ノイド 根の画家

綿野 明

《大穴》



 私がその土地を訪れたのは、ただの偶然と称しても差し支えない、ほんの軽い気持ちからであった。「根源の地」「根の国」と呼ばれる地底の大国を、まあ、死ぬまでに一度くらいは見ておいてもいいかなと、その程度の考えでふらりと観光に行ったのだ。

 旅程をいちいち自分で計画するのが面倒な人間は、或いはそれができるだけの教養がない人間は――私はどちらかというと後者に分類されるが――大陸を渡る隊商キャラバンに金を渡して同行させてもらうのがお決まりだ。しかし多くの絵描きがそうであるように、私もまた大変に内向的な性質であったので、どうにも商売人達の何事にもきっちりとした価値観や、ハキハキと気軽に何でも話しかけてくるところ、仕事となると別人のように愛想のよい笑顔を浮かべるところなどが……どうにも、分かり合えない感覚になってしまって、はじめの隊商には適当言って早々に別れを告げ、たまたまそこで興行をしていた旅の吟遊詩人の馬車に乗せてもらう算段をつけた。

 彼らは彼らで、客の前ではどんなに不機嫌でもニコニコ笑える類の人間であったが、こちらは歌を歌うだけあって芸術家気質で、まだ付き合いやすいように思えた。浅黒い肌に濃い金の髪、少しだけ南方訛りのある「ラゥガ一座」は、父親と母親、小さな息子が一人と、母親の腹の中にもう一人の四人家族だ。彼らは休憩時間だろうが馬車の中だろうがいつも楽器を爪弾いて、美貌の母親アルィレン――私は何度聞いても正しく発音できない――が詩を作ると、それに合わせて御者をしながら父親クォルエンが深みのある良い声で歌い、まだ五歳かそこらの息子のエルェンすら、子供用の小さな楽器を驚くべき技量で弾いてみせた。私が驚く度にエルェンはキャッキャと喜んで笑い、更なる超絶技巧を見せつけようと必死な顔をして練習に励むので、彼の両親にはとても感謝された。

 彼らと旅をしている間に描いた私のスケッチは、常よりもずっと色鮮やかでタッチも力強いものになっている。これが全くの無意識からそうなったのだから、やはり絵画とは奥が深いと、彼らと別れた後になって、私はしみじみとそう思ったのだった。



 そんな一座とは「真上の国」と呼ばれるフォーレス国で別れた。彼らはしばらくそこで興行をする予定で、私はすぐに目的地ヴェルトルートとの国境へ向かったからだ。

 フォーレスという国は、国というより都市と呼んだ方が相応しいようなところだ。高い壁に囲まれた堅牢な城塞都市。入り組んだ灰色の街に、剣や杖で武装した国民。しかし他国の侵略や、魔獣と呼ばれる凶暴な獣から彼らが守っているのは、自国の城ではない。フォーレスは地底洞窟の入り口である「大穴」と、その下にある「根源の国」ヴェルトルートを守るために生まれた国なのだ。故にこの国の王侯貴族は幼い姫君ですら武芸や魔術に秀で、彼らの率いる騎士団は世界最強とも言われているらしい。

 果たして地底の湿った洞窟なんぞをそこまでして守る価値があるのかと、その時の私はまだ懐疑的だった。確かに、ヴェルトルートは「根源の地」だ。およそ八千年前、超古代文明が魔導戦争によって地上の世界を滅ぼした時、人類はかの大洞窟に逃げ延び、地下深くの暗闇での生活を耐え抜き、生き延び、そしてそこから全ての復興が始まった。それ故に歴史的価値が高いのはわかる。だがそれはもう遥か昔の話で、そんな場所に今も住んでいるような人間は物好きでしかなく、「守るための国」を作るほどではないだろうと私は思ったのだ。おおげさなことだと。

 優美な空中回廊をいくつか鉛筆で写生し、中心街から少し外れたところにある常設の市場で昼食を買う。甘辛いタレの串焼きに、薄切りのパン、小さな紙皿に入った酢漬けの玉葱。どれもさして特徴的ではないように思うが、串焼きは口に入れて噛んでいるうちにじんわり唐辛子が効いてきて、パンにはハーブが練り込まれている。玉葱は胡椒をしこたま一緒に漬け込んだらしく、香り高いというか、全体的に刺激の強い印象だった。旅の疲れが溜まっている今は食が進むのでありがたいが、本格的に熱を出したら食べられなさそうな味だ。いや、流石に病人食まで胡椒漬けにはしないのかもしれないが。

