婚約者の王太子と男爵令嬢に濡れ衣を着せられて断罪されたので、婚約破棄に同意してマフィアの二代目ボスを継ぐことにしました。

逢魔時 夕

 

「ソフィア・トランクイッリターティス。今日ここにお前との婚約を破棄する」


 ――それは、学園の卒業パーティの最中に起こった。


 王族や貴族の子女が通う二年制の学園。その卒業パーティとなれば、王国中の高貴な身分の者達が一堂に会する。

 いや、王国中だけではない。レベルの高いと評判のこの学園には将来を見据えた人脈作りなどを目的として隣国からも留学生を迎えている。今年、卒業する留学生の中には砂漠の隣国の第二王子と伯爵令息、別の隣国の第三王子と第一王女の姿もあり、当然ながらその親である王族や貴族も出席している。


 幸い、この時点では王族はまだ会場入りしていないが、いずれはこの騒ぎのことを国王夫妻や隣国の国王夫妻も目にすることになるだろう。

 その余波がどれほどのものになるのか、きっと想像を絶するものになるだろうが、貴族令嬢に婚約破棄を突きつけた王太子は全くその重大さを理解していないようだった。


 このルースカス・フォード・テルセウス――ソーダライト王国の王太子の隣には、一年前に冒険者である父親が功績を上げて男爵となり、自身も男爵令嬢となったアリシア・スターチスが小動物のようにルースカスの後ろに隠れながら、相対する貴族令嬢の様子を伺っている。

 しかし、その顔には隠しきれない優越感が滲んでいた。


 更にアリシアを守るように次期宰相である伯爵令息、騎士団長の息子、宮廷魔術師長の息子の姿もある。

 両手に花どころの騒ぎではない、とんだ尻軽女である。

 学園の女性達からはその本性を見抜かれ、とっくの昔に距離を置かれていたが、馬鹿な男達は彼女が天使のような慈愛に溢れ、そして守ってあげなければならないような少女であると本気で思っているのか、それとも怪しげな魔術でも掛けられて理性を失っているのか、熱に浮かされたような表情でアリシアを庇護し、アリシアの敵であるソフィアを断罪しようとしていた。


 一方のソフィア・トランクイッリターティス――アティスマータ子爵令嬢・・・・は、金色の髪の一部をまるでドリルのような縦ロールに巻き、残った後ろ髪を背中まで伸ばした、青い瞳の美しい少女だ。

 瞳と同じ青色のプリンセスラインのドレスを纏った姿は西洋人形プリンセス・ドールを彷彿とさせるほどの、まるで精緻な人形の如く人間離れした美しさである。


 王太子の婚約者である彼女は密かに【お人形】と呼ばれていた。しかし、それは西洋人形プリンセス・ドールを彷彿とさせるその容姿が理由ではない。

 彼女の青い瞳はとても澄んでいる。まるで凪いだ海のような瞳には何一つ感情らしきものは浮かんでいない。

 これといって何かを主張することもなく、感情を持たないお人形……その得体の知れなさ故に、彼女は【お人形】と呼ばれていた。


 さて、そろそろ読者の皆様も王太子の婚約者――悪役令嬢といえば公爵令嬢が大半なのに、何故、子爵令嬢なのかと疑問を持ち始めている頃だろう。

 断罪の場面に戻る前に、まず彼女の生家――アティスマータ家の出自について説明するとしよう。


 現在のソーダライト王国は群雄割拠の時代に初代国王が築いた国である。そして、その初代国王の側近として仕えたのがアティスマータ家の中興の祖である初代アティスマータ子爵であった。

 その時代、小国の王であった初代アティスマータ子爵はソーダライト初代国王という人間に惚れ込み、小国の側近達に反対される中、彼の配下に下った。そして、獅子奮迅の活躍を見せ、初代国王のソーダライト王国建国に大きく貢献したのである。


 当然、初代アティスマータ子爵にも伯爵位以上の爵位を贈り、今後も側近として仕えて欲しいと言葉を贈ろうとした。

 しかし、初代アティスマータ子爵は頑なにこれを固辞する。


「私はこれからも一人の雑兵として、国王陛下の剣として仕えることができれば十分でございます。伯爵位など、私にはとても勿体なくございます」


 それが不服だった王家はその後も隙を見てはアティスマータ家に高位貴族の爵位を与えようと躍起になっているが、アティスマータ家も代々頑なに叙爵を固辞し、子爵くらいが丁度良いとその立場を守り抜いてきた。

