一羽と一人の宿命

夢月七海

一羽と一人の宿命


 全ての光を集めたかのように、空が白い。雲も、太陽も、どこにあるのか分からないくらいに眩しい。

 そして、空はとても高かった。それもそうか。俺は今、地面の上に転がっているのだから。


 体を俯せ、羽はだらしなく伸び切っている。落ちる途中、激しく枝に打ち付けた左側の羽が特に痛む。

 嗅ぎ慣れない土の匂いがする。咽てしまいたいが、そんな元気すらない。


 親と兄妹はどこにいるのだろうか。多分、近くにいるはずだが、姿が見えなかった。

 そこへ、ガサガサと草を踏み分けて、何かが俺に近付いてきた。ひょいと視界に入ってきたのは、人間の男の子供だった。


「どうしたの? 怪我してるのかな?」


 深い緑の瞳に心配の色を浮かべて、少年は俺のことを遠慮なく掬い上げた。逃れようとする気力もなく、俺はじっと少年を見つめる。

 清潔感のある服装をしていた少年は、風に長めの赤い髪を揺らしていた。ほんのりと赤い頬に、微笑を浮かべる。


「君の名前はポーだ」


 少年にそう名付けられた時、俺にはすでに名前があったはずなのに、ずっと昔からそう呼ばれていたような、しっくりする感覚があった。

 その理由が分からず、考え込んでいる俺をよそに、少年は俺を抱えたまま、堂々と歩き始める。俺のことを見た、近くの大人が慌てだすが、そんなことは意も解さない。


 こうして、鴉の雛だった俺はその少年――ハイロンに拾われた。






   ■






 ハイロンが住んでいるのは、俺の生まれた森からほど近い、小高い丘の上の屋敷だった。二階の西の海を臨む部屋が、ハイロンの自室で、俺の居住区となった。

 部屋の扉と向かい合う窓があり、そこに接するように置かれた机の上で、幼い俺は治療を受けた。とはいっても、ハイロンの素人丸出しなものなので、傷に包帯を巻かれ、清潔な布が敷かれたバスケットの中で寝かされたくらいだった。


 結果、左羽の骨折は完治せず、大人になっても飛ぶことはおろか、羽を完全に畳むことすら出来なかった。

 ハイロンはそのことを非常に気にしていた。しかし、俺があのまま地面に転がっていたら、蛇などに食われていただろうから、彼には感謝していた。そんなこと、照れくさくて言えなかったが。


 俺がこの部屋に来てから一年、ハイロンは事あるごとに俺へ話しかけた。その内容は、屋敷の召使いたちのことだった。


「マーシーは、リトラのことが好きなんだ。リトラも、悪い気はしていないから、早く告白すればいいのに」

「イースダさん、お使いのお釣りをこっそりいただいていたよ」

「トトア、数日後に辞めるつもりなんだって。寂しくなるなぁ」


 ハイロンは、召使たちの小さな秘密を、まるで直接聞いてきたかのように淀みなく語る。

 その理由を、彼は朗らかに笑いながら教えてくれた。


「僕は、誰かの真実を見抜ける瞳を持っているんだ」


 どういう意味だ? と小首を傾げた俺をよそに、ハイロンは俺の寝床であるバスケットを指差した。


「あの中に、パンの欠片を入れているでしょ?」


 ぎくりとした俺は、観念して、バスケットの底に隠していたパンの欠片を取り出した。昼食に出したものを、こっそり貯蓄していた分だ。

 しかし、このパンはハイロンが部屋の外に出た隙に隠していた。それなのに、なぜ彼は気付いたのだろうと思っていると、ハイロンは変わらない笑顔のまま説明した。


「僕は、目が合った相手の隠し事、嘘、そして本人も知らない真実を、まるで色のついた影絵のように見ることが出来るんだ」


 この事実を、ハイロンは誇るのではなく、人間は全て二足歩行であると言うような、当たり前のこととして話していた。彼によると、物心ついたころからこの能力を持っていたので、その感覚も当然だった。

