第3話

 横山と出会ってからもう一か月以上。工場はうわついたクリスマス気分から年の瀬のあわただしい空気に変わろうとしていた。そんなある日のことである。


 品質管理部の外線に僕宛てに電話が入った。取った女子社員によると相手は斎藤という女性からである。はて? と思いつつ僕が電話口に立った。


「もしもし」


『あ、初めまして斎藤です。おかあさんと代わりますね』


「はい?」


『お久しぶりーーー、池田さん』


 サラーマットのママだ。「あのぉー、ママさん、今日はどういったどのようなご用件で」


『横山さんが退院したの、それで、お祝いするんだけど、池田さんも来てね』


「いやぁ僕は」


『横山さんも来てって言ってたよ、お礼がしたいって。今週の金曜日。やっぱり年末で忙しいかなぁ。ダメだったら日にち変えますよー』


 日にちを変える? まずい。これは断り切れそうにもない。彼女がここしか電話番号を知らないっていうのがさらにまずい。基本、彼女は善良なのだ。はぐらかしたって僕の心情はくみ取ってもらえないだろう。何度でも電話が掛かってきそうだ。これはなんにしろ、一度会ってライン交換するしかない。


「今週の金曜日ですよね、分かりました。時間は?」


『六時から店を開けますよ。食べ物はちゃんと用意しまーす』


「そうですか。少し遅れそうですから、先にやっていて下さい。あとから必ず向かいます」


『待ってますからねーーー』


 電話を切ると僕は引き出しから横山一義の名刺を取り出した。そして、机の上に置く。


『排水衛生設備 下水道工事 溶接配管工事 有限会社横山工業 代表取締役 横山一義』


 横山一義は社長になっていた。彼の性格から考えると相当な苦労があったろう。いや、今も苦労しているのかもしれない。社員の生活がやつの肩にかかっているんだ。自分が社会に出た時と同じような中卒の子らも面倒見ているのだろう。横山はその子らの未来も背負っている。


 確かに、横山の顔は潰せない。やつは僕のことを覚えていないだろうが、社会人として僕もケジメは付けなければならない。果たして金曜日、僕がスナック・サラーマットのドアを開けた時、出迎えてくれたのがその社員らだった。


 四人いた内の一人は子供のように見える。皆、礼儀正しく僕に挨拶した。ママと若いホステスもやって来た。その向こうに横山の姿がある。松葉杖をまだ突いていた。横山が言った。


「池田さん、ここに座って」


 骨折は二か所していたそうだ。くるぶしのところとそれから十センチほど上がったところ。手術して金具を入れた。そして約一か月ほど経過を見て退院してきた。まだリハビリは続けているそうだ。社員らは二本のマイクを順繰りに回しながら、おしぼりを振り回して『湘南乃風』を熱唱している。


 横山が言った。


「ブーツが悪かったな」


 歌に合いの手を入れるように横山の社員の一人が言った。


「年甲斐もなく、ブーツって」


「なぁろー」 横山はおしぼりを投げつけた。そして笑顔を作った。「池田さん、近頃の若いやつはこれですわ」


 テーブルの向かいでママが愛嬌ある笑顔を見せ、焼酎を作っていた。


「おなか減ったでしょ。食べて」


 各種揚げ物に枝豆、ハム、ソーセージなどのオードブルと目玉焼きが乗った焼き飯があった。


「わたしが作ったのよ、ガーリックライス。クックパッドっていうの」


 僕は一口ほうばった。美味しいと感想を言いつつ、頭では違うことを考えていた。会社への電話である。僕は言った。


「あ、ところで横山さん。差し支えなければママにライン、教えてもらっていいですか?」


 マイクで横山の社員が叫んだ。


「ライバル出現かぁぁぁ」


 横山はまた、おしぼりを投げつけた。「ほっとけ!」 


 笑顔だったが、ひきつっている。


 ママが言った。


「お気になさらずに。ねぇ、横山さん」


 店に流れる曲は『ゴールデンボンバー』に変わっていた。


 それからの小一時間で新たに客が二組入って来ていた。貸し切りではなかったようだ。それでも二組は皆、横山らの顔見知りのようで、席はというと入り乱れ、ずっと同じ場所に座っているのは僕だけだった。あっちこっちと忙しい横山は、合間を縫ってやってきて、僕のことを根ほり葉ほり聞き出す。神奈川県に住んでいて、子供は二人、単身赴任で三年間はここにいる、その後はどこに行くか分からないと告げた。大会社は辛いねぇと横山は言っていた。


