第2話

 月曜日の朝になるとそんなことがあったのもすっかり忘れていた。僕にとってはもう終わったことであった。朝食のテーブルにつくと母は、はい、と相変わらず僕に箸を手渡してくる。置いときゃいいものをなぜ、わざわざ、箸を手渡す。


 確かに子供の頃は毎日そうしていた。けど、家を出てからどれ程の歳月が経ったというのか。それに僕はもう人の親だ。いつまで経っても僕はあなたの子供に変わりないだろうが、僕はいつまでも子供ではない。それにこれを、僕の子供の前でやろうもんならたまらない。いや、やりかねない。朝食を食べ終わると言った。


「かあさん、明日からパンにしてよ」


 パンなら、どう頑張っても箸は手渡せない。父はというと五年前に亡くなっていた。今はこの家も母一人だ。だから、この三年間は母と二人っきりで暮らさなければならない。母は自覚がないが強情で、箸を手渡すのはやめてくれと言ったって、どうせ聞き入れてはもらえない。聞き入れてもらえないなら方法を変えるしかない。


 会社はというと、車で二、三十分の道のりだった。一方、津市までは三、四十分。実家周辺には鉄道は通っていない。その昔、亀山市と津市を鉄道で結ぶこととなり、ここにも駅が出来るはずだった。だが、出来なかった。地域の住民が反対したのである。この地はお伊勢参りの宿場町で江戸時代は相当な繁栄ぶりだった。当時の町の言い分は、駅が出来れば誰も泊まらなくなる。


 今や陸の孤島であった。両親が流れ流れてここに家を建てたのはいいとして、おかげで塾に行くにもバス、高校に行くにもバス。それも一時間に一本しかなかった。


 ともかく、朝のストレスからは解消されようとしていた。気持ちが軽くなって仕事に励んでいた午後三時頃のことである。通門の保安から僕宛てに内線が入った。


『池田さん、お客様がお見えになりまして』


「お客さん?」


『ええ、フィリピンの方です』


「フィリピン?」


『ええ、女性です。ここに待たしておきましょうか?』


「女性?」


『なんなら、いないと言っておきましょうか?』


「いいえ、すぐ行きます」


 何かの間違いかと思った。フィリピンの女性なんか知らない。変な噂を立てられても困る。僕は足早に通門へと向かった。


 女はマリアと名乗った。ちょっと愛嬌のある顔の、グラマーな美人だ。年のころは四十前後、僕と変わらないように思えた。


「これ」


 そう言うと笑顔で包みを差し出した。


「お礼です。蜂蜜饅頭。わたしから」


「お礼?」


 彼女はデニムパンツのポケットから名刺入れを取り出した。赤い革製のやつで、二つのポケットに自分の名刺と貰ったのが分けられていた。そこから彼女が摘まんで見せた名刺に僕は驚いた。これは、僕のだ。


「それをどこで?」


「横山さんから預かりました」


「と、いうとあなたは?」


 今度は名刺入れの別のポケットから一枚取り出した。


「よろしくお願いします」


『スナック サラーマット』 


 彼女はスナックのママだった。


 僕はようやく状況が掴めた。つまり、横山一義は田中ビルの二階にあるスナック・サラーマットから出て、階段から転落した。その光景を見ていたママはというと、やっぱり心配になった。連絡してみたら横山一義は入院していて、慌ててお見舞いに行った。そこで僕の名刺を手に入れた、というわけだ。


「ごめんなさい。どうお礼をしたらいいか分からなかったから」


 ママは責任を感じている。本来ならば救急車を呼ぶのは自分の役目だ。それを行きずりの人に任せたとなると悔やんでも悔やみきれない。金曜の夜を楽しんでいただろう僕に対して申し訳ない気持ちでいっぱいのようだった。


「横山さんもお礼が言いたいと。改めて連絡しますって」


 僕は、横山一義を覚えている。小学生からの同級生で、ある意味彼は有名人だった。癇癪を起して人のノートをビリビリに破ったり、椅子を持ち上げて教壇に向かって放り投げたりしていた。人の顔をグーで殴ったのを初めて見たのも彼だった。


 その彼も中学では、一つの出来事を除いてはあまり記憶になかった。ほとんど出席してなかったように思える。聞くところによると母親は蒸発したそうで、父親の酒乱が原因だったようだ。


 夜中、親父が酒に酔って暴れて駐在さんに連れて行かれるところを見たという友達がいた。仕事は大工だというが定かではない。僕の記憶では、その父親と一度も会ったことがない。ということはだ、参観日にも学校へ来ていなかったということになる。


 横山一義はその父親を見て育った。グーで顔をぶん殴られたこともあったに違いない。彼はそれをそのまんま学校でやった。当然、体力に自信のない僕は寄り付きもしない。因縁を吹っ掛けられればイチコロなのだ。ずっと避けて通って来ていた。