 そうなると、俺の真実も、彼は知っているのだろうか。そう思ってハイロンの顔を窺うと、穏やかな笑みが途端に不気味なものに感じられた。


 この能力を持っているため、ハイロンは寂しい子供だった。他の人間たちがいる町から離れて暮らしているのも、この能力のせいだった。

 また、屋敷にはハイロンの両親は住んでいなかった。普段は町にいて、たまに来てくれると本人は言っていたが、俺が拾われてからの一年ほどの間は、何の音沙汰も無かった。


 時々、この部屋の窓の外、近くに生えている木に来てくれる、俺の家族とは大違いだった。人間は全て巣立ちが早いものかと思ったが、ハイロンの方が特殊らしい。

 その上、ハイロンは普通の子供のように学校には通うことをせず、友達もいないらしい。俺はそのことを、ここを掃除しに来るメイド二人のお喋りで知った。


「坊ちゃんは、いつも一人ぼっちで辛くないのかしら?」

「まあ、あの鴉を話し相手にしているんじゃないの?」


 彼女たちはちらりと俺を見て、無遠慮なことを言う。俺はそんな評価を気にしていないし、むしろ俺を勝手に怖がっては入ろうとしない頃に比べると、成長したなとすら思う。

 ただ、この二人もまさかこの鴉が、自分たちの話の内容を理解しているとは考えもしないだろう。俺は、その事が得意になって、内心ほくそ笑む。


 ハイロンは、俺が人語を理解できると見抜いており、言葉を覚えさせようとした。具体的に言うと、自分が勉強する時に内容を音読して、文字を教えてくれた。

 最近では、俺もすっかり文字の読み書きができるようになった。机の上のインク壺に足の指先を浸して、それで白い紙に文字を書き、ハイロンと会話をしていた。


『今日はいい天気だ。外で日向ぼっこしたい』

「分かった。庭に出ようか」


『お前が退室している時に聞こえる音は何だ?』

「横笛の音色だよ。最近、練習を始めたんだ」


『新しい本か? 読んでくれ』

「いいよ。これは、東の国の神話だね」


 自分の意思がハイロンに伝わるのは、とても楽しくて、俺は何でもかんでも文字にした。ハイロンも、それに対して、いつも楽しそうに答えていた。

 もう一つ、生活で変わったことと言ったら、メイドたちがこの部屋を掃除しに来なくなったことだった。俺の書いた文字が見られないように、ハイロンが断っていると話していた。


 俺たちは仲を深めながら、一年はゆっくりと過ぎていき、俺が拾われたの日と同じ春の季節が近づいていた。






   ■






「ねえ、ポーは、ここ数日の間に、ジキスさんの顔見た?」


 計算をしている手を止めて、ハイロンは唐突にそう尋ねてきた。

 ジキスというのは、ここの執事長の名前だった。メイドすらこの部屋に入ってこないのに、執事長となると、全く見かけない。


『いいや。なんかあったのか?』

「うん。僕も姿を見ていないんだよね。どこかに出かけているわけでもないのに。わざと、僕とは顔を合わせないようにしているみたい」


 ハイロンは珍しく、眉に皺を寄せながら話した。それを聞くと、俺も俄かに嫌な予感がする。

 ここの召使たちやハイロンの家族は、彼の能力については知らないらしいが、とても勘が鋭い子だと思っているらしい。もしも、その執事長が何か不正をしていて、それをハイロンに悟られないように雲隠れをしていたとしたら……そう、俺は考えてしまう。


「もしかして、僕に内緒のプレゼントを用意しているかもしれないね」

『ああ、誕生日が近かったな』


 ただ、当の本人は随分とのんきだった。ハイロンは、真実を見抜く目を持っているのに、いや、持っているからこそなのか、人間の悪意に疎かった。

 以前に読んだ本には、人は生まれながらに善性を持っているのか、それとも悪性を持っているのか議論になったことがあると書かれていたが、ハイロンは当然のように前者を支持していた。彼の周りの大人たちが、さほど悪い人ではなかったからかもしれないが、ある意味弊害ではある。


 ふと、窓の外を見ると、ずっと遠くの海岸に沿うように、ハーピーの群れが飛んでいるのが見えた。春の季節になると、ハーピーたちは、南から北を目指して移動すると、去年にハイロンから教えてもらった。

 俺の視線に気付いたハイロンも、一緒になってハーピーの群れを眺める。優雅に、巨大な両手の翼を広げて飛ぶ姿を目で追っていると、ハイロンが「知ってる?」と話しかけてきた。


