《青色の瞳》



 地上から巨大な地下洞窟の底まで階段で下りる――と聞いて、おおよそどれくらいの所要時間を想像するだろうか。まさか丸三日だとは思うまい。

 とはいえその空間の高さが世界中のほとんどの山がすっぽり入るくらいあると考えれば、それも妥当なのだろう。歩き続ける時間を想像した私はかなりうんざりして、はじめは無理を言って荷の多い商人や足腰に不自由がある人間が使う昇降機に乗せてもらおうと考えた。が、一座の主人クォルエンが楽しげに「人工天の内部を見られるのはここだけ」とか「大洞窟を見下ろすあの絶景を君はきっと気にいるだろう」とか話していたのを思い出し、階段を使うことにした。私は基本的に体力もなければ元気もないが、絵にかける情熱ならばいつだって有り余っている。吟遊詩人が感心するほどの情景を見るためならばその程度の努力など容易いのだ。

 人工水晶製の階段はいつごろ作られたものなのか知らないが、三千年近くは経っているものと思われた。華奢な手摺の造形はアルヴィール中期に流行した様式であるし、無数の人間に踏まれてきた板は幾度も交換された跡がある。つまり段によってすり減り方が違うのだ。段には滑り止めとして繊細な紋様が浮き彫りになっているが、それがくっきりと浮かんでいるもの、真ん中あたりだけ淡く消えかけているもの、ツルツルになってよく滑るものと個性がある。端の方はよく透き通っていて、真ん中は細かな傷がたくさん入った半透明。それが太陽の光を透かして上品に輝く。人工物なので本物の水晶のように曇りがあったり虹の光が入ったりはしないが、その味のなさがむしろ魔法的な神秘性を高めているように思う。

 華奢な螺旋階段の直径は、真下にある街をちょうど取り囲めるくらいだ。そんなものが支柱もなく山よりも遥か高いところまで続いているとなると、当然物理法則では維持できない。大規模な魔術仕掛けで維持されているらしく、何かの拍子に魔術が途切れた時には全ての構造が空中で砂になって消えるようになっているという。確かに上から大量の石段が降ってきたら大変なことだが、それはそれで危険極まりないような気がするのは気のせいだろうか。全く、あの時代の建築物は本当におかしなものが多すぎる。

 頼むから私が歩いている間は崩れてくれるなよと思いながら、荷を背負って階段を降りてゆく。まだ十分の一も歩いていないが、もう疲れた。階段は穴の真ん中ではなく、穴の北西側の縁に接するように作られている。その辺りは洞窟の壁が近く、ところどころ壁面の窪みに降りられるようになっていて、出入国者はそこで休憩したり宿を取ったりできるようだ。が、次の窪みまでもう二周分はある。うんざりだ。早く座って休みたい。

 よほどひどく息切れしていたのか、遥か後ろから軽い足取りで追いついてきた魔術師風の青年が荷物を持ってくれた。いつもならば同行が面倒で断るところだが、疲れ切っていたので甘えることにする。

「そのマントの柄はセ=オの方ですか?」

 青年が問う。穏やかな話し方だ。

「……ええ。ノイド=ロと、申します」

「ロというと、青の湖岸の方ですね。私はアレイスタル。アレイスタル=アルクです。ヴェルトルートで王室付きの魔術師をしております」

「おお……それは、また。ええと、私は、画家で」

「それは素敵だ。ヴェルトルートへはやはり、大穴の景色を描きに?」

「ええ、まあ……」

 私のこの、絵を描いていない時のどうしようもない口調を蔑むでもなく、眉をひそめるでもなく、ごく自然に青年は頷いた。感じの良い男だ。背が高く、立ち姿はすらりとしていてバランスがいい。顔立ちもなかなかの美青年である。そしてなにより伶俐なまなざしが素晴らしい。深い青色の瞳には魔術師らしい叡智が宿っている。