 代々アティスマータ家の者達が王家に捧げる忠誠は異常なほど高く、王家もアティスマータ家のことを大切にしている。


 そんな王家の現在の当主――国王は、今回のアティスマータ家のたった一人の子爵令嬢と王太子の婚約を一つのチャンスだと認識していた。

 アティスマータ家の人間を王族の身内にする――それにより、アティスマータ家に本来彼の家が受け取るべきだった地位と権力を与える名目を作る。

 それは、王家だけでなく、王家と対立している貴族の派閥にとっても悲願であった。

 アティスマータ家はこの国において、英雄の一族なのである。それが正当に評価されないというのは、この国の全ての貴族にとって許せないことなのだ。


 この王太子達の行いは、この国の全ての貴族、そして王族の悲願が叶う……その最中にこのために費やしてきた全てのものを踏み躙るに等しい行為だった。

 それだけではなく、長年仕えてきたアティスマータ家に対しても恩を仇で返すような所業だったのである。


 ソフィアは何も言わない。ただ、感情の色が全く見えない澄んだ青い瞳を王太子達に向けている。

 今から断罪を受ける者に相応しくない態度、それが気に食わなかったのか、王太子は苛立たしげに話を続ける。


「お前は貴族になって間もない、右も左も分からないアリシアに冷たい言葉を掛けたそうだな。それだけではない、陰湿な嫌がらせもしたのだろう? 教科書をバラバラに切り刻んだり……更には、階段から突き落とした姿を見た者もいるという。……申し開きがあるなら聞いてやろう」


 ソフィアは何も答えない。ただ無関心そうに、澄んだ……静かな海のような瞳を向けるだけだ。

 ――そう、まるで月のカラカラに乾いた嘘の海のような、虚無に染まった瞳を。


 無言を肯定と受け取ったのだろう。王太子は決定的な言葉を口にする。


「俺は、ソフィア――お前との婚約を破棄し、アリシアと婚約を行う。――未来の王妃へのその態度、許されるものではない。ソフィア、よって、そなたに国外への追放処分を下す!」


 追放先は隣国のいずれかとなるだろう。万が一、ソフィアが国外追放になれば、漏れなくその国との関係が拗れてしまう……が、王太子の頭にそのような考えは浮かんでいないようだ。

 あまりにも稚拙で、浅慮な断罪劇。


「……これが、『運命』がわたくしに望んだ生き方なのですね」


 ソフィアはこの講堂に入ってきて初めて口を開いた。その小さな独り言は、ソフィア一人の耳朶を打った。

 そして、それがソフィアの中で一つの覚悟を決める切っ掛けとなったのだろう。


「承知致しましたわ。わたくし、アティスマータ子爵令嬢ソフィア・トランクイッリターティスは、婚約破棄を受け入れます」


 その時、ようやく講堂に入ってきた国王夫妻が講堂の中で起こっている騒ぎに気づき、その中心に王太子である息子と、その婚約者であるソフィア、そして王太子との間に不穏な噂が出ている件の男爵令嬢がいることに気づき、騒ぎを止めるために、そして、最悪の事態を回避するために動き出した。

 婚約破棄の権利は王太子にも、アティスマータ子爵令嬢にもない。国王とアティスマータ子爵が結んだもの……より正確に言えば、国王夫妻がアティスマータ夫人の力を借りつつ何とかアティスマータ子爵を口説き落としたことでよくやく結ぶことに成功した婚約である。

 これは、王家の、そして王国の悲願だった。だというのに……。


「そして、わたくし、ソフィアは本日をもってアティスマータ子爵家との縁を切ります。事後報告となりますが、アティスマータ子爵家にはご理解とご納得をして頂きましょう。……残念でしたね、国王陛下。貴方の愚息のせいで、目論見が外れてしまって」


 まるで嘲笑するように、ソフィアは王太子から視線を外して、そして国王ヴァルトアンデスに嫣然と微笑んだ。



「これは、一体何の騒ぎだ! ……ソフィア、そなたも正気なのか!? アティスマータ子爵家と縁を切るなど!!」


「ええ、正気ですわ。少なくとも、そこの王太子に比べたら。それと、平民落ちを心配しているようでしたら、ご心配は無用です。平民どころか堅気・・からも転落しますが。……陛下、まさかわたくしが後先を考えずに子爵家と縁を切るとでも思っていらっしゃるのですか? やめて頂きたいですわ、今後、外交で拗れる可能性が目に見えているにも拘らず国外追放にしようとするそこの王太子と一緒にされるのは。これでも昔は、少しは賢く、王族としての風格の片鱗も感じられたのですが。恋は人を変えると言いますが……かの有名な自尊心の強く繊細な侯爵令息は、手に届かなくなった伯爵令嬢に恋の情熱を燃やし、鮮やかな変身を遂げて禁忌を犯しますが、まあ、それと比べてつまらない変身ですこと。ご心配には及びません、これは後先考えず、軽はずみに行ったものではありません。わたくしもしっかりと考えた上で行動に移しています。そして、これはいくつかある選択肢の中の一つでした。ただ、それを選ぶかどうかをわたくしが選択するつもりはありませんでした。ただ、本日、こうして公衆の面前で婚約破棄を告げられた時、わたくしはようやくこれが、わたくしの、今世での生きる方針なのだと理解したのでございますわ」