「色んな種族の中で、一番ハーピーが長い距離を移動するんだって。たとえ、今年生まれたばかりの子供でも、それは同じなんだ」

『初耳だ』

「海を越えて、二つの大陸を行き来するんからね、きっと、勇気がないとできないと思うよ」


 純粋に瞳を輝かせながら、ハイロンはハーピーの影を熱心に見つめる。彼の知らない、広い世界への憧憬が、どうしようもなく溢れ出ていた。

 ただ、俺の方は頭の中を、雨雲が立ち込めていくような気分になった。もう、空を飛ぶことが出来ない右の羽に視線を落とす。そして、自分の思ったことを、足の爪を使って書いていた。


『飛べない鳥に勇気は要るか?』


 俺の言葉を見たハイロンは、酷く驚いた顔をしていた。直後に、はっとする。この言い方だと、俺の怪我を完治させられなかったハイロンを、責めているようだ。

 今のは忘れてくれと、慌てて書こうとする。しかし、ハイロンが俺のことをひょいと抱え上げる方が先だった。


「勇気は、空を飛ぶためだけに使うものじゃないよ」


 ハイロンは優しく微笑みかけるが、俺を見据えるその瞳は、今まで見たことがないほど真剣なものだった。


「ポーも、いつか必ず、その勇気を奮う時が来るよ」


 そう言って、ハイロンは俺を机の上に下ろした。自分には、未来を見る力はないと話していた彼だが、先程の口調は、自信に満ち溢れていて、俺は戸惑った。

 本当に、俺にも勇気を奮う時が来るのだろうか? 運動不足で、他の鴉に比べるとだいぶ丸っこくなっているのに? そんなことを考えていると、ハイロンの顔は、不意に寂しげなものに変わった。


『お前も、空を飛びたいのか?』

「飛びたいというよりも、色んな世界を見てみたいな」

『そんな日がお前にも来るさ』


 俺の返答は、全く根拠も何もないとてもいい加減なものだったが、ハイロンは心底嬉しそうに笑ってくれた。

 そして、幼子を相手にするように、優しく俺の頭を撫でる。


「ありがとう。そうだね、僕も、勇気を奮えるように、頑張らないとね」


 ささやかな風の音が外から聞こえる。時間の流れのように、それは一度も止まらない。

 ハイロンにしか見えていない真実が、俺の未来を予言しているのなら……。だが、今は、まだそのことに怖さを感じる。こんな俺にも、勇気はあるのだろうか。






   ■






 壁の向こうから、ハイロンが横笛を練習している音が聞こえる。ここ数日は、同じ曲を繰り返していた。

 窓辺から庭を見ると、一頭の茶色い馬が止まっている。珍しく、この屋敷に誰か訪ねているようだったが、その訪問者の姿は見ていない。


 横笛の旋律の繰り返しを聴いていると、だんだんと飽きてきた上に眠くなる。俺は、バスケットの中に入って、うとうとし始めた。

 しばらくして、この部屋のドアが開き、誰かが入ってきた気配がした。しかし、起きるのが面倒で、俺はそれを無視し、侵入者が何かを探っている音を聞いていた。


「……あった! これだ!」


 ガサガサと紙が擦れる音と、執事長の声が聞こえて、俺ははっと目を開けた。視線の先に、こちらを振り返った執事長がいた。その手に、俺が文字を書いた紙の束を握っている。

 執事長が一瞬で青褪めると同時に、横笛の音が止んだ。俺が威嚇代わりに両羽を広げると、彼はばたばたと逃げ出してしまった。


 一体どうしようと思って、バスケットから出て、机の上をうろついていると、ハイロンが戻ってきた。横笛の入ったケースを持っていて、機嫌が良さそうだ。

 俺は、ハイロンに伝えたい事があったが、彼は横笛を片付けている。ハイロンは心を読めるわけではないので、俺の言いたいことまでは読み取ってもらえない。机の前に来た彼に見えるように、俺は酷く汚い文字を綴った。


