《月の塔》



「ノイドさん、その、大丈夫ですか?」

「ああ」

「本当に?」

「……いや」

 長い長い階段を下りきり、私はついに地底洞窟国家ヴェルトルートの地を踏んだ。そしてその場に崩れ落ちた。だめだ、もう一歩も歩けない。脚ががくがくしていて立つのも難しい。筋肉痛も限界を超えている。

 途中でへばっていた私の荷物を持ってくれた親切極まりない青年アレイ――ひとを親しげに愛称で呼ぶなんてどのくらいぶりだろう――は、普通なら三日で踏破できる道のりに五日かけた私を少しも面倒がることなく、「お疲れ様でした」と爽やかに笑った。画家の私と魔術師の彼、日頃の運動量にそう差はないように思われるのだが、なぜ私だけこんなにも体力がないのだろう。

 通りすがりの観光客にくすくす笑われながら情けなく地面に座り込んでいる陰気な絵描きに、王宮仕えの花形術師が水を差し出しながら尋ねる。

「泊まるところとか、あたりつけてます?」

「……いや」

「目的地は?」

「……決めていない」

 本当に何も考えずふらっと、地底の国なんておもしろい場所ならおもしろい風景が見られるのではないかという気持ちだけで、ろくな荷物も持たず観光に来たのだ。特に行きたい場所があるわけでもなければ、滞在日数も決めていない。けれど素敵な宿に泊まって美味いものを食べるより、私は手持ちの資金を新しい絵の具を買うことに使いたい。私はこの国に絵を描きに来た画家なのだから。

 金は画材に使いたいので安い宿を……と相談すると、立ち居振る舞いのいかにも貴族然とした青年は呆れたように笑って、手を差し出した。

「とりあえず、今夜は私の実家にご招待しましょう」

「……え」

「芸術家が安宿に粗食ばかりではいけない。風景だけでなく、衣食住の文化も含めてこの国なのですから。築三百年の屋敷で伝統料理を召し上がっていかれるといい」

「ああ……まあ、ええと」

「迎えの馬車が来ていますから、乗ってください」

 友人でもなんでもない、たまたまそこで出会っただけのくたびれた異邦人に、そこまでしてくれるものだろうか。面食らって返事に困っていると、アレイは「ご遠慮なさらず、甥っ子達を紹介したいだけですよ」と微笑んだ。

「ああ……賢い兄弟の?」

「そう。ハールとリース。可愛いんですよ、二人とも」

 確かに五日間の階段生活の間、この魔術師は九割がた甥っ子の話をしていた。兄の方は古文書と暗号が大好きで、弟の方はお花と魔法陣が好き。兄は社交的で、弟は人見知り。絶え間なく聞かされて、顔も知らないのにかなり詳しくなってしまった。

「いや……子供は苦手で」

「大丈夫ですよ、騒いだりしない大人しい子達ですから」

 実にいい笑顔だ。そしてなぜか奇妙な圧力を感じる。どうやらこの青年の提案は本当に甥っ子自慢がしたいだけで、計画性のない旅人への親切心はついででしかないようだと判断して、私は彼の手を握ってよろよろと立ち上がった。

「じゃあ……一晩だけ、世話になろうかな。ありがとう」

「どういたしまして!」

 そうして私は引きずられるように豪華な四頭立ての馬車に乗せられ、王都に程近い「色彩の湖」という大きな湖のほとりまであっという間に運ばれた。馬車の窓から見える鮮やかな青色の水面に目を奪われていると、アレイが「朝は薄紫、昼は青、夕は燃えるような朱、夜は星を映して銀色に輝きますよ。数日滞在なさっては?」と提案してくる。心が揺れる。目を上げれば――泉の向こうに真っ白な塔が、それも雲まで届いている、目を疑うような巨塔が見えた。