 時間はというと、九時を過ぎようとしていた。僕はバスの時間が心配になっていた。帰る前に代金を渡さねばと、ママを呼んで一万円渡そうとした。だが、断られた。と、いうよりも拒絶された。


 拒絶されれば仕方がない。まぁ、申し訳ないが今回はご馳走になるとして、横山にも帰ることを告げた。


 一曲だけ歌ってけとせがまれた。いやいやそれは、と断ると、打って変わって、歌わないと帰さないと今度はおどされてしまった。酔っ払いには逆らわないのが得策と、『スピッツ』の『楓』を入れた。順番が回ってくるまでまだ四曲も予約が入っていた。


 そして、ようやく曲が回って来た。画面に映る文字を必死に追っていると、店のドアが開いた。誰かがちらっと顔を出したかと思うとすぐにドアは閉じられた。誰かと考える余裕もなく僕はというと、なんとか歌い切り、これで帰れると席を立った。


 カバンをママから手渡され、コートを肩にかけてもらった。その袖に手を通していると横山が僕の手にタクシーチケットを握らせた。この時やっと、僕はさっきのドアの男がタクシーの運転手だったのに気が付いた。


「横山さん、ダメですよ。僕は店代も払ってないんです、そこまでしてもらっちゃぁ」


「お礼がしたいんでわざわざ来てもらったんだ。俺の顔を立ててくれよ」


「いやぁぁ、僕はただぶっただけですし、まだバスがあります」


「そういう言わずに受け取ってくれよ。そうしないと気が済まない」


「いえいえ、今日は十分楽しませてもらいましたよ」


「受け取れないと?」


「はい」


「はいって………。水臭いことをいうなよ、イケチン!」


 イケチン? それは僕の子供の頃のあだなだった。


「あっ、すまん。言うつもりはなかったんだ。最初会った時にイケチン、他人のふりしたろ?」


 そう言うと横山は続けた。


「やっぱり言うわ。気を悪くせずに聞いてくれ。俺はずっとあんたに感謝していたんだ。離婚して嫁はいないけど子供はいてな、そいつは俺に似合わずよく出来るやつで今年大学に入ったよ。今、東京にいる。小さい頃からやつにはいつも言ってたんだ。何か一つだけでもいい、頑張れって。それで俺の通知表見せてな、これを見てみろ、俺はグレていたが最後の最後、体育だけは5になるよう頑張った。そう言えたのは、あんた、あんたのおかげだ。このとおり」


 横山は深々と頭を下げた。うつむいた下で泣いているようだった。その横山が声を詰まらせ、こう言った。


「こんな馬鹿な俺でも子供に誇れる親になれた。ありがとう、イケチン」


 顔を上げると横山は、必死に涙を手で拭った。ママがおしぼりを手渡す。僕はというと、茫然と立ち尽くしていた。


 街灯の下、バス停のベンチで体育座りをする横山の姿が記憶に蘇る。夜、誰もいない校庭で、砂まみれになりながら肩を組んで走っていたのが思い出される。テープを切ったあの後、勝利の雄叫おたけびも上げずに荒い息で、密かに笑顔を交わしたのが目に浮かぶ。


 歓声なぞ無かった。観戦している者は皆、唖然としていた。案の定、表彰式台に立った僕らには冷たい視線が注がれていた。いたたまれなかったのだろう、そこで横山は僕に小さい声でごめんと言った。自分が嫌われるのはしょうがないとして、僕まで巻き込んでしまったということなのだ。


 自分は迷惑な存在。だから、もうこれ以上迷惑をかけてはならないと横山は卒業式の後でさえ僕に声を掛けて来ようとはしなかった。


 僕はというと謝られたあの時、聞こえていない素振りをした。そりぁそうだ。横山は謝ることなんてない。そもそも僕は、横山と似たり寄ったりの扱いを皆から受けていたんだ。


 思えば、あの二人三脚大会は僕らの、せめてもの抵抗だったのかもしれない。今、横山一義に教えられた。傷つけられ、追い詰められ、ボロボロになっていた僕らは自らの境遇に対して力を合わせ共に立ち向かったんだ。そして僕らは、一矢報いっしむくいた。


 横山に見送られタクシーに乗った後も僕は、今まで味わったことのない感情に心が強く揺さぶられていた。酔っているのだろうか、雨も降っていないのに車のガラスはにじんでいるかのようである。暗闇に浮かぶ街灯や信号の明かりも、寂しげには見えなかった。








( 了 )

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メモリーズ 悟房 勢 @so6itscd

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