「――も、もしかして貴女も転生者なの!? だからシナリオ通りに行かなかったのね!!」


 アリシアの化けの皮が剥がれ始めた……が、ソフィアはアリシアとその取り巻き達に全く興味を持っていないのか、自らに断罪を下した王太子の方ではなくではなく国王ヴァルトアンデスの方へと向き直り、感情の宿らない瞳を向けている。


「少々、昔話に付き合って頂きましょう。わたくしには前世の記憶がございます。ここより遠い世界で、夜桜院よざくらいん綾華あやかとして十七年間生きてきた記憶が。わたくしがかつて生きていた世界はこの世界よりも遥かに文明が発達した世界でございました。貴族だけではなく、基本的に誰もが教育を受けられる国に生まれ……当時の識字率がほぼ百パーセントと言えば、福利厚生がどれほど充実しているのかも理解できるのではありませんか? その世界で、わたくしは一人の学生として人生を歩んでいました。わたくしは、一度として目標を持つことなく生きていたことをよく覚えています。向こうの世界には朱に交われば赤くなるという諺もあるものですが、まさにそれを体現していたといいますか、周りにギャル系のファッションをしている子達がいる時は、その友達に流されるようにギャル系のファッションをして、近くにヲタク系の趣味を持つ子がいる時は、その子の影響を受けてそういった趣味にも走りました。ライトノベルを読み漁り、その友人に勧められて乙女ゲームもプレイしました。思えば、その中にこの世界に酷似したものもあったような気がします。また、乙女ゲームの要素を取り入れた悪役令嬢転生ものという系統の作品をその友人から勧められ、次第にライトノベルもその系統に絞られていくようになります。内容は……まあ、この状況に類似するものばかりですわね。……本来は、ここで悪役令嬢の役割を与えられたわたくしが反撃の狼煙を上げるべきのでしょうが。……そうですね、今思うとあの頃のわたくしが何故このようなことをしたのか分かりません。流れ流れて流されてきた、わたくしらしくないと思いますが……わたくしの興味は次第に転生そのものに移っていきます。そして、思い切って現代文の教員に質問し、転生というものを深く描いた作品として紹介されたのが、自衛隊の駐屯地で割腹自殺をしたとある作家が残した最後の作品でした。今のわたくしという人間は良くも悪くもその影響を多分に受けているといえます。……もっとも、それは作品の中に込められた思想を鵜呑みにしたという訳ではなく、寧ろ反面教師的な意味で受け取ったものの方が大きいのですが。……ここまでのお話を陛下を含め、皆様方はくだらない妄想と切り捨て、わたくしを狂女だと、婚約者から一方的に捨てられたことで正気を失った哀れな女だと思うのであれば、それはそれで構いません。わたくし自身、この記憶が本物であると断言する根拠を持っていないのですから。……記憶というものは、映る筈もない遠過ぎるものを映し出すものもあれば、それを近いもののように見せもする、幻の眼鏡のようなもの……と、皇族や公家が住職を務める特定の寺院の女住職は老境の認識に取り憑かれた元判事の男に突きつけましたが、まさにその通りなのかもしれません。しかし、それでも良いのではありませんか? 記憶や知識というものは、とても興味深いものです。知ってしまった後には、水の中に墨を落とした時のように、もう元には戻れないものです。鮮やかに変身を遂げた蝶が二度と幼虫に戻ることができないように。……国王陛下、貴方様がもし仮に何らかの原因で記憶を喪ったとしましょう。その時の貴方様は今の貴方様と完全に同一な人間でいられるとお思いですか? ヴァルトアンデス・ルーザ・テルセウス、貴方にも自己というものが……少なくともそういったものだと認識しているものがございますでしょう。しかし、それは空想の産物なのです。人の行動には矛盾が付き纏う。その中のいくつかのエピソードを選び取り、自己という物語を紡いでいるに過ぎません。そして、その選択には過去の記憶の参照というものが深く密接に関わっている。例えば、わたくしが直接見聞きしたものではございませんが、記憶を失った人は好物だったものを嫌いになり、逆に嫌いだったものを好きになるということもあるようです。物の好き嫌い一つ取っても、過去の記憶というものが関係していると考えることができます。いえ、記憶喪失にならずとも子供の頃に嫌いだった物が大人になってから好きになったという経験をした方はこの場にもいらっしゃるのではありませんか? ……と、ここまではご理解頂けたでしょうか?」