「……ちょっと! すまない、止めてくれ!」

 隣の青年に言ったつもりだったが、御者台まで聞こえていたらしく、馬車が急停止した。がらりと窓を開けた御者の男が「どうしました!?」と驚いたように訊いてくる。

「あ……すまない。その、梢の間に、その、塔が見えたものだから」

「なるほど。道の端に寄せますね」

 もごもごしている私にも御者は物腰やわらかにニコッとし、馬車を通りの端に寄せ、「どうぞ」と扉を開けくれた。

「申し訳ない……」

「とんでもございません」

 言葉数は少ないが、少しも迷惑そうでない様子に安心して、楽しそうに肩を震わせているアレイスタルと馬車を降りる。そしてもう一度、梢の向こうを見上げる。

 あれは何だろう――地上に比べて薄暗く、靄がかかった景色のなかに佇む、白き魔法の塔。

「月の塔ですね」

「……魔術師の?」

「ええ、研究機関。私もあそこの出なんですよ」

「ほう……」

 中は、どんな風になっているのだろう。そう思いながら無言で画材の鞄を開け、そしてはたと手を止めて「いいかね?」と小さな声で尋ねた。

「ええ、どうぞ――ロイル、君も休憩にしたまえ!」

「そうさせていただきます」

 アレイスタルが声をかけると、御者の男が嬉しげに髭を撫でて笑い、そして馬車からばかでかいバスケットを取り出して、木陰に茶と菓子を並べ始めた。

「……なんだ、それ」

「ノイド様も合間にどうぞ。甘いものを食べると捗りますよ」

「ああ……ええと」

 口の中で曖昧に返事をごまかし、流石に馬車を止めさせて油彩は申し訳ないかと、水彩の道具を取り出す。硬めの鉛筆で大まかな形を写しとっていると、背後に気配を感じて振り向いた。

「……何か」

「いえ、流石にお上手だと思いまして。手元を見るのは初めてですから……ご迷惑でしたか?」

「いや……別に」

「鉛筆が滑る度に、白紙の奥から塔が浮かび上がってくる。魔法みたいだ」

「いや……別に」

「私もそう苦手な方ではないですが、やはり次元が違う」

「いや……別に」

 惜しみない賛辞にどう応えて良いかわからず、いい加減に返事をしていると、アレイスタルはクスッと笑って「お邪魔でしたね、すみません」と一歩下がった。画面に集中していて顔は見なかったが、実に爽やかで嫌味のない声だ。嫌になるくらい感じがいい。大の人嫌いの自分が好意を抱き始めていることに気付かされて、嫌になるくらい。

 水彩画を描く時は、あまりやわらかい鉛筆を使わないのがコツだ。芯のやわらかいものは、こすると色が伸びる。気をつけて描かないと小指側の側面が真っ黒になるし、当然、絵筆でなぞれば黒く濁る。淡い色が綺麗に出なくなるのだ。

 故に硬い鉛筆で下絵を済ませ、パレットの上で素早く色を混ぜた。青と緑と橙を少しずつ筆に取り、水をたっぷり含ませて、ごく淡い青みの灰色を作る。遠く深い、洞窟の霧の色だ。

 手早く画面に乗せてゆく。空は曇っているが、下の方は雲が薄く、地平線近くは夕暮れ時の金色の光が透けて見える。それを、実物よりほんの僅か彩度の高い色で塗る。そうすることで、より目で見た色に近くなる。この「感動」という色眼鏡を通して見た光景に。

 雲に突っ込んでいる部分をやわらかくぼかし、雲間にひとつ一番星を描き込むと、私は少し離れた岩に画板を立てかけて、遠くから自分の絵をじっくり眺めた。ふむ、もう少しだけ天頂の雲を濃く塗れば、完成でいいだろう。

 近寄ってサッと仕上げ、乾くのを待っていると、アレイスタルが紅茶のカップを手に話しかけてきた。

「さあ、お茶をどうぞ。やっぱり素敵だな、貴方の絵は」

「素晴らしいな……この国の景色は」

「うちの屋敷もなかなか面白いですよ。外観も、内装もね」

 ほらあれです、と指さされたそこに遠く見えたのは、実に不思議な形をした真っ白い城のようなものだった。細い円錐型を寄せ集めて束にしたような――

石筍せきじゅん型建築、っていうんです。自然の岩をくり抜いて作るんですよ」

 そう言われて納得した。確かにあれは、巨大な鍾乳石群の形を整えて家にしたような形状だ。

「だから中もね、有機的というのか、壁が四角くないんですよ。こちらを見慣れて育つと、きっちりした地上の建築物の方が不思議な感じですけどね」

「ほう……」

「もう少し行くと、また湖が見えますから。そろそろ夕暮れで赤く光る頃です」

「ほう……」



 そうして目新しい光景に夢中になっていたおかげで、自分でも嫌になるくらい内向的な私もさほど身構えず、屋敷の玄関までやってきた。築三百年といったか、変わった造形にばかり目が行ってしまうが、歴史ある貴族の館なのだろう。

