《夜の湖》



 部屋でゆっくりしていてくださいと言われたが、この魔術師と子供達が妙なものを生み出さないか見張るために、私は厨房へついて行くことにした。

 私の母国セ=オに魔術師という職はなく、強い魔力持ちは大抵神官になるのだが、それでも術の類を扱うからか学者肌の人間が多い。つまりプライベートはかなり好奇心旺盛で、気になることは何でも試してみたがるのだ。この魔術師はどうも、私の友人が湖から馬鹿でかい水竜を釣り上げて喰われかけた時と同じ目をしている気がする。子供達二人もだ。

「何を作るか、決めているのかい」

「ムィル・ヴェルセォル・イツェ・セティラフィ・イラープ」

「え?」

「通称ムィフィラープですね」

「ムィふェる、あっ……フ?」

「ムィフィラープ。ムィルヴェルセォルイツェセティラフィイラープ、の略です」

 雰囲気からしてヴェルトルート語なのだろうが、何だその呪文のような。

「……いやすまない、共通語で頼む」

「お魚のスープですよ」

 ハールと言ったか、二人の少年のうち兄の方が言った。そういえばこの二人も、母語ではない言葉で流暢に話している。流石は貴族の子、なのだろうか。

「共通語……あの、上手だね」

「ありがとうございます」

 目を細めて優雅ににこり。艶のある黒い髪に深い青の瞳の美少年。だめだ、やはり社交性に圧倒されてしまう。

「いや……ええと」

「お魚は嫌いではありませんか?」

「いや、うん、好きだよ」

「良かった」

 兄はニコニコしているが、弟の方はさりげなく叔父の後ろに隠れている。うん、やっぱりこっちの子を見ている方が落ち着くな。

「ヴェルトルートの湖底魚は美味しいですよ。淡水魚だけど臭みがなくて、刺身でも食べられます。透き通るような味がすると評判なんです」

「へえ」

 魔術仕掛けらしい大型の保冷棚から銀色の魚を取り出しながらアレイが微笑んだ。まな板のうえにポンとそれを横たえて、意外になめらかな手つきで鱗を剥ぎ、頭を落として捌いてゆく。

「食べてみます? 刺身」

「いや、私は生魚はちょっと……」

「おや残念。ハール、材料出してきてくれるかい?」

「はい、叔父上」

 ハールが弟の手を引いて食材の棚を漁りに行き、アレイは魚の頭と骨を大きな鍋にぶち込んで茹で始めた。

「これで出汁を取るんですよ」

「ほう」

「ここにセティラフィ類を入れて煮ます」

「はい?」

 何のことかと思ったが、アレイがポイポイと刻んで投入してゆくのはボコボコした木の根のようなものと、やたら大きくて黒いトウガラシのようなもの、広葉樹の葉、それから長い草のようなものだった。まあ香草の類なのだろう。魔術師が鍋に放り込む香草ほど不気味なものもないかもしれないが。

「ええと……セトラふィ?とは」

「この国の言葉で香草のことですよ。直訳すると『妖精の草』」

「ふむ……」

「ノイドさん、お腹の空き具合は?」

「けっこう」

「なるほど――あれをやるよ。ハール、リース」

「やった!」

 子供達が鍋の周りに集まってきて、一斉に鍋に向かって両手をかざした。そして私が心の準備をする間も無く、三人同時に「フルム=スクラ!」と呪文を唱える。鍋に蓋をするように魔力の光で三枚の緻密な魔法陣が描かれ、段々と熱されたように赤く光り出す。

「……それは、ええと、何を」

「時間を短縮できるんですよ。まあ料理としては邪道ですがね」

「……え? 時間を?」

「子供達の気を散らさないで。爆発しますよ」

「爆発!?」

 どういうことだ、一体何をやっているんだこの男はと思ったが、あまり口を出して爆発しても困るので、私はそろそろと厨房の端へ避難するだけにとどめた。途中でアレイが鍋の火を消して、およそ十五分、沈黙の時間。