「……ああ、難しい話だったがある程度は。つまり、ソフィアには過去の記憶らしきものがあり、それが人格形成に大きな影響を与えていると、そこまでは何となく理解はできた」


「わたくしは何も過去の記憶を持つことが、転生したという事実が重要だとは言っておりません。それと同時に、記憶持ち転生者が特別だと主張もしておりません。……王妃殿下はわたくしがよく布地を手織りしていたことを覚えていらっしゃるでしょうか?」


「……ええ、教養として刺繍をする貴族令嬢はいるわ。でも、そのハンカチそのものを手織りしていた貴族令嬢は貴女くらいしか見かけたことがないわね。とても珍しいと思っていたわよ」


「では、そのハンカチでも思い浮かべてください。縦の糸と横の糸があって、初めてハンカチは出来上がります。この縦糸が転生を含む、過去世、今世、来世の時間軸だと、横糸が今世の時間軸だと思ってください。この縦の時間軸には、前世の記憶だけでなく、その時に結んだ縁というものも含まれていると思います。……ハンカチは決して縦の糸だけでは出来上がらない、同様に、横の糸だけでも出来上がりません。……コルトネル男爵令嬢アリシア・スターチス、貴女にも過去世があるのでしょう? そして、そこで見た乙女ゲームの内容とこの世界を重ね、自らこそがヒロインだと、そう思っていたのかも知れません。しかし、果たしてこの世界が乙女ゲームの世界だとどうして断言できるのでしょうか? 貴女は自らがヒロインだと思い込み、男達を誑かした。それを咎める者達も居たと、わたくしは記憶しています。わたくしは心底どうでも良かったので口を出しませんでしたが。貴女は縦の時間軸のみを重要視し、横の時間軸を蔑ろにしたのです。この世界が紛うことなきもう一つの現実であることを理解せず、愚かな振る舞いをした結果、残念ながら貴女の行く末は断罪という結末です。良かったですね、最愛の人達を揃って巻き込んで転落できて」


「な、何よ! 取り繕ったって貴女だったアタシと同じよ! 前世の記憶を使ってシナリオを破壊して!! ヒロインであるアタシが妬ましかったんでしょう!! 婚約者を奪われて! だから、こんなことを!!」


「では、陛下。残る半分をお話しさせて頂いても?」


「……まだ、動機を聞いていないからな。しかし、まだ半分か。よろしい、そなたがどうしてそのような結論に至ったのか、その動機を話してみなさい」


「仰せの通りに」



「陛下は覚えていらっしゃるでしょうか? まだ第一王子であらせられた王太子殿下と私が婚約を結ぶ三年前から二年間、わたくしが表舞台から姿を消していたことは」


「……アティスマータ子爵の最愛の娘が何者かに攫われた誘拐事件だな。アティスマータ子爵は激怒し、彼に忠誠を誓う領地の者達が血眼になって探した。我もその時に王国の暗部を使って捜索したものだ。しかし、結局、そなたを見つけることはできなかった。二年後、そなたは何事も無かったようにアティスマータ子爵家に戻ってきたが、目立った外傷もなく、その後様々な検査が行われた末に、以前から検討されていた婚約を予定通り行う運びになった。しかし、両親に問われてもその二年のことを頑なに口にすることはなく、空白の二年がポッカリと空いている。……あの時、一体何があったのだ?」


「わたくしは王都に行った際に、攫われたのですわ。攫った者達はわたくしを餌にアティスマータ子爵家に身代金を要求し、身代金を得てからわたくしを娼婦に落として隣国に売ろうというつもりだったようです。この国で売れば問題にもなるでしょうが、他国では問題にならないとでも思ったのでしょう。……わたくしを攫ったのはティンダロスファミリーの傘下マフィアのチームです」


「……四大マフィアの一角か。しかし、二年後のそなたにそのような形跡は無かったではないか」


「ええ、わたくしは運が良かったのでしょう。……その時はこれもまた運命の思し召しと覚悟をしていたのですが、その時、丁度ティンダロスファミリーを潰して回っていたフローズヴィトニルファミリーに助けられたのです。それから二年、わたくしはフローズヴィトニルに身を寄せることになります」