 食事を終え、通りすがりに小さな画廊を何件か覗いてから、いよいよ「大穴」の方へと向かう。人混みの中をすり抜け、地図を頼りに進む。敵を迷わせる迷路のような街並みを誇るわりに、食堂や土産物屋、博物館や個人営業の小さな画廊まで、どこへ入っても安価な木綿紙の地図が売られている。何か矛盾しているような気もするが、なんだかんだ言って、現地の住民にとっても過去は過去、今は今なのだろう。むしろこうやって内心で「そこまでして守るほどのものか」とか「それは矛盾しているのではないか」とか、ちまちまとつつき回しているから、私は根暗だと言われるのかもしれない。

 そういえば、ラゥガ一座の親子は一度だって私を「付き合いが悪いな」という顔で見なかったし、暗い色ばかりな私の絵を見ても「透き通るような美しい黒だ」と言ってくれた。やはり人心を掴むことを生業としているだけある……と考えて、そういうところだぞ、と自戒する。どうにも私は、人の好意を素直に受け取るということが苦手で、まあ正直に言えばそんな自分も嫌いではないのだが、いつも少し後ろめたいのは確かだ。

 旅の剣士らしき男にぶつかられた上に舌打ちされ、ひどい気分になりながらも、どうにか広場の端に到達し――とその時、私は突然今までの散らかった思考の全てを忘れ、ふらふらと柵へ近寄ると、目をまんまるに見開いてそれを見つめた。



 繊細にきらめく水晶の柵に囲まれた、広い広い赤茶けた剥き出しの岩地。その真ん中に、およそ平原ひとつぶんはあろうかという大きな穴が口を開けている。

 地獄の淵と呼ばれたら信じてしまうような、真っ暗で、底なしの、しかし身を乗り出して覗き込めば奥の方が薄ぼんやりと青く光る、深い深い落とし穴。とうてい現実とは思えない、あまりにも異様な光景。

 私は背負った荷物から紙束ではなく、カンヴァスと組立式の画架イーゼルを取り出して柵のすぐ手前に設置し、絵の具箱の蓋を開けた。震える手で何色なんしょくかを絞り出す。一番太い筆を手に取ると、殴るように急いて、しかし、地獄への畏怖を抱え込むように繊細に、色を乗せてゆく。勿論黒い絵の具そのままでなく、煤黒すすぐろに僅かな紺と紫を混ぜた、常夜の闇の色だ。本能的に脚が震え出す果てない深さと、恐ろしいのに吸い寄せられてしまう悪魔的な魅力の双方を湛えた、深い、深い、深い色あい。


――戦火で街を焼かれ、森が滅び、地上のどこにも住める場所がなくなったとして……果たして私は、この穴に飛び込めるだろうか? 絶望に耐えかねてではなく、闇の果てに希望を見出して。


 私はそう考えて瞬き二度分くらいの間だけ筆を止め、そしてすぐにまた描き始めた。

 終末の時代、詳細な数を私は知らないが、それでも小さな国をひとつ作れるくらいの人間が、世界中からこの穴へ安住の地を求めて集まったのだという。そして何もない岩窟の底に資材を、植物を、動物を持ち込み、互いに言葉の通じぬ相手と小さな篝火かがりびを作って、そこから再び全てを始めんとした。だからこそ、人類は今も絶滅を免れている。

 神話めいたその物語に現実という重みがあったことを、私は今初めて知ったのかもしれない。恐ろしい闇の世界の入り口を一心に見つめ、この情景を描き留めんと一心に筆を動かせば、次第に人が集まり始めた。身なりの良い数人が、売ってくれ、言い値で買い取ると申し出てきたが、私は無言で首を振った。これは売れない。今まで描いたどれでもくれてやるから、この絵は、この絵だけは――



 夕暮れ前には完成したそれを、私はひとときの間、深い満足と共に見つめた。今までの人生で最高の出来だった。そっと画架から絵を外し、専用の木箱に収める。箱の外側からカンヴァスの側面をネジで固定できるようになっていて、蓋を閉じれば画面を保護したまま持ち運べるようになっているのだ。油彩画は乾燥に時間がかかる。触れても色彩が崩れなくなるまでに十日はかかるし、厚い絵の具の層の奥までとなれば一年は欲しい。

 真鍮の留め金をかけたそれを鞄に仕舞うと、見物人達が残念そうなため息をついた。人気画家でもなんでもない、引きこもって地味な暗い絵を描いている根暗だと言われ続けてきた私はかなり自尊心をくすぐられたが、それでも画廊の主人だという男と話をするのは億劫だったし、美術館の関係者だという老婦人に取り入ってどうこうという気も起きなかった。私は絵を描くことには興味があるが、絵を飾ることにはさして興味がないのだ。

 かくして根暗な私は見守る群衆へおずおずと片手を上げ、大事に絵を抱えると、そそくさとその場を立ち去った。日が沈む前に、岩肌に取り付けられた長い長い水晶の階段を下りて、あの深い闇の底の光景を見に行かなければならなかったからだ。





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