「……何を、ええと」

「時間の短縮ですってば」

「その、赤い光は」

「火の系統の術なので。まあ、赤くするのは今日初めて試したんですが」

「はあ……?」

 怪しげな魔法陣で封印された鍋。中には魚の頭と骨、それから妖精の草とかいう香草。

「本当に、夕食を作っているのか……?」

「あ、パンも焼けば良かったかな。お客様に作り置きじゃ失礼か」

「そうではなくて」

 「毒薬」の二文字が頭をぐるぐると巡って気分が悪くなってきたが、しかしようやく魔法陣の封印を解かれた鍋からは、ほんわりといい香りの湯気が立っていた。近づいて覗き込む。淡い金色に揺れるスープ。

「これをします」

「え、ああ」

 ざるの上で鍋がひっくり返され、魚の頭と謎の香草が取り除かれた。あまり嗅いだことのない匂いがする。胡椒ともまた違う刺激的な香りの中に、どこかまろやかに甘いような香りが混ざる。

「いい匂いだ」

「もう少し待ってくださいね、これから味付けですから」

「ああ」

 魔術師は微笑んで、呪文ひとつで一瞬のうちに浄化されたまな板にニンニクのかけらと、やたら細長い玉ねぎのような奇妙な野菜をのせ、それを丁寧に微塵切りにした。次に鞘に入った細い豆のようなものと、ころっと丸いキノコが輪切りに。それを鍋に放り込み、塩と、胡椒のような黒い粉を振り入れる。

「今のは……何のキノコだね?」

「エシュルグですよ。湿った洞窟の国ですからね、キノコも質がいいですよ」

「……聞いたことないな」

「で、魚はね。煮込まず別で焼くんですよ。これがヴェルトルートのムィフィラープなんです。本来は冬の祝祭の料理ですが、今日は特別に」

 そう言いながらアレイは手早く魚の身に塩と胡椒、小麦粉――本当に小麦の粉だろうな?――をはたきつけ、鉄板に緑色をした謎の油を敷いて焼き始めた。

「今……あの、緑だった」

「リベの油ですよ。輸入ものですけど」

「リベ……」

 また知らない素材だ。けれどほんのり果実のような、しかし甘さのない不思議な香りがした。悪くない。色は変だが、魚が変色している様子もなかった。一安心。

「最後に余分な油をとって、代わりにバターを絡めます」

「ほう」

 たっぷりとバターが投入され、こんがり焼けた魚の表面が金色に輝いた。うまそうだ。

「この香辛料の効いたスープに、バターの香りがまた合うんです――あっ」

「ん?」

 突然魔術師が焦った顔をしたので何か爆発するのかと身構えたが、彼は「スープしか用意してませんね。もう焼いてしまったのに」と苦笑いしただけだった。

「はは。大丈夫ですよ、坊ちゃん」

 と、背後から突然知らない声がして私は飛び上がった。振り返ると、白い服を着た壮年の男が笑っている。

「他は私が用意しておきました」

「ありがとう、助かったよ」

 どうやらこの男が料理長らしい。もう食卓に並べてありますと彼が言うのを聞いて、アレイは深めの皿に焼いた魚を盛り付け、そしてそこに、そっと金色に輝くスープを注ぎ入れた。最後に、親指の爪くらいの小さな柑橘を一絞り。

「完成です。食堂に行きましょう」

「……美しいな」

 金色に焦げ目のついた魚に、淡い金のスープ。そこにクリーム色のキノコと緑の豆がアクセントを添える。

「皿もいい」

晶器しょうき、と呼ばれています。磁器の一種ですが、この辺で取れる土を使って超高温の魔導炉で焼くと、半透明になるんですよ」

「へえ」

 食卓に座り――とても怖い顔の当主様に挨拶されてたじたじとなった――それぞれの神に祈って、まずはスープを一口。

「これは……素晴らしいな。祝祭の料理というのも頷ける。ええと、この……」

「ムィル・ヴェルセォル・イツェ・セティラフィ・イラープ」

「ああそう、それ」

「魚もふやけないうちにどうぞ」

「うん」

 カリッと表面の焼けた魚を含むと、まず感じるのは濃厚なバターの香りと塩気、僅かに柑橘の爽やかな香り。そこにふわっと白身魚らしい淡白な味わいが重なる。スープを追加で流し込むと、ぴりりと香辛料の効いたそれが舌の上で混じり合って、まるで複雑に作り込まれた楽団の音楽でも聞いているような、一口には形容し難い調和が生まれる。