「『白髭公』フェンリル翁か。確かにマフィアらしからぬあの方であれば……なるほど、そういうことか。しかし、何故、二年もの間フローズヴィトニルに身を寄せたのだ?」


「『工廠アーセナル』に溺愛されまして」


「『白髭公』に溺愛じゃと!?」


「アリシアさん、これに見覚えはありませんか? ……直接目にしたことはなくても、これの名前を知らないということはないと思いますが」


 ドレスのパニエの中に手を伸ばし、隠しホルスターの中から取り出したのは黒光りする鉄の塊だった。


「まさか、拳銃!? その『白髭公』という人も転生者なの!?」


「あら、思った以上に頭が回るようですわね。『工廠アーセナル』フェンリル・ヴァナルガンド――彼もまたわたくしと同じ前世の記憶を持つ転生者でした。彼は戦争状態の国で生まれたそうです。母の手一つで育てられましたが、貧しく、母は息子を守るために身体を売って生計を立てていくことしかできませんでした。美しかったフェンリル翁の母は貴族に奴隷として買われます。フェンリル翁は母を取り戻すために裏稼業の世界に入り、母を買い戻すだけのお金を稼ぎました。……しかし、その頃にはもう母親は壊れてしまっていたようです。尊厳を踏み躙られ、ただのモノと成り果てた母を見て、彼はこの世から奴隷というものを無くそうと、そして争いのない世界を創ろうと決意します。奴隷を嫌うマフィアのボス……彼を慕う者は多く、フローズヴィトニルは三大マフィアの一角にまで上り詰めます。彼は国に縛られない立場を利用し、人間と敵対関係にある魔族や亜人にも働き掛けを行いました。全ては世界の平和秩序を創り上げるために。……わたくしにはこの世界に尊敬している方が二人いますが、その一人がフェンリル翁です。大切な母を奪った貴族達に怒りを向けても許されるような立場に置かれながら、彼はその世界秩序を変えるために戦い続けた。勿論、綺麗事だけの世界ではありませんし、マフィアは世間では悪です。……わたくしは、彼の前世の娘にとてもよく似ていたそうです。なので、彼に可愛がられたのかもしれません。遂にはフローズヴィトニルの次期ボスの座を譲るとも言われましたが、流石にそれは拒否致しました。……わたくしはアティスマータ子爵令嬢です。だから、気持ちはとても嬉しいけど、マフィアにはなれないと」


 国王ヴァルトアンデスの背中を冷や汗が伝った。すぐ側にいた側近に兵を集めるよう命じた。

 しかし、それはソーダライト王国に醜聞をもたらした王太子達を捕らえるためではない。


「わたくしは、王太子殿下と婚約を結ぶことになった時、それはそれで良いと思いました。例え、その婚約がアティスマータ子爵家だけを見て、その当事者のわたくしの気持ちなど考えもしないものであったとしても。元より、貴族の政略結婚などそのようなものですわ。だからこそ、真実の愛というくだらないもののために、不貞を犯すのです。……それでも、わたくしは伴侶として王となる王太子を支えようと、これまでやるべきことは全てやってきたつもりです。王妃教育も受け、本気で王妃になるつもりだったのですよ。……わたくしは選びません。『工廠アーセナル』からのお誘いも、アティスマータ子爵家の令嬢として与えられた役割も、そのどちらか一つを選ぶ権利はわたくしにはないと思っていました。わたくしの心には、何もないのです。生まれ変わってやりたいことも……まあ、人というものは自分で何かを選び取っているように見えて、与えられた選択肢の中から選んでいるに過ぎない生き物。わたくしはその選ぶ権利すらも放棄した、そういう人間だと思って頂けたら良いと思いますわ。――ネージュ、カヴァッロ、アルン」


 講堂の一角に突如吹雪が舞い上がった。派手な登場と共にそこに現れたのは、純白の身体の線を際立たせるマーメイドドレスを纏った妖艶な女性、銀色の短髪の騎士風のイケメン、そして、禿頭の法衣を纏った浅黒い破戒僧侶。


「――フローズヴィトニルの三幹部!?」


「お呼びでしょうか?」


「ソフィア・トランクイッリターティスは、本日この時をもって、先代フローズヴィトニルファミリーのボス『工廠アーセナル』フェンリル・ヴァナルガンドの推薦を受け、フローズヴィトニルファミリーファミリーの二代目ボスに就任致します」


