第2話
空気に染みこんでいくような弦楽器の音と艶やかな歌声が、美しい果樹園の若い恋人たちの戯れを歌っていた。その曲に惹かれたのか、その歌声に惹かれたのかフェリクスにはついぞわからなかった。
しかしその当時の彼の憂鬱な気持ちに清涼感を与え、その心を幾分か救ってくれたのは間違いなくその歌声と、歌声の持ち主である彼女の存在だった。
フェリクスの生まれ育ったトラングホードは自然豊かな美しい国だったが、彼の二十歳前後の十年ほどにわたって内戦状態に陥っていた。国の西部に多く暮らす、かつて貴族と呼ばれていた特権階級に対して開拓を終えたばかりで広い農地の多い東部の国民がその特権を手放すように訴えたのがはじまりだった。
かつての貴族たちは一部の税金が免除され、年金も多く、それ以外にも様々な権利が法によって守られていた。一方で、かつてその貴族たちの民だった者たちは変わらず高い税金を払い国を支えつづけていて、不満が爆発するのは仕方のないことでもあった。
最初は議会の言い争いだったはずがいつの間にか国民に火がつき、気づけば国は東西にわかれ戦争がはじまってしまった。戦いは長くつづき、国は疲弊していく一方だった。
フェリクスは西部の生まれで特権階級の人間ではあったが、西部軍の考えに賛成していたわけではなく、従軍はただ悪戯に彼の心をすり減らしていった。
埃と土のニオイが混ざった西部軍のキャンプは若い兵士たちで溢れかえっていた。彼らはそのほとんどが特権階級の生まれで、自らの権利を守るために従軍していた。特権階級ではない者も多少はいたが、彼らはたまたま西部で生まれ育ち、職が見つからず戦争に参加しているだけという者がほとんどだったため、特権階級の兵たちとは同年代でもさりげなく距離を取っていた。
キャンプは当然雰囲気が悪く、戦況も悪くなればなおさらだった。閉塞感に包まれ、誰もが疲弊していた。休息日に近くの町に繰り出しても問題ばかり起こすので、若い兵たちが町へ行く日はほとんどの店が閉まるありさまだった。
しかしその日、キャンプは珍しく活気にあふれていた。政府の高官が旅芸人の一座を連れて慰安にやって来たのだ。明るいショーや芝居、何より女芸人の姿に若い兵たちは生まれや階級に関わらず浮かれていた。ただ一人、フェリクスを除いて。
こんなくだらないショーを見るより、この無意味な内戦が早く終わってくれた方がよほどなぐさめになる。
フェリクスは元々西部と言っても北の山間の土地の生まれで、父親がそこの領主だった。フェリクスの家族は確かに特権階級と呼ばれる身分ではあったが領地が豊かとは言い難く、その恩恵も領地やそこに住む人たちのために活用しなければならないほどだった。
そのことを、フェリクスは不満に思ったことはない。幼い頃の記憶だが確かに故郷で過ごした日々は温かく幸福だった。
両親が早くに亡くなり、親戚付き合いなどもなかったため国から新しい領主が派遣されることになり――幸い、新しい領主も善人だった――身寄りのないフェリクスは両親の友人だった夫婦の元に預けられることになった。かつて貴族制度があった頃は公爵家にあたる家柄だったその一家は、典型的な特権階級だったが夫妻は善良で、フェリクスは快く迎え入れられた。
二人はフェリクスが成人した後は好きな仕事ができるように支援をするからと言ってくれたがさすがにフェリクスは遠慮して自分の貯金や遺産から生活費を支払い、学校へは奨学金を得て通った。大学まで出ると学校の講師の仕事を得て独り立ちをしたが、夫妻の息子であるフェリクスと同い年のパブロによって、彼はこうして従軍する羽目になったのだ。
そのパブロは率先して舞台の女芸人――この一座の花形らしい――に手を伸ばそうとしている。
うんざりした気分でフェリクスはそれを遠巻きに見つめていた。従軍も、一人ですればよかったのだがパブロはそんな気概はないのだろう。舞台上の女は使い込まれた民族楽器を手に艶やかな声で歌っていた。それは兵を鼓舞する歌や、色っぽい恋の歌が主だったが、一曲だけ挟まれたその穏やかな恋の歌がフェリクスの耳に残った。
ショーが終わるとブロマイドなどが売られた。一座はしばらくこのキャンプに近い町に滞在するらしい。休みでなければ町に近づけないが、フェリクスはどうしてもあの歌手が気になってキャンプから立ち去る準備をする一座にこっそりと近づいた。
彼女に会えるのではという期待をしていなかったわけではないが、それは本当に偶然だった。
そっと近づいた楽屋がわりのテントからくすんだ金髪が飛び出してきた。それは間違いなくあの歌を歌っていた女芸人で、フェリクスも彼女も、同時に目を丸くした。
「あら、ごめんなさい」
ぶつかりそうになったのを、女は謝った。
「いや、こちらこそ……」
「トリニダードさんに用事?」
トリニダードは一座を連れて来た政府の高官だ。知的な灰色の目をした五十代の男で、特権階級だがこの内戦には反対しているという噂だった。フェリクスは首を振り、何か理由を探したが思いつかず、結局正直に「君に会えるかと思って」と告げた。