「美味いな……魚も」

 全く気の利いた感想を言えなかったが、魔術師はしごく嬉しそうに笑った。

「良かった、お口に合って。ヴェルトルート料理は辛くて香りも強いですから、苦手な方も多いんですよ」

「この……香草の、そう、刺激が強いのに幽かに甘いような香りと、バターが、ええと、合う」

「甘い香り? へえ……言われてみれば、そうかもしれませんね」

「砂糖でも果物でもない香りだが……そう、どこか」

「味は結構辛いですけどね」

「それがいいんだ、それが……」

 パンを浸す。これも美味い。チーズも合うし、付け合わせの芋も合う。白葡萄酒にも合う。おかわりをもらって黙々と口に運んでいたら、いつの間にかいつもの倍近く食べていたらしい。苦しくて身動きできなくなった私をアレイは微笑ましげに見つめ、子供達は呆れた顔で見た。

「すまない……マナーとか、その」

「お気になさらず、美味しく食べていただけて良かった」

「いや、本当に美味かった」

「もう何日か、滞在なさいます?」

 そうだ、怪しげな魔術師の調理風景を監視していて、スケッチの一枚もしていない。屋敷の庭も大層美しかったし、部屋の窓からは湖が刻々と色を変える様子が一望できるという。それに何より、この食事だ。

「お言葉に……甘えさせてもらおうかな」

「滞在費は湖のスケッチでいいですよ。ハールとリースに一枚ずつ。あ、リースは花の絵の方がいいな」

 ニヤッと少し意地悪く、しかし瞳をキラキラとさせながら微笑まれた。この男はもしや私から絵をせしめるのが狙いでこんなものを食わせたのだろうかと邪推したが、私は「まあいいか」と珍しく開放的な気持ちで笑った。

 内向的で人間嫌いな私でもごく稀に、自分の絵で誰かを喜ばせてやりたいと思うことがあるのだ。



 部屋へ下がり、日が暮れてすっかり黒くなった窓辺へ近寄る。子供達に贈るならば明るくなってからの景色が良いだろうと、構想を練りながら湖を見下ろした。そして、眉を寄せてまじまじと見る。

「何だ……?」

 黒い湖の底で、何か光っているのだ。何か青くて、巨大なものが。それも、もやもやと動いているように見える。

 私は目を閉じて眉間をよくよく揉みしだき、改めてもう一度見た。やはり光っている。

 無言で画用紙と絵の具を取り出し、スケッチを始めた。絵画というよりも、記録に残そうとしていた。美しい瞬間ではなく、貴重な瞬間を記録せねばという思いで描くのは、初めてかもしれない。どことなく学者気分になって、筆を走らせる。

 闇夜に浮かび上がる、謎の光。ゆっくりと揺らめいて、僅かに明滅している。生き物のように。それは特段何かの生物の形はしておらず、湖の底をまだらに光らせていた。青を塗って、黒を塗る。ぼんやりと光を放っているようにぼかす。明滅しているように、不安定に塗る。

 私は今まで世界の影の部分だけを見つめて描いてきたが、この影に覆われた洞窟の国ではむしろ、あまり好まなかったはずの光ばかりが目に付く気がする。作りものの空は晴れていても曇り空のようで、曇っていれば嵐の前のように暗い。しかし、だからこそ、その儚く弱い光がひどく美しい。



 夜が明けてから尋ねてみれば、どうやらあの謎の発光現象は光る藻だったらしい。なんだ……と少し落胆したが、ハール少年が得意げな顔で湖に網を突っ込み、引き上げてくれたそれには、淡く光る可憐な花がたくさん咲いていて、私は「何かすごいものかと思ったのに残念だ」と考えた自分を恥じた。ハールは弟に光る花を摘んでやり、澄んだ雫を滴らせるそれを、リース少年はいつまでも夢中で眺めていた。

 小さなリースにはあの花の絵を描いてやろうと決め、「私にも一輪くれないか」とハールに声をかけると、にっこり笑って網を貸してくれた。引き上げた大量の藻は、どうやら溺愛する弟へ全部やるらしい。これはもしや、私が花の絵なんて贈ったら怒り狂うのではないかと、少し心配になった。





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ノイド 根の画家 綿野 明 @aki_wata

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