「……本当にいいの? もう戻れなくなるわよ、今ならまだ……」


「優しいわね、ネージュ。でも、いいのよ。賽は投げられた。わたくしは与えられた運命に従うまで」


「――お嬢様!!」


 ネージュ、カヴァッロ、アルンが膝を突き、忠誠を誓った瞬間、五つの影がソフィアの近くに舞い降りた。


「……アティスマータ子爵家の影が、何故」


「マーレ、アルマ、カトレア、ナディア、ターニャ……何故、貴女達が」


「私達五人はソフィア様に忠誠を誓っています。どうかわたくし達もご一緒させてください」


「馬鹿ね、貴女達。わたくしはもうアティスマータ子爵家の人間ではなくなるのよ。場合によっては、アティスマータ子爵家と敵対することになるかもしれない。分かっているの?」


「分かっております。……しかし、私達はアティスマータ子爵家にソフィア様が生まれたその日、貴女様に忠誠を捧げたのです。私達は例えお嬢様が地獄に行こうとも、どこまでもお供致します」


「……愚かな人達。でも、分かったわ。ごめんなさい、貴女達をこんなことに付き合わせて」


「いいのですよ。私達の望みは、お嬢様の望みを叶えることでございますから」


 ソフィア達を捕らえようとしていた兵達がたじろぐ。アティスマータ子爵家の影は王族に仕える影達よりも高い実力を誇る者達だ。他国においても、一人を相手に必ず多人数で、あらゆる手を尽くして戦え、さもなくば命はないと叩き込まれるくらいだ。

 ――それが、五人。勝ち目など、ある筈が無い。


「ネージュ、カヴァッロ、アルン、わたくしは『工廠アーセナル』と方針は違います。――かの詩人ラビンドラナート・タゴールは、自身のエッセイの中でこう述べています。『私が、真理のたとえどの部分を除外してから、真理を真理と呼ぶとすれば、私は自分でその真理を否定していることになる』と、そして、『統一性が、真理の法であるからと言って、色々と継ぎ接ぎを施して、収支決算を合わせて、自家製の統一を作り上げたとしても、そんな統一性は、真理にとって大いに障害となる』と。かの『工廠アーセナル』がずっと心に刻んでいた言葉です。宗教の対立や思想の対立はこの世界にも、あの世界にも確かに存在します。彼はその全てを統一して、誰もが納得できる真の平和秩序の実現を求めていた。しかし、その結果はどうです? ティンダロスファミリーのボスは麻薬販売と奴隷販売で得られる膨大な利益を諦めきれず、多くの離反者と共にフローズヴィトニルファミリーファミリーから離反していきました。……現状は何も変わっていない! 志は大変立派です、しかし、その立派な志では悲しいことに何も変えられなかった! ……わたくしがフローズヴィトニルファミリーの二代目ボスに就任した暁には、わたくしの時代でこの世界に平和をもたらします。かの詩人メーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナールは、著書『死後は如何』において、『私は唯眞理であると思はるるものを、確かに眞理でないと思はれるものから区別した』とタゴールとは異なる方法で真理を追及しました。かの詩人、宮沢賢治も『銀河鉄道の夜』の第三次稿において、メーテルリンクと全く同じ方法で『ほんたうのさいはひ』というものを求めました。……わたくしは、こちらの方が現実的だと思います。即ち、世界を平和にするためには、時に対立する平和への理念を切り捨てる必要もある、ということです。わたくしはこれよりこの世界全てを支配し、頂点に君臨するつもりです。わたくしと同じ理想を持っているならば手を取り、敵対するようなら容赦なく潰す。武力もまた、世界を平和にするための手段です。ただ、それも中途半端ではいけません。わたくしの前世の世界では相互確証破壊というものがありました。共に戦略兵器を持つ国同士が互いに攻撃ができなくなり、結果として世界が平和になるという考え方です。しかし、その理論が構築されてなお、世界では兵器開発が続きました。歴史が、それでは足りないと裏付けています。圧倒的な、敵対するだけ無駄だというようなそんな力が平和のためには必要なのです」


「……神にでもなるつもりか?」


「別になるつもりはありませんが……そうですわね、そのような圧倒的な力を持つ者を人々が神と崇めるのなら、わたくしは神になるのでしょうか。まあ、どうでもいいことです」


「……残念でならないよ。聡明なそなたには王太子の婚約者として、次期王妃としてこの国を支えていって欲しかったのだが」


「それは、貴方の愚息に言ってくださらないかしら? ……これでも、色々と考えた末に出した結論なのよ。わたくしだって、これが正しいとは思えない。『工廠アーセナル』の、お爺様のやり方で世界を平和にできたら、それが一番だった。でも、それを拒否したのは他ならぬ貴方達でしょう。……仕方のないことなのよ」