「アレイスタル君……少しの時間でいい、君の絵を描かせてくれないかね」

 その内容か、はたまた急に流暢に喋り出した私に驚いたのか、アレイスタルはきょとんとして首を傾げた。

「……私を?」

「金ならいくらか渡せる」

「いえ、いりませんが……」

「嫌かね」

「……脱がなくていいなら」

「もちろん、着衣で」

 そう頷くと、彼は「いいですよ」と木漏れ日が煌めくようにニコッと笑った。聡明そうな雰囲気が一変して、春先の太陽のような印象になる。面白い。

 私は風景画家だが、こうしてごく稀に印象に残るような人間に出会った時は人物画を描くこともある。それからラゥガ一座のように、世話になった人間へ礼として肖像画を描いてやることも。実を言うと私は私の描く人物画がそれほど好きではないのだが、それでも次こそは至高の一枚をと思い、挑戦することはやめられない。

 背の荷物がなくなったおかげで足取り軽く二周分を下りると、昼過ぎには宿を取ることができた。この辺りはまだ人工天の中――つまり、巨大な洞窟の天井に空を投影する魔術の中なので、周囲はやわらかな灰色の雲に包まれていて、眼下の景色はほとんど見えない。これはこれで面白いが、霧がかった景色というのは淡く透ける木々や建物があるからこそ美しいのだ。全部灰色だと絵にはならない。だから彼には宿の部屋の、洒落た鉄格子の嵌まった窓の前に座ってもらった。

「君……慣れているね」

 肘掛けに座って本を開き、手元に目を落としているアレイスタルに言う。彼はぴくりとも頭を動かさず口だけでそっと答えた。

「肖像画は何枚か描いていただいたことがありますから」

「貴族生まれかね」

「ええ」

 油彩と迷ったが、画用紙に水彩で数枚描くことにした。硬めの鉛筆で下絵を描いて、そこにさらりとした筆遣いで、しかし濃く鮮やかに色を乗せる。洞窟の民らしい白い肌と黒髪の対比、夜空のような深い色のローブと、星屑のような銀刺繍。そして窓からの光で青玉のように光る青い瞳。

「地上へは何の用で?」

 尋ねる。振り返りそうになって慌てて顔を戻すのを見て「動いていい」と付け加えた。

「新しく出た植物図鑑を買いに。こちらはやはり物流の関係で数日遅れるので、少し早く手に入れて甥っ子を驚かせてやろうかと」

「ふむ、どんな子なのかね?」

「人見知りで、草花が好きで、好奇心旺盛な賢い子ですよ。まだ八歳なのにもう新しい魔術をひとつ編み出したんです」

「それはすごいな」

 それは本当にとんでもない子供だと私が思わず唸ると、アレイスタルは誇らしげに瞳を輝かせて笑った。

 出た、この顔だ。

 印象的な瞳の煌めきを素早く紙に写し取る。少し考えて、瞳の中に青空を写したような空色の光の欠片をいくつかと、頬と目尻に実物よりほんの僅かだけ赤みを足した。うん、より楽しげになった。

 完成した数枚を見せると、アレイスタルは食い入るように画面を見て、そして照れ臭そうに「こんな風に見えていますか」と笑った。一番良く描けた笑顔の一枚を渡してやると、目を白黒させて財布を取り出そうとする。

「いや、それはモデル代だ」

「ではその代金を引いて、金貨一枚分」

 ずっしりと思い銀貨の山を押し付けられて私は困惑したが、あって困るものでもないので受け取ることにした。

「これでもっといい画材を買って、もっといい絵を描いてください」

「ああ、そうする」

「鞄が重くなった分、下までは私が荷物を持ちますから」

「いや、それは……」

 流石に申し訳ないと言おうとして、それがいつものような人を遠ざけるための断り文句でなく、本心からの気持ちであることに私は気がついた。

「いいのかね?」

「置いていく方が気掛かりです。あと五分の四はありますよ」

 その距離を思って私は遠い目になったが、それでもこの明るい目をした青年と少しの間旅してみるのも悪くないかもしれないと思った。





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