《星空の内側より》
宿屋の食堂はがやがやと賑わっていて、昼と違って酒を飲んでいる人間も多く、私は少し気後れしていた。酒は好きだが、酔っ払いは嫌いなのだ。誰にも話しかけられない隅の方の席を探していると、壁際の席の人間が立ち上がって「ノイドさん」と片手を上げる。アレイスタルだ。
「どうぞ、向かいが空いています」
「……ああ、うん」
私は正直言って気が進まなかった。彼のことは嫌いではないが、四六時中誰かと行動を共にするのは苦手なのだ。夜の時間くらいは一人になりたいと思っていたが、しかし全く知らない陽気な酔っぱらいと相席するよりは遥かにましだ。諦めて、彼の向かいの席に腰掛ける。
「メニュー、読めます?」
「共通語なら」
呟くように答えて、壁に掛けてある黒板を見る。美しい飾り文字で書かれた白墨の料理名を、ひとつひとつ吟味する。
「……豆腐のスープがあるのか」
「おいしいですよね、豆腐」
「ああ」
豆腐は、豆の汁を固めて作る湖の国セ=オの伝統食材だ。せっかくならこの国の料理を試してみたい気もしたが、久々に故郷の味を食べたい欲求が勝った。
「白葡萄酒と、豆腐のスープと、サラダとパンを」
手を上げて注文すると、従業員が「辛さは?」と尋ねてくる。
「辛さ?」
「ええ。甘口、中辛、激辛」
「……甘口、で」
「はぁい!」
元気良く去ってゆく娘の背を眺め、首を捻る。豆腐のスープを、辛くする?
「本場のとは少し違うと思いますよ。ヴェルトルート人の口に合うように作られてますから」
「……ふむ」
私は頷いて、食事が運ばれてくるのを待つ間、なんとはなしにアレイスタルが食べているものを眺めた。焦茶色の丸い物体が入ったスープに、野菜とキノコと肉を炒めたものに、パンとチーズ。
「……その、丸いのは何だね?」
「丸いの?」
「その、スープに浮いている、深い焦茶の」
「プィルムです」
「……え?」
「キノコですよ」
「はあ……そうか」
とてもそうは見えないな、と思っているのが伝わったのか、アレイスタルは「どうぞ」と言ってスープの皿をこちらに向かってズズッと押した。
「あ、いや……結構」
「食べかけ、苦手ですか?」
「いや、それは別に」
「ならどうぞ、味見」
お言葉に甘えることにして、匙でそれを掬ってみる。しわしわでほとんど真っ黒な球体。口に入れて噛む、と、私は驚きに目を見張った。
「これは……美味しいな」
「でしょう」
「香り高くて……うっ!」
「あ、来ました?」
噛んでいるうちに口の中が燃えるように辛くなって、私は慌ててキノコを飲み下し、葡萄酒を流し込んだ。爽やかな甘味が舌を冷やす。
「辛いなら……はじめから、そうと」
「いやあ、ふふ、すみません」
「――はい、豆腐のスープとサラダとパン。お待ちどうさま!」
文句のひとつも言ってやろうか、いや、どうしようかなと悩んでいるうちに食事が来た。淡い緑の豆腐に、同じ色のスープ。豆乳を使っているのだろう。あたたかな湯気と共に、豆の香りを吸い込む。ああ、これだこれ。久しぶりだ。
「……からいな」
「セ=オはあまり香辛料を使わないんですっけ?」
「臭みの強い肉や魚には使うが、こういう、癖のない豆腐のようなものには、そんなに」
「素材の味を大切にってやつでしょうか」
「いや……単に、刺激的にしたいという欲求があまりないのではないかな」
しかしぴりりと舌の表面を熱くするそれも、まあ故郷の味という感じはあまりしないが、なかなか悪くなかった。
「これで甘口ならば、激辛は……」
「南方の人には人気みたいですよ、ヴォーガリンとか」
「ヴォーガリン」
私を乗せてくれた吟遊詩人一座の故郷ではないか。そういえば向こうの人は辛いものが大好きだと聞いたことがある気がする。気を遣って、香辛料を控えめにしてくれていたのだろう。
「ふむ……」
明るくて優しげなラゥガ一座の家族と、目の前で微笑む青年魔術師の笑顔が少し重なる。少しむず痒いような居心地悪さを抱いて、私は早々に食べ終えて部屋へ下がろうと決心した。
「ああ、少し晴れてきましたね。日が暮れたら、外に出てみるといいですよ。ノイドさんはきっと気に入ると思います」