「……そうか、残念だ。我はそなたを殺さねばならない! この国の王として、そのような蛮行を断じて捨ておけはしないからな!」


「あら、残念。もしかしたら、陛下にはご納得して頂けるかもしれないと期待していたのだけど。……国王陛下、次に相見える時には、貴方のお命を頂戴します」


「我の命一つでそなたを止められるのなら、それで結構」


「……本当に残念でならないわ。わたくしは、国王陛下、為政者としての貴方様ことはとても真っ直ぐで正しいお方だと心から尊敬していたのに。……本当に残念」


 ソフィアは懐から小さな何かを取り出すと、国王ヴァルトアンデスに向かって投げつける。

 それを危険物だと判断した近衛騎士が王に当たる前にそれを掴んだ。


「……ハン、カチ?」


「それはもう必要のないものだわ。適当に処分しておいてもらえないかしら?」


「……これはもうそなたのものではないのだろう? これをどう扱うかは我が決める」


「あら、残念」


 ソフィアは無表情で手を掲げると、灼熱の魔力を巨大な翼を持つ蛇へと変化させて飛翔させ、講堂の屋根の一部を焼き尽くした。

 黒焦げの天井からぽっかりと青空が顔を見せる。


太虚焼き払う翼持つ蛇サマエル。なかなかの力でしょう?」


「……無詠唱魔法、それに、この威力。そなた、これほどの力を隠して」


「残念だったわね、折角この力を王家に取り込める筈だったのに」


「――ッ! 違う、我はそのためにアティスマータ子爵家からそなたを貰い受けようとした訳ではない!」


「さあ、どうだか。……それじゃあ、いくわよ、みんな。まずはフローズヴィトニルファミリーファミリーを完全に掌握して……えっと、その次は……そうね、ティンダロスファミリーを根絶やしにしましょうか? 三大マフィアの中であれが一番簡単に落とせそうだしね」


 ソフィア達の背中に金色の翼が現れる。伝説の聖女しか持ち得ない力を振るい、ソフィア達は大空へと次々と飛翔していった。

 後に、『堕天した熾天使フォールン・セラフ』、『失楽園の蛇サマエル』、『蛇の海の女王マーレ・アングイス・レジーナ』などと呼ばれる伝説のマフィアのボス――その伝説の最初の一頁である。

 なお、本人は『Mare Tranquillitatis』――つまり、『静かの海』と度々名乗っていたが、ついぞ定着せずに終わる。能面少女ソフィアもこれには涙目であった。



 ソーダライト王国の王太子ルースカス・フォード・テルセウスが目を覚ました・・・・・・のは、全てが終わった後の王宮だった。

 王太子に与えられた部屋のベッドの上で飛び起きると、その隣にはソーダライト王国国王ヴァルトアンデス・ルーザ・テルセウスの姿があった。


「……目が覚めたか」


「私は……一体」


「やはり覚えておらぬか。……他の者達と同様か。コルトネル男爵令嬢アリシア・スターチスのことを覚えておるか?」


「はい……あのしつこく私に纏わりついて、過度なスキンシップをしてきた男爵令嬢ですね。貴族になったばかりで右も左も分からないことは分かっていましたが、それを踏まえても酷かった。私に執着してきて、いつか、ソフィアにも危害が及ぶのではないかと恐れて……その時からソフィアとは距離を取って……」


「……やはりか。ルースカス、お前もアリシアの『魅了』に掛かっていたのだ。そして、アリシアに魅了されたお前は公衆の面前でソフィアとの婚約を破棄し、国外追放にしようとした」


「――そんな!? 父上、今、ソフィアは一体どこに! 私はとんでもないことを!!」


「ソフィアは残念ながらもういない。……その後、『魅了』が使われたと発覚し、狂女アリシアはその場で処刑した。かの英雄も、既に罪人として難攻不落のデルタ監獄に封じた。……信じれられないだろうが、これから話すことは、あの日、起こった全てだ」


 ヴァルトアンデスはルースカスにあの日の出来事を全て話した。

 ルースカスにはまるで恐ろしい悪夢を見ているようで、全く実感が湧かなかった話だった。


「今回の件について、アティスマータ子爵家の対応は中立だ。娘側に擁護に回ることもなければ、王国側に力を貸すこともない。そのことに国内では大きな反発が起きた。……王国に忠誠を誓う英雄アティスマータ子爵家が、王家のために戦わないなどあり得ないと。……だがね、我はアティスマータ子爵のこの対応を心から嬉しく思っている。我々がアティスマータ子爵家に対してした仕打ちは、とてもとても償えるものではない。長きに渡って仕えてくれたアティスマータ子爵に、少しでも見合う地位を与えたいと考えたこの縁談。しかし、それは、アティスマータ子爵家のことも、ソフィア嬢のことも全く考えていない身勝手なものだった。アティスマータ子爵家は王家ならばと、可愛い娘を嫁がせることを約束してくれたというのに。それに、私はソフィア嬢の気持ちを全く考えずに縁談を結んでしまった。貴族社会でこういう政略結婚はよくあることだが、そもそも、これはそういうものとは種類が異なる。我はもっとアティスマータ子爵家を尊重すべきだったのに……ルースカス、お前にも嫌な思いをさせたな。ソフィア嬢と無理に婚約を結ばせたのは、この我だ」