「歌が素晴らしかったから、それを伝えたくて」
「ありがとう」
「果樹園の恋人たちの歌が特によかったよ。あれはどこかの民謡?」
「違うわ。楽器の音でそう聞こえるみたいだけれど。でもあなた、変わっているのね」
「えっ?」
「あの歌が、一番反応が悪かったのよ」
女は笑った。テントから別の芸人が出てきたので、邪魔にならないように二人は脇に避けた。
「でもうれしいわ。わたしも今日の歌の中では、あの歌が一番好きなの」
「明日もあの歌を歌ってくれるかい?」
「そうね、あなたが聞きに来てくれるなら」
いたずらっぽくそう言う女に、フェリクスは胸の奥がかゆくなるのを感じた。冗談だとわかっていても浮足立ってしまうのは仕方のないことだろう。
その日から、フェリクスはたびたび彼女――エルスールと顔を合わせた。彼女の仲間は二人の仲をとやかく言わず、フェリクスは彼の仲間にその逢瀬のことを何も話さなかったので、一座がキャンプの近くに滞在している間、二人の仲が周囲に広まることはなかった。
休みになると、フェリクスはエルスールと二人で出かけた。若い兵たちが赴く近くの町ではなく、キャンプからは離れた美しい林や、畑の広がる小さな村が主な行先だった。自然を楽しむようにのんびりと歩き、時に彼女が思いつくままにメロディーを口ずさむのを聞いたり、お互いのことを話したりした。
「わたしたちは元々、東部が主な活動拠点なの」
どうして慰安に来ることになったのかたずねた時、エルスールは言った。
「わたしの母が――今はほとんど裏方をしてるんだけど、若い頃はうちの看板女優で、トリニダードさんは母のファンだったの。今でも交流があって……それで慰安に来てくれないかと話が来たみたい」
「あの方は戦争には反対みたいなのに、どうしてそんな気を遣ってくれたんだろう……それもこっちの軍に」
「内緒だけれど、東部軍にも行ったのよ」
「そうなのかい?」
「トリニダードさんは、戦争に参加している若者に同情しているの。若者の将来を考えているフリをする大人はいるけれど、結局は自分たちの訴えを通すために戦争に若者を送り込んでいるでしょう? 特にこの西部は……トリニダードさんは若者たちこそ特権がなくなっても人生がこれからなのだから問題なく過ごせるだろうと思っているみたい」
「どうだろうな……」
「でも実際に、偉そうな年よりは前線には立たないでしょう?」
どちらにしろ命を懸けるのは未来ある若者で、戦争で心を傷つけているのもその若者だった。トリニダードはそれを憂いて、彼らの心が少しでも癒されるように気を配っているらしい。戦争が早く終わるよう尽力したり、この慰安だったり、あるいは軍を退いた時の療養先の充実だったりした。
「ここにはいつまでいるんだ?」
「トリニダードさんの仕事の都合に合わせての滞在だから……あと二日ほどかしら」
エルスールたちはもう一週間はこの地に滞在していた。旅立てば、また東部へと戻るのだろう。
「その後は……もう君の歌は聞けない?」
「聞きたいの?」
エルスールは目を丸くして自分の腰を抱いて歩く恋人を見上げた。
「そんなに驚くことか?」
「今までわたしの恋人役を務めた相手は、みんなわたしが旅立つ話なんて興味を持たなかったわ。名前も知らない女ですもの」
「僕は知っている」
「そうね」とエルスールは笑った。その美しい灰色の瞳が愛おしくて、フェリクスはそっとまぶたに口づけを落とした。
フェリクスとエルスールの関係は、エルスールが旅立った後はもちろん、戦争が終わった後もつづいた。軍をやめたフェリクスは以前住んでいた場所を引き払ってしまっていたのもあって育った土地から少し離れた場所に改めて家を借り、その町の学校で講師として働きはじめた。終戦の理由は内戦により疲弊したトラングホードの周囲の国がきな臭くなったからで、痛み分けのように取り繕ってはいるが実際のところ西部軍の敗北に近かった。今は特権階級の権利はく奪のために政府が動いているという。あのトリニダードもその一人だった。彼はもともと、特権階級の権利をなくすべきだという考えの派閥だったためだ。
エルスールは東部にいる。旅芸人なので住所が定まらず、彼女からの手紙にはいつも滞在先が書かれ、そこの絵葉書が同封されていた。フェリクスはできるだけマメに彼女へと手紙を書いた。
時折、二人のいる場所の中間地点で落ちあい、顔を合わせることもあった。その土地の食べ物を楽しみ、少しいいホテルに泊って朝までベッドの中で戯れた。腕にエルスールを抱きしめて眠ることは、彼にとって幸福を抱きしめて眠るのと等しいことだった。
エルスールの色素の薄い髪が、カーテンの隙間から差し込む朝日を受けて金色に輝いて見える。このひと時を永遠のものにできたらと、その頃のフェリクスは願ってやまなかった。
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