 扉の向こうに、頭を下げた使用人が勢揃いしていたらどうしよう……そう考えて急に緊張してきた。が、その予感は幸いにも外れてくれた。灰色の上着の執事風の男がひとり、振り返って「おや、アレイ様。おかえりなさいませ」と微笑んだだけだったのだ。

「ただいま」

「お客さまですか?」

「ああ。大階段で会って、招待したんだ。ノイドさんは画家でね、とても素敵な絵を描かれる。客間の用意を頼んでいいかい?」

「もちろんです。ようこそ」

 男はこちらに向かって感じ良くにこっとして、何かの書類を抱えたまま奥の方へ歩いていった。

「意外と……あっさりしているんだな」

「え?」

「私の母国では、使用人というと……もう少しかしずいているというか。いや、母国と言ってもあくまでも都会の方の話だが」

「うちはこういう感じなんですよ。でも流石に王宮はもう少しきちんと……いや、そうでもないかな。ヴェルトルート王家もまあ、緩いから」

「ゆるい」

「ええ、性格が」

 よくわからなかったが、風景以外にはさして興味もなかったので質問しなかった。と、上の階からお仕着せ姿の女性が身を乗り出して「ご用意できましたよ、色彩の間です」と声を響かせた。アレイが「ありがとう」と片手を上げる。つまりこういう、上下関係における認識の緩さということなのだろうか。考え込んでいると、廊下の向こうの暗がりから澄んだ子供の声がした。

「あ、叔父上。こんにちは」

「やあハール、久しぶり」

「お客さま、ようこそアルク邸へ。素敵な絵を描かれるとお聞きしました。色彩の間は景色も良いですから、ゆっくりなさってください」

「あ、はい……え、あ、どうも」

 まだ声変わりもしていない、十二、三歳くらいの子供が優雅に胸に手を当ててそう言うのを見て、私はたじたじとなった。彼には既に私よりも遥かに社交性があった。騒がしい子供も苦手だが、これはこれでどうすれば良いのかわからない。

「リースは?」

「自分の部屋です。呼んできます」

「頼むよ、二人にお土産があるんだ」

「楽しみです」

 叔父に尋ねられたハール少年が、パタパタと軽やかな足取りで階段を上がって行った。扉の開く音。

「おじう……ぇ、ぁ、ごきげんよう」

 駆け降りてきた弟の方がびくりと立ち止まり、たじろいたように顎を引いて私を見つめた。少し親近感が湧いた。

「こんにちは」

「ようこそアルク邸へ……歓迎いたします」

 いや、訂正しよう。この子の方がしっかりしている。すごく嫌そうな顔はしているが、私よりよほどきちんと挨拶ができる。確かまだ八歳とか言っていた気がするが。

「ほら、お土産だよ。重いから気をつけて」

「古文書だ!!」

「わぁ……」

 叔父から謎の分厚い石板のようなものを与えられた兄の方が飛び跳ねて喜び、綺麗な装丁の植物図鑑を貰った弟の方も静かに目を輝かせている。やはり魔術師の家というのは土産まで変わっているのだなと思いながら、私は窓の外の景色に目を移した。ここから湖は見えないが、こちらはこちらで霧の立ち込める深い森が美しい。

「じゃあ、晩餐は私が腕を振るおうかな。ノイドさんにとっておきのヴェルトルート料理を食べさせてあげよう」

 と、アレイがそう声を上げたのを聞いて振り返る。

「……貴族の屋敷なのに、料理人はいないのかね?」

「いますけど、郷土料理を味わうならプロの作ったものじゃない方がいいでしょう?」

(いや、料理長の作った飯の方がいい)

 そう思ったが、招かれている手前言い辛く、私は「あ、うん」と機械的に頷いた。

「二人も手伝ってくれるかい?」

「はい、呪文やりたい!」

「うん、頼んだよ。ああ、この間新しい術をひとつ思いついたんだ」

「教えて!」

「もちろん」

 (……呪文? 新しい術?)

 なんだか不穏な単語が聞こえた。この魔術師は一体何を作るつもりなのだろうか。やっぱり嫌だと言いたかったが、言い出せず、私は夕食の時間を思ってとても暗い気持ちになった。




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