幕末に長竹刀が流行った理由


 ツイッターのフォロしてるダイスケさん長竹刀の話をしていて、そういえば資料があったなと思い、調べなおしてみました。


 1832年前後、大石進という剣術家が江戸にやってきました。

 身の丈7尺を超える大男だったそうで、祖父が柳川藩の武術指南役を務めた家柄の持ち主。

 祖父の隠居に伴い跡を継いだ役職持ちの人で、江戸訪問も表向きは藩からのお使いだったそうです。


 お役目の一つに柳川藩武術指南役としてのロビー活動というのもあったそうで、江戸の道場に竹刀による他流試合を申し込んだそうです(この時代は木刀から竹刀に変化していき、怪我をしにくいという理由から竹刀による他流試合が盛んになったとか)


 この他流試合、道場によっては死活問題になるので嫌がるところもあったが……大石さんの場合、大名家の武術指南役という役職についてるので勝てば大いに宣伝でき、負けても江戸に道場を開いてないので負けても影響がない&指南役レベルと戦ったという拍が付くので大体の道場主は試合を受け入れたそうです。


 ここで大石さんが使った竹刀が長竹刀と言われる槍に近い竹刀。長さは約5尺3寸(160cm前後)


 当時の一般男性の身長が5尺、一般的な竹刀の長さが3尺2寸(大体70㎝)だったそうです。

 7尺の男が5尺の竹刀で戦う。まあリーチの差というのが凄いことになり、次々と道場が破られていったそうです。あと、大石さん槍も皆伝だったそうな。


 この快進撃に待ったをかけたのが北辰一刀流の千葉周作さんで、四斗樽の蓋かと見まごうばかりの巨大なつばを竹刀につけて何とか引き分けに持ち込んだそうな。


 これがきっかけで江戸で剣術道場に通う門下生たちが長竹刀の剣術を求めて江戸では長竹刀が流行ったそうな。


 翌年には幕末の剣聖と言われた男谷精一郎と三本勝負して、初日は2-1で男谷精一郎が勝利。

 男谷精一郎から助言をもらって翌日には大石が2-1で勝利したと言われていたりします。


 大石は剣聖に勝ったことから、国本の殿様から30石から60石に加増してもらえたとか。


 長竹刀は流行りはしたが、幕府の講武所(幕府運営の武道道場)のトップに就任した男谷精一郎が竹刀は3尺2寸と規定を定めて、長竹刀は徐々にすたれたそうです。


 男谷精一郎が定めた竹刀の規定が現代の剣道の竹刀の長さの基準になった説もあるそうです。

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ふわっとした創作に使えるかもしれない雑学 パクリ田盗作 @syuri8

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