第3話




 背中を向けているフェリクスがどんな表情をしているのかエステファニアには見えない。けれどその背中からでも、彼が動揺したのがわかった。


「こいつは未だに大事に写真なんか持ってるんだ! 最低だろう!?」

「勝手に寝室に入るなんてその方が最低よ」


 フェリクスを押しのけるようにして前に出たエステファニアははっきりとそう言った。


「このことはわたしと彼とのことであって、あなたには関係ないわ、パブロ。どういうつもりなのか知らないけれどいい加減にして」


 パブロの顔が歪んだ。一瞬で頭に血が上ったのだと、誰の目から見ても明らかだった。勢い良くのばされた手を避ける間も無くドンっと衝撃が走り、エステファニアの短い悲鳴とフェリクスが彼女の名前を呼ぶ声が重なった。


「おい! 何をしてるんだ!!」


 キッチンから飛ぶように友人たちがやってきてパブロの体を抑えた。


「この女!! 俺が親切に教えてやったのにバカにしやがって!!」


 「エステファニア、大丈夫か?」と青ざめた顔でフェリクスが床に倒れたエステファニアを抱き起こした。幸い、友人たちが座っていたクッションがあったためそれほど衝撃はなかったが、机の角にぶつけた腕が少し痛む。


「パブロ、お前、酔ってるんだ! 送ってやるから帰るぞ!!」

「酔ってるもんか!! 離せ!!」


 引きずるようにして友人二人がパブロを外へと連れ出すのをエステファニアとフェリクスは黙って見つめていた。残った一人が夫婦の傍にしゃがみ込み、心配そうに二人を見た。


「大丈夫か? 悪かった。俺たちがパブロのこと追い返しておけば……」

「気にしないでくれ。僕らも同じだ……」


 残った一人は医者だった。エステファニアに大丈夫だったかたずね、何かあればいつでも電話をしてくれと二人に申し出てくれた。それからエステファニアが机にぶつけた腕もその場で診ると言って手を差し伸べた。


 フェリクスの視線が床に散らばったブロマイドを気まずそうに見たのに、エステファニアは気がついた。「お前がそのブロマイドを大切に持ってたなんてな」と医者の友人が苦笑いした。


「エルスールは人気だったし、俺もブロマイドを買ったけど……軍服としまってあるよ」

「そうか」


 フェリクスはブロマイドを拾って集め、机の上に置いた。それから気まずそうな視線のままエステファニアを見た。


「パブロは君に何か言っていたのか? いつから?」

「……あなたが昔の恋人を忘れられなくて、ちょっと似ているところがあるわたしと結婚したって……結婚式の時にはもう言われたわ」

「どうして話してくれなかったんだ?」

「聞けないわ、そんなこと……でもちょっと前に偶然そのブロマイドを見つけてしまって……エルスールのことだったのね」


 フェリクスは酒で赤くなった顔をさらに赤くした。


「パブロのこと、どうするんだ?」


 場の空気を換えるためにか友人が口をはさんだ。


「きっとまた絡んでくるぞ」

「どうしてあいつはこんなこと……」

「お前に嫉妬したんだろうな」

「嫉妬?」


 フェリクスとエステファニアは友人を見た。


「あいつはお前のいないところで俺たちやお前のことバカにしていたから……エルスールとつき合いはじめた時もかなり怒ってたんだ」

「知っていたのか?」

「あいつが偶然見かけたらしくて……隠してたんだろ? 言いふらしたりはしていないよ。あいつは俺の家が世話してやってる居候のくせにってぶつぶつ言っていたけど」

「世話って……確かにあいつの家で暮らしていたけど、生活費は親の遺産で家賃も払ってたのに……」

「あいつは知らなかったんじゃないか?」

「いや、あいつの前でもその話はしたことあるよ」

「じゃあ忘れてたんだな。都合よく――未だにフェリクスのこと怒ってるよ。俺たちへの態度も変わらないし」


 医者の友人は特権階級の家の出ではなく、西部出身だがごく一般の家庭に生まれた。西部軍に従軍することになったのは学校を出て就職がうまくいかず、軍医ならばすぐに就職できたためだった。

