哀の華

土御門 響

庭に咲いた黒百合

 仮眠から覚めた俺の眦から、一筋の雫が流れる。また、俺は無駄な感傷に浸っていたのか。

 億劫そうに起き上がり、物が散乱して、ぐしゃぐしゃになった汚い私室を見渡し、俺は溜息を吐いた。


「……お前は」


 やはり、死んだのだな。


 ***


 俺がレティシアと出逢ったのは、半年前だった。

 俺は最先端医術を研究する学者だ。あの日、俺は助手に「たまには外で気晴らしをして来て下さい」と、研究所外に叩き出されたところ、浜辺で歌うお前を見掛けた。助手は、汚部屋状態の俺の研究室を片付けたいがために、俺を追い出したのだが、今思えば感謝すべきだろう。あの時、追い出されていなければ、俺はお前に出逢うことはなかった。

 俺は芸術や文化に全く興味がなかったが、お前の歌声は儚げで、弱々しい生命の具現のような音色で、俺の興味もとい苛立ちを誘った。

 このような脆弱な生物を生かすために医療技術は存在するというのに、儚い光は技術の実用化を待たずして消えていく。それが、医学界の現実であった。


「お前」


 入院着のまま浜辺に佇み、儚い恋歌を奏でていたレティシアは俺を振り返って、目を見開いた。


「え、先生?」


 そう。レティシアは俺の研究対象だった。レティシアが生まれつき抱える難病を癒すため、主治医とは別の立場で彼女の検査データを閲覧している身だった。レティシアは主治医から俺の存在を聞かされていたらしく、初めての出逢いでも、誰何するような真似はしなかった。


「ジスラン先生、ですよね。私のことを救って下さると、先生がよく言っています」

「そうか。お前は外に出られる肉体ではない。院に戻れ」

「……勝手に出てきた訳ではないのですよ?」

「何?」


 レティシアは美しい娘だった。白銀の髪に、澄んだ水色の瞳。儚げで、美しく、麗しい。

 確か、現在のレティシアの主治医は、この娘を嫁にとってもおかしくはない年齢の男だった。

 俺は、無言でそいつの左遷を決断する。俺の研究対象を死の危険に晒すなど、あってはならない。


「……ならば、明日からは俺がお前の主治医だ。もう院からは出るな」

「わかりました」


 レティシアは俺の理不尽に不満の色を毛程も見せず、素直に頷き、何故か微笑んだ。


 ***


 翌日、俺がレティシアの病室に向かえば、中から昨夜の歌声が聞こえてきた。


「また歌っているのか」

「ええ。私、歌うことが好きなんです。前の先生は、浜辺で歌う私が好きだったみたいで。だから、私、昨夜はあの場に居たんです」


 レティシアの言う前の先生は、俺が今朝方左遷を通達した。俺の予想通りレティシアに懸想していた奴は逆上してナイフを手に斬りかかってきた。そのため、俺は奴を捩じ伏せて警察に引き渡しておいたのだが、それをレティシアに告げる必要は感じられなかったため、黙っていた。


「……ジスラン先生は、歌、嫌いですか?」

「好きでも嫌いでもない。そして、歌う程度でお前の容態は改善も悪化もしない。よって、好きにしろ」

「ありがとうございます」


 レティシアは嬉しそうに微笑んだ。

 俺は無機質な瞳を向けていたが、レティシアは何故かいつも嬉しそうだった。


 ***


 レティシアの容態は日に日に、少しずつ、悪化していった。

 窓辺に立って歌っていたのが、ベットの上になり、寝たままになり、そして、ついには歌うことが出来なくなった。


 俺は、歌に興味はないと言った。だが、この間まで、ころころと鈴のような声音で笑っていたレティシアが医療機材に繋がれ、苦しげに呻いている様を見た刹那、狂おしいほどの哀しみが胸に迫った。