『俺の描いた文字が、執事長に見つかった』

「え? ほんとに?」


 のんびり屋のハイロンでも、この危機に気付いて、顔色が変わった。踵を返して、部屋の鍵を閉める。

 直後、廊下で複数の足音が響き、激しいノックが響き出した。


「坊ちゃん! 開けてください!」


 激しい執事長の声を背景に、ハイロンは俺を両手で包み込み、じっとその緑色の瞳で見つめた。廊下からの音や声が遠くなったかのように、静かな空気がその場を支配する。

 「合鍵を持って来い!」と叫ぶ執事長の声を受けて、誰かが走り去っていく。ここが開けられるのも時間の問題だと、焦る俺をよそに、ハイロンは真剣な顔で口を開く。


「勇気を奮うのは、今だよ」


 一瞬、息が詰まった。ハイロンの全てを見透かす瞳に見つめられて、羽が全て逆立つ。


「思い出すんだ。本当の、自分を」


 去来するのは、空を自由に飛んでいた日の記憶。緑の草原や山々を眼下に見下ろして、気持ち良く羽ばたいていると、たくさんの人の群れが現れて……。

 ガチャリと、部屋の鍵が開いた。ドアの向こうには、執事長ともう一人、黒服の男がいた。あいつは、聖職者だ。俺は、その職業を知らないくせに、そう勘づく。


「ポー」


 ハイロンが、俺の名を呼ぶ。――そうだ、俺の名だ。それこそが、俺の真実の名前だ。


「俺は、悪魔だ」


 自分の口から、人の言葉が漏れた。動揺する執事長と聖職者とは反対に、ハイロンは、安堵したような笑みを零す。

 蓋を開けたかのように、魔力が体中を巡り始めていた。目が真っ赤に染まり、左の羽が再生し、体が徐々に大きくなっていく中、俺は、あの日を思い出す。


 ただ、空を飛んでいただけだった。人を襲うつもりなんて、微塵もなかった。しかし、下から飛んできた矢に、俺は貫かれた。

 そのまま、墜落した。何故か、傷口は再生しなかった。混乱する俺を、聖職たちが囲み、聖なる銀の鎖を巻き付けて、詠唱を始めた。


 あの瞬間、俺は記憶と魔力を封印されて、ただの鴉になってしまった。鴉としての寿命を全うした後に、また鴉に生まれ変わる……そんなことを繰り返して、いつの間にか、百年以上が経っていた。

 回想を終える頃には、俺の体は、この部屋に収まり切れないほどの大きさになっていた。天井を突き破る前に、羽を広げて、ハイロンの体を守る。


 執事長は腰を抜かし、聖職者は十字架を翳して、何やら神への祈りを詠唱していた。しかし、こんなこと、力を取り戻した俺にとっては、全く意味がない。

 二人を見下ろし、その目を見た。途端に、聖職者は「どこへ行った!」と叫びながら廊下を走っていき、執事長は這いつくばるように、それを追いかける。


「何をしたの?」

「俺が空へ逃げ出していったように錯覚させたのさ」


 ハイロンの疑問に、俺は得意になりながら答えた。

 俺には、目を見た相手に、自分が思ったような錯覚を起こさせるという能力を持っている。ハイロンは、それを知っていたようで、納得したように頷いた。


「今まで、世話してもらってありがとうな。お前がいなければ、自分の正体すら気付けなかった」


 この封印は、俺の魔力を用いれば、打ち破ることは簡単だったが、記憶が失われていたことで、それを不可能にさせていた。ハイロンと巡り合えていなかったら、どうなっていただろうかと思うと、ぞっとする。

 その気持ちを口にすると、ハイロンは笑顔のまま、首を振った。


「さて、そろそろお暇するか」

「待って!」


 離陸体勢に入った俺の体を、ハイロンはぎゅっと握り締めた。


「僕も、連れて行って!」


 普段は大人しいハイロンの懇願に、俺は驚かされた。と同時に思い返すのは、勇気を振るえる日が来ると言い合った時のことだった。

 お前も、今日が勇気を奮う日だったんだな。俺は笑い掛けながら、体を屈めた。


「ああ、いいさ。ちゃんと礼をしないとな」

「うん。ありがとう」


 満面の笑みで、ハイロンは俺の背中によじ登った。彼がしっかりと、俺にしがみついているのを確認して、床を思いっきり蹴る。

 蜂の巣をつついたような騒ぎの屋敷が遠くなるにつれて、眩い青空が近付いてくる。「すごい! すごい!」とはしゃぐハイロンを連れて、俺は海岸に向かって、羽ばたいていった。

































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