 パブロは彼を含めた西部軍のそういう特権階級ではない兵に対して随分と偉そうな態度を取っていたらしい。フェリクスの前では多少うんざりする態度を取ることもあったがまだマシだったそうだ。エステファニアはあきれたようにため息をついた。


「フェリクスは何も悪くないのに」

「そうだな。でもあいつはそう思えないタイプなんだよ」


 友人はもう一度パブロを連れてきてしまったことを謝り、片づけ途中であることをわびて帰っていった。楽しい時間はまるでなかったかのようだった。エステファニアは疲れ切ってソファに身を預け、フェリクスも同じような気分でそのとなりに座った。


「悪かった、エステファニア」

「フェリクスが謝ることなんてないのよ」

「だけど君に暴力を振るうなんて……近づくなと、もっと強く言っておくべきだった」

「……きっと言ってもわからないと思うわ」


 なぐさめるようにエステファニアはフェリクスの腕を撫でた。


「でも……わたしたちだけなら我慢できるけれど、この子が生まれた後が心配……」

「そうだな……」


 パブロはきっと同じことを繰り返すだろうと二人は感じていた。


 そしてそれは間違っていなかった。あれ以来、たびたびパブロは二人の家に押しかけて、それを無視すると家の前で大声で怒鳴り散らすこともあった。近所の人は同情してくれたのでよかったが、それでもいつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。

 二人は話し合い、パブロの両親に密かに相談して次にパブロが騒ぎを起こした時は警察を呼んだ。事情を話してあったこともあり彼はすぐに連れていかれ、やっと静かになった家の中で二人はそっと額を寄せ合った。


 翌日、パブロの両親が謝罪に現れた。パブロと違って善良な二人は息子の所業に腹を立て、フェリクスとエステファニアに泣いて謝った。二人もこの善良な夫婦を責めるつもりはなく、ただパブロとはもう関わりたくないため夫妻にも会えなくなるだろうということだけは伝えた。






***






 パブロはかつてこの国の貴族制があった頃の公爵家の血を引く特権階級の家に生まれた。家は裕福で、彼はそれを当然のことだと受け入れていたし、同年代の誰よりも自分が偉いと信じて疑わなかった。

 そんな彼が唯一疎ましく思っていたのがある日突然パブロの家で暮らしはじめた同じ年のフェリクスだった。両親同士が親しく、親を亡くした彼を心配したパブロの両親が彼を屋敷に住まわせたのだ。フェリクスは控えめだが優秀でそんなところが目ざわりで、一方で使用人の手伝いをしていることを――フェリクスは生活費を払っていたがその上で気を遣って自ら手伝いを申し出ていたのだが――バカにしていた。

 やがてパブロは常にフェリクスを自分の下に置かなければ気が済まなくなり、親しい友人のようにふるまいながらも彼を連れまわしてどうにか彼をバカにしようとした。大学を出てフェリクスは講師の仕事に就いたがパブロは仕事が決まらず、それが彼の自尊心を傷つけ、ちょうど激化しつつあった内戦への参加を誘って彼は強引にフェリクスに仕事を辞めさせ共に軍に入った。


 元々の家柄のおかげでパブロは軍では一目置かれていた。西部軍が特権階級の権利を主張しており、良くも悪くもパブロの同類が多かったのも大きかった。フェリクスや彼と親しい一般家庭の出身者からは遠巻きにされていたがパブロは彼らをバカにしていたので気にもしなかった。フェリクスではない気の合う友人とつるむようになり、戦況は悪化していたがパブロは人生の最良の時を迎えていた。


 雲行きが怪しくなったのは内戦が終わりに近づいた頃、疲弊の色が強くなったキャンプ地に慰安のため旅芸人の一座がやって来た時のことだった。一座の花形であるエルスールは美しい歌手で、兵たちはほとんど皆、彼女に夢中になった。パブロも同じで何度も彼女を個人的にデートに誘おうとしたがエルスールに相手にもされない。

 いら立っていた彼は、ある休みの日に町へ出かけようとする途中で並んで歩くエルスールとフェリクスを見かけた。二人の雰囲気は遠巻きでもわかるほど親密で、誰の目から見ても恋人同士に見えただろう。パブロは頭に血が上るのを感じた。何故フェリクスなんかと!! しかし二人の邪魔をする前に一座は旅立ち、当然エルスールも去って行った。