「……レティシア」


 彼女が口ずさんでいた歌詞を思い出す。


 私が彼方に消えたとしても。

 貴方は真っ直ぐ前を見て。

 私の温もりを忘れて。

 貴方は貴方の人生を歩んで。


 予言のような歌詞だと俺は思った。主治医になってからは、ふらつくレティシアを幾度となく支えた。眉間に皺を寄せて、大人しくしていろと叱っても、レティシアは謝罪を口にしつつ、俺を慕う瞳を向けていた。

 義務的に、無機質に、俺はお前と接していたのに。お前は俺を慕っていた。


「何故、俺に懐いた」


 瀕死のはずのレティシアが微かに口を動かす。声が出ずとも、読唇術で言葉を読み取る。


「私、ずっと前から先生のことが好きだったの」

「何だと?」


 好きになる機会など、なかったはずだ。

 だが、レティシアはあったと言う。

 俺が研究室から出てくる様を、院内で歩行訓練をしている最中、何度も目にしていたらしい。

 ボサボサの髪に、皺だらけの白衣。目元には深い隈。だらしないとしか言いようのない有様だったが、目だけは強い光を湛えていて、患者を救おうと命を懸けて尽力する姿に、心惹かれたと。


「お前は……」


 末期の苦痛は計り知れない。だが、レティシアは微笑もうとしていた。口を必死に動かして、何度も告げてくる。


「ごめんなさい。私、臆病だから。先生に、好きなんて言ったら、先生は離れてしまうと思って。ずっと、黙ってて。すごく、後悔してる。もっと、貴方の温もりを知りたかった」


 俺をひたむきに恋い慕う姿に、研究以外で初めて俺の胸が震えた。


「レティシア、俺が今すぐお前を元気にしてやる。お前のことは、俺が救う。必ずだ」


 彼女と機材を繋ぐチューブに気をつけながら、俺はレティシアを掻き抱いた。

 レティシアと過ごすようになって、半年。僅か半年の邂逅であっても、レティシアは俺の心の奥深くに入り込んでしまった。

 俺も知らないうちに、レティシアの存在は俺の中で大きくなっていた。

 レティシアは泣きながら頷く。


「……しん、じ、てる」


 俺はレティシアの涙を舐め、不敵に微笑んでやった。元気づけようとしていることを悟ったのか、レティシアは嬉しそうに笑ってくれた。


 ***


 それから三日後の晩だ。

 レティシアの容態は一進一退。間に合うかどうか五分五分だった。


「……レティシアは保って、あと半年」


 最先端技術を使い尽くしても、半年がやっと。


「急がなければ」


 そう呟いた時、ふと窓の外が気になった。庭に、見覚えのないものがある。いや、生えている。


「……」


 それは、一輪の黒百合。新月の晩に見つけた、黒百合。

 猛烈に、嫌な予感がした。刹那、助手が部屋に駆け込んできた。その顔は蒼白だった。

 俺は、それで全てを悟った。


 間に合わなかったのだ。


 ***


「……なぁ、レティシア」


 お前は、よく歌っていたな。儚い恋歌。哀しい、恋の歌を。

 あれ以来、俺の部屋の前にある庭には、黒百合が群生するようになっていた。死の象徴たる黒百合が、俺の心中を表すように咲き誇る。


「俺は、お前の歌声が好きだったらしい」


 お前の口が紡ぐ歌詞を最近、よく思い出す。

 忘れて、前に進めと。


「お前を泣かせたくはないからなぁ……」


 俺は、前に進むしかなかろう。医学の進歩の礎となるしか、ないのだ。

 そして、俺は実際に生涯をかけて幾つもの医療技術を確立し、生命の謎を暴いた。


 だが、俺の庭には、ずっと咲き乱れている。あいの象徴たる、黒い華が。

 俺が天寿を全うするまで嘆き、哀しみ続けることを暗示するかのように、無数の黒百合は静かに風に揺れていた。

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哀の華 土御門 響 @hibiku1017_scarlet

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