 それが中学三年生の冬、最後にして初めての接触となる。僕の中学はで三学期の終わり頃、二人三脚大会が催される。変わった伝統行事であったが、ずっと続けられているようだった。


 体育館の壁には札が掛けられている。水泳やら百メートル走やらの最高タイムと、それを出した本人の名、その日付が札には刻まれていた。そこに二人三脚もあった。記された日付が十年以上も前だったのを覚えている。


 僕は幸運にも、横山一義と組むことになった。今までの話からいって不幸と言わずに幸運と言ったのはちゃんとした理由がある。実は大会の当日、僕はズル休みをするつもりだった。


 三年生の終わりにもなると進路も確定していて、内申には影響が出ない。組む相手には申し訳ないとは思っていたが、果たして、決まった相手が横山一義だった。やつはきっと休む。これで僕も安心してズル休みが出来るという寸法だ。


 ところがだ、意外なことにその横山が、やる気満々だった。学校の帰り道に待ち伏せしていて、僕の姿を見るなり近付いてきて、当日は休むなよと言うのだ。青天の霹靂へきれきとはこのことを言うのであろう、その時僕はそう思った。


 だが、ことはそれだけではなかった。横山は一位を狙うと言った。何を言い出すかと思えば、悪ふざけにもほどがある。誰に向かってそんな言葉を吐くというのか。横山はそこそこやるのであろうが、僕は体力も無ければ運動神経も発達していない。こうなればもう驚きを通り越して怒りしか覚えなかった。僕は、他を当たってくれとその時はそう答えた。


 そのことがあって数日、僕は中学最後の塾の帰り道で、時間は夜の十時を過ぎていた。バスを降りると横山一義がベンチで膝を抱いて座っていた。そして、言うんだ。横に座れって。


 横山の話によると二人三脚大会で優勝すれば体育の成績が5にしてもらえるらしい。僕は馬鹿じゃないかと思った。誰がそんなことを言ったかと問うと、横山は体育の教師の名を言った。


「だから、練習に付き合ってくれ」


 馬鹿にもほどがある。どうせ勝てるわけがないから先生はそんなことを言ったんだ。けど、いくら出席させたいからと言ってそれはなかろう。


 そう思う一方で、僕も馬鹿にされているような気になって来た。ズル休みを見抜かれているのも面白くない。だからこそ、敢えて無視してやろう。かかわるだけ馬鹿を見るし、先生も悔しがる。


「イケチン。おめぇ、俺が騙されてるって思っているだろ」


 横山がそう言った。僕は言い返した。


「成績が5になるってことは誰かが4に落ちるって事だろ? それにお前はそもそも学校休みすぎなんだよ」


 横山は鼻で笑った。「おめぇは昔からそうだ。めてんな」


「お前に言われる筋合いはないよ。お前だって勉強なんて無駄だと思ってるんだろ? それを冷めてるっていうんだよ」


「俺は、成績で5を取ったことがない」


 僕は、はっとした。横山は高校へは行かずに就職する。先生の提案というか、挑発も一点の光だったのだろう。


 とは言え、まずは勝たなければならない。勝った後にごねるなりおどすなりするのは横山の自由だ。好きなだけやればいい。先生も困り果てるだろう。そうなれば僕の気持ちも晴れるというもの。


「わかったよ。だけど、負けたって僕だけは恨むな」


 僕らふたりは大会までの一週間、必死に練習した。結果はというと、優勝だった。予選は苦労したが、決勝では強豪チームがコケまくり、僕らは圧勝した。皆は運があったと言う。


 違う。僕らの頑張りにやつらは焦ったんだ。そして、リズムを崩し転倒していった。


 因みに横山は体育の成績に5を貰えたらしい。これは本人から聞いたわけではない。高校二年だったか、野呂とかいうやつとバスで一緒になったんだ。そいつはミスターパーフェクト男で通知表は文字通りオール5。大抵は体育がよければ文科系は不得意なはずだ。だがやつは、譜面も読めるし、絵もよく張り出されていた。


 バスはほとんど人が乗っていなかった。野呂はわざわざ僕の横に席を移してきて、どう? 調子は、と始まった。それから延々と喋り、中学最後の成績表の話をしだした。先生に頼まれて体育の成績を人に譲った、誰に譲ったのかは知らないが、というのだ。良いことをしたと誇らしげだったが、なぜわざわざ僕にその話をするのか。友達もいない僕なら誰にも喋らないと思ったんだろ。野呂はよっぽど誰かに言いたかった。


 良いことをしたというより、僕にはむしろ自慢話にしか聞こえなかった。

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