 パブロはフェリクスをもはや憎む気持ちを持ちながらも上辺だけの関係をつづけ――その頃にはフェリクスもあからさまにパブロを避けようとしていたが――内戦が終わって日常に戻ると、パブロの夢の時間も終わりを告げた。フェリクスは再び講師の仕事に就き、パブロはまた無職となった。退役軍人として年金はあったが微々たるものだ。両親は未だに職を探そうともしない息子に苦言を呈するようになり、それがフェリクスと比べられているように感じてまた腹が立った。

 そうしている間に、フェリクスはパブロの両親に結婚すると報告をしに来た。いつの間にいたのか恋人が妊娠したのだという。ついでのように招待された結婚式ではじめて会ったフェリクスの恋人――エステファニアは、輪郭や鼻の形がエルスールに似ているような気がして、あの日見かけた親密な雰囲気のフェリクスとエルスールを思い出し、パブロはフェリクスへの憎しみを大きくし、必ず二人の仲を引き裂いてやろうと決意した。




 しかし何もかもうまくいかない。




 エステファニアという女はパブロが親切にエルスールを未練たらしく想っているフェリクスのことを教えてやったのに、関係ないと突っぱねてきた。腹が立ち今度は近所中に知らせるつもりで二人の家に押しかけていたらとうとう警察を呼ばれ、パブロはあっけなく連行された。

 両親が迎えに来ることもなく、数日後、パブロは追い出されるように留置所から放り出された。冷めた目の警察官にいらいらとしながらも帰宅すると、同じような目をした両親がパブロを迎えた。


「お前は自分の立場がわかっているのか?」

「は?」

「特権階級と呼ばれているが権利などないものと思って堅実に生きろと、子どもの頃から何度言っても理解しなかったな……まさにそれが現実になっているのにどうしてそうなんだ」


 父親の言葉をパブロは少しも理解できなかった。






***






「おじさんとおばさんから手紙が来たよ」


 腕の中ですやすやと眠る赤ん坊をやさしく見つめていたエステファニアは顔を上げた。がらんとした部屋の窓から差し込む日の光が、エステファニアと赤ん坊の色素の薄い髪を金色に輝かせていた。


「ここを出る前でよかったわ。おじさまたちはなんて?」

「屋敷を引き払って、小さな家を買ったみたいだ。二人でそこで暮らしはじめたって――落ち着いたら手紙を欲しいと。それから……」


 フェリクスは少し言いよどんだ。「パブロのこと?」とエステファニアがたずねると、フェリクスは小さくうなずいた。


「結局生活も態度も改めなくて、おじさんたちも見限ったみたいだ。屋敷を出た後は連絡も取っていないらしい……ろくなことになっていないだろうって書いてあるけど、たぶん……」

「もうわたしたちには関係ないことよ……」

「そうだな」


 フェリクスは手紙を封筒に戻し、ポケットに入れた。


「そろそろ行こうか? 忘れ物はない?」

「大丈夫よ」

「よく寝ているな」


 赤ん坊の頬をつつくと、「起きちゃうわ」とエステファニアがやさしくたしなめた。


「トリニダードさんが用意してくれた家はどんな家だろう」


 車に乗り込みながらフェリクスは言った。


「近くに病院や学校もあるし、自然が多くて子どもを育てるのにいいところだって言っていたけれど」

「トリニダードさんも会いに来やすい距離なんだろうな」

「そうね」


 赤ん坊を起こさないように二人は笑った。車のエンジンがかかるとさすがにむずかったが、エステファニアの手がやさしく背中をたたくと、また穏やかな寝顔に戻って行った。


 車は東へと走り出す。木々の間を抜けるように作られた道路には、昇ったばかりの朝日が光の道を作っていた。少し開けた窓からさわやかな風が吹き込み、子どもに聞かせるようにやさしく口ずさむエステファニアの歌声が風の音に混じってフェリクスの鼓膜を揺らしていた。


 美しい果樹園で過ごす、若い恋人たちの歌だった。



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東の楽園 通木遼平 @papricot_palette

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