「――違います! 私は、とても嬉しかったのです。……ソフィアは、私には勿体ないような素敵な女性でした。王に最も近い第一王子として生まれた私の心は不安でいっぱいでした。本当に、良い為政者になれるのかと。厳しい教育に耐えかねてこっそり泣いていた私に、彼女は優しく微笑みかけてくれたのです」


『殿下ならきっと素敵な国王になれますわ。こうして厳しい勉強に耐えかねて泣いていても、絶対に投げ出さないではありませんか。それに、殿下がこの国の民のことを思い、大切になさっていることもわたくしは存じています』


「……ソフィア嬢が、そんなことを」


「私はソフィアのことを守れるようになりたかった。……今回の件も、ソフィアに迷惑を掛けたくないと一人で動いていた、それが最悪の結果に繋がり、取り返しのつかない事態になってしまったんだと思います」


「……まだ、取り返しのつかない状況ではないのかもしれないな」


「――ッ! それはどういうことですか!? 父上!!」


 ヴァルトアンデスはズボンのポケットから一枚のハンカチを取り出した。――ルースカスの名前が刺繍されたハンカチを。


「最後にソフィア嬢が投げ捨てたハンカチだ。しかし、何故、彼女はハンカチを私に投げたのだろうか? お前との縁を切るならば魔法の炎で燃やして仕舞えば良かった筈だ。……もしかしたら、これをお前に渡して欲しかったのかもしれないな」


「……私に?」


「そして、彼女はお前に自分を止めて欲しいと願っているのかもしれない。……何故、彼女があのような恐ろしい考えに至ったのか、私にはずっと分からなかった。ようやく、彼女の気持ちが少しずつ分かり掛けてきたところだ。……『白髭公』の崇高な世界平和への願いは、しかし、結局世界を平和にはできなかった。一生を賭けて頑張った老人に対する報いが、世界の仕打ちがこれだった。彼がどれほど世界を平和にしようと努力を重ねてきたのかを二年間、彼女は間近で見てきたのだろう。……これは、もしかしたら世界に対する彼女なりの復讐なのかもしれない。『白髭公』の手を取らなかった、心から平和を求める老人に牙を剥いた者達への彼女なりの復讐。……彼女は密かに【お人形】と呼ばれていたそうだな。そして、彼女自身もそう思っていた。しかし、我は彼女の中にも人間らしい感情があると思う。王太子であるお前を支え、国を共に守っていきたいと本気で思っていた。一方で、『白髭公』から手を差し伸べられて、その手を取りたいという気持ちもあった。沢山悩んで、どれか一つを選ぼうとして、選べなくて……だから、全てを委ねたのではないのだろうか? 彼女の行動は矛盾に溢れている……だが、その矛盾する二つのソフィア嬢の姿は、どちらも正しく彼女なのだろう。……ソフィア嬢は私の命を奪いにくると言った、それは、私に彼女を止めて欲しいという意味もあるのだと思う。そして、それはハンカチを送ったお前にも求めているものだ。……お前は、どうしたいのだ?」


「問われるまでもありません。――今も私の婚約者はアティスマータ子爵令嬢ソフィア・トランクイッリターティスです。いくら私とソフィアが求めても、親同士の結んだ婚約は解消できませんから」


「よく言ったぞ! ……とは言ったものの、ソフィアは強敵だ。教会も伝説の聖女の再来だと恐れ、一部では彼女のことを敬い始めているくらいなのだからな」


「……今はまだ力及びませんが、必ずソフィアを取り戻します。――この結末を、私は絶対に許さない」


 ルースカスはソフィアの作った、本来なら彼女の手で渡されるべきだったハンカチを握り締め、必ずソフィアを取り戻すと誓ったのだった。

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婚約者の王太子と男爵令嬢に濡れ衣を着せられて断罪されたので、婚約破棄に同意してマフィアの二代目ボスを継ぐことにしました。 逢魔時 夕 @Oumagatoki-Yu

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