東の楽園
通木遼平
第1話
引き出しの奥から出てきたのは数枚のブロマイドだった。軍服姿の華やかな顔立ちの女性が、シュッラのいう四弦の民族楽器を抱えて艶やかに笑っている。エステファニアは偶然見つけてしまった夫の秘密をただじっと見つめることしかできなかった。
***
エステファニアが恋人関係にあったフェリクスと結婚するに至ったのは彼女の妊娠がきっかけだった。付き合っていた頃、二人は近くに住んではいなかったため普段は手紙や電話のやり取りしか叶わなかったが、それでも時折直接顔を合わせ、朝を共に迎えた。
妊娠がわかった時一緒に暮らす母はあきれながらも喜んでくれ、仕事仲間からの祝福もうけたが肝心のフェリクスがどんな反応をするのか全く想像できなかった。もし拒絶されたら、一人で育てるしかない……母が自分を女手一つで育ててくれたように。
「結婚しよう」
しかしその密かな決意に反して、エステファニアから妊娠を告げられたフェリクスは呆然としながらもそうこぼした。灰色の瞳に映る自分の間抜けな顔に我に返ったのか、フェリクスは頬を赤くしてひとしきり焦った後、改めて子どもができたことを喜び、エステファニアにプロポーズをした。
これほど幸せを感じたことはなかっただろう。
その幸せにほんの少し影ができたのはよりにもよってエステファニアがフェリクスと結婚式を挙げた美しい日のことだった。
「フェリクスには忘れられない恋人がいるのさ」
その言葉を聞いたのはまだ内戦の跡が残る教会で結婚式を終えた後、近くのレストランで行われた披露パーティーでのことだった。新郎新婦の家族や友人が集められた楽しいひと時に、フェリクスがエステファニアの傍を少し離れた隙をついてそう言ってきたのは、フェリクスと兄弟のように育った男だった。
「君は身代わりなんだろうな。彼女ほど美しくはないが、輪郭や鼻の形はなんとなく似ているから」
声には悪意が込められていた。彼女は敏感にそれを察し、男の言葉にひと言も返すまいと決めてぐっと硬く唇を結んだ。フェリクスが戻ってくるのを見ると、男は満足する反応が得られなかったことに不満を見せつつも引き下がった。
美しい花嫁の顔を心配そうにのぞきこんだフェリクスに、エステファニアは強ばった表情をほっと緩めた。
「パブロに何か言われたのか?」
そうたずねられても、どう返したらいいかわらかない。まさかフェリクスに「忘れられない恋人がいるの?」なんて聞くわけにはいかないのだから。
「あいつを招待しない方がよかったかな」
「そういうわけにもいかないわ」
パブロはフェリクスの友人たちの中で一番付き合いが長く、パブロの両親は両親を早くに亡くしたフェリクスにとって育ての親と言える相手だった。パブロだけを無視するのは難しい。
「これからは距離を置こうと思っているよ。おじさんやおばさんもわかってくれる」
エステファニアの腰を抱きながらフェリクスは耳元でささやいた。
しかし実際、そううまくは行かなかった。フェリクスが友人たちと集まる時パブロも必ずその場にいたし、そういう時は大抵強引にフェリクスとエステファニアの家にやって来て、フェリクスのいない隙をついて同じ毒を打ち込むのだ。
お腹の子が大きくなっていくにつれて、エステファニアの悩みも大きくなっていった。フェリクスはすぐにそれに気がつきどうしたのかとたずねてはくれたが、彼に悩みを打ち明けることはできない――そうしている内に、エステファニアは偶然、寝室のキャビネットの引き出しの奥に、数枚のブロマイドが大切に隠してあるのを見つけてしまったのだ。
***
エステファニアがしないような笑顔をブロマイドの女性は浮かべている。少しこすれた白いインクで“エルスール”とサインがしてあった。彼女の芸名だ。パブロが毒のように打ち込んでいた“フェリクスの忘れられない恋人”という言葉が浮かび、エステファニアは眉を下げた。
家の玄関から「ただいま」というフェリクスの声が聞こえ、エステファニアは咄嗟にブロマイドを元あったように隠した。それから何もなかったように表情を取り繕い「おかえりなさい」と愛する夫を出迎えたのだった。
エステファニアはブロマイドのことを忘れることにした。フェリクスを問い詰めることもしなかった。フェリクスが隠したいと思っているものを無理に暴いて気まずい思いをするのも嫌だった。パブロは相変わらず顔を合わせるたびに同じ毒を打ち込んでくれるが、もう気にしないことにした。
「手紙が来たの」
大きくなっていた悩みは嘘のように消え、エステファニアはやっと心からフェリクスとの結婚生活を楽しめるようになっていた。
「結婚と、子どもができたお祝いをしたいんですって」
「あの人、忙しいんだろう?」
「そうだと思うわ。やっぱり申し訳ないわよね」
