閉めた居間のドアは閉まり切っていなかったのだろう、ペットボトルの間抜けな音が小さく聞こえた。


 U字ロックに手を掛けた瞬間に背後でばんと重い破裂音が響いた。


 慌てて土足のまま居間に引き返してドアを開ければ呆然とした顔でこちらを振り返る先輩と目が合う。机の上に乗っていたはずの空き容器や缶は部屋のあちこちに散乱し、零れた缶の中身が床の上で泡立っている。


 先輩の胸元に中途半端に持ち上げられた右手の指は毟り取られたように欠け、傷口からどろりと溢れ始めた血の赤さから目が離せなくなる。


「先輩、あの、何を――」

「何っていうかペットボトル……いや、分かんねえけど。うん、とりあえずやべえと思うんだ、でもさ、」


 嘘じゃなかったんだなあと心底から驚いたような声で呟く先輩の頬骨の辺りから少し遅れて滲んだ血を見て、俺はへなへなとその場に座り込んだ。

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