「え? ああ……わかった」
薄暗い部屋の毛布の中でひとりになりたい、という気持ちでいっぱいだった私は、おざなりに返事をして残りの食事を腹に押し込んだ。そんな食べ方をしても舌と喉には結構な満足感が残っていて、この宿の食事の質の高さが浮き彫りになる。
「少し疲れたので……部屋へ下がるよ」
「ええ、ごゆっくり」
アレイスタルは幸いなことに「一緒に夜空を見よう」なんて誘いをかけてくることもなく、ひらひらと手を振った。貴族生まれで王家付きの魔術師となるとかなりの地位と学殖を持っているような気がするのだが、あまりそんな風には見えない。
まあ何であれ、食事を終えてようやくゆっくりできると部屋に戻った私は――半開きになっていたカーテンの隙間から暗くなった夜空を一目見て、すぐさま画材の鞄を引っ掴むと外へ飛び出した。
すぐさまイーゼルを立てて描き始めようと思ったが、外は真っ暗で、とても絵など描けそうになかった。私は歯噛みしつつ、とにかくこの光景を脳裏に焼き付けようと目をかっ開く。
間近に星が見えた。手を伸ばせば届くのではないかと思える距離に。
洞窟の天井に空を投影している魔法陣は、どうやら丁度いま私がいるあたりの高さにあるらしい。昼間はただ灰色の雲に覆われていた周囲が、一面の澄み切った星空になっていた。頭上ではなく、周囲が! キラキラとした光の球が無数に散りばめられているその様は――子供の頃、空を飛んで星を見に行ってみたいと夢見た時の想像に酷似している。実際の宇宙の星々はもっとずっと遠く離れていて、ひとつひとつが太陽よりも大きいと聞いてひどく落胆したのを覚えているが、そうか……ここに来れば良かったのか。
美しい星の情景をしっかりと記憶した私は、それから宿へ戻ってアレイスタルの部屋をノックした。いかにも風呂上がりらしい格好で出てきた彼には悪いと思ったが、尋ねる。
「あの星に……触れられる場所はないだろうか」
アレイスタルはそれを聞いて難しい顔になった。
「……ええと、洞窟の底からも見えるように、かなりの光量にしてありますからね。大穴の居住区からは少し離されているんです。触るのはちょっと……でも、同じ現象でも良かったら」
魔術師はにこりとして私を部屋へ招き入れ、パチンと指を鳴らして部屋の明かりを消すと、暗闇の中で一言。
「
呪文と同時に、ふわりと青白く光る球体が目の前に現れた。
「これなら、触ってくださって大丈夫ですよ……ああ、こっちの方がいいかな」
ぶわりと一瞬、思わず総毛立つような奇妙な気配がして、次の瞬間には部屋の中が宇宙になっていた。ふわりふわりと浮かぶ無数の光。私は夢中になってそれに触れた。あたたかいのかと思ったが、むしろ指先が少し冷たいような感覚。
「ありがとう……とても、美しいな」
「お安い御用です。この術は慣れているんですよ。いつも甥っ子とこうして遊んでいますから」
小さな子供をあやすのと同じ術ではしゃいでいたことに気づいた私は赤面したが、幸いにも部屋が暗かったので、彼には気づかれなかったと思う。
何度も礼を言って彼の部屋を辞し、自室に戻ると明かりをつけて、深い深い紺色をカンヴァスに塗りつけた。どうしても待てず、布の端で小さく星の形に絵の具を拭い取り、そこにやわらかな淡い青と、そして一点の曇りもない純白をそうっと、慎重に、まだ乾いていない夜空の闇に侵されぬよう描いた。
「……いいな。うん、いい」
何を描いても陰気になってしまう私の作品にしては、自分でも驚くほどきららかに澄んだ星空が描けた。蝋燭の明かりで描いたので、また日が昇れば違った色に見えるだろうが、少なくともこうして夜に――例えば星の見えない雨の真夜中に小さな明かりを灯して眺めるものとしては、完璧と言って良いだろう。
私は深く満足して寝台に横たわり、うつくしい星の夢を見ながら眠った。夢中で描いていたせいで碌な睡眠時間が取れず、次の日の階段で酷い目に遭ったが、後悔はしなかった。
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