夕食後のひと時をソファに並んで座って、フェリクスにもたれかかるようにしながらエステファニアは届いたばかりの手紙を見せた。手紙の送り主はエステファニアの母の知り合いで、エステファニアを昔から実の娘のように気にかけてくれていた。結婚式には招待したが仕事があって出席が叶わず、結婚式の直後に謝罪とお祝いの手紙が届いたがまだ気になっているらしい。
「だけど断ったらますます気にしそうだな」
手紙を読んで、フェリクスは苦笑いをした。
「とりあえず気持ちだけで充分だと返事を出して、子どもが生まれたら会いに行こうか?」
「そうね、わたしもそれがいいと思う」
幸せな顔を見せれば送り主も落ち着くだろう。「そういえば」とフェリクスは口を開いた。
「結婚式に来れなかった友だちが、お祝いに来たいって言うんだ」
「家に? わたしはかまわないけれど……」
「軍にいた時、一緒の隊だったヤツらだよ」
「えっ、じゃあ、パブロも来るの……?」
少し前までこのトラングホードは内戦が行われていた。フェリクスは従軍し、パブロも当然のように一緒だった――というよりも、パブロに誘われた強引に従軍することになったのだ。その軍での知り合いならば、当然パブロも知り合いだろう。
「パブロは誘わないつもりだけど……勝手に来るかもしれないから……すまない」
「そう……いいのよ、あなたが悪いわけじゃないもの」
「おじさんとおばさんにも一応話してあるんだけど、パブロは聞かないらしい……」
パブロはどうして自分たちに関わってくるのだろうか? エステファニアには理解できなかった。フェリクスも同じなのだろう。その表情は暗く、申し訳なさそうにエステファニアの前髪に口づけを贈り、ふくらんできた腹をそっと撫でた。
「他のヤツらは話もわかるし気のいいヤツらだから……事情を話しておくよ」
「ありがとう、フェリクス」
しかしその友人たちも、パブロを止められなかったようだ。結局、その日フェリクスとエステファニアの家を訪れたのはパブロを含めた四人だった。もっとも、他の三人が目を光らせてくれたおかげでいつものように隙をついてパブロがエステファニアに毒を打ち込もうとすることはなかったし、パブロも三人の視線が鋭いことに気づいたのかいつもよりは大人しい印象だった。
エステファニアがフェリクスと作った料理を並べ、男たちは酒を飲み新婚夫婦にお祝いを言って、穏やかに思い出話に花を咲かせて時間は過ぎて行った。壁の時計が九時を告げる頃には作った料理はほとんど空になり、皆いい感じに酔いが回っていた。皿を片付けようとエステファニアが手を伸ばすと、男たちは慌てたようにそれを止めた。
「片づけなら俺たちがやるから」
「でも折角来てくれたのにそんな」
「いいっていいって。お腹に赤ちゃんがいるのにそんなことさせる方が悪いよ」
「お言葉に甘えればいいよ、エステファニア。こいつらだって皿洗いくらいできるから」
「言い方がよくないぞ、フェリクス」
エステファニアは笑った。「それなら甘えようかしら」と言うと、赤い顔をした男たちはふらつくことなく立ち上がって皿をキッチンへ運んで行った。
「先に休む? 後はやっておくから」
「大丈夫よ」
「それなら座ってゆっくりしてて」
フェリクスも立ち上がり片づけに加わった。「パブロは?」とスポンジに洗剤をつけながら一人がたずねた。
「そういえばさっきからいないな……トイレか? 吐いてなければいいけど」
「あいつ、吐くような酔い方するヤツだったか?」
誰かが階段を下りる音がしてエステファニアは顔を上げた。二階には寝室とフェリクスの書斎、それから物置に使っている部屋しかない。まさか……と思って立ち上がったエステファニアに、フェリクスが心配そうに近づいてきた。
「どうした?」
「二階に……」
足音と共に現われたのはその場にいなかったパブロだった。この場にいる誰よりも赤い顔をして、足元はふらついている。その手には何か小さな紙が握られていて、それが何か気づいたエステファニアは青ざめた。
「パブロ、勝手に二階に行ったのか?」
さすがにフェリクスが表情を険しくした。悪びれも無くパブロは鼻を鳴らし、ふらつきながらエステファニアに近づこうとしたため、彼は咄嗟に妻を背中にかばった。
「よくやるな」
パブロはますますバカにした様子でフェリクスに言った。
「なあ、そうだろ? こんないい夫のフリをしてこいつは恋人を忘れられないんだ。よく似た女と結婚するくらいに。エステファニア、どうしてこいつに聞かないんだ? ずっと教えてやってただろ、こいつに恋人がいるって」
「何の話だ?」
「エルスールのことだよ!」
持っていた紙をパブロは投げつけた。舞い落ちたそれは少し前に、エステファニアが見つけてしまったあのブロマイドだった。
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