4-3


◆◇◆


 前日の雨のごりで、土の匂いをふくんだ風がき抜ける午後。

 れい作法のレッスンと昼食を終えたドリスは、白猫のユーフェミアとメリンダとともに王宮の廊下を歩いていた。昨晩、返しそびれた上着を返すためにセレストの部屋へ向かっているところである。

 今日は、セレストの公務が立て込んでいるため恋愛講座は休講になった。部屋に不在の場合は、侍女に上着を預かってもらおうと考えた。昨晩の時点でそうすればよかったのに、あの時は気が動転して逃げ出してしまった。

「……ねえ、ドリス。今日は調子でも悪いの? 顔色がよくないし、歩き方もあやつり人形みたいにかたいよ」

「午前中のレッスンも、うわの空でしたわ。具合が悪いならきちんと言いなさいな」

「そういえば昨夜ゆうべ、テーブルの下で丸まってたけど……何かあった?」

 一人と一匹に言われて、ドリスはぴたりと足を止めた。

 周囲に人がいないのを確認して、口を開く。

「あ、あの……もしかしたらわたし、病気かもしれません」

「病気?」

 ユーフェミアが聞き返す。

「昨日からずっと、心臓のあたりが痛くて、息苦しくて、頭も痛くなってきて……」

「風邪? 昨日ちょっと寒かったもんね。雨のせいで」

「雨!?」

 メリンダの言葉に動揺したドリスは、うわずった声をあげた。

「ど、どうしたの?」

「いいえ。その……雨は、困りますよね」

 ドリスは不自然に視線をさまよわせながら、持っていた上着を胸に抱きしめた。

 すると、ユーフェミアのしっがピンと上へ向いた。

「あなた、お兄様と何かありましたわね?」

「な、何もないです!」

 反射的に大きな声をあげた次のしゅんかん、ドリスの脳裏に昨日の光景が浮かんだ。

 雨の音、冷たい空気、上着の匂い、セレストの体温と甘い声。

 忘れようとしても、頭の中から消えてくれない。

 思い出したら、また顔が熱くなってきた。

「その上着が何よりのしょうですわよ。あのケチなお兄様が他人に自分の私物を貸すなんて、よほどのことですわ。わたくしにはペンの一本も貸してくれませんのに」

「いや、それは王女様が殿下から借りたものをかたぱしからくしたりこわしたりするからじゃない?」

「ぐっ……」

 メリンダに図星をつかれたユーフェミアは言葉に詰まり、わざとらしくせきばらいをした。

「それはさておき、話を聞かせてもらいましょうか」

 ドリスはユーフェミアに詰められ、昨日の出来事をつつみ隠さず話した。


 一通り話し終えると、ユーフェミアとメリンダはかんの声をあげた。

「やりましたわ! やりましたわね、ドリス!」

「うれしいような、さびしいような……お姉さんは複雑な気分だよ。ついにドリスがこいを知ったか……」

「え? え? それってどういう……?」

 わけがわからずまどっているところへ、だれかの足音が近づいてくるのが聞こえた。

 ユーフェミアはしゅんに人の言葉を話すのをやめ、ドリスの足元にすり寄って本物の猫を演じる。

 姿を見せたのは、ロベリアだった。

「ごきげんよう、ドリス様」

「ロベリア様、ごきげんよう」

 だんのドリスだったら、心の中で「ああ、今日もお美しい……!」とロベリアのぼうこうごうしさをでているところだが、今はぎこちない微笑みを浮かべるのがせいいっぱいだった。

「先日はユーフェミア様のお茶会にいらしていなかったようだけれど、ご気分でもすぐれなかったのかしら?」

 まさか、ユーフェミアの身代わりとしてその場にいたとは言えない。

「はい。出席したかったのですが……風邪を引いてしまいまして」

「そう。お大事にね」

「ありがとうございます」

 ドリスがおをすると、ロベリアは優雅に微笑みを返した。

「あら、そちらの猫……ユーフェミア様の飼い猫ではありませんこと?」

 ロベリアは、ドリスの足元で尻尾をらす白猫に視線を向けた。

(あっ……)

 ドリスは思わず目を泳がせてしまった。

「きょ、今日は、ユーフェミア様のご気分がすぐれないとのことで、わたしがお預かりしています……」

「そうでしたの? ユーフェミア様は特定のご友人をお作りにならないと思っていたけれど、わたくしの勘違いだったのかしら?」

「さ、さあ……?」

 ドリスはこの場をしのごうと、けんめいに笑みを浮かべた。

(どうしよう。もしかして、わたしがユーフェミア様の身代わりだったことがバレたのかしら……?)

 ほんの数秒のちんもくが気まずい。

 やがてロベリアは、一歩近づいてドリスの顔を覗き込んだ。

「私とも、ユーフェミア様のように仲良くしてくださる?」

「も、もちろんです!」

 ドリスは内心で安堵した。身代わりの件を勘づかれているわけではないようだ。

「私、ドリス様のことをもっとたくさん知りたいの」

 ふいに、ロベリアの視線がドリスの持つ上着に注がれた。

「ドリス様、それは?」

「セレスト様の上着を……昨日、お借りしたので、今から返しに行くところです」

「……そう」

 ロベリアの銀色のまゆがわずかに動いたが、ドリスは気づかなかった。

「セレスト様は、とてもお友達思いでいらっしゃるのね」

「は、はい……。いつも親切にしていただいています」

「セレスト様は誰にでもお優しいから、私は心配ですわ」

 長身のロベリアは身をかがめ、ドリスと視線を合わせた。

「あなたのように可愛らしい方と親しくしていると、私、いてしまいそう」

「……っ」

 ドリスは、胸の奥でざわつくものをかき回されるような心地になって、息をのんだ。

「でも、大丈夫よね。ドリス様は、セレスト様のなのですものね?」

「は、はい……」

 ドリスが答えると、ロベリアははなやかな笑みを浮かべた。

「よかった。ごめんなさいね、私ったら心配しょうで。セレスト様のお気持ちがほかのかたへ向いてしまったらどうしようかと、朝も夜も毎日、気が気ではありませんの」

 ふふっ、と微笑むロベリアのかみから甘い香りがただよってきた。

(この香り……)

 セレストのつけていた香水とよく似た、バニラのような香りだった。

 ドリスはふと、昨夜の出来事を思い起こした。

 この香りはきっと、ロベリアがセレストと夜を過ごしたあかし

「これからも、として、セレスト様とお付き合いなさってね」

「……はい」

 ドリスがうなずくと、ロベリアは満足げに目を細めた。

「それでは、また。ごきげんよう」

「ご、ごきげんよう……」

 ロベリアはごうしゃなドレスの裾をひるがえして、細いくつおとを鳴らしながら優雅な足取りで去っていった。

【画像】

 彼女の足音が聞こえなくなるのを待って、ユーフェミアが真っ白な毛を逆立てた。

「あの女、どういうつもりですの? 感じ悪いですわ!」

「女同士のマウントって初めて見たよ。こわいねー」

 尻尾を上向けていかりをあらわにするユーフェミアと、肩をすくめるメリンダ。

「ドリス。気にすることはありませんわよ。あなたはガンガンお行きなさい!」

「どこへ……ですか?」

 ドリスが聞き返すと、ユーフェミアはいらたしげに前足で床を叩いた。

「お兄様に告白なさいという意味ですわ! あなた、お兄様のことが好きなのでしょう?」

「そ、そんなこと……!」

「あなた、この期におよんでまだそんな……」

「違うんです……好きだなんて……」

 つのるユーフェミアに、ドリスは首を左右にった。

「セレスト様は……お友達というか、恋愛の先生ですから」

 自分に言い聞かせるようにつぶやくドリスの声は、震えていた。


 ドリスは、セレストの部屋の前に一人で立っていた。

 ここに来るちゅうで、ユーフェミアが「一人でお行きなさい。そしてケジメをつけてくることですわ」と言い残し、メリンダを連れてどこかへ行ってしまった。

 ドリスは何度か深呼吸をして、扉を叩いた。

 侍女に取り次いでもらい、部屋の中へ通される。

「ごきげんよう、セレスト様」

 ドリスは、むかえてくれたセレストに笑顔でしゅくじょの礼をとった。口角がひきつっているのが自分でもわかる。

「すまない。今日は立て込んでいて、あまり時間が取れなくて……何かあったか?」

「い、いいえ。いつもどおりです!」

 首を横に振るドリスを、セレストはじっと見つめた。

「何か困ったことがあったら、すぐに言えよ。俺に言いにくかったら……メリンダさんに伝えたらいい」

「いつもお気遣いをありがとうございます。わたしは、セレスト様やみなさまのおかげで、呪いにおびえることなく過ごさせていただいています。十分すぎるほどに幸せです」

「それなら、よかった」

 王宮に来てから毎日セレストと顔を合わせているせいか、彼の表情が日に日にやわらかくなっていくのが見てとれた。以前のドリスがセレストに対して身構えていたのと同様に、彼もまた緊張していたのかもしれない。

 セレストにうながされて、ドリスはソファに腰を下ろした。ていねいに折りたたんだ上着をそっと差し出す。

「こちら、お借りしていた上着です。ありがとうございました」

「ああ……わざわざ悪いな」

 セレストは受け取った上着をかたわらに置き、上着の内側から一通のふうしょを取り出した。

「ドリス。これを」

「お手紙……? わたしにですか?」

「招待状だ」

「パーシバル様とユーフェミア様のけっこんしきは、まだ先だと聞いていますが」

 ドリスが視線を上向けると、セレストはゆるく首を振った。

「三日後に夜会を開く。お前のための夜会だ」

「わたしのため……?」

「お前はずっとひきこもっていて、社交界に出ていないだろ。この機会におをしてみないか? ご両親……ノルマン伯爵夫妻には、すでに許可をいただいている」

 思いもかけない提案に、ドリスは驚いて言葉が出てこなかった。

 王宮に張られた結界とセレストがくれたブレスレットのおかげで、魔力が暴発する危険性はきわめて低いものの、自分のようなかげの者が人前に出ていいのだろうか。

「そんなに格式ばったもよおしじゃない。若い世代のおうこう貴族を招いて、皆が気軽に楽しめるような夜会にするつもりだ」

「そうなのですね。ごめいわくでなければ、ぜひ参加させてください」

 ドリスはそう言って、差し出された招待状を受け取った。

 ひきこもっていた頃の自分なら、「社交界なんてとんでもない!」と言って部屋のすみに隠れていただろう。

 セレストとの恋愛講座や、ユーフェミアの身代わりのお茶会など、たくさんの経験を重ねてきたおかげで、ドリスはいつの間にか人前に出ることへのていこうが少なくなっていた。

 招待状をじっと見るドリスを、セレストは優しげな表情で見つめていた。

「この夜会が、お前の呪いを解く助けになればいいと思う」

「あ……」

 連日、セレストと会っている本来の目的を思い出す。

 ドリスが誰かと恋に落ちて、キスをして、呪いを解くため。

 まだ見ぬこいびととの出会いの場として、この夜会が催されるのだ。

「セレスト様には本当に、たくさん親切にしていただいて……うれしいです」

 呪いをかけられ、ひきこもり生活を始めた十年前は、こんなふうにセレストと楽しく話せる日が来るなんて思ってもみなかった。

「お前のエスコートは、俺にさせてくれるか?」

 ふいに、ドリスの脳裏にロベリアの微笑みが浮かんだ。

 せっかく友達になれたのだ。たとえ講座でも、彼女を傷つけるようなことはできない。

「それは、いけません」

「俺のエスコートは、いやか?」

「そうではなくて……」

 ドリスは目をせて、小さく息を吸って、吐き出した。

 そして、ドリスは顔を上げてまっすぐにセレストを見た。

「わたし、この夜会でがんばって恋のお相手を見つけます」

「ドリス、そのことだが……」

 セレストは、どこか戸惑ったような顔でうなずいた。

「つきましては、恋愛講座を今日で卒業させていただきます」

「…………え?」

 セレストは目を見開き、ぼうぜんと聞き返した。

「恋愛について何も知らないわたしに、セレスト様は恋をするために必要なことを教えてくださいました。それをかす機会があたえられたということは、今が巣立ちの時だと思うんです」

「ま、待て、ドリス……あのな」

 セレストは何か言おうとしたが、ドリスは聞いていなかった。

「わたしがこの夜会で一人前の恋をすることが、セレスト様への恩返しだと思います」

「…………」

 ドリスの突然の卒業宣言に、セレストは言葉も出ないほど驚いている様子だった。

「セレスト様も、どうかロベリア様と幸せになってくださいね」

「え? どうしてロベリア嬢が……?」

「今まで大変お世話になりました」

 戸惑う様子のセレストに、ドリスは深々とお辞儀をした。

「では、夜会でお会いしましょう……ごきげんよう」

 ドリスは背筋を伸ばして立ち上がり、ワンピースの裾をひるがえして部屋の扉へと歩き出した。

 開かれた扉をくぐる瞬間、セレストの呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、ドリスは振り向かずに足を進めた。


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恋愛レベル0の令嬢なのに、キスを求められて詰んでます 高見 雛/ビーズログ